巻3 天文20年2月~弘治3年10月

投稿日 : 2016.01.17


修正2017.3.3.

天文20年(1551)

2月小巻3.jpg

12日 武田大善太夫晴信が髪を剃った。(このとき31歳、徳栄軒信玄と名乗る)

6月小

18日 三河の寶飯郡五井の松平九郎信長が死去した。(49歳)

8月小

6日 三河の額田郡寺津から、大河内源三郎政局が駿府の宮ヶ崎を訪ね、天野又五郎、上田慶宗を通じて、今川の家臣、久島土佐に「竹千代に仕えたい」と嘆願した。源三郎の伯母、玄應尼も尾張より来て、竹千代の世話をした。

〇伝承によれば、玄應尼は永禄3年(1560)5月6日駿府で死去したという。直ぐに伝馬町の智源院に葬り、戒名は華陽院殿玉桂慈仙である。前に述べたように彼女は伝通院の母である。つまり、家康の祖母にあたるので、慶長4年(1599)の50回忌のときに智源院を建てて華陽院として30石を寄付した。この寺は後々まで存続した。

源三郎政局はその時以来常に家康の側にいて軍功もあったが、天正12年(1584)の尾張の長久手の戦いで戦死した。大河内空人道とはこの人のことである。

〇岡部家によれば、次郎右衛門正綱は今川の家臣である。竹千代が駿府で長らくつらい目にあっているのを心配して、暑さ寒さを気遣った。今川が滅びてからは武田の家来となったが、武田勝頼が滅びて浪人となったときに、家康は彼に世話になったことを覚えていて厚遇した。

〇坂東の浪人、諏訪部主水定勝(後の遠江守という)は、当時今川の家来の葛山に頼んで駿府に勤めていたが、竹千代には親切に振る舞い、後で北条家に戻った。その人の子、惣右衛門定吉は、北条氏直が死去した後に家康の家臣となった。

〇『松平記』などによれば、今川の家来の孕石主水は竹千代の住居の隣に住んでいた。あるとき竹千代が上原で小鷹狩に出たが、鷹が孕石の家の林に入ってしまった。

そこで鷹を捕らえようと竹千代たちが彼の林に入ろうとすると、孕石は生来頭が悪く、「三河の倅には飽き果てた」と罵ったので、伴のものは皆憤慨した。この人は、後年武田家に属し、遠州、高天神の城に籠ったが、天正8年(1580)に城が陥落したときに捕虜となった。その時家康は小鷹狩のときのことを覚えていて、殺したという。

10月大

20日 酒井内匠助清秀が死去した。この人は雅楽助正親の嫡子で、最初は四郎だった。

〇この年、竹千代の望みで、鳥居伊賀守忠吉は息子の彦右衛門元忠(当時12歳)と一緒に駿府に行って仕えた。

竹千代は喜んで忠吉といっしょに遊び、彼に教えられた百舌鳥を鷹のように腕に止まらせようとして体勢を崩し、息子の元忠を縁の下へ突き落としてしまった。忠吉は70歳を超えていたが徳川の重要な家臣で、竹千代は彼を「じじ、じじ」と呼んで非常に慕っていた。しかし、そのような家臣の息子を竹千代が突き落としたので、近臣が注意しようとしたが、忠吉は自分のようなものでもこのように世話をさせてもらっているし、息子も自分のように好いてもらっているのだから気にしなくてもよい。あのように活発なのは英雄の器だ。このごろは世が乱れて豪傑があちこちに現れて手柄を求めて領地を取り合っている。細かいことで諌めたりせず、ただ、竹千代が度量が大きく、主君にふさわしくなるように毎日育てるのが何よりも肝心だ」といった。忠吉は実に知恵のある優れた家臣というべきだろう。

〇竹千代は傳馬町の智源院で書き方を勉強したという。(現在竹千代の使った硯などは三河山中法蔵寺に残っている。恐らく永禄12年(1569)に今川氏眞が死去した後、智源院がこの寺に贈ったのだろう)。

