竹千代のセーフティーネットを張ったママのパワー

投稿日 : 2021.05.26


竹千代(後の徳川家康)が誕生した二年後、両親は離婚しました。しかし、これは彼等の個人的理由によるものではありませんでした。高敦によれば、その原因は天文12年(1543)7月の条に述べられ、事態は竹千代の母、於大の父の死去から始まります。

12日、水野右衛門太夫忠政が死去し(法諱:大溪賢雄)、長男の下野守信元が家督を継いで尾張の小川と三河の刈谷の城を守った。

水野の根城は尾張と三河の境界付近にあって、忠政は三河や駿河に対する全方位外交によって領地を守って来たと見えます。彼の娘、於大が廣忠の妻であることもそれを裏付けています。ところが父の後を継いだ水野信元、つまり於大の兄はその方針を転換しました。高敦によれば、天文13年(1544)8月、

21日、竹千代の高祖父、徳川(当時は松平)出雲守長親が72歳で死去した。戒名は棹船院一閑道閲である。

に続いて、

水野右衛門太夫忠政が死去した後、その子、下野守信元は尾張の愛智郡古渡の城主の織田備後守信秀と組んで駿河の今川と敵対した。廣忠は以前から今川治部大輔義元の家臣だったため、やむなく妻と離婚して彼女を下野守信元へ送り返えすことにした。しかし、彼女は日ごろから体調が悪かったので、酒井雅楽助正親が気遣ってしばらく彼女を引き取って療養してもらうことになった。

つまり、信元は父の外交方針を棄てて尾張方についたわけです。そして、

廣忠夫人の病気が治って岡崎を出発するとき、まだ3歳の竹千代を岡崎に残すことになるので彼女は悲嘆にくれたという。廣忠の家来の阿部四郎兵衛定次、金田宗八郎宗祐、浅羽三太夫ら20人が廣忠の命令で夫人に随行し、信元の居城刈谷から18町(約2km)あたりまで来た。

於大は随行する家来たちに「すぐに自分を置いて岡崎に戻るように」と指示したと、その事情を高敦は詳しく記しています。

彼女は「自分の兄は怒りっぽいので、自分が離婚されて戻って来たのを知ると腹を立ててお前たちを殺しに来るからすぐ引き返すよう」と促しました。家来たちは彼女を無事に送り届けるのが任務だからと拒んだのですが、彼女はそこで次のように説得したとあります。いわく、「自分は岡崎を離れても竹千代を残しているので忘れない。水野と松平は親戚になって来たのだから、時が来ればまた仲直りすることもあるだろう。そうすれば自分は息子に会える。ここで皆が殺されると岡崎は水野をずっと恨むことになって、自分はもう息子に会えなくなる。だから、早く岡﨑へ戻って息子の成長を見守ってほしい」

尤もで合理的な論理です。

高敦はこの彼女の姿勢を高く評価しています。当時のように、そして今日でさえどこかに残っていそうな、主人に命を懸けて護るのが美徳とするような儒教的な考えが一般的な時代に、於大のこのような合理的な論理とか、これを高く評価する高敦の姿勢が当時の世間に歓迎されたのでしょうか? もし、このくだりが家康の母を顕彰するためだけの仕掛けだとすれば、もっと違った実例を取りあげてもよさそうにも思えます。ともかく、於大は竹千代が成長して一人前になるまでのセーフティーネットとして、離れた場所から竹千代を支え続けた様子を高敦は記しています。

さて、その後、廣忠の率いる岡崎はどうなったでしょう? 翌年の天文13年の冬、

織田備後守信秀は、秋の(松平)長親の死を伝え聞いて、味方に転じた水野信元が尾張にいるのを幸いとして織田左馬助敏宗の率いる3千程の兵で三河の碧海郡安祥の城を攻めた。しかし、彼らは城を落とせなかった。それを聞いた信秀は激怒して自分で三河へ出陣して安祥城を落とした。一方、廣忠の方では酒井河内守家次、雅楽助正親、石川安芸守清兼らと老臣の酒井将監忠尚の間に確執があり、味方の中から信秀になびく者も出る始末でした。

