佐橋甚五郎 (刺客の代償)

投稿日 : 2022.10.11


森鴎外の歴史小説に『佐橋甚五郎』があります。これは『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』に続いて書かれたもので、合わせて『意地』として上梓された作品です。この作品は鴎外の研究という立場から専門的な研究が多くなされていて、現在でもネットで論文が公開されています。

これまでの研究では、鴎外がこの人物をこの小説の題材として取り上げた史料の特定や吟味、作品の趣旨、構成や創作部分の意義などの考察がなされています。

ここでは次の2編の論文を参考にして、この小説と木村高敦との関わりについて考察しました。
山崎一穎:『佐橋甚五郎』攷
韓 貞淑:森鴎外 「佐橋甚五郎」 試論 
山崎の論文によれば、1850年に林復斎が対外関係史料をまとめた史料集『通航一覧』に収録されている『続武家閑談』を基に、鴎外はこの小説を着想したことが解明されたとあります。そして、『続武家閑談』の編者は木村高敦とあり、彼はつまり『武徳編年集成』の著者です。

この歴史書には佐橋甚五郎という名前は、4か所に登場します。

まず、永禄7年(1564)正月3日、三河の一向一揆の合戦で『・・・一揆衆は大敗して、佐橋甚五郎もしばらく行方をくらました。この戦いで、石川新七郎、大見藤六が戦死したために一揆勢は大打撃をこうむったと伝えられている』とあります。

次に、天正4年(1576)9月の条の後に、これから考察する事項があります。

また、天正10年(1582)8月には『三河の浪人佐橋甚五郎は強弓の士で、水野勢と同様に堂の木の橋の際で矢で戦ったが鉄砲で弓を打ち砕かれた』とあり、最後は同年12月に『木幡の深傷を案じて医者の丸山萬太郎と山本大琳をつけて治療させた。また、佐橋甚五郎を使いとして小幡の陣へ見舞いに行かせた。藤五郎は29歳だったが少しずつ傷は治り、彼は後に又兵衛と改名した』とあります。

天正4年9月の条に付け加えられた文章は次の通りです。
『〇信康の家来の佐橋甚五郎は、同僚を殺害して、三河の周辺の村に蟄居していた。家康は勝頼が領地としている遠州小山の城の甘利四郎三郎(27歳)を殺害してくれば罪を許すと密に命じた。彼は刺客として甘利に仕えた。

甚五郎は笛がうまいので甘利も寵愛した。ある夜、甘利は甚五郎の膝を枕にして笛を聴いていたところを殺害し帰参して封を受けた』

続いて、図のように次の注釈を加えられています。sahashi.jpg

『家康は普段義を重んじていたので、むやみに刺客を推奨していなかったが、甘利の場合は、甚五郎が甘利の家来を300人も横死させ、小山城の勢力を落としたので、佐橋を三河へ戻るのを許した。しかし、甚五郎は、家康が自分の仁のなさを嫌っているとの話を漏れ聞いて失踪した。晩年彼は朝鮮へ渡ったと佐橋家には伝わっている)』

一方、山崎の論文には、『続武家閑談』の対応部分がそのまま引用されています。ここでは長いのでその部分を次の写真として引用させていただきました。(注:筆者の見た限りでは、高敦は『続武家閑談』という名前は使っていないようで、単に『続閑談』と呼んでいます)ca0b28f6c0d37a2c375dc1d8b339c7ea43c62c53.jpg

このように『武徳編年集成』の記述に比べて内容が詳しく、甚五郎が朝鮮へ逃亡した理由や、後年朝鮮の外交団として家康に謁見するなどが述べられています。この人物が日朝外交の一ページに登場したということから、後年対外関係史料をまとめた公式史料集『通航一覧』で取り上げられ、それを鴎外が知ったことから、この人物に興味を持って小説としたということのようです。

高敦は『武徳編年集成』巻21、天正10年6月の条で、本能寺の変の後家康一行のいわゆる「伊賀越え」と呼ばれる逃避行の記述の後に、この歴史書を執筆する経緯が説明されています。

『自分は若い時に家康の一代記を詳しく書いてみたいと思ったが、生きている間には無理だろうと思い、まずは関が原の大戦について『武徳安民記』31巻を上梓した。また、自分の実父、平(根岸)直利による姉川、味方が原、長篠、長久手の戦いを述べた『四戦紀聞』を校訂し、その合間に『武隠叢語集』を簡略にした『武家閑談』7巻を上梓した。続いて『続閑談』20巻を書いて毎年これに手を加えていたが、次第に自分に先がなくなったのを自覚するようになり、ようやくこの『武徳編年集成』の原稿ができた』そして、『この歴史書を書いた目的は既存の歴史書や諸家々に伝わる家伝の齟齬や間違いを糺すためだ』