〇ある説に、竹千代は寂しさの為に、平岩七右衛門にみかんや柿の接ぎ木をさせたところとてもよく育った。駿府ではこの柿を「七右衛門柿」と呼んだという。

〇豊臣秀吉が16歳の奴隷だったころは興助と呼ばれていた。彼は遠州の長上郡西塚で領主松下助左衛門長則、その子嘉兵衛之綱に仕えていた。(この松下の祖、壱岐九郎左衛門尚長は、近江より三河の紺碧郡松下に住み、名前も松下とした。子孫は今川の遠州に移って西塚に住んだ。遠州の久野を松下は天正18年(1590)に領土としたが、その時はまだ西塚に住んでいた)

〇織田家の領地、三河の額田郡寺津の大河内但馬守元綱の三男、源次郎政忠は、大河内の城を落とし遠州へ行って稲葉伊予守通朝の家来となった。彼は安八郡牧村の村主である牧村土佐を攻め滅ぼし、その後を占領して牧村強之助と称した。この人は家康の外祖母華陽院の兄で、牧村兵部大輔政玄の父である。(強之助政忠は天正元年(1573)の秋、伊勢の長島で戦死した)

天文21年(1552)

正月大

21日 新将軍、(*足利)義勝は近江の坂本の館から京都へ戻り、細川右京太夫氏綱と三好修理太夫長綱は摂津から挨拶のために上京した。氏綱は間もなく管領職に就いた。(甲寅より義勝は義輝と改名する)

3月大

2日 越後の国主、上杉半蔵政虎(23歳、最初は景虎)は剃髪して不識庵謙信と号した。(その後、叙位して輝虎と改めた)

6月大

10日 松安院殿親忠の弟、野見の松平の祖、次郎右衛門光親入道浄賢が死去した。遺言により、その子次郎右衛門親吉は、成道山大樹寺へ灯油料1貫と300銭の地を以後長く寄進した。

天文22年(1553)

2月大

〇抑(*もそも)三河の吉良氏は、清和天皇の末裔で、足利の子孫である。武蔵の前の司源義の子左衛門将長氏は、鎌倉時代に初めて三河幡豆郡吉良西郷に住んで屋号とした。後に子孫は額田郡東條に住み西条と東條のニ家となる。

足利の代に、吉良は一族の長として重んじられたが、応仁の乱以降は徐々に勢力が衰えてしまった。吉良西条義尭の長男、義卿は早世し、次男上野守義安は、吉良東条持廣の養子となり、清康の娘婿とした。

西条家は義尭の死後、三男の左兵衛佐義昭が相続した。当時今川義元が隆盛で、尾張を制圧しようとして幾度も駿河、遠州、三河の兵を率いて三河へ出陣したが、吉良の東條義安が織田につくという話を聞いてついでに東條の城も攻め、義安を捕虜にした後、弟の西条の左兵衛佐義昭を東條の城に移動させた。

この月の中旬のこと、義元が三河へ出陣している隙に、北条左京太夫氏康は1万5千の兵を率いて駿府を襲撃した。

先鋒の松田、笠原、清水、大道寺などは下方の庄まで出て、本隊は吉原や蒲原に布陣した。

義元はかねてからこのことを察していて、小舅の武田晴信入道信玄に救援してもらう約束をしていた。そこで晴信は甲州を出陣して富士川の端、加賀の柳橋に駐屯し、小山田彌三郎昌辰、馬場民部氏房らを大宮厚原に向かわせて氏康軍の先鋒と交戦した。義元も三河から引き返して氏康と対陣し、東條の吉良上野介義安を駿河の藪田に幽閉した。

3月大

3日 氏康とその子の氏政は刈屋川の辺に進軍して戦った。双方に死傷者が多く出た。日が西に傾いたので、両陣営とも兵を引いた。その後、臨在寺と善徳寺の長老がたびたび和平の仲介をして、結局今川義元、武田信玄、北条氏康らは和平に応じたした。(氏政を信玄の娘婿とし、晴信の子、太郎義信を義元の娘婿とし、義元の息子五郎氏眞を氏康の娘婿とした)