そんな中、天文14年3月廣忠の暗殺未遂事件まで起きてしまいます。

織田備後守はしきりに徳川家を滅ぼそうと準備した。この辺りの人々は密かに信秀の味方になっていたので、廣忠勢は存亡の危機に陥っていた。

そこで、天文16年(1547)12月、

廣忠は長年今川家に付いていたので義元に救援を願い出た。義元は承知したが、直ぐに乱世だからと人質を要求した。そこで、廣忠は躊躇なく竹千代⦅そのとき6歳⦆を駿府に行かせることにした。

ところが、その道中で竹千代と随行する廣忠の家来たち一行は、松平の身内の田原城主の戸田の裏切りによって言葉巧みに船に載せられ、あらかじめ潜んでいた織田方の軍船団によって船ごと誘拐されて熱田へ連行されます。つまり、今川義元は人質を織田信秀に横取りされたわけです。高敦は次のように記しています。

織田信秀は岡崎に使者を送って、「竹千代を虜にした、早く今川方から織田方に鞍替えすれば、質子を岡崎に帰す。もしそれに応じなければ質子を殺す」と伝えてきた。廣忠は、「竹千代を尾張へ遣わしたつもりはない。駿河に送る人質を戸田が途中で誘拐して尾張へ連れて行ったのだから、お前が人質を殺すといったからといって、今川との約束を破ってどうして尾張に付かねばならないのか」と毅然として答えた。信秀は怒って使いの武将を追い返し、竹千代を侍女2人、阿倍徳千代正勝、天野三之助、従者1人、合わせて5人と共に熱田神宮の祠官、山口監物の知り合いの加藤図書順盛という下級役人の家に幽閉した。そして更に信秀は名護屋の役人に竹千代を亀岳山満松寺天王坊に移させた。

興味深いことは、高敦はこのように幽閉された竹千代に差し入れをしていた人物がいることを次のように記していることです。

そのころ、伝通院(於大)は尾張の知多郡阿古屋の郷主、久松佐渡守俊勝に再婚していたが、そこから天王坊までは日帰りができたので、平野久蔵や竹内久六に食べ物を竹千代へ届けさせた。

こう見てくると、織田が竹千代を誘拐した目的は、廣忠を今川から織田方に鞍替えさせるのが目的だったのでしょうが、ひょっとして、於大が兄に頼んで竹千代を自分の手が及ばない遠い駿河へ送られるのを阻止することだったのではないかと勘繰ることもできます。そうでなければ、廣忠が信秀の脅しを拒絶した時点で、竹千代らは殺されていても不思議はありません。

その後信秀は今川に攻勢をかけ、それを迎え撃つ矢面に立たされていたのは廣忠率いる岡崎勢でした。しかし、高敦の天文18年(1549)3月の条に、

3日、尾張の愛智郡末森の城にて、織田備後守信秀が享年42歳にて死去した。

とあり、偶然とはいえ、

6日 岡崎の城にて、廣忠が死去した。享年24歳 その日の内に火葬した。⦅現在の能美山松應寺の地⦆遺骨は成道山大樹寺に納め、戒名は端雲院殿應政道幹大居士である。

こうして。相次いで両方の当主が倒れてしまったのです。そして、いよいよ信長の登場です。

(信秀)の次男、三郎信長は16歳で家督を継ぎ、上総介と自分で名乗った。当時彼は素行が悪く放蕩であったが、生まれつき活発で勇猛果敢な性分な上、彼の居場所は都に近く、その内天下人になるかもしれないところだが、残念なことにいつも謀略ばかりを考え、人を欺き、しかも残酷だったという。

