巻5 永禄4年2月~永禄5年12月
投稿日 : 2016.01.17
修正2017.3.7.
永禄4年(1561)
2月大
7日 水野下野守信元の兵が岡崎の近郊を侵略したので、元康はまた刈屋へ出兵した。
横根村石の瀬で交戦があった。先鋒の石川伯耆守数正は敵の隊長、高木善次郎清秀と槍で対決した。伴藤助が先に出て奮戦したが、清秀に討たれた。本多肥後守忠眞、植村壮右衛門忠安、松井左近忠次は敵と槍で対決し、中でも肥後守は1日に6度敵を突き崩して負傷したが、7度目には敵の攻撃を踏みとどめた。三河の兵士の間の評判で、彼は「6度半の槍だ」と呼ばれてその勇ましさが賞賛されたという。
〇伝えられるところによれば、去年18町畷の戦いの時、水野の兵の中に「金鯉の兜」をかぶった武将がいた。矢田作十郎はこれを羨んで譲ってほしいと使いを送った。すると敵も矢田が強い武将であることを知っていて譲ってくれた。
ところが蜂谷半之丞がそれを見て、「自分もほしいほしい」とねだった。そこで、水野の兵は「瑕をつけるなよ」といって兜を蜂屋に譲った。 さて、彼は鯉の兜をかぶって石川数正の魁の一員として出陣すると、刈屋の兵は蜂谷を見て笑い、蜂谷はえらく恥ずかしい思いをしてしまった。それ以来、彼は戦いがあっても決して先陣には加わらなかったということである。
〇元康は加茂郡、伊保、廣瀬の2つの城を襲撃した。松平大炊助好景を隊長として、八名郡、中島の城主、板倉弾正守定を攻撃しこの城を落とした。しかし、弾正は額田郡の岡城で防戦した。元康は自分でその城を攻撃し、板倉は遂に城を放棄して東三河に逃亡した。元康は中島、長良の2つの郷を大炊助好景に与えた。
〇後に、額田郡東條の吉良義昭は、幡豆郡西尾の城に牧野の一族を篭らせて、東條の城として岡崎に敵対した。そこで元康は出兵して、東條、西尾の両方の城を抜いた。そのとき、松平大炊助好景、同勘解由左衛門康定が活躍した。元康が兵を引いた後、東條と大炊助好の領地は近いので、その後も互いに戦いを繰り返していた。お陰で諸国は応仁以来、数100年の間、戦乱が続いて、民家は壊され、村里は静まり返り、田畑も荒廃して、人々はみな飢餓に苦しんだという。
3月大
〇信州の浪人、小笠原大膳太夫長時、その子の喜三郎貞慶、同じく刑部丞、その弟出雲守頼貞は、京都に行って公方家(*足利)を訪問し、遠い親戚に当たる三好筑前守長慶に面会した。その時、久我晴通卿が、頼貞を駿河産の「篠船」という暴れ馬に乗せ、その様子を多くの人々が見物した。しかし、彼はうまく乗りこなしたので、皆が凄いと誉めた。
〇ある話では、将軍家は授業料として河内の高安17箇所を三好から長時に与え、武道(弓道、馬術)の師範とした。喜三郎貞慶は三男だが惣領の器量を持っていたので跡取りと定め、一時遠州へ派遣して元康に仕えさせ、その後彼は京都へ戻ったが、武田が滅びた後に本国の信州へ帰った。
〇この春、東三河、加茂郡五本松の西郷弾正左衛門正勝、設楽郡野田の菅沼新八郎定盈、同郡 長篠の菅沼左衛門貞景、 その子新九郎正貢、同郡 段嶺武節、新城の同姓 刑部貞吉、その子新三郎定忠、同郡 筑手の同姓 伊賀入道源長(初めは井直に住む)、同郡 作手の奥平美作守貞能、下篠の白井麥右衛門 などが全て元康の武徳に魅かれて今川を離れて元康の家来になった。その中の奥平貞能の祖父、九八郎貞政入道と閑父、監物貞勝入道はどちらも長寿でその時まだ存命だった。貞能の子、九八郎信昌は幼い時から身体は弱かったが、頭脳は常人をはるかに超えていたという。
〇ある話によれば、今川は遠州の掛川の城の城番として奥平貞能を配したが、彼が元康に近いことを危惧して朝比奈備中守泰能に交代させた。貞能は「疑われたとは心外だ」として今川を離れたという。
4月大
3日 元康は松平大炊助の弟、康定の軍功を褒めて禄を与えた。
「書状」
15日 酒井将監忠尚が上野の城を守っているときに、東條吉良の家来、富永、瀬戸、川上、大河内善市郎政綱らが城を包囲して攻撃した。
そこで寶飯郡深溝、中島の両城主、松平大炊助(*好景)は命じられて長男の主殿助伊忠を上野城へ救援に行かせた。そのため中島の城が手薄になったのを察して、吉良義昭は早朝密かに兵を出して攻めた。好景はその時深溝の居城にいたが、直ぐに中島へ出撃して敵を撃退し、更に追撃して幡豆郡長良の善明宮の堤で相当数の敵兵を討ち取った。
ところが、渥美郡牟呂の城の兵が吉良を救援に来て、好景を包囲した。彼は苦戦を強いられたが、紐が切れて鞍が回ったので馬から下りて奮戦した。その様子を逃げていた敵が見つけて立ち止まり襲ってきた、中でも富永孫太夫が好景を見つけて駆けてきたのを、好景の家来の近藤彌右衛門が突き殺して首を取った。しかし、尾崎修理の放った矢が好景に当たり、山岡薬医が首を取った。好景の享年は44歳だった。