〇中旬 京都より(*足利)大樹源義藤の使いの一色式部少輔藤長と杉原伊賀守孝盛が、上杉謙信の居城、越後春日山を訪れ、

「以前鎌倉御所の成氏(*足利成氏)が個人的に管領の上杉右京憲忠を暗殺して以来、両上杉と対立して関東で戦乱が数年間続いた。これに乗じて北条九郎長氏入道早雲は伊豆と相模を奪い、その孫、左京太夫氏康の代になると関東の八州を大方支配した。その頃、景虎(*上杉謙信)は上杉兵部大輔憲政の嫡子として政虎と改名していたが、自分が「氏康を退治しよう」と義藤に提案した。

義藤は大いに感激して、「政虎は英傑で知られている、彼に早く廃れた上杉家を盛り上げさせて関東を平定するように」と言ったという。

政虎は、「憲政は政治に失望し、管領職を家臣の自分に任せて上杉家を再考するように託したのだから、義藤の言葉を断ることはできない、自分は去年、西上野から出軍して上杉の代々支配していた城だった平井を奪回し、憲政の願いの一部を実現した。今回思いがけずこのような幕府の命令を受けたからには、命を賭けて、東国を平定してから上洛し幕府に仕えて、管領職の使命を果たすべきだ」と稽首して(*けいしゅ:深々と頭を下げて)答えた。そして使者たちが帰る際には大いにもてなし、土産として義藤には駿馬2匹、蝋燭3千本を贈り、使者たちにも白銀500両を贈った。以後、たびたび上杉の家来たちが八州の武将たちに働きかけて、北条を滅ぼそうと企んだという。

4月小

17日 織田信秀の死後、その子、上総介信長は非常に優れた武将といわれていたが、いかんせん言行が奔放すぎて尾張の愛智郡鳴海の城主、山口左馬助は彼に逆らって今川義元側につき、息子の九郎次郎に城を守らせ自分は中村に住んだ。義元は大いに喜んで、知多郡笠寺に城を築き、戸部新左衛門を置いて尾張を侵略しようと計画したという。

〇諸家に伝わることによれば、信長は謀略めぐらせて戸部を滅ぼそうした。彼は戸部が字が上手だったのに目を付け、ある人に戸部から字を習わてた。そして一年後、「戸部が義元に叛いて信長につく」というまるで戸部が書いたように見える書状を偽造させ、森三左衛門司成を商人に化けさせて駿府に行かせ、その書状を義元に渡させた。義元はそれを読んで激怒し、直ぐに戸部を呼んで殺してしまったという。

〇また、別の話では、義元は老臣の葛山備中、岡部五郎兵衛眞幸(後の眞保と説もある)、三浦左馬助義就、飯尾豊前守顕茲、浅井小四郎政敏を笠寺に配置したという説がある。これは戸部が死亡した後のことでだろうか。(『松平記』によれば、笠寺の砦の主、戸部新之丞は織田武蔵守信行の家臣である。信行は今川に企みをもっていたので、敢えて戸部を今川の家来にしたが、義元に疑われて戸部は殺されたとある)

5月大

5日 日本の風俗として、毎年この日に子供が河原に集まって左右に分かれて石を投げ合う。これは地方によって、印地撃(*印地打ち・飛礫)、菖蒲切、石撃などと違った呼び名で呼ばれている。これは『東国通鑑』にいう石合戦という遊びである。夜になると大人も出てきて刀を合わせて殺し合いになったりする。

竹千代が12歳の時、奴隷の肩車にのってこれを見物した時のこと、一方が300人あまり、片方がその半分ぐらいだった。見物人は多い方が勝つだろうと、そちらの方に集まった。竹千代の奴隷も多い方に行こうとするが、竹千代はしきりに少ない方へ行こうといった。

どうしてかと聞くと、「大勢だと威勢がよくて意見がまとまらないので、戦いがバラバラになる、しかし、少ないと結束して戦うことができるので、多い方は必ず負けるだろう」と答え、実際その通りになった。それで傍の者は「虎が生まれてまだ班が出ていないほど若いが、牛を食らうことがある」というが、これは竹千代のことか、と感心した。義元はそのことを聞いて「なかなかの奴だ」と褒め、「大物になるだろう」と喜んで、その時から竹千代を大事にするようになったという。

天文23年(1554)

