論文の概要(その6)ロンドンの目、学生さんの目

投稿日 : 2021.07.04


論文の概要(その6)ロンドンの目、ある学生の目

学術論文は研究者が読むばかりとはいえません。ナタンソンの論文を別の立場で読んだ人がいます。そのような二つの例を示しました。

7. The View from London

現代ではほとんどの学術論文は研究者でなくても、検索エンジンによって概要は見ることができますし、PDFファイルで全文がダウンロードできるものも多くあります。しかし、ナタンソンの時代、研究者たちが他人の論文の情報を得るには、直接会うか、学術雑誌を購入するか、互いに論文の別刷りを交換するかしか方法がありませんでした。その不便を緩和するために、論文の概要だけを集めた出版物が発刊されていました。その代表的なものが、物理学の分野では, Physics Abstractというイギリスの刊行物です。

この情報誌では専門別に担当者に依頼して、毎日発表される新しい論文を読んでもらい、その概要を短い文章にまとめて、それを短い期間であつめて定期的に発刊していました。

たいていのナタンソンの論文は、Samuel Hawksley Burburyというケンブリッジ大学の教授が担当していました。ナタンソンは以前にある数学者と大論争を展開したことがあり、彼はそれを建設的に収拾するために、親切にナタンソンにアドバイスしていたことも、この雑誌から知ることができます。

ところが、彼は1911年の8月18日に80歳で亡くなります。ちょうどナタンソンの論文が出た年で、彼の文章が雑誌に掲載されていたはずでしたが、亡くなった関係で編集上支障が出て、結局彼の論文とポアンカレの論文など数編の論文が内容の紹介無しに出版されました。このため、世界中の研究者が以後、ナタンソンの論文に注意を引くことが非常に少なくなってしまったと考えられます。一方、1924年のボースの論文は非常に内容を高く評価する評が書かれたために、その周知度には格段の差ができてしまったと思えます。これはナタンソンにとっては不運なことでした。そのほかにもこの種の不運が重なりましたが、ここでは省略します。


もう一つの例は、ナタンソンの講義に感激したインフェルトの話です。

8. To the eyes of a student

インフェルトは大学を終えて研究職のポストを探しましたが、当時のポーランドの経済事情でうまいポストが見つからず、高校の先生のようなポストについていました。しかし、彼は何とかしてアカデミックな世界で研究したいとやきもきしていたそうです。ナタンソンもそれを知っていて、激励の意味も含めて自分の論文を彼に送っていたようです。その中に彼の1911年の論文も含まれていました。

しかし、インフェルトの気持ちは自分の就職口にだけ向いていたのです。彼はナタンソンにそのことを期待していました。しかし、ナタンソンが世話してくれないので、そのうち段々腹が立ってきたのでしょう、ナタンソンに対して憎悪の念が深まったということです。そうして、結局彼は後日別の人の助けで職を得て、それがアインシュタインとの関係を築くことになりました。それが彼の成功の第一歩となりました。

インフェルトは戦後ポーランドに戻り、ナタンソンについて1958年に次のように述懐しています。原文はポーランド語ですが、Kokowski教授の英訳を次に示します。

Only today can I assess better the complicated character
of my professor. I can see in him a man incapable of intrigues,
who is chivalrous and noble; a man raised in prosperity
who is afraid of contact with life and its brutality
and ruthlessness; a lonely man, both in science and in life,
for whom impersonality in human relations was a protective
armor; such armor was his remarkable politeness to
a degree of humiliating exaggeration. He was scientifically
close, very close to the great discoveries, e.g. the formulation
of Bose statistics.

つまり、「自分は今になって彼を理解できる。ナタンソンはボース統計に限りなく近い非常に偉大な発見をしていたのだ」という意味です。

インフェルトはアインシュタインと一緒に仕事をした珍しい学者ですが、筆者が多少違和感を感じたのは、彼が1968年に亡くなるまでに、彼がナタンソンの論文を世界に紹介した著作が見つからないことでした。このことを、論文で次のように書きました。

His essay had been written ten years before he passed away. Putting
aside the possibility that this might have been an excuse reflecting his
official position in Poland at that time, his reminiscence can be taken
at face value. However, I cannot find any evidence that during this period
he reassessed Natanson’s work with respect to that of the world’s
leading scientists during the same time. Nevertheless, Natanson would
have certainly been happy to know that Infeld had finally recognized his
unique contribution to the development of quantum statistical physics.

とにかく、このような師弟の歴史も、ナタンソンの論文が忘れられる要因となった可能性があります。