好景の5人の弟、十郎右衛門景定、太郎右衛門定清、久太夫好之、新次郎景行、孫十郎定好も討ち死にした。また、親類筋の松平内記、板倉八右衛門好重(42歳、伊賀守勝重の父)、同じく三九郎ら21人、酒井平右衛門正村以下34人が命を落とした。(*吉良)義昭は中島の城を落とし、上野の城の包囲を解いて軍勢を解散させた。
大炊助好景の父、大炊助忠定は、信光の4世の孫である。額田郡岩津に住んでいたが、同郡小美村の米津四郎右衛門を攻撃してその地を奪って根拠地として移り住んだ。また、保母村を取って、更に同郡深溝の城主、大場主勝の領地を奪い取り、そこに移り住んで享禄4年(1531)6月9日、69歳で死去した。これが深溝の松平の祖である。好景は非常に強い武将だったが、和歌や連歌を好んで風流にも通じていたという。
元康は、渥美郡津の平の砦に松井左近、小牧山の砦に本多豊後守、糟塚の砦に小笠原三九郎長足を配し、東條の敵に圧力を加えた。
21日 今川を叛いて元康につく三河の武将たちが増えてきたので、氏眞は渥美郡吉田の城主、小原肥前守鎮實を隊長として、東三河牛窪の牧野の親戚戸田らの大軍を設楽郡野田の城に向けて出撃させた。
野田城主の菅沼新八郎定盈が防戦の準備をした。西郷弾正左衛門正勝入道は縁者だから、その子彌九郎元正を加勢させて二の丸を守らせた。
敵は夜中に伊賀の忍者を本丸に忍び込ませたが、城兵が防戦して城の外へ追い出した。
後日、敵から和平を申し込まれた。しかし、この城の兵力は少なく守り切れないので、この城を退いて西郷へ退却した。吉田勢は野田の城を駿河の兵に守らせ、菅沼刑部貞吉(初めは小法師)の領地にある新しい城を攻撃するために、伝壽山へ斥候を出した。伝壽山は、以前は萬福寺という寺の領地である。そこに勤める僧を伝壽と呼ぶので、その地名となった。平地で森がある。
敵が城を攻めてきたところを城兵は突撃して交戦した。加茂郡大野の菅沼十郎兵衛は寄手の鈴木甚平を討ち取った。同郡井道の菅沼定勝入道源長は寄せ手、松平兵右衛門の首を取り、敵を追い払った。また菅沼十郎兵衛は倉川孫八郎を討ち取ったという。
〇この月、織田信長と三河東條の吉良義昭が共謀して、武衛義銀と三河上野原で会合したという。しかし、ある書物には、吉良上野介義安と載っているが、このとき義安は駿河の薮田に囚われていたのは確かである。
6月小
27日 東條の敵はまだ陥落していなかったが、元康は吉良の重臣、富永伴五郎景通の領地を本多廣孝と松井忠次に与える証文を書いた。
「証文」
この伴五郎の土地は、幡豆郡長良、貝福、駒場の三つの村である。この他に、木田、吉田、楠木、富狭間、寺島、山田といった東條の領地も与えたともいわれている。
「証文」
7月大
朔日 渡邊清兵衛有綱が享年85歳で死去した。
〇寶飯郡 長澤鳥屋根の砦に、今川の家来、糟屋善兵衛、小原藤五郎が立て籠った。
元康は中山に城を構えて、石川日向守家成と松平勘四郎信一を配し、鳥屋根を攻撃させた。敵が強くて勝てなかった。
ある時、元康は3千の兵を率いて牛窪に向い、帰りに長澤を通過した。城の付近は険しい山で道が非常に狭かったので兵を2手に分け、一方は北側の山ノ下の通常の道を通り、もう一方は、山の南側を通過した。このとき、鳥屋根の城で失火が起きて煙が立ち昇って空が霞んだ。それを見た北側の山ノ下の味方は、元康が家来に城へ攻め込ませ火を放ったのだろうと思って、先を争って山に登り、旗本が中心となって城へ突進した。
城兵は大方逃げてしまったが糟屋善兵衛と小原は激しく抵抗した。本多肥後守忠眞は敵を突き殺して、身内の平八郎忠勝に「その敵の首を取れ」といったが、忠勝は笑って、「自分は人の力を借りて手柄をあげたくない」といい捨てて、別の敵を一人突いてその首を取った。渡邊半蔵守綱は小原藤五郎を討ち取った。
城は落とされ糟屋は駿河へ逃亡した。人々は、「敵の城が堅固で道が狭かったから兵を二手に分けただけで、戦うつもりはなかった。ただ、たまたま城内で火災が起きて焼け落ちるところを攻めただけだ。あまり感心できないな」と残念がった。
本多肥後守は、「平八郎は14歳の子供だけれど、今日の大胆さは大物になる素質がある」というので、元康に仔細を報告した。元康は非常に感心した。その子は後の徳川三傑の一人、本多中務大輔である。
8月小
2日 元康の伯母、(比佐)が死去した。(清康の娘、常住院桂室泰榮と号した)
20日 渡邊藤蔵興綱が死去した。(37歳、源五左衛門高綱の弟)
9月小
〇荒川甲斐守義虎は、以前、今川の意向に沿って実の兄の吉良義昭とつるんで牛窪の牧野右馬允成定に西尾の城を守らせていた。しかし、彼は兄と仲たがいをして酒井雅楽助正親を頼って元康に降伏し、正親を荒川の城へ呼び込んだ。今荒川は徳川に付いているので酒井正親は兵を出して西尾の城を攻めた。牧野は耐え切れず城を棄てて牛窪へ帰り、雅楽助は西尾の城へ戻った。
