巻11 元亀元年正月~12月 姉川の戦

投稿日 : 2016.01.24


元亀元年(1570)

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〇遠州敷智郡、引間の城は昔は久野越中守の居城だった。今川氏親の時代に三善為連が城を築いた。大手を明光寺口に、搦め手(*後ろ)を天林寺口として、前後4郭で構成されている。ただし築城の構成は定石とは外れている。

家康は遠州見附(*磐田)の城へ出向いて、三河と遠州の人夫にこの城を破壊させ、見附の西南に適地を選んで新しく居城を建設した。本丸、二の丸、西羽曲輪、馬出曲輪、清水谷郭、三の丸、厨曲輪、鳥居曲輪などと名前がつけられ、妙光寺薬師堂の南の深沼を城の後部の要害とした。本丸の周りはすべて石垣で、その上に多門を建てるという珍しい構造である。

完成の暁には岡崎の城を息子の信康に譲り、家康はこの城へ移る予定で、名前も浜松城とした。昔から城の中にあった五社大明神をこの城の鎮守とした。(年を経て城外の適地に神社を建てて、そちらへ移したという)

25日 武田信玄は大軍を率いて駿河の花澤の城(*焼津)を攻めた。この城では今川家の小原肥前鎮實とその子の三浦右衛門義鎮と家来3千人が、婦女子や幼子を疎開させて必死に立て籠もっていた。信玄軍は大手へ押し寄せ、腰曲輪の方には兵を向かわせなかった。

26日 早朝、武田四郎勝頼、長坂釣閑斎、諏訪越中、初鹿野伝右衛門昌備、名和無理之助重行ら20騎あまりは、腰曲輪の虎の口に付いて出入りする者を討ち取ろうとした。

初鹿野は矢や弾丸をものともせず、揚簀(*すのこ)戸を揚げようとした時、信玄の使いが来て彼を引き取らせた。その後、曽根内匠助昌世、真田善兵衛昌幸、三枝勘解由左衛門守友ら50人ほどは、勝頼の攻めぶりを見ようと腰郭に来た。そのとき城兵が100人ほど矢や鉄砲で左右から突撃してきた。三枝は一番槍、真田二番槍で応戦し、互いに名を名乗って9回ほど攻め合った。その時、横田十郎兵衛は騎馬20騎、足軽50人、小幡彌左衛門は騎馬12騎、足軽65人を率いて、左右より大砲で撃たれる中、槍を構えて城兵を突き崩し、引橋まで追い詰めて番小屋を焼いて帰った。

27日 明け方、武田方の山縣、馬場は、花澤城の追手門へ押しかけた。

城からは小原源之丞、同権右衛門、井桁又右衛門、井伊彌五郎、杉原十度兵衛、瀧三郎左衛門が指揮して、100人の兵が飛び出してきた。武田方の一番槍は孕石源右衛門だった。また、白畠與七郎、相木源五、雨宮権左衛門、村松藤左衛門、天野市平、宮澤小兵衛、武藤金次郎、落合治部、同佐平太などは3度追い込み、又追い出して交戦した。

瀧三郎左衛門の強弓で、鏃が落合治部の兜の上から首筋まで抜けて、治郎は即死した。弟の佐平次は兄の遺骸を持ち帰ろうと進んだが、城兵がその首を取ろうと駆けてきた。

武田方の白畠與七郎、相木源五、雨宮権左衛門、村松藤左衛門、天野市平、宮澤小兵衛、武藤金次郎が立ちはだかり、槍で交戦しているときに、瀧三郎左衛門の鏃によって寄せ手の多くが射殺された。

小笠原源之丞の命令で、城兵が一挙に飛び出して寄せ手を追い崩すと、武田の忍びが城内に紛れ込んで火をかけ、城兵は三の丸を棄てて二の丸で防戦した。

夜中に寄せ手は堀を埋めて何度も攻撃したが、城兵は大きな石や木材を投げ下ろしたり、熱湯や焼けた砂をかけたりして激しく防戦した。

氏眞の同胞の伊丹権阿彌が本丸の大手を固めていたが、一の丸へ救援に来てしばらく防戦した。郭が破られると本丸の前と横の郭で持ちこたえた。寄せ手は城門の肘金を打ち破り城に攻め込むと、小原は信玄に和平を申し出た。信玄は同意して小原父子や、生き残っている923人の姓名を記録し、望みをかなえて遠州へ送った。その中の村上彌右衛門はすぐに浜松へ来たが、彼の名は知られていたので家康は喜んで家臣にした。後に榊原家の家臣となり長臣となった。このように城が落ちたことで、武田方に付いた者もいた。