正月大

〇今川義元は駿河、遠州、三河の優勢な諸軍を使って織田方の山岡を守っている三河の碧海郡鴨原の城を攻撃して占領し、この城を岡崎城と連携させた。また、尾張の知多郡小川の城に対抗させる砦を村木に設け、そこに松平越前守を配置した。またその近くにある寺本の城を計略で落として小川の城の補給路を断った。小川の水野下野守信元は困って信長の救援を求めた。しかし、当時信長は春日井郡清洲の城主織田彦五郎信友と戦っていたので、信長が小川へ救援に行くとその隙をついて信友が名古屋の城を攻めてくるのを恐れて、舅の斎藤山城守利之入道道三に救援を依頼した。

20日 美濃の斎藤の家来の安藤伊賀守範俊と田宮、甲山、安藤、熊澤、物取源五など1千余りの軍勢が名古屋に救援に来たので、信長は彼等を留守を守らせ兵を志賀と多端の村へ出撃した。

21日 信長は愛智郡熱田神宮に陣を敷いた。

22日 信長は熱田神宮から小川の間には敵方の笠寺城があるので、暴風の逆風を突いて10里ほど海上を忽ち渡って同郡の小川へ到着した。

23日 信長は小川に城へ入って水野父子と作戦を練った。

24日 信長は村木の砦に進軍し、東の追手と西のからめ手の2方は守りが堅かったが諸軍が競って攻撃した。北川は切り立った崖なのでここは包囲できず、南側は大きな堀があった。信長は旗本を引き連れ自分で堀際に陣取って火砲や鳥銃を並べ、取り換え取り換え敵の城の2カ所の狭間を狙って立て続けに発砲した。大将がこのようなので、諸卒は奮闘した。大手からは水野勢が、からめ手からは織田孫三郎信光の兵が盾を持ちながら激しく攻め寄せた。信光の兵の六鹿なにがしが一番乗りをして城の外郭を破ると、信長の旗本勢が争って攻め込み、濠に入り塁に登った。すると城兵は和平を要請した。もっともこの城を抜くのは簡単だろうと朝から攻撃をはじめたが死傷者も多く、日が西に傾いたので、城は水野が受け取って、城兵は送り帰されたという。

25日 信長は寺本の城辺りを占領して名古屋へ戻った。水野信元は今回信長が迅速に救援してくれたので助かったので、織田家に仕え、三河の碧海郡を徐々に侵略しようと望んだ。

4月小 

27日 織田の嫡子、彦五郎信友は去年の秋の12日、主人の斯波治部大輔義遠を清州城内で殺したので、国中の住民が彼を憎んだ。信長はその罪に乗じて清州城を攻撃し、今日この城を落として信友の一族を殲滅し、信長は清州城を居城とした。以来、人々は信長の力に屈した。今川義元はこの話を耳にして、信長の力が自分の勢力下の岡崎に及ばなければいいが、としきりに憂慮したという。

6月大

26日 尾張の春日井郡森山の城主、織田孫十郎信次は誤って幼い弟の喜六郎秀季(25歳)を殺害した。しかし、謝り切れず逃亡した。信長はすぐに弟の安房守信時に森山の城を与えた。

11月大

16日 織田孫三郎信光は、家来の坂井孫八郎に暗殺された。信長は直ぐに林佐渡通勝を名護屋の城主とした。

〇この年、美濃の石津郡高洲の城で大橋源左衛門重一が死去した。この人は尾張の海東郡津島に住む大橋太郎入道禅林の養子で、実は三河の大河内左衛門元綱の子である。彼は華陽院と源三郎政忠の兄である。

弘治元年(1555)

8月大

3日 織田方の尾張の海東郡蟹江の城を、義元の命令で徳川勢が先鋒として攻めた。

大給の松平和泉守親乗を中心に、その家来の松平久助、松平新助、松平準之助、鈴木佐左衛門、今井嘉兵衛、桜井喜八郎が戦果を挙げた。

味方の兵、杉浦八郎五郎鎮貞、三宅覚右衛門、武井角左衛門など78騎は、大手南の二重堀を越えて城を攻めた、城の将兵織田民部は固く守った。大橋新三郎貞祐は戸口に進んで戦ったが、三宅と武井はともに戦死した。新三郎の遺体を身内の石井角助が肩に担いで退却するところ、矢にあたって死亡した。