11日 最近、菅沼新八郎定盈は加茂郡西郷の高城という場所に砦を築いて住んでいた。一方、西郷弾正左衛門正勝は、西郷の薬師堂の跡の堂山という場所の城に住んでいた。どちらも元康の家来である。
今川方の寶飯郡牛窪の牧野出羽守清成は、同じく右馬允成定を先頭に攻撃してきた。正親(*勝)と長男の孫九郎元正および菅沼新八郎定盈はそれぞれ砦を出て防戦したが、元正は戦死した。一方、牛窪勢は惨敗して多くが討たれた。西郷への寄せ手は騎馬の数が多かったので、西郷方はその馬を奪った。
13日 酒井雅楽助正親は、幡豆郡西尾の城から松平三郎次郎親俊らを率いて額田郡東條の城を攻撃した。その時、富永伴五郎景通という(*吉良)義昭の侍大将の豪傑は畷に陣を敷き、意表をついて本多豊後守廣孝が守る小牧の砦を攻撃しようとした。廣孝も兵を出して酒井の兵と一緒に交戦した。渥美郡糟塚からは小笠原三九郎、長是津の平からは松井左近忠次も駆けつけて味方を救援した。
牧野の敵兵が牛窪から出撃して富永を助けに来た。酒井雅楽助正親が先頭に抗戦し、榊原孫三忠政が最初に槍を合わせた。敵は激しく本多廣孝の軍隊へ襲い掛かった。味方も命がけで防戦し死者が多く出た。
その時大将の富永伴五郎景通は今年25歳で、勇猛で聞こえる30人ほどの従兵が大太刀をふるって戦い、味方の鳥居半六らを討ち取った。大久保大八忠包は隙間なく富永に切りかかったが、景通は素早く駆け抜けて大八を切った。忠包は刀を棄てて景通に組み付いたが、多数の敵が助けに来て大久保は討ち取られた。(大八は22歳)富永は今度は弓で味方の大将、本多廣孝を射ようとしたとき、廣孝は間髪入れず伴五郎を突き伏せ、本多甚四郎に首を取らせた。
牛窪の兵、須瀬宮内は酒井正親をめがけて駆けてきた。正親は槍を構えて宮内をつき伏せると、家来が駆けつけて須瀬の首を取った。
その外、義昭の部下に激を飛ばして部下を戦わせる者がいた。杉浦惣左衛門久勝が彼を射ろうとしたので、安倍四郎五郎忠政(後の四郎兵衛)は田のあぜを回って近づいて彼を射殺した。
小栗仁右衛門忠吉は槍で対決して名を上げた。味方は争って敵50人余りを切り殺し、逃げる敵を追って城の濠に至り、そのまま城に攻め込むと、遂に吉良義昭は和平を申し出て元康に降伏した。
元康はしばらく義昭を岡崎に置き、鳥居伊賀守忠吉と松平勘四郎信一に東條の城を守らせた。また、荒川甲斐守義虎(頼持というのは間違いである)の功績に対して、自分の腹違いの妹を嫁に与えた。(母は戸田弾正憲光の娘)
〇次のようなことも分っている。今回の榊原孫三(22歳)の活躍を酒井與四郎忠世は証人として元康に報告した。元康は「さすがは隼之助忠政の子だ」と感心した。(後に彼は彌平兵衛と改名した後、父の名を継いで隼之助となり摂津守になった。法諱も父と同じである)
〇元康の母の実家の祖父、水野右衛門太夫忠政の嫡子、下野守信元は三河刈屋、尾張小川を領地に持ち、小さな勢力ながら今川義元の威勢が盛んなときにも義元にはつかず、織田家の最有力な家臣であった。
彼はあるとき信長に「今川上総介氏眞は、頭が悪く軟弱で色情に溺れている。そのために戦意を喪失して和歌や蹴鞠に熱心で、伊勢踊り、兵庫踊りにふけり散財をしている。 そのため今川の勢力を復興して父の敵をとろうとするような覚悟も気力もない。一方、徳川元康は豪傑果敢で才能に恵まれ、西三河を奪回すべく敵を撃とうとしている。しかし、勢力が小さいながら西の織田家を敵とし、東には今川の大勢力が控えているにもかかわらず、どちらにもつかず頑張ってきているから、彼から織田家に降伏してくる状況ではない。自分にとって彼は甥であり、本来彼と敵対する立場にはない。これまで数回戦ったものの自分にとっては忍びがたいことなので、できれば信長は今日にでも彼と和融して、東から攻められる心配をなくし、美濃を急いで征服して本来の目標を早く達成すべきではないか」と進言した。
信長は物分りがよく直ぐに彼の進言を入れ、滝川左近将監一益に命じて、石川伯耆守数正の方へ「徳川と織田の両家は、長年にわたって領地を奪い合ってきた。しかし、そのために国土も民衆も疲弊していいことがない。だから両家は和解して互いに国境の兵を収めて、自分としては都を支配する方に集中したい。徳川家は東の方を攻めて勢力を拡大して、お互いがそれぞれの地域で天下をとるのがいいのではないかと考えている」と伝えさせた。
また、水野家よりも使者を出して「信長との和平をしてから西三河を支配し、父や先祖への孝行をした方がいい」と勧めた。
元康は、両石川、両酒井、本多豊後守廣孝、植村庄右衛門忠安、天野三郎兵衛康景、高力與左衛門清長を集めて相談した。