根岸 直利 編輯、校正木村 高敦:『四戦紀聞』は1705年に出版され、自らの序があります。したがって、『武隠叢語集』や『武家閑談』は少なくともそれ以前に書かれたはずです。また、高敦は『続閑談』についてはその後いろいろと手を加えていたことがわかります。

続いて、高敦は次のような興味深いことを述べています。

『家康は信長が暗殺されたので、泉南より山の中の間道を越えて伊勢までのことについてはいろいろな家の実録に基づいて『続武家閑談』に書いたが、資料によって泉南から、摂津、河内、和泉、山城の国境の間道の順路がはっきりしていないばかりか、僅か2日で伊勢の白子に着いたというのはおかしいと思った。

ただ、自分は江戸から出たことがなく当地の地理がわからないので資料に書かれたことを信じることが出来ず、ここに書くわけにはいかないと思っていた。そんな時、丙辰の盛夏に、ある人が和泉、摂津、河内、大和、山城、近江の地図を持ってきてくれた。この地図を見ると、家康が辿った経路が赤線で示してあり、詳細に地名もはっきりと書かれていた。というのもこの人はその昔その方面を旅して土地の老人に尋ねて書き込んだもので、三河については現在の地図に書き込んだものだと思っても変わらないようなものだった。家康の初期の事業を後世に残そうとこの書物を書く上で、この地図が手に入ったことは誠にラッキーなことだったといえる。

自分はこれを書き写そうとしたが出来なかったので、地名を書き写して原稿を訂正した。また『続武家閑談』の方もこれに習って家康の伊賀越えについて一章を書き改めた。しかし、自分としては未完成の『続閑談』が我が家から漏れて当時出回っていた。後に校正した版は古い版とは別物であるので新版が出て古いものがなくなって欲しいものだといつも思っている』

最後の文章から、『続閑談』は未完成版が流布していたことがわかります。『武徳編年集成』は彼の最後の著作です。しかしそこには問題の朝鮮との関係や、家康に甘利殺害の密命をうける理由などについての詳細は割愛されています。佐橋家の何かを調査した考察から、彼はあいまいな部分を割愛したのではないかと想像できます。

さて、最後に、高敦はどこからこの甚五郎事件の情報を得たのでしょう。

『当代記』は姫路藩主だった松平忠明(1583-1644)が『信長公記』を基に編集したといわれる書物で、太田牛一の『信長公記』を中心に他の記録や資料を基に再編したものといわれています。この中に甚五郎の事件の記述があります。しかし、これは家康サイドの内輪の事件であり、信長とは関係が薄く、この事件が『信長公記』にはなさそうです。実際該当する事項を筆者は見つけられませんでした。おそらく、徳川サイドの忠明が独自にどこからか聞得たものと考えられます。

『当代記』の記述を、つぎの写真で引用します。f3e290e0f94ceb051a90c840e4a649f6e8ccdaa3.jpg内容は高敦の『武徳編年集成』の内容と似ていますが全く同じではありません。『当代記』が書かれた時期は、高敦が『四戦紀聞』の校訂作業などをしていた時期に近いので、当時この特異な事件は世間に評判になって流布していたのかもしれません。

以上のように、高敦の『続閑談』が基礎になって、鴎外の『佐橋甚五郎』が生まれたわけですが、『自分としては未完成の『続閑談』が我が家から漏れて当時出回っていた。後に校正した版は古い版とは別物であるので現在版が出て古いものがなくなって欲しいものだといつも思っている」という高敦の記述の実態の吟味は、鴎外文学の考察においても意味がありそうに思えました。

なお、鴎外の『佐橋甚五郎』では、優秀な家来甚五郎の弱みをとらえた家康が、彼に汚れ役を命じ、そして使い捨てる。この作品はそれに対する甚五郎の「意地」の表現であるとの解釈がなされています。

鴎外の時代では「意地」という語感が世間受けしたかも知れないのですが、この構図は今はもっと広く実在し、絶対権力に対する個人のアイデンティティーという問題としてみれば珍しくはありません。

最近では、為政者などが、自分にとって不都合なことについて自分に代わって官僚に嘘の答弁をさせて責任を転嫁させ、そして当然のように左遷させたり、公文書を改ざんさせて自殺させたりという例があります。鴎外がこのような視点をもった経緯は、おそらく彼がヨーロッパで身をもって体験したと思われる個人主義の環境から生まれたのではと想像しました。次のEmmanuel LOZERAND氏の研究もその意味で興味深いので付け加えました。

『人と名 鴎外の歴史小説と史伝における人名について』
”PEOPLE AND NAMES One aspect of MORI Ogai ’s historical literature”1992
L Emmanuel - 国際日本文学研究集会会議録, 1993 - kokubunken.repo.nii.ac.jp

(2023.6.21更新)