伊丹権阿彌の活躍に信玄は感心して、髷を結わせて伊丹大隈豊勝とし、駿河の海上の船大将とした。小原肥前守は昔、吉田城にいて三河の検断職として国中の人質を囲っていた。家康が今川を離れ織田方についたときに、御家人の人質を串刺しの極刑に処したために、徳川から非常に恨まれているのを察して、今度は浜松へ行く事ができなかった。

肥前の子三浦右衛門佐義鎮は、氏眞に寵愛されて横暴を極め、駿河と遠州の諸士の持つ豊かな領地を全て自分の所領に替え、諸士には洪水の出やすいような悪い土地を与えた。また、駿府では諸士の邸宅を奪って、自分の遊ぶ場所とした。これは「後漢の候寛が他人の家を奪うこと381、奪った田が181」というようなものである。したがって、今回は彼が身を寄せるところがなくなって、知り合いを頼って高天神の城主、小笠原與八郎長忠の許へ行ったが、受け入れてもらえなかった。

この近所の岡崎村は、今川の近臣四宮右近が支配していたが、この人の姉は義元の妾だった。義元亡き後に、三浦右衛門が彼女を妻とした。そうして、父の肥前の妻や子とともに右近の砦の長屋に隠れて住んだ。そこへ小笠原から討手が送られた。これは家康が小原父子を恨んでいるので、自分が家康のために働こうと望んだためである。肥前は妻や子供を殺し、その後一族郎党75人と共に一箇所で自殺した。土地のものは彼らの遺骸を沓掛原に埋めた。(後年、大須賀康高はここに宗有寺という寺を建て、後代に続いている)

〇ある話では、家康は(*小笠原)長忠が(*小原)らを惨殺したことを聞いて、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず。まして、人が窮地に落ちた友人を惨殺するなんて人の道ではない」といった。

一説には、右衛門は父に遅れて高天神に逃げるところ、民衆が蜂起しているのに出会った。三浦右衛門だと名乗ると一同は大喜びで、「阿呆な氏眞を騙して三遠駿の3国の民に酷い仕打ちをし、農民をむさぼり食っただけでなく酷い目に会わせた天罰者がここに来たのは幸いだ」と、数100人が彼を馬から引き落とし、甲冑から下着(*ふんどし)まですべて剥ぎ取って裸にした。右衛門は手を合わせて「下着をほしい」といったが里人は笑って棍棒に下着をくくりつけ、なぶり殺そうとした。それを老人がようやく止めさせ、縄を解いて追放した。三浦は古い「こも(薦)」を身にまとって、夜通し歩いて高天神までたどりついた。

城主の小笠原は彼に衣服を与え、しばらく父の肥前といっしょに面倒を見ていたが、この人は世の風向きの変化を嗅ぎ取れる人で、氏眞が小田原へ落ちたことを知ると考えを翻し、肥前を殺した後、右衛門を広い庭に引き出して、これまでの贅沢と残忍に対する天罰だとして、足助長介という家来に殺させようとした。右衛門は天を仰いで地に伏せて、鼻をそがれ、耳を落とされてもなお命乞いをした。それを聞いたものはあきれてしまった。彼はもだえ乱れていつまでたっても観念しないので、長介は彼を踏み倒して首を切り、屍を野原に棄てた。これは主人に取り入って威張る者の典型的な末路といってよい。

それから10年がたって、甲州の長坂跡部の末路は、三浦の上を行くもので、勝頼を失ってから三浦と同様に首と体が切り離された。

〇『甲陽軍艦末書』によれば、信玄は秋山十郎兵衛を尾張の青洲に遣わせた。

信長は厚くもてなし甲州への土産として鯨を贈った。その時、ふと「武田の軍は全部で如何ほどか」と尋ねた。秋山は「6万」と答えた。信長はまた、「甲州より駿府へは如何ほどの距離があるか」と尋ねた。秋山は「3日」と答えた。信長は「それは岩殿を通るのか、富士の根方を行くのか」と尋ねた。十郎兵衛は「駿河の善徳寺、興国寺を通り、富士の根方を行って3日だ」と答えた。信長はしばらく黙ってから「さては信玄の軍勢は3万だな。富士の根方の山道の幅を3間として、去年の極寒の雪路だと人夫が5千人いるなら、軍勢は2万5千だろうな」といった。この予想はぴったりだったということである。