城から兵が突撃してきて奮戦するので寄せ手が負けそうになったとき、大久保五郎右衛門忠勝、大久保平右衛門忠貞、その子の七郎右衛門忠世、治右衛門忠佐、阿部四郎五郎忠政、杉浦八郎五郎鎮貞、その子、八十郎鎮榮が躍り出て城兵を突き破り、城を陥落させた。世にこれを蟹江の7本槍と呼んで賞賛した。

〇『杉浦家伝』では、鎮貞の祖父、和田八郎五郎政重は延徳年間より信忠に仕え、杉浦と改名した。父は大八郎五郎政次で、信忠、清康に仕えて、三河の六石の内、久吉の郷をもらった。

閏10月大

29日 茶道の宗匠、武野因幡守源仲村入道紹鴎が死去した(泉南、堺に居住)

31日 毛利右馬頭元就は、彼の家臣で謀反を起こした陶尾張守晴賢入道全姜の安芸の厳島の陣を夜襲して大勝し、全姜と4740人を切り殺した。

そもそも元就は安芸の多治比の出身で、今回、前の主人で(*全姜に殺された)大内義隆の復讐を果たした稀に見る豪傑である。彼は次第に近隣の諸国を征服して、やがて13州を支配した。彼は王法を崇拝し、幕府を敬い家来や民衆を大事にして、子々孫々繁栄したという。

弘治2年(1556)

正月大

15日 竹千代は駿府の城で元服した。

今川治部大輔源義元が冠を授け、当時駿府に居た大伯父の母婿、三河額田郡東條吉良上野介源義安が竹千代の髷を結う役を務めた。義元は徳川次郎三郎元信という諱を与えた。(後に元康となり、やがて家康と呼ばれる)

義元は竹千代の婚約を媒酌し、関口刑部少輔親永(或いは義廣とある)の娘を竹千代に嫁がせた。徳川の家臣は三河から参列し、元服と婚約を祝した。

〇関口親永も髪を結う役を務めたという話もある。親永の妻は義元の伯母とか妹とも伝えられている。関口とか瀬名ともいう。

〇柳原なにがしが、このとき「嵐○(馬偏に卯)」という馬を家康に献じたが、これは実にすばらしい馬で、元信はそれを京都へ牽いて幕府の足利義輝に献じた。幕府は非常に喜んで、礼状と短刀を家康に贈ったという。

2月小

20日 元信の代わりに松平右京亮義春が三河の設楽郡日近の城を攻撃した。城主渡邊源五郎左衛門高綱が対戦して、右京亮義春は奮戦したが、矢で二箇所を射られた。

ちょうど夕日が沈むところで、平岩権太夫、同じく彌助らは義春を助けて退却した。松平八右衛門正廣、同じく善兵衛は後ろを守ったが、敵が追ってきたので八右衛門は幾度も引き返して戦い、兵を退却させた。

義春は陣地に戻って死亡した。この人は長親の4男で、元信はそのことを聞いて涙を流して身内を失ったことを悲しんだ。

義春の子、甚太郎家忠はまだ幼かったが、三河の東條の村を領地として与え、家臣の松井左近近次は家忠の親戚で頼りになるので、家忠が幼い間は彼に家来を統率させた。家忠は後に足利幕府に仕えて非常に活躍した武将、松平周防守康親である。

(そもそも、形原、東條、深溝の松平には、家忠という人が3人いて、この甚太郎家忠は東條の人なので間違がってはいけない。天正の中ごろ、甚太郎は早死にして後を貴族の下野守忠吉朝臣が継いで尾張の国を賜ったがすぐに逝去し、親戚の義直卿は尾陽侯となったので、東條家の家臣は皆、尾張家に仕えた)

29日 義元は遠州の乾の天野景貫に感謝状を授けた。(小四郎景貫は後の宮内右衛門)