一方、岡﨑方は当主が死去し、跡継は熱田に幽閉中という困ったことになっています。そこをすかさず今川義元が攻勢をかけて三河へ出てきた。

義元は岡崎の訃報を聞いて大そう驚き、信長は必ずこの時を窺うので油断できないと、朝比奈備中守泰能、岡部五郎兵衛眞幸、葛山備中、鵜殿三郎長持ら旗本に侍300人を添えて岡崎に送り、岡崎の援軍だといって岡崎城を占拠してしまいました。そのため、岡崎の重臣たちはどうしようもなく今川に従うことになってしまいました。

そして、今川勢は岡崎の近くの安祥城を攻めました。この城は前に信秀が廣忠から奪った城で、城主は織田信廣でした。しかし、この時は攻めきれませんでした。ちょうどこの頃、『江源武鑑』の4月の条として、この状況を窺える耳寄りな記述が見つかります。

5日、駿河の今川義元から使節が来て、今年上洛するので領内で邪魔をしないようにと伝えてきた。屋形(観音寺城主)はそれを聞いて、上洛はさせないと返事した。今川は近年尾張の織田と戦っていて、近江からも織田へ何度も援軍を派遣して来たので、その決意は固い。(今こうして使者を送って来るとは)今川家はどういうつもりなのか。『江源武鑑』

とあり、更に5月の記述では、

朔日、尾張の織田上総守信長から使節が来た。今川義元が今年上洛しようとしている。尾張と三河の境まで出て来て侵略しようとしている。味方の勢力は少ないので近江の旗頭を五人ほどで加勢するよう命じてほしいという。屋形は了解して、状況によって何時でも派遣することになった。『江源武鑑』

とあります。これが事実だとすれば、当時織田と佐々木との強い協力関係があったことが推測されます。

今川義元は11月に雪斎和尚、松井、両朝比奈の指揮の下、駿遠参の三州の兵7千でもう一度安祥城を包囲して、今度は落城寸前まで追い詰めます。これを聞いた信長は清州から救援にむかったのですが落城寸前の安祥城を見て進軍をとどめました。高敦は次のように記しています。

その時、雪斎和尚の使いが来て、「信廣は既に本丸に追い込まれた。やがて命を落とすだろう、岡崎の人質(竹千代)を返して信廣の命は助けないか?」と伝えたという。信長は怒って返事をしなかったが、平手中務政秀と林佐渡通勝は、「人質を帰すことは昔からよくあることだ。このままでは信廣が死んでしまうので、竹千代と交換して命を助けるべきだ」と何度も諌めた。それで信長は人質を帰すことを承知して、「それでは明日、三河の寶飯郡西野で双方が出向いて竹千代と信廣を交換する」と答えた。岡崎の譜代たちは手をたたき、足を踏み鳴らして喜んだ。

ここでようやく竹千代は岡崎に帰れたわけです。しかし、11月の条に、

15日、今川義元は残忍で容赦がない人で、この機会に三河を支配しようと考え、「竹千代は駿河で育てる」と宣言した。竹千代が一昨年尾張にとらわれて何とか運良く今回岡崎へ帰国したものの、すぐに8歳の彼を駿河へ送らなければならないというので、岡崎の元老たちは溜息をついて嘆いたがどうにもならず、すぐに岡崎を出発することになった。天野三之助、安部徳千代正勝、榊原孫三郎忠政⦅後の準之助、その時29歳⦆、渥美美太郎兵衛友勝、上田慶宗、平岩七之助親吉、弟善十郎の7名、それに付け人として、内藤惣兵衛が従った。義元はその上に岡崎の老臣の質子として、酒井與四郎清秀⦅雅楽助正親の子⦆、石川助四郎⦅安芸守清兼の子⦆も要求したということである。

つまり、今川義元は、尾張に横取りされた人質を奪い返し、主人のいない岡﨑勢を完全に支配するのに成功したわけです。それで竹千代は再び岡崎を離れ、駿河での長い人質生活を送ることになってしまいました。彼はどのような人質生活を送ったのだでしょう? 高敦は天文19年(1550)10月の条で次のように記しています。