2月大

〇以前駿河の藤枝戸久一色の城主だった長谷川次郎左衛門は、これらの城を棄てて遠州へ行き家康方についた。

信玄はこれらの城を占領し、馬場氏房に命じて馬出し曲輪を建設し、田中の城と改名し信玄が中旬まで駐屯したが、その後は山縣を城番とした。最近、信玄は江原郡江尻にも塞を築き、これも山縣が守った。

信玄は清水が海辺の重要な場所なので城を築いたが、北条の海賊梶原備前景宗、山本信濃常任の不意打ちにあって抜かれることがあるので、後でもう一度武田が城を取り戻すときのために、山本勘助晴幸入道道鬼の秘奥の縄(*?)を馬場氏房に築かせた。

〇今川氏眞はもともと脆弱で駿府を再興することができず、相模の小田原に行って北条氏康に世話になり、今は遊んで暮らしていた。氏康は早川に彼の住まいを用意して領地も与えた。関東ではこれを早川殿と呼んだ。

〇今月家康は、酒井左衛門尉忠次と本多百助信俊を濃州の岐阜へ行かせるという確約を信長としていた。というのは、この春、信長が毛利新助を通じて「今度大軍を率いて越前の朝倉左衛門督日下部姓義景を攻撃したいので手伝ってほしい」と家康に依頼した。家康も援軍として兵を出したいといった。しかし、信長は家康がまだ若いので酒井忠次、本多信俊、内藤四郎左衛門正成など信頼のできる家臣と相談するだろうと、その作戦を家康に伝えていたからである。(今月中に士卒を集めて出陣の準備をした)

3月小

7日 家康は遠州と三河の兵を率いて、信長の援軍として浜松を出撃した。しかし北越を倒すためであることは伏せて、京都見物と畿内の巡視であると告げた。

4月大

1日 信長は京都の半井驢庵の家に泊まって、和泉の堺の大商人の持ってきた珍品を見て回った。家康も京都に来ていたのでそれを観た。商人が茶器を持参することを信長に連絡すると、信長はさっそく「天王寺屋宗久の菓子の絵」、「薬師院の小松島」と「油屋常裕の柚子口の茶入れ」が良い品だとして、金を払って購入した。松永弾正少弼久秀は「鐘の絵」を信長に献上した。

3日 北条家の老臣、松田尾張憲秀は深澤を攻め、荒らした。

信玄は、最近北条家が越後の謙信と同盟し、彼を後ろ盾にして深澤に攻めてくると察して、城主小山田弾正への援兵として、同じ郡にいる小山田左兵衛信成の勢力の一部を深澤に行かせた。

今日、弾正はわずか40騎にも満たない兵を率いて大手門まで出てきた。

松田らは気にすることではないと見逃していると、小山田は軍を城外へ出した。松田はおかしいと思って地下人に尋ねると、郡内から援兵がくると答えた。松田は直ぐに兵を引こうとすると、小山田弾正が退路を断とうと駆けて来た。そこで松田は竹下川を渡って足柄の砦に帰った。その後、甲府の外様や旗本100騎の内の50騎を駒井右京昌直が率いて、深澤に来てこの城を守った。

12日 北条氏政は4万5千の兵を率いて深澤へ攻めてきたが、農作物をなぎ倒しただけで帰った。こんな小さな砦を抜くこともできずに兵を引いたことを、人々は嘆いたという。

14日 幕府義昭は二条城の新殿で散楽を開催した。公卿や殿上人の他に信長や飛騨の同姓姉小路権中納言基綱、伊勢の前の国司北畠具教入道不智斎、家康、三好左京太夫義綱、畠山上総介昭高、細川兵部大輔藤孝、一式式部少輔藤長、松永弾正少弼久秀のほか、将軍の親戚の諸侯や隣国の大小名が出席した。信長は今日、正4位に叙せられた。