酒井忠次は、「これまで徳川は信長と氏眞を敵にしてきたのは間違いないが、氏眞は親の復讐をすることもなく戦を棄てて家来を置き去りにし、日夜謡いにふけり、踊りや歌や蹴鞠に興じているので滅びるのは時間の問題である。今信長と和融して互いに力をあわせて今川を滅ぼす計画を建てるべきだ」と述べた。他のすべての重臣たちも尤もだと考えた。
彼らは「廣忠は今川義元の世話になったが、元康は幼いときに駿府へ住まわされて10余年、その間に三河の税はすべて駿府に巻き上げられ、合戦があれば徳川はいつも先鋒に出され戦死するようにしむけられてきた。
元康が一応成人してからも、大高への兵糧を運ばされたり、丸根の城を攻めさせられたり、危険な戦いでは彼は何度も元康を捨石にして徳川家を滅ぼそうとした。義元のこの暴挙に、徳川が大きな被害をこうむってきたのは世間の知るところである。徳川家の真の敵は今川だから、ここはさっそく信長と和融すると返事すべきだ」と進言した。
元康は、「自分が成人した後に重要な戦で先鋒を義元にさせられたのは武将としては望むところだったが、自分が子供のころに徳川の家来たちが捨石にされ、戦で沢山亡くなったり、貧乏で飢えさせられたりしたのを思い出すと慙愧に耐えない」と涙を流した。それを聞いて家来たちも涙を流した。そうして、元康は信長との和平に同意した。
信長は非常に喜んで、家臣の林佐渡守通勝、滝川左近将監を鳴海城に送り、石川伯耆守数正と高力與左衛門清長とが会談して尾張と三河の境界を定め、尾張の鳴海、沓掛、大高、三河の丹家、廣瀬、舉母、梅ヶ坪、寺部、岡などの城に駐留する尾張勢を引き取って、城や砦をすべて元康に委譲した。
元康は植村庄右衛門忠安に三河の家来たちに信長と和融することを連絡させた。すると、碧海郡上野城主の酒井将監忠尚が元康のもとに駆けつけて「信長は隣人なのでとりあえず和睦するのはいいけれど、尾張へ面会に行くのは決してすべきではない。奥様や息子の三郎様を駿河に質として出しているので、信長だって本当は和議を望んでいないはずである。ここで人質を犠牲にして尾張と和融すれば、世間もどういうことだろうと疑問に思うだろう。だから和融は思いとどまるべきだ」と進言した。
しかし、元康は「おまえのいうことは尤もだけど、もう決めてしまったことだから今から取りやめるわけにはいかない。お前の質も駿河に送っているが、私の為に犠牲になれ」と命じた。将監は納得せず、「どうして自分が人質と別れられようか」と言い置いて席を立った。
鳥居彦右衛門、本多豊後守、平岩七之助が同席していて、「将監は氏眞に通じているので、追いかけて彼を始末すべきだ」と進言した。しかし、元康はさすがに自分の重臣である将監をかばって、「おまえたちのいうことにも一理がないではない。しかし、仮に彼が自分に背くことがないではないとしても、ここで彼を殺すことはない」といった。将監は自分の城に帰り、病気だといって以来岡崎にくることはなかったが、謀反を起こすこともなく時が過ぎた。
〇元康は、織田信長と同盟するために、両酒井、両石川、植村、天野、高力と100騎ほどを従え岡崎から尾張清州へ向かった。信長は途中の宿舎を用意し、道中には茶店で酒肴を用意させ、道を清潔にし、船や馬や人夫を集めて元康を迎えた。その上、老臣の林佐渡守通勝、菅谷九右衛門長瀬、滝川左近将監一益が熱田まで出迎えた。正満寺でしばらく休息してから元康は清州城へ到着した。
織田の家中の者は、元康一行を見物しようと町は大騒ぎとなった。本多平八郎忠勝(24歳)が長刀を振り上げて元康の籠の前に出て、「元康が登城しようとしているときにこの騒ぎは何事か」と怒ると皆が平伏した。
信長も二の丸まで迎えに出てきて、水野信元が本丸へ案内した。植村新六郎家政は刀を携えて続いたので番兵が咎めると、「自分は元康の家来の植村である。主君の刀を持ってきているのに何を咎めるのか」と怒鳴りつけた。信長は喜んで、「植村の名前を聞いたのは久しぶりだ。なかなかの勇士だ」と話したという。
信康は席について一礼し、信長は毅然として和議をすぐに認めた。
「ここから両陣営によって天下を取ろう。これからは水を得た魚のように互いに助け合うことを偽ってはならない」と、神社の札に誓って連名が成立した。そこには、「織田が天下を取ったならば徳川はその家来になること。徳川が天下をとったら織田は家来になることを遵守する」と書かれていたという。水野信元が血判を押した。それから、小さな紙に牛と書いて、三つに破って分け、元康、信長、水野の三人がそれぞれ水で飲み込んだ。これによって連名の儀式が終了して、宴会に移った。
盛大なもてなしを終わり、三献の礼があってから、信長は「長光の太刀」と「吉光の脇差」を元康に贈った。信長は植村新六郎を指名して杯を与え、「今日、初めておまえの勇気ある行動を見た、鴻門での樊噲(*はんかい)のようだった(*史記)」と述べて、「行光の刀」を贈った。(二代目の新六郎は出羽守となった)