『書状』弘治2年2月29日 今川義元ー天野小四郎.jpg

3月小

20日 織田方の三河の武将が、今川領の城を攻撃したという。

25日 紺碧郡宮石の松平加賀右衛門乗清が戦死した。(戦場は不明、この人は大給家の子孫である)

義元は三河の額田郡泰梨子の住人、栗生永信に感謝状を授けた。

『書状』弘治2年3月29日 今川義元ー栗生永信.jpg 

4月大

〇今川は、昨年吉良の東條義安を駿河の藪田に幽閉し、弟の西条の左衛門佐義昭を東條の城に移した。しかし、義昭は尾張に内通して、西尾の城に牛窪の城主、牧野新太郎成定(後の右馬允)を呼んで、「時が来たら岡崎を滅ぼそう」と考えた。西尾の城とは西条の城のことである。

5月小

この年、三河の設楽郡、山中の半分以上は尾張の織田方となった。ところがその中に住む、菅沼大膳定継の一族の内、野田の綾部定村は双瀬の林左京について、再び今川方に復帰した。

その一族は、大野の菅沼十郎兵衛定勝(後の信濃)と同じく八右衛門定仙(後の常陸)と共に大野の砦に立て篭もり、本家の大膳定継、弟の小大膳定利、作手の奥平監物貞勝、布里の菅沼彌惣右衛門を攻めようと出兵したが成功せず、今度は今川の援軍を得て遂に大膳定継を滅ぼした。(法諱は中岩宗林)。

彼の弟、小大膳定利は岡崎へ逃げて家康の家臣となる。八名郡忍原の山川清兵衛をはじめ3人、設楽郡島田の菅原孫太夫などは定継と共に自殺した。

人名郡宇利の菅沼三左衛門定則はもとから綾部定村に従わず定継についていたが、撤退するところで敵に追われて鳳来寺の麓、椿坂にて討ち取られた。享年29歳。

本家は同じく苗十郎兵衛定勝とその子の三郎右衛門定清が横取りしたが、定継の子、小法師定吉は後年本家を奪回し、刑部と称し武節新城などを支配した。しかし、元亀の末から、その子新三郎定忠は家康に叛いて武田信玄につき、天正の始めに家康に滅ぼされた。

〇織田信長の弟、武蔵守信行は自立しようとした。(名護屋の城代、林佐渡通勝と柴田権六勝家が勧めたためである。信長の領地の春日井と篠木の荘32の村を、通勝と勝家とが共謀して信行に横領させようとした)荒木、米野、大膳の3つの城も、林の与力なので、清州と名護屋の間を抑えて信長の敵方となった。そこで、信長は名護屋から50町ほど離れたに赤塚に砦を築いて、佐久間大学盛重に守らせた。

6月小

尾張の春日井郡森山(*守山)の城の城主、織田安房守信時は家臣の角田新五郎に殺された。

その城の前の城主、織田孫十郎信次(後の右衛門将)は以前軽率な行動をとったが、今回信長はそのことを許して、すぐにその城をもう一度与えた。(*これは信次の部下が間違って威嚇して信次の弟を射殺し、信次が信長に報告せずに逃げたことを指す)

8月大

3日 三河の設楽郡作手の奥平監物貞勝は、以前は織田方で寶飯郡雨山に砦を築いて、同じく修理貞良に守らせた。これを聞いた義元は、東三河の6人に命じその砦を攻めさせた。特に菅沼織部定村は既に亡くなった修理定則の嫡子で、最初新八郎といって最近は今川についていたが、その村は雨山に近いので彼を先鋒とした。奥平監物とその子美作守貞能は作手から雨山に来て、寄せ手が攻めてくるのを待ち受けた。今川勢は今夜、風吹峠に到着した。

4日 夜が明けて寄せ手は雨山に向かうと、ここは山城で、渓谷にそった道が一本しかなく、木の柵があり、両側は険しい山で非常に攻め辛かった。

菅沼定村は、「城兵は少ないので破れないわけはない、どんどん柵を破れ」、と何度も馬上から激を飛ばした。そこで家来の小山源三郎(27歳)が矢を放つと、虎の口の左側を守っていた奥平修理貞良がその矢を「なかなかの強弓だ」と感心して射返してきた。