20日 信長は近江の坂本に兵を揃えて、越前の朝倉左衛門督義景を滅ぼすために堅田まで出撃した。家康は8千ほどの兵を率いて京都を発ち、25日に越前敦賀の津で信長と落ち合う手はずで先に若狭路へ向かった。

21日 信長は、西近江高島郡から若狭の熊川に進み、松宮玄蕃允の館に駐屯した。

25日 信長と家康は越前敦賀に進軍した。この地の郡司の朝倉中務丞景恒は、金ヶ崎城を居城として守っていた。城兵は5千ほどであった。近隣の手筒ヶ嶺の城主、寺田采女の援兵としては匹田右近、津波甚四郎、九岐左助を隊長として、気比宮の社人の他、上田、中村、吉川、萩原入道の千500ほどの兵を籠らせて、信長を防ごうとした。

この日の明け方、手筒ヶ嶺の城を先鋒の柴田、木下、池田の3武将に家康が加わり、三方から堅く包囲した。この城の後ろは深い沼で、潅木も深くて敵の兵も手薄なのを信長は本陣の山上からよく観察していて、朝になって兵を進め、利刀驪という駿馬に鞭を打って深い沼を突破した。従兵が彼に続いて駆け越え、柵を破って突入した。

この時、金ヶ崎の城からは中務丞景恒の千人ほどの援兵が来たが、味方の兵は10万ほどもあり、幾重にも備えを厚く相手の変化に応じて交戦し、午後3時ごろになった。信長は紺地に金襴包の鎧、白星の三枚兜といういでたちで、後詰めには目もくれず色々な戦術を繰り返して城を攻めた。

水の手口の小屋を焼き払い、大手からは家康軍が乗り入れて、遂に城を攻め落とした。討ち取った首は870ほどだった。朝倉景恒は強かったが、筒ヶ嶺の城は陥落した。もっとも九牛の一毛ほどの僅かな兵力なのに、500ほどの兵が討たれてしまったので、金ヶ崎の城へ逃げ帰った。信長方が得た首は全部で1370に及んだ。しかし、味方も800人ほどが戦死した。

26日 金ヶ崎の城の大手には、森、柴田、佐久間、池田、城の裏には三左衛門好政が魁となって、坂井、木下、山田が攻めた。

朝倉義景は女嬖(*じょへい)令色、閨帷に充積し、(*色好みで)で戦を好まなかったが、この城の後援として浅生津の庄まで進軍した。しかし、一乗谷で騒ぎが起きたのでこれを収めるために引き返した。

一族の式部大輔景鏡は亥山から府中まで出撃したが、信長軍の勢いに怯えて、信長が木下秀吉を通じて城内へ和融を勧めると、すでに後援が望めないので承服し、夜に中務丞景恒が城を出て城を明け渡すと、木下藤吉郎は200余の兵で府中まで送った。

三段崎勘解由左衛門は、城で1人で死のうとするのを信長は止めさせ、道案内として同行を誘った。城は瀧川彦右衛門と山田三左衛門好政に城壁を破壊させた。この勢いに匹田の城も陥落した。

27日 信長は金ヶ崎を陥落させてから、時を追って越前を征服しようとしたところ、味方の飛脚が来て「近江の浅井父子は三代にわたって朝倉と親密な関係にあり、義景と連合して信長の後方を断つために今兵を挙げた」と報告した。

信長は、「浅井と朝倉の関係がいいのは分かっている。しかし、長政は自分の親戚である。自分が戦をしているのは領土を広げるためではなく、義景が朝廷を侮辱し義昭に叛くことを止めないためにやっているのであるから、長政が自分に戦を仕掛けるなんてことはないだろう」といった。

しかし、松永弾正少弼久秀を呼んで、「お前は老巧の才子だ、既に敵の3つの城を落としたので、先に進んだ方がいいだろうか」と聴いた。久秀は「これまで何度もこの地には来て地理をよくご存知だから、先に進もうというのも尤もではあるが、今回出兵して3つの城を得たといって勝ちを急いではならない。木目追坂樫曲など険しい場所のある敵地なので、ここは急いで帰還した方がよい」と答えた。

信長が納得したところに、浅井の使いの川毛参河と熊谷忠兵衛が来て、先に信長の渡した誓約書を返し、手を切るという意向を伝えた。

信長は家康を呼んで「浅井が突然叛いた。きっと自分の帰路を遮るつもりだろう。もし自分が追撃されて負けると末代まで被害を蒙るので残念である。したがって、直ぐに北庄へ攻め込んで決戦をするべきだろうか」と述べた。