12日 竹千代は去年から駿府に住んでいたが、今川義元は貪欲、無慈悲な人で、三河の徳川(松平)の領土のうち渥美郡の牟呂村だけを竹千代に与え、それ以外は幼少の間は預かるといって各村に手下を配置して租税を全て駿府で横領した。義元は竹千代には鳥居伊賀守忠吉と能見の松平次郎右衛門重吉だけを世話係とさせ、竹千代の住まいは深閑として、経費も少なく服の着替えもない様だったという。どうやら、竹千代に与えた給金2千俵は徳川の伴の者が工面していたらしい。そんな中、鳥居伊賀守は裕福な家来だったので、密かに金銀や衣服を差し入れた。岡崎に残された譜代も領地を駿府に侵され、なんとか飢えをしのいでいるということで、一体この状態がいつまで続くのかと案じていた。

そうして、天文20年(1551)8月の条として、高敦は非常に興味深い話を述べています。

6日 三河の額田郡寺津から、大河内源三郎政局が駿府の宮ヶ崎を訪ね、天野又五郎と上田慶宗を通じて、今川の家臣の久島土佐に「竹千代に仕えたい」と嘆願した。源三郎の伯母、玄應尼も尾張より来て竹千代の世話をした。伝承によれば、玄應尼は永禄3年(1560)5月6日駿府で死去したという。直ぐに伝馬町の智源院に葬り、戒名は華陽院殿玉桂慈仙である。前に述べたように彼女は伝通院の母である。家康の祖母なので慶長4年(1599)の50回忌のときに、智源院を建てて華陽院として30石を寄付した。この寺は後々まで存続した。(*この寺は静岡市葵区鷹匠に現存している)

また、次のようなことも高敦は述べています。

竹千代は傳馬町の智源院で書き方を習ったという。⦅現在竹千代の使った硯などは三河山中法蔵寺に残っている。恐らく永禄12年(1569)に今川氏眞が死去した後、智源院がこの寺に贈ったのだろう⦆。

ここで玄應尼とは於大の実の母で、高敦はこれに先立ち、竹千代が尾張に幽閉されていた時期の話題の中で詳しくこの人物について説明を加えています。

このような話もある。竹千代の外祖母は、三河額田郡寺津の城主、大河内但馬守元綱(後の左衛門佑)の娘である。刈谷の城主水野右衛門太夫忠政に嫁いで二男、一女をもうけた。長男は下野守信元、次男は藤次郎重次、一女は伝通院、これは竹千代の母である。なお、その他の忠政の子供は全て腹違いである。外祖母は忠政と離婚してから設楽郡の菅沼藤十郎に再婚したが、菅沼も彼女と離婚した。しかし、彼女は絶世の美女として知られていて、徳川清康(家康の祖父)が彼女を娶った。清康がまもなく暗殺されたので、尾州津島の川口久助盛祐の正妻となった。しかし盛祐も早世したので、彼女は川口の家で断髪して、華陽院玄應尼となった。この尼の甥、大河内源三郎政局は、織田家の許しを得て高野藤蔵とともに天王坊に住んで竹千代の世話に励んだ。源三郎と藤蔵、および加藤図書のそれぞれの母と、山口監物の未亡人は姉妹である。

この華陽院が於大に替わって駿河で人質となっている竹千代の面倒を見たわけです。竹千代はおばあちゃんから、自分が駿河にいる理由、母や父の事、岡﨑の様子、そして松平家の由緒や後継ぎとしての自覚などを徹底的に叩き込まれたのではないでしょうか? この時期、竹千代は於大の関係者総出に守られていたといえます。また、一方華陽院や協力者たちは、今川義元の動向を常に監視し、尾張の於大や水野信元、そして岡崎へ情報を送る任務も担っていたと思えます。敵の本拠へ乗り込む絶世の美女の誉れ高い尼の諜報員、まるで007の映画に出てきそうな話です。

このように見てきますと、古今東西、ママはすごいの一言に尽きます。