貞良の弟五郎右衛門は谷に降りて上向きに矢を発射すると、定村の右の喉から耳の付け根まで射とおし、定村は馬から落ちて、36歳にて戦死した。(法諱、慶厳通雲)。

定村の家来は怒って柵を破った。後軍はそのとき10町あまり離れて篠平まで来ていたが、この知らせを聞いて直ぐに木戸口まで進軍し、定村の弟、八名郡山野吉田の城主、菅沼半五郎(25歳)などの郎党が多く戦死した。

その外、今川方の6人の武将が繰り返し城を攻めたので奥平父子は守りきれず、今川方に降参したという。

24日 尾張で信長に叛いた柴田権六勝家は千人あまり、林美作(佐渡の弟)は700人あまりの兵を出陣して、春日井郡名塚の砦を急襲した。

信長は清州より出陣して小多井川まで来た。しかし、豪雨で水かさが増して渡り難かった。しかし、信長は進軍が上手で、自分が先頭に立ち700人を率いて川を渡り、東南の方の林の兵に向かって稲生村の端から突撃したが、散々に苦戦した。

一方、織田造酒丞政房は柴田に負かされた。信長は森三左衛門可成や雑兵40ほどで林の陣の横を攻め、自分で美作を突き殺し、奴隷の杉若が首を取った。そうして柴田もとうとう降参した。

前田犬千代利家(26歳、後の加賀大納言はこの人である)は敵の宮井勘左衛門に右の目の下を射られ、その矢が抜けないままに敵を攻撃した。

清州勢は敵の首450ほどを取った。織田信行、林、柴田は罪を謝って信長に降参した。このように信長の破竹の勢いを止めた柴田勝家もその後の戦いで活躍して面目を保ったという。

〇この年の冬、信長は柴田、荒川新八郎頼季ら2千人で、三河の加茂郡福釜(或いは浮貝に作る)の砦を攻撃した。ここには、今川の命令で岡崎より酒井左衛門尉忠次と大久保一族、大原左近右衛門、渡邊八右衛門義綱、安部五郎忠政、杉浦八郎五郎鎮貞などが立て篭もった。

彼らが砦から出て戦闘を始めてほどなく渡邊八右衛門が矢を放って早川藤太を射殺した。大久保五郎左衛門忠勝は木戸を開いてその首を取ろうとするところを、柴田勝家が走ってきて忠勝の腹を突こうとすると、阿部忠政は柴田を馬から射落とした。勝家の家来がきて彼を助け馬に乗せて逃げるのを大久保治右衛門が追撃したが、柴田の三頭の馬が間に入ったので、勝家はかろうじて命拾いをした。

阿部忠政の強弓で、小藤甚五郎、川田彦十郎、喜多八太夫が負傷し、雑兵が多数死亡した。早川藤太の首を筧助太夫正重と坂部又六の二人で取った。しかし、その時二人は矢傷を負った。

城兵は十分戦った後に引いたが、荒川頼季は大声で、「柴田が傷を負って退却して士気が落ちている。自分について戦え」と檄を飛ばして要塞に登り、兵も続いたが、城兵が防戦して尾張勢は数十人が戦死し、兵はバラバラになってしまった。

〇信長の兄の津田三郎五郎信廣は信長に逆らって美濃と通じて密かに清州の城を乗っ取ろうとした。しかしそれがばれてしまって、信廣は700人ほどの兵で信長と戦ったが勝てず、信長と和睦した。この人は、天正の始めに尾張の長島で命を落とした大隈守信廣である。

信長の弟、武蔵守信行は信長と一時は和融して彼に従うように見えたが、野心は消えないので、信長は策略によって彼を清州の城に招いて暗殺した。

〇元信(*家康)は駿府で義元に、「自分は小さいときから故郷を離れここにいて先祖の供養や葬式にも出られなかった。またここで供養もできないのを非常に残念に思ってきた。そこで、できれば故郷に戻って先祖の墓参りをさせてもらえないものか」と頼んだ。義元はそれはもっともだと許可し、元信は岡崎に帰還した。