家康は驚きもせず、「浅井の兵力をみると動きが鈍く、すぐ攻めてはこないだろう。だから退路がふさがれないうちに急いで軍を返されるのがよい。ここには2,3の武将の分隊をおいて後殿とすれば、自分はこれを補佐して無事に撤退させられるだろう」というと、信長は喜んでこの方針で行くことに決定した。

家康が「後殿としては木下藤吉郎がよい」と述べたので、信長はひじょうに喜んで、小さな勢力で敵国に残るという家康の心意気と忠誠心を誉めて、隊ごとに選りすぐりの5騎、10騎、15騎だけを残し、秀吉が援兵となった。

信長はわざと少人数で急遽若狭に入ったが、夜中だったので、佐柿の城主、粟屋越中守勝久は松明をともして信長らを迎えた。勝久の子、内記は信長に反逆する機会があったが、父が怒って止めて信長を城の中でもてなした。

28日 明け方から信長軍は少しずつ敦賀を引きはらった。10万にも及ぶ兵だから混乱してはならないからである。秀吉は金ヶ崎で諸侯の将兵を700余りを集めて、家康を後ろ盾として留まった。

朝倉の兵はもともと戦を好まないし、浅井が信長の帰路を遮って滅ぼそうとしているので、自分たちは別に戦わなくてもいいとあえて兵を出さなかった。ようやく、手筒山と金ヶ崎の残兵は毛屋七左衛門を頭に追ってきた。秀吉は兵を引きながら数回戻って攻撃し、敵は敗北した。その結果、朝倉勢は撤退した。秀吉のこの時の活躍が後に有名になった。家康は秀吉を労って若狭の熊川へ向かった。

今朝、信長は粟屋勝久を伴って熊川に着き、近江の山道を経て高島郡朽木の谷を越え、森三左衛門可成を使者として朽木信濃守元綱を尋ねた。ところが元綱が武装して出迎えたので、信長は討ちに来たのかと驚いて慌てた。松永弾正少弼は「自分が行って見てこよう、もし歯向ってくることがわかれば刺し違えて死んでもいい」と馬を駆けて話に行った。元綱は直ぐに兜を脱いで備えを解き、信長を館へ迎えて饗応した。信長は松永の弁才を誉めた。

29日 家康は近江の高島郡朽木谷へ懸かり、そこから同郡荒川、仁賀、川原、市、山中越えを通過するとき、この界隈の山賊が道を遮った。

内藤四郎左衛門正成は得意の弓6筋で6騎を射殺した。家康は自分で鉄砲を撃った。渡邊半蔵守綱は馬を揃えて敵に突っ込み、撃破して首300を取り、味方の兵8千は無傷で同郡舟木の浦に着けた。

そこからは多羅尾四郎兵衛光敏の輸送船に乗って琵琶湖を巽(*東南)の方角へ渡り、近江の坂田郡浅妻浦へ着岸、野洲郡守山の宿に到着した。(多羅尾氏の住居は近江の甲賀郡多羅尾というところにある。その地の民は、米、柴、薪を船に載せて舟木の浦へ出して交易をするので、輸送船の係留場があった。なお、家康がこの後岡崎に帰還したという話もあるが間違いである)

前に信長は丹羽と明智を若狭へ送り、武藤上野介景久に人質を求めていた。

武藤は母を出した。今回、浅井が叛いた為に、京都へ急いで帰るとき、長秀と光秀が人質を連れていたが、途中で山賊が出て道を遮った。近江の守山の城にいる稲葉伊予守通朝父子が兵を出して救いに来た。また家康も兵を分けて救いに行って賊を討たせ、賊は大敗して首千200百を取られた。家康は守山の郷士、川田某を呼んでそこを宿とし、家来たちを数日間休ませた。(後で、川田は御家人となった)

家康も信長も京都に帰還した。丹羽、明智、木下も同様に京都に帰り、家康のお陰で九死一生を得たことを信長に報告した。信長も木下が後殿したことを非常に高く評価した。また、徳川が自分達を助けたので、朝倉が追撃の心配なく京都へ帰れたことに対して、信長は家康に十分に感謝を顕した。

