都の大スキャンダル:イケメン貴族の処刑(その2)

投稿日 : 2023.08.31


猪熊教利は、元々は四辻家という公家の当主だった四辻 公遠(よつつじ きんとお)の息子の一人として生まれました。

当時は嫡男以外の子供たちの人権などないと言える時代ですから、彼は幼くして跡継ぎがいなくなった高倉家の当主の高倉範国の養子となって、範遠と改名します。ところが今度はもっと深い事情があって、山科家に跡継ぎが無くなってしまい、8歳の彼が山科家の跡を継ぐことになり、名前も山科教利になります。

更にその後、また新たな事情によって、山科家の前の当主が戻ってきた関係で、山科家から16歳で放り出され、山科家の分家として猪熊家の当主とされます。ここで、猪熊教利が生まれました。つまり、彼はそれぞれの家の都合で、たらい回しされたといえます。

16歳といえば、今でいえば多感な高校生。しかも光源氏も負けそうな美男子で、20歳にもなると、教養もありファッションのセンスも抜群だったようで、その姿で宮中へ出入りしていたのですから、女官たちが放っておかなかったのでしょう。御簾の陰からモエーッという、原宿や代官山あたりを闊歩している人気者のようだったらしいのです。

ここに一人の宮中に出入りできる歯科医がいました。その人は伴頭歯医者、兼保備中守。彼が広橋の局などを彼に近づけたそうです。

当時の歯医者がどのように治療するのかを筆者は想像できませんが、女官たちの口を開けて手で唇に触れるなど、最接近ができるのは必然ですから、まあ、いろいろ下種の勘繰りはできます。やがて彼の悪友だった?教利に耳打ちしたのでしょう。天皇を横目になかなかの冒険です。

そのあたりの話題は、今でもネットにいろいろ書かれていますのでそちらに譲るとして、ここでの興味は、彼が8歳で山科家に移った事情にあります。

彼が山科家に移ったのは、山科家の当時の当主、山科言経がある事情で勅勘によって都を放逐されたためです。彼は、『言継郷記』の著者として有名な山科言継の息子です。どうして、こんなことになったのでしょう?

ちょっと探ってみると、いやいや織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康など重要人物がぞろぞろ登場し、「本能寺の変」の前後の複雑な世相が素人の筆者にも見えてきました。

この勅勘事件の起きた理由は、今なお判然としていないそうです。