1933年3月24日

投稿日 : 2023.03.24


この日に何があったか、すぐに答えられる方は世界史をよく勉強された方でしょう。
筆者は『1933年(昭和8年)の出来事』というネットの記事で知るまでは、すぐには思いつきませんでした。

この年の正月、満州の山海閑で、日本軍の施設に手りゅう弾が投げ込まれたとあります。そして、3月24日、ドイツでナチスの一党独裁が始まったとあります。

さて、今年の2月27日のフィリップ・シャーラ(Filip Šára)の記事は、このドイツでのできごとの背景となる、重要な事件について詳しく述べ、私たちのこの事件の今日的意味を考えさせられるものです。その内容の要旨をメモします。

表題は、『90年前、ベルリンの国会議事堂が火災に見舞われた。ヒトラーが人権を残酷に制限するための格好の口実になった』(27. 2. 2023, 6:15):”Před 90 lety vzplál Říšský sněm. Pro Hitlera vítaná záminka k brutálnímu omezení lidských práv”

見出しの文章は次のようなものです。
『ベルリンの国会議事堂に甚大な被害を与えた火災から90年が経とうとしている。1933年2月27日の出来事は、ドイツでナチス政権が台頭した時期の中で最も重要であり、実際、最も謎めいた出来事の一つであった。アドルフ・ヒトラー総統の政府は、この事件を口実に、人権を大幅に制限した』

記事では2月27日の午後9時過ぎに火災が発生し、およそ1時間半で消火しましたが、建物に甚大な被害をもたらせました。

『燃え盛る国会議事堂にナチスの著名人が最初に現れたのは、午後9時30分頃のライヒスターク議長ヘルマン・ゲーリングであった。このことは後に、彼が放火に関与したとの憶測を呼ぶことになった。その後、アドルフ・ヒトラー、ヨーゼフ・ゲッペルス、フランツ・フォン・パーペン副首相、ハインリヒ・ギュンター・フォン・ホーエンツォレルン皇太子が合同晩餐会から現場に到着している』

『翌日、公式機関であるプロイセン通信は、この「放火行為は、ボルシェビズムがドイツで行った最も怪しげなテロ行為である」と記した。結局、ゲーリングなどは、この火災を国内における共産主義者のクーデターを誘発する信号とみなしていた』

『ヒトラーは、火災の1ヶ月前の1月30日に首相に就任した。ヒトラーの指示で、帝国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクは国会を解散し、3月5日に早期選挙を招集した。当時、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の得票率は3分の1にすぎなかったが、ヒトラーはこの選挙を利用して議会での勢力を拡大しようと考えた。選挙キャンペーンでは、NSDAPは共産主義革命の危険性が高いことを強調した。国会が炎上した後、ヒトラーはドイツ共産党(KPD)を禁止することに成功した。

ヒトラーの国家に議事堂火災令を適用することで、フォンヒンデンブルク大統領は憲法に基づく多くの基本的権利(個人の自由や手紙の秘密など)を制限した。また、勅令は州政府の権限を中央政府に移譲したり、公共施設に放火した場合は死刑を含む重罰を認めた。さらに、集会が禁止され、新聞や雑誌の発行が停止され、数千人が逮捕された。

これに続いて3月23日には、4年間は帝国議会の承認を得ずに政府のみで法律を成立させることができるという「全権委任法 (Ermächtigungsgesetz)」が制定された。期限は守られず、憲章は国家的恐怖のマニフェストとなり、第二次世界大戦の終結まで暴力支配の法的根拠となった』この法律は日本では『民族および国家の危難を除去するための法律」と訳されたそうです。

放火の犯人として逮捕されたオランダ人のファン・デル・ルッベは1934年1月に処刑されました。その経緯はこの記事に詳しく述べられています。

驚くべきことは、2019年ハノーファーの裁判所の記録から新しい目撃証言が発見され、『ナチスの準軍事組織SAのメンバーであったハンス=マルティン・レニングスが、後にナチスによって処刑されたオランダの共産主義者ファン・デル・ルッベを、火災発生時にすでに国会に連行していたと書かれていた...』つまり、『ルッベは国会議事堂に放火していなかった』という重大な冤罪事件だったということです。

不可解な事件の背景や、その解釈がマスコミによって大衆に刷り込まれる危険は、SNSの効果でより高くなっているのではないでしょうか? この記事は歴史の現在性を改めて示唆しています。