〇小幡景憲が記した『御和談記』によれば、この時家康は29歳であった。

秀吉は天正13年10月、家康と和融して面会したときの約束で、家康が京都を訪れたときのために、京都に近い場所に屋敷を持ってもよいことになっていた。

元亀元年の金ヶ崎からの退口(*退却)の際に、秀吉は、若狭での危険の中で家康に従って行動し、家康は守山では川田という郷士を呼んで仲良くなって人や馬を休めることができただけでなく、信長衆も無事に京都へ帰還させたのは、家康の知恵と作戦によると認めた。
そして、その功績に対して、家康は守山の付近で3万石の領地を与えられた。このことから考えると、秀吉が無事退却できたのは、家康のお陰であるというのは歴然としている。(*金ヶ崎の退却では秀吉の活躍が世間でもてはやされていたので、本当は家康のおかげだと高敦は主張している)

〇この月、丹後の国から越前へ水軍が向かった。信長の長臣一色左京太夫義員と同藤長が書状を送った。

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5月小

〇藤長はまた丹波の波多野右衛門太夫秀治に書状を送った。

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〇考えてみると波多野は毛利家に通じていて、信長をよく思っていなかったらしいが、この時は公方が出陣したので出陣したらしい。後に波多野は信長と戦って滅ぼされた。

9日 信長は幕府、義昭に休暇を申し出て京都を発って近江へ向かった。彼は滋賀、宇佐山、永原、長光寺、長濱に衛兵の置き場(砦)を置く制令を定めた(*幕府の名前を使って命令した)

18日 家康は岡崎の城へ帰還した。

19日 信長は近江の野洲原にて行く手を遮ろうとする佐々木承禎と戦って大敗して、首800を取られた。信長は蒲生賢秀、香津畑勘六左衛門、布施藤九郎を道案内にして千草越えの険しい道を経て逃げた。

その途中のこと、鉄砲の弾が2発飛んできて信長の袖に当たった。家来は驚いて山の中を探して犯人を捜そうとした。信長はびくともせず制止した。これは伊勢の朝熊郡杉谷園通寺の善住坊という鉄砲の名手が、承禎に頼まれて林の中に隠れていて撃ったのだということである。彼は元は比叡山の僧である。

信長が「このとき慌てなかった」というのが世間で有名になったが、「金ヶ崎では将兵に先立って逃げた」という悪評の方が勝っていて敵国では嘲られた。

21日 信長は岐阜に帰還した。彼は、「来月には大軍を率いて江北の浅井を討つつもりなので、援兵を派遣してほしい」と毛利新助秀詮(*のり)を通じて家康に依頼した。

6月大

〇初旬、浜松の新しい城は未完成であったが、見附の砦の場所が悪いので早く破棄するために家康は浜松へ移った。

8日 前に家康は義昭の取次ぎの一色式部少輔藤長に書状を送ったが、藤長は今日返事をした。

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17日 織田信長は大軍を率いて岐阜を出撃して、近江の浅井の領土に攻め込んだ。鎌歯の城主、堀次郎の後見人の樋口多羅尾が味方になった。また、長比刈安に立て籠もる越前の援兵は退散した。

18日 幕府義昭は近江の高島への出撃を延期した。そこで細川兵部大輔藤孝、三淵大和守藤英、一色藤長が畿内の諸侯に連絡文を送った。

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〇この日、信長は坂田郡柳田村西山に陣を張ったという。

19日 信長は織田信兼、丹羽長秀、水野信元に横山の敵の城を抑止させ、数万の軍で浅井の居城である小谷へ出撃した。

21日 信長は小谷の向かいにある虎御前山に駐屯した。

雲雀山には、森三左衛門可成、坂井右近長尚(または政尚)、斉藤新五郎、市橋九郎左衛門長隆、佐藤六左衛門、塚本小大膳、不破河内守、同彦三光治、丸毛兵庫守長照、同三郎兵衛親吉の勢力8千、また尊勝寺表へは柴田勝家、内藤勝介、林新三郎の5千余りが、小谷の街中に攻め込み、市鄽(*てん)谷に火を放ったが城からは何の反撃もなかった。味方は虎御前山と雲雀山に駐屯して横山の城を攻めた。