元康は信長にいろいろ礼を述べてから退去した。信長は清州城の外まで出て見送り、老臣の林、滝川、菅谷は熱田まで随行して見送った。
(この会談が正月16日だという記したものもあるが大間違いである。元康は2月まで水野信元と合戦をしていたので、この間違いに気づくべきである。このように実録に年月の間違いがあるのは、昔の人が乱世に生きていたために記憶に頼って誤って書いたためである。このように間違った月日が書かれたものは文献とはならないので、ここでは月日を明記しなかった)
〇翌日、信長は、元康への返礼として林佐渡守と菅谷九右衛門を岡崎に向かわせ贈り物を贈った。元康は早速正音寺をゲストハウスとして彼らを接待し、岡崎城へも案内て2人に刀を贈った。林、菅谷は礼を述べて尾張へ帰った。
〇ある話では、三河の幡豆郡山田の都築又兵衛正晴は、自分の邸宅に舞台を設営して信長の使いをもてなし、猿楽が催された。元康は舞台の設営費用として正晴に黄金を与えたという。
〇元康が清州を訪れたことに対するクレームが今川から来た。そこで酒井雅楽助は知恵を絞って成瀬藤五郎という弁の立つ家来を駿府の三浦右衛門義鎮の所へ行かせ、「徳川家は代々今川家とは親しいだけでなく、令室や三郎を質としているので謀反を起こすようなことはもちろんない。猛威を振るっている信長を敵に回すことは難しいので、とりあえず和平したまでである。だからもし今川が尾張を攻めることがあれば、徳川は喜んで先鋒を買って出る」と説得した。それで氏眞も多少疑心を解いたという。
〇世間では今年9月10日に、信州川中島で、武田信玄と上杉謙信が合戦したといわれているが、上杉家によれば、そこでの両家が交戦した最大のものは天文23年(1554)8月18日6時ごろから17回あり、その内11回は謙信が勝利、6回は信玄の勝利だった。このとき、謙信は御幣川の中で信玄と切りあって、信玄は負傷し、弟の左馬助信繁など3216人が戦死した。このとき謙信方の戦死者は3117人だった。戦いが終わって謙信は信犀川(*犀川、信濃川)を渡って善光寺に3日間滞在し、戦功のあったものに感謝状を与えた。松本大学に与えた感謝状がその子の外記に伝わっている。外記は水野監物に仕え、紀陽候、南龍院殿(*徳川 頼宣)がその感謝状を見て、謙信が3日間善光寺に滞在したのは本当で、謙信が和田喜兵衛を1人伴って高梨山へ行ったというのは間違いであることを発見した。
また、弘治2年(1556)3月26日の夜から26日の朝まで両者は川中島で戦い、早朝4時ごろからの戦闘のうち、3度は謙信が勝利し、山本道鬼、一条諸角、鹿野源五郎など491人を討ち取り、翌朝の4度の戦闘では謙信が負けて、365人が戦死した。しかし、宇佐美定行が市村の渡り口に兵を配したので上杉勢は犀川を渡って元の陣に戻り、翌日両陣営は兵を引いた。このときの状況は世間でよく知られたものである。上杉家は寛文年間にこの様子を記して幕府へ報告した。ただ、今年永禄に大戦があったという話は上杉家には伝えられていないそうである。
永禄5年(1562)
3月小
12日 竹谷の松平與次郎清善(後の備後守)は、三河の幡豆郡西郡邑の上の郷にある駿河方の鵜殿藤太郎長照の城を攻撃して、首70あまりを得た。この長熙は紀州熊野山七家の内の常香の末裔で、三郎長持の子である。最も武に長じた長男三郎四郎氏長は三男藤三郎氏次とともに城に立て篭もり、寄せ手の清善は義理の弟であるが、主人の為に互いに敵味方に分かれて戦ったそうである。
13日 寄せ手は再び上の郷の城を攻撃し、戦いは翌日まで続いた。3日続いた戦いで寄せ手の兵はすっかり疲れてしまった。
15日 元康は名取山まで出陣して、深溝の松平主殿助伊忠、久松佐渡守俊勝、大久保五郎右衛門忠勝、松井左近忠次に上の郷の城を包囲させた。
忠次の家来の石原芳心の子、三郎左衛門は、かねてから江州甲賀のスパイの伴中務盛景と同太郎左衛門、同與七郎と相談して、近江の多羅尾四郎兵衛光敏と忍者18人を呼んで味方に加えていた。今夜彼らを不意撃ちで城内へ侵入させて火を放させたので鵜殿父子3人は城から逃げ出したが、伴與七郎が城外に隠れていて待ち受け、氏長、氏次を捕虜とした。しかし、父藤太郎(後の空山)は駿河へ逃れた。この城が陥落したので元康は久松佐渡守俊勝に与えた。この地は東三河の重要拠点だったので、氏眞はその後何度も攻撃したが俊勝は守り通した。
〇元康は伴與七郎の功績を誉めて刀と感謝状を贈った。久松俊勝は、その後しばらくして西郡の邑、上の郷の城を嫡子三郎太郎康元(後の因幡守)に譲り、自分は岡崎に住んで、元康が戦に出ているときには岡崎の城に残って防衛したという話もある。