義元は竹千代が成人したら家来ともども岡崎に帰らせると約束していながら、今も月給だけを与えて領地を取り上げたままになっている。

その上、徳川の兵はいつも囮に使われたり、敵が攻めてきたときにはいつも先鋒にされたりして、だんだん家臣の親や子が戦死している。

それでも我慢して竹千代の成長を待っていたので、家臣や国人たち誰もがこの再会を非常に喜んだのは当然である。

ところが、義元は山田新右衛門を岡崎城の本丸に置き、「元信は二の曲輪に滞在すべき」と命じた。そこで領土を返すという約束が無視されたので一同は大いに憤慨して、今川と一緒に滅ぶことを望むものは誰もいなかった。

そんな中、鳥居伊賀守忠吉は家康を自分の館の蔵へ案内し、「自分はもう80になってあまり先がないので、あなたが岡崎に帰還したのを見て以前の思いを告げたい。実は義元に内緒にこのようにたくさんの倉庫を建てて米や銭を溜め込んできた。これを使って、あなたはいい家臣を得て、賢く慎み深く大衆を治め、敵国も安心して味方につくようになることを心から願っている」と述べた。家康はじめ一同は彼の心に感激して涙を流した。

忠吉はまた、積まれた貨幣を指差して、「自分の蓄える方法は世間と違っている。10貫ごとに縄で縛ってコンパクトにして段々に積んでいる。こうすれば崩れることはない。横に並べてはいけないよ」と教えた。老年になっても家康はこのことを胸にしまっていて、このように貨幣は倉庫に積むべきとし、「これは鳥居が教えてくれたことだ」と指示したという。元信はしばしば大樹寺に参詣し、供え物をして先祖の苦労に感謝したという。

〇元信は祖先の火葬場を訪れ松林にすべきだと命じた。後にここに寺を建てた。これが能見山の松應寺である。

弘治3年(1557)

2月大

24日 元信は次郎三郎元信を改め、蔵人元康とする。16歳。(『松平記』では一昨年に元服にて次郎三郎元信となり、去年蔵人元康となったというが、ここでは家康の年譜に従った)

〇織田信長は非常に勇気のある才子で、この頃には弱い敵を平定して尾張の大半を支配していたが、丹羽郡にいた親族の伊勢守信安が岩倉城で信長に敵対した。しかし、まもなく信安が病死し、その子もだらしなくて弱く酒と女に溺れていたが、強くてしっかりした家来が多く居たので、城は直ぐには陥落しなかった。

〇この春、元康は駿府に出かけて義元に謁見した。元康は16歳の渡邊半蔵守綱と親しくなった。

9月小

5日 天皇崩御。在位31年、奈良天皇

10月大

27日 方仁親王が践祚(*せんそ:即位)した。(正親町天皇である)

〇この年、尾張の知多郡室崎の城主、石川筑後守の宅で、三河の浪人牧野伝蔵成継が碁を打ったときに、周りの助言を咎めて喧嘩になり、享年29歳で殺された。

〇伝承によれば、牧野左衛門佐成時入道古白の子、田蔵成三は東三河を支配して裕福で身内も多かったが、長男伝蔵成命(法諱、聲外音公)、ニ男伝次(法諱、三休位公)とともに享禄2年(1529)、宝飯郡吉田の(現在の今橋)城で滅んだ。成命の子、伝蔵成継ぎは尾張や三河を流浪し、今度このように横死した。

三河の八名郡眞木村の眞木新次郎成定は伝蔵の一族ではなく別の家である。

眞木越中守宗次郎は全て成定の支流である。しかし、田蔵成三の死後それぞれが牧野と名乗った。現在の書物では、成三が3人居るとして新次新蔵という名前があるのは、このような間違いによると思われる。

自分の実父、根岸暫軒が壮年に浅羽成儀と親しく、そこで耳にしたのもこれと同じだった。また、そのころ牧野越前守成熙に尋ねると、家伝に間違いはなくそのように書かれていたので、ここに記して松下關翠軒、二階堂不入斎の弟子たちの間違いを直したいと思う。(成継の一人息子の成里が父の敵を討って御家人になったことは、本書の慶長5年と8年を参照すべきである)

武徳編年集成 巻3 終