今日幕府義昭が近江の矢島に陣を敷いたとの連絡があったという。

22日 明け方信長は全軍を率いて本陣を龍ヶ鼻まで撤退し、横山の城へ向かった。しかし、この移動は重要だけれども山道を通るので大軍では勝手が悪い。そこで佐々、中条、築田を後殿として、火砲を500挺、旗本軍から弓50張の兵を付けた。そうして、諸軍が3つに分かれて少しずつ退却した。

小谷から、丁野、若狭などの武将が追ってきたが、築田左衛門太郎政次が直ぐに引き返して撃退し軍に戻った。島彌左衛門と大田孫左衛門が活躍して首を取った。佐々内蔵助成政が替わって殿(*しんがり)を務めた。

信長の旗本から、津田金左衛門、生駒八右衛門、戸田半右衛門勝重、平野甚右衛門、高木左吉、野々村主水、土肥助次郎、山田半兵衛、塙喜三郎、大田和泉守資方などが佐々を救いに来た。

(*佐々)成政は小高い辻堂の前まで戻って隠れて敵を待ちうけ、弓と槍で交戦して敵を撃退した。

戸田半右衛門、山田半兵衛および成政の家来の佐々藤左衛門、北村一郎、前野小兵衛長康は奮戦した。成政は敵を追撃した後1町ほど引き下がり、中条将監が成政に交代して体制を建て直した。

敵が200ほど攻めてきたが、将監が受けて10間ほど追撃した。このとき中条又兵衛は槍で手柄を上げた。このような攻防があったが敵は幾度も攻めてきた。そこに信長の弓の軍団が駆けつけて矢を敵に浴びせた。一方、柴田勝家はこのような戦況を予想して、千人ほどの軍勢で陣を張り、勝鬨や鳴り物を鳴らしたので、その音は山々に響き渡った。これで浅井方は小谷へ退却した。これは三田村での後殿と呼ばれ、佐々、築田、中条の働きが世間で賞賛された。

23日 家康は5千人の軍勢で江北に着いて陣を敷いた。

24日 家康は龍ヶ鼻の本陣へ合流した。越前から浅井へ援軍がくるという知らせがあり、今日中に決着をつけようと家康が信長に提案した。

27日 越前より朝倉孫三郎景健が1万の援兵を率いて大寄山に着いた。浅井父子は大いに喜んだ。信長は幹部を集めて作戦会議を行った。

〇この日の晩の作戦会議で、信長は一本の槍を家康に贈った。そして、「この槍の穂先は鎮西八郎為朝の箭(*矢)先である。徳川殿は源氏の本家だからこれを贈ろう。明日の戦いではこの槍で迅速に指揮をしてほしい」と述べた。実際翌日の戦は早く勝利できた。現在伝わっている虎の皮の鞘に入った槍がこれであると、国子祭酒(*大学頭)信篤(*林 鳳岡(はやし ほうこう))が述べている。

〇ある話では、この夜、御家人の大河内善兵衛政綱が寝ているとき、翁から「武士(*もののふ)の弓矢を開く朝堂(*大極殿)かな」という発句をもらう夢を見た。目が覚めてから本多忠勝から家康に伝えられた。家康は「これは戦いに勝つ吉兆だ」と頷いたという。

28日 明け方、家康は先鋒として国友へ出陣した。越前勢が攻めてくるのを待って奮戦し、敵は大敗して敗走した。しかし、取った首の数は多くはなかった。

信長勢は姉川へ攻め込み、浅井と交戦したが、13段の構えまで負かされてしまった。そこで家康軍が救援し浅井軍を撃退した。この戦いが、江北「姉川の大戦」である。

〇遠州の高天神衆の先鋒の内、門奈左近右衛門俊政は頭型の兜(*ヘルメット状の兜)に猿の皮の頭巾、兜の前飾りは「五輪に空風火水地」の五字が書かれていて、その活躍は目覚しかった。彼は後に結城秀康の家来となり、子孫は紀陽候南龍院殿(*徳川 頼宣:家康の十男で、紀州徳川家の祖)に仕えた。信長方の今日の一番槍は、昔小豆坂の戦いで「7本槍」といわれた武将の一人、下方左近貞清だった。この人は後に家康の家来となった。この働きによって尾陽忠吉(*松平 忠吉(家康の四男で東条松平家の第4代当主・尾張国清洲藩主)が美濃一国を信長から与えられたので、家康は彼を忠吉の家来とした。