〇西郡の鵜殿が城を放棄して逃亡したとき、伴中務の部下が忍び込んで長照を殺したのが永禄6年と7年の間というのは全て間違いである。
〇氏眞が、元康の正室(築山殿)と息子の三郎(後の信康)を殺害しようとしているという噂があった。
石川伯耆守数正は非常に悲しんで殉死しようと駿河へ出かけようとしたとき、関口刑部少輔親永は数正と話し合って、「元康の正室と三郎を徳川に返せば、鵜殿の二人の息子を元康が駿河へ返す」と氏眞に伝えることにした。鵜殿は氏眞の重要な家臣なので、鵜殿の2人の息子が殺されることを案じて彼らの提案を受け入れた。
数正はこのことを元康に報告すると、元康は喜んで築山殿と三郎を駿河より引き取り、鵜殿の2人の息子を氏眞へ返した。三河では武将だけでなく農民や商人も非常に喜び、道に出て一行を歓迎した。石川数正は大成功を収めたので、三郎を肩車にのせて築山殿と共に馬を躍らせ、ひげを撫でながら、念志ヶ原を通って意気揚々と岡崎に帰った。沿道の人々で彼の功績を賛美しないものは誰もいなかった。
長照の子、三郎四郎氏長、藤三郎氏次は後に元康に仕え、氏長は石見守になり1700石を領し、氏次は後に三郎兵衛と改名した。長照の妹は元康の侍女となって娘が生まれると西郷の方と呼ばれた。その娘は天正みずのえ午年に、北条氏直の正室となった。北条が滅びた後は池田輝政に再婚した。(法諱は良正院)。長照の弟、藤九郎の子、藤助長忠の長男である大隈長次は大番頭を務め、やがて良正院の家来として、その子まで池田家に仕えたという。
18日 渡邊清左衛門行綱(初めは半七郎)が死去した。
〇この月に、今川の家臣で、遠州伊井谷の城主、伊井肥後守直親が不慮の死を遂げた。
その理由は、直親の家来の小野但馬守が、「主人が今川を裏切って元康に通じた」と氏眞に嘘の訴えをした。氏眞は怒ってよく確かめもせずに早速直親を攻めようとした。今川の一族の新野左馬助は嘆いて、「直親は全くそんな考えを持っている人ではない、誰かのいいがかりに違いないのでよく確かめよう」と使者を伊井谷に派遣して、直親に事情を聞いた。
直親は非常に驚いて、「自分の亡父、信濃守直盛は先君の義元に従って桶狭間で戦死した。その仇相手は織田信長である。そんな相手を主人にしたりしない。徳川が織田と組んでいる以上、自分が徳川に付いたりするはずがない。これは敵方の計略で、主従を裂くことを図っている輩の仕業かどうかをよく調べるべきだ」と答えた。新野はこれを氏眞に伝えたので、兵を挙げることは中止された。
直親は、駿河へ出かけて申し開きをしようと思って、僅か20人程を連れて伊井谷を出て掛川の城下を過ぎようとした。すると、掛川の城主、朝比奈備中守泰能は、先に氏眞が伊井谷を攻める先鋒を命じていたので兵を出して戦いの準備を進めていた。そんな中、直親が城下を通過すると聞いて、彼らを数100騎で取り囲んだ。直親は散々抗戦したが遂に死亡した。
朝比奈が直親と従者の首を駿府へ贈ると、愚かなことに氏眞は直親たちを謀反人としてその首を吊るし領土を没収したうえ、直親の僅か2歳の子、萬千代を殺そうとした。そこで、新野はうまく計らって萬千代を自分が引き取って養育した。
4月大
13日 松井左近は東條の定番となり辞令を受け取った。
〇遠州敷知郡、引間(今は浜松)の城主、飯尾豊前守致實は今川を離れて元康についた。氏眞はこれを聞いて新野左馬助に飯尾を討ちに行かせた。新野は引間を包囲して何度も攻撃し、城を守る渥美、森川、内田、など数100人を討ち取ったが、左馬助は戦死した。
左馬助の後室が萬千代を育てていたところ、氏眞は萬千代を殺そうした。そこで彼は左馬助の叔父の浄土寺の和尚に預けて「仏にする(*殺す)」といってそうはせず、直ぐに寺に送って僧とした。氏眞が没落したのち、8歳の萬千代は、左馬助の叔父とその師、珠源、乳母とともに蓬莱山に隠れた。井伊肥後守(*直親)の後室が松下源太郎清景に再婚したので、萬千代も濱松へ移り松下の家に住んだ。後の徳川の三傑に一人、井伊兵部大輔直政とはこの人のことである。
〇元康が幼くして駿府に囚われているとき、義元は三河の重臣の質子を吉田の城に入れていた。今度、元康は今川を離れ織田と組んだから、彼らは吉田に残されてしまった。
吉田の城主、小原肥前鎮實は彼らを嫌って城内の収容場所にいる竹谷の松平與次郎清善の娘、西郷正勝の甥孫四郎、形原の松平家、奥山、筑手、長篠、水野藤兵衛、大竹兵右衛門、浅羽三太夫らの妻子11人を城下、龍念寺口で串刺しにした。これは彼等に謀反を起こさせないためだったけれども、駿河、遠州、三河の武将や民も皆、小原には義元の残虐さが乗り移っているし、氏眞は弱くて贅沢三昧ばかりしているので滅んで欲しいものだと思わない者はいなかった。また、「小原のような残忍卑劣なものに国を預けることはできない」と恨み、「これでは氏眞の先はないな」と嘲っていった。
菅沼新八郎定盈の妹、(美伊、23歳)も質として吉田城に囚われていた。しかし、既に串刺しが決まっているときに乳母が当時吉田に住んでいた菅原の家臣の寄田助四郎に密かに救出を頼み、助四郎も状況を悲しんで夜中に彼女を連れ出して野田に帰らせた。このことが咎められて助四郎は吉田城外で磔に処された。(定盈の妹は、長澤の松平康忠の弟、兵庫頭親廣の後妻となった)
氏眞は、元康が信長と連合したことに腹を立てて、叔父の関口刑部少輔親永を殺害した。
6月小
2日 菅沼新八郎定盈は野田の城を奪還し、もう一度住もうと夕方に攻撃した。
その頃、今川の一族の堀越六郎氏延は今川を離れ遠州見附の城に立て篭もっていた。小原肥前鎮實は三河、遠州でまだ今川方だった勢力を誘ってこの城を攻めた。堀越は万策尽きて海蔵寺で自害した。定盈はその隙をついて野田の城に地下人を送り込み、夜半に城を急襲して城兵を多数討ち取り、この城を再び自分のものとした。
〇この月、氏眞は寶飯郡牛窪の牧野右馬允成定、同出羽成清を富永の城に配した。元康は何度もこの城を攻めたが強くて破れなかった。成定の家臣、稲垣平右衛門長成に戦功があり、氏眞は感謝状を贈った。元康はもう一度吉田の城を攻撃するために小坂井に砦を築き、牛窪の城を押えるために兵を配した。
7月大
〇遠州暠山の城主、奥山修理貞澄は今川を叛いて元康についた。氏眞は怒って出撃し、彼の城を陥した。
22日 遠州の浜名郡宇津山の城主、朝比奈紀伊守泰長は突然兵を三河へ向け、加茂郡西郷の中山五本松の城を陥落させて城主、西郷弾正正勝入道と同孫九郎父子を討ち取った。正勝の親戚の孫六郎清貞(あるいは吉員)は拿捕されたが、捕まえた者の手を払って非常に深い渓谷に飛び降り幸い命を取りとめた。野田の菅沼新八郎定盈は清貞の従弟なので密かに野田へ逃げてきた。そのことが元康の耳に入って大いに誉められ、亡父の領地をもらい、清貞は西郷の古與宇というところに砦を築いてそこに住んだ。
〇今日、松平越前長勝が死去した。(享年81歳、初めは太郎左衛門)この人は、親氏の嫡男太郎左衛門泰親の長男(あるいは嫡孫)である。
8月小
6日 長澤の松平源七郎康忠(27歳)が領地の証文を受け取った。
「証文」
9月大
29日 (どの資料も年月が間違っている)今川方の設楽郡佐脇八幡の砦を攻めるために、元康は出撃した。
酒井左衛門尉と福釜の松平三郎次郎親俊らは千人余りの軍勢で戦場を吟味しながら進軍した。佐脇の大将、板倉弾正、同じく主水、ニ連木の戸田、牛窪の牧野の多勢の連合軍は小坂井の東の岡に出て戦闘を開始した。そこは険しい場所で、味方は劣勢となり、親俊と小林勝之助正次が奮戦したがかなわず、二手に分かれて退却した。板倉軍は勝ちに出て双方を追撃した。一方の退路にいた長澤の松平兵庫頭親廣の六男七平、同じく七男一之丞ら50~60騎が戦死した。松平源七郎康忠が大活躍をした。夏目次郎右衛門吉信は国府までの間に6度踏み止まって本隊の後方を護った。もう一方の退路では、渡邊半蔵守綱は、石川新七郎、同じく新九郎と一緒に行動して何度も立ち止まり本隊の後ろを護った。
やがて石川の2人も離れ離れとなってしまい、半蔵1人で後ろを護り10度ほど抗戦し、内3度は槍で対戦した。矢田作十郎は足を負傷し馬も殺されたので、半蔵は彼を肩に背負って御油から赤坂の間を敵を防ぎながら退却した。
そのおかげで味方は退却しながらもこの退路では誰も戦死せず、矢田もまた馬にまたがって戻った。敵がなお追撃してきたが、元康が進軍して先頭が到着してきたのを見て米津藤蔵は退却を止め、米津と渡邊は小塚の陰に隠れて敵が来るのを待った。半蔵は、藤蔵が老いていたので自分と同じように戦えないので、自分はすこし敵に近い場所に進んで隠れて敵を待ち受け、山下八郎衆が先頭に立って追撃してきたときに塚の陰から飛び出し、彼の首を取った。米津も手柄を上げた。
元康が先鋒が敗退したのを聞いて急いで前線に出て来たのを見て、板倉は兵をまとめて退却した。味方は、酒井忠次と松平親俊が彼らを追撃した。板倉の兵が奮戦していたとき元康も槍を持って敵の中へ飛び込むと、味方の兵も奮起して戦って勝利し、板島弾正と前島伝次を討ち取った。また、その婿、板倉主水など多くが討ち取られた。その結果八幡の城は陥落した。(その後また氏眞は砦を築いたという)、敵の残党はすべてニ連木、牛窪へ逃げた。
酒井忠次は、元康がどうして急に救援できたのかと不審に思った。元康は、「佐脇を攻撃しようと出撃したが、小坂井で戦っているというので、わき道から進んで勝利できたのはラッキーだった」といった。また、渡邊を呼んで、「味方の退却の際おまえの活躍で一人も命を落とさずに済んだ。これは大変な功績だ」と褒美を贈った。以来、彼は徳川の「槍半蔵」と呼ばれた。夏目吉信への褒美は、元康が大切にしていた一尺五寸二分の「備前長光作の脇差」だった。
〇『渡邊家伝』によれば、半十郎正綱が槍半蔵と呼ばれるようになったのは、この年に東三河で彼が真っ先に首を取ったとの土地の噂によるらしい。
10月大
28日 正親町天皇は、隠密裏に尾張清州へ北面立入右京進頼満を勅使として派遣した。
その理由は、先日(足利)頼満が、「今は天下が瓜のように割れ、豆のように分かれて、幕府も衰亡してしまった、その上、管領の三好長慶はとっくに公方や主人の細川を無視して、遂に彼の家来の松本弾正少弼久秀が権力をほしいままにして、京都の公卿や殿上人が経済的に困窮している。今この状況を誰が好転させられるかと考えてみると、尾張清州の織田信長をおいて他にはいそうもない。ここで密かに許しを与えて信長を都へ来るように促そうではないか」と先日萬里小路大納言惟房に述べた。惟房は「悪くない」とその提案を天皇に伝えたところ、すぐにその案を受け入れ許可したからである。
そこで、天王はその命令を立入に託し、立入の友人の近江山中の磯貝新右衛門久次を伴として熱田神宮へ頼満を奉幣使として向かうように要請した。この結果、今日両者は信長の家臣、道家尾張守のもとへ到着した。この人は、尾張守の妻、安井局が信長に仕えているので、密かに天皇の命令を彼女を通して信長に伝えるためであった。
信長は毎日猟を楽しんでいて、この日は午後4時ごろ狩からの帰り道に道家の家に立ち寄り風呂に入っていた。道家は信長へ事情を伝えた。信長は大いに喜んで新しい着物を着て長袴を穿き、早速道家のはなれで勅使に面会して天皇の命令を受け取った。
その命令には3か条が書かれていたという。
1) このところ衰亡している公卿を再興させるべし。
2) 大内の租税の取り立てを中止させるべし。
3) 御所を建て直すべし。
信長には名香と衣服が贈られ、「尾張の半分を支配している信長に天下を平定するように」と命じた。それを受けて信長は「光栄なことである。今年は尾張を、そして来年には美濃を征服して京都へ向かい、朝廷を再興させていただく」と答えた。
11月小
朔日 立入頼満は熱田神宮へ奉幣を捧げた。
2日 頼満と山中の久次は京への帰途に着いた。信長は黄金などを贈った。しかし、信長の領地は京都に近いといってもまだ天皇の陪臣としては力が足りず、財力も大したことがないので、国家の政治を動かそうにも無理があった。一方、近江には、佐々木や浅井、丹波の波多野などといった財力があり京に近い勢力があり、また、京からすこし離れてはいても越前の朝倉も大きな勢力をもっている。しかし、その頭目たちも天皇や幕府を再興するような度量は持ち合わせていなかった。
去年のこと、丹波の波多野の領内で桑原郡、長谷の城主、赤澤出雲守が関東へ出かけて鷹を3羽求め、帰り道に尾張を通るので信長にその1羽を贈ったことがある。信長は喜んで、「自分は近いうちに必ず天下を取ると都へ伝えるように」と述べたという。その大胆さには見るべきものがあったという。
〇この月、元康の使い番の成瀬藤蔵正義(禄は250貫)は、同僚と喧嘩して遠州へ逃げたが、翌年にまた三河へ復帰した。
12月小
4日 元康は、松井左近忠勤がよく尽くしてくれるので褒美として自筆の手紙を贈ったという。
28日 松平浄賢斎と康忠へ幡豆郡の領地を与えた。
「証文」
〇伝承によれば、この年、榊原小平太が15歳で御家人となる。この人は先祖から代々勢州壱志郡榊原の村に住んで、父七郎右衛門長政のときに三河へ来て清康に仕え、直ぐに上野の城主、酒井将監忠尚の家来となった。幼名は亀丸だったという。彼は13歳で自ら進んで三河大樹寺に勉強に行って習字を習った。叔父の大須賀一徳斎が元康に仕えていたが子供がいなかった。しかし、この年、榊原長政が死去し、嫡子の清政が家督を継いだ。次男の亀丸は兄の許に住んでいた。そこで一徳斎は亀丸を養子とし、自分の名前が平太だったので亀丸を小平太と命名し、元康の家来にした。
〇ある話によれば、元康の正室は嫉妬深くて淫行があったという。しかし、元康には打つ手もなく彼女と離婚した。彼女は勢州へ落延びが、後に京都へ行き、更に越前へ向かったという。(元亀の末に三郎信康はしきりに元康に母を岡崎に戻すように頼んだ。そこで元康は岡崎城内に築山曲輪を彼女の住居とした。このために彼女は築山殿と呼ばれた)
〇この年、織田信長の家臣、木下藤吉郎秀吉(27歳)は、屋号を羽柴と改めた。これは信長の老臣、柴田勝家と丹羽長秀の名声が高いのを羨んで、2人名前の一字を取って自分の家号としたからである。
武徳編年集成 巻5 終
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