〇話によれば、家康が信長と作戦会議をしたとき、「軍は二手に分かれた方が有利だ」と述べた。池田庄三郎信輝(後の入道勝入)は、「自分が二番手に入っても先隊より手柄を上げてやる」と見得を切った。ところが合戦では池田は大敗して自分も怪我をし、先隊の酒井忠次の部隊に崩れこんできた。忠次は「昨日の見得に似合わんな」といって長刀の罇(*柄)で馬の後ろ足を叩いた(*叩かれると馬が跳ねる)ので、信輝は落馬した。

〇信長は書状にて家康の貢献に感謝を表した。元亀1年6月28日 信長ー家康.jpg

〇高敦の注:姉川の合戦は自分の実父、(*根岸)直利編纂の『四戦紀聞」の最初に詳しく記載されている。(四戦とは、姉川、味方が原、長篠、長久手の4度の戦いを指す)この本は、高敦が若いときから数十年詳しく父の話を聴いて、何度も修正を繰り返してきたもので現在は完成しているのでぜひ読んでほしい。したがって、ここでは概略だけを述べた。(味方が原、長篠、長久手も同様である)

〇諸家伝によれば、高力與左衛門清長は敵の前波新九郎を討ち取り、遠州萬石村100貫の地を家康から与えられた。

榊原隼之助忠政は軍功によって遠州濱名村の禄を受けた。

都筑惣左衛門秀綱は首を2個取ったので、家康着用の着物を家康の手からもらった。

渥美太郎兵衛友勝は旗を掲げている騎兵を討ち取ったので、家康から感謝状をもらった。
青木所右衛門一重は、とりあえず無名の小脇差をもらった。

渡邊半蔵は遠州植村に20貫の地を与えられた。

大久保権十郎忠直(新八郎忠俊の二男)は初陣だったが、荒武者だったので名前を荒之助と改名し、金の団扇をもらった。

★訳者の注:『四戦紀聞』の『江州姉川戦記』より関係部分を引用する。

「27日 信長勢の先鋒は坂井長高、2陣は池田信輝、3陣は木下藤吉、4陣は柴田勝家、5陣は明智光秀、その外13段までの布陣だった。家康勢は、先隊は酒井左衛門尉忠次を頭に、桜井の松平與一郎忠臣(監物家次の子、早世した)、福釜の松平三郎次郎親次(後右京亮、三郎次郎親盛の子)、深溝の松平又八郎伊忠(後主殿助、大炊頭好兼の子)、竹谷の松平與次郎清宗(後玄蕃允、與次郎清善の子)、形原の松平又七郎家忠(後、紀伊守、又七郎家廣の子)、長澤の松平源七郎康忠(後上野介、上野介政忠の子)、御油の松平彌九郎景忠(後太郎左衛門、外記忠次の子)、鵜殿の松平八郎三郎康定の軍士(康定幼弱にて代わり、後早世、十郎三郎康孝の子)、牛久保の牧野新次郎康成(後右馬允)、二連木の松平丹波康長(本氏は戸田)、野田の菅沼新八郎定盈(後織部正)、設楽の設楽甚三郎貞美通、西郷の西郷孫九郎家員、築手の奥平美作貞能(後入道牧庵)などである。水野惣兵衛忠重(後和泉守)も加わった。2陣は高天神衆、3陣は石川伯耆守数正ら、中軍は家康である。

28日 特に松平源七郎康忠と松平又八郎伊忠は非常に活躍した。康忠は苦労して首を2つ取った。(戦いが終わってのち、信長は刀を康忠に与え軍功を賞した。家康も凱旋してから岡崎城で家臣たちに宴を催して軍功を賞した。康忠も家康から盃をもらったが、その時家康が自ら康忠へ小鼓を贈った。この鼓は子々孫々伝わって、今もあるそうである)この時家康は29歳、信長は37歳だった」

〇信長の家来が、浅井の家臣の安養寺三郎左衛門を捕らえて信長に、「組討をして馬から離れたところを皆が駆けつけて捕らえた」と報告した。

信長は喜んで、彼に討ち取った首が誰の首かを書かせ、小谷に残る兵の数を尋ねた。安養寺は勇敢な武将で怯むことなく、「今日の大戦にもかかわらず、下野守久政の兵は千余りで小谷にとどまっている。井口には越前が500、千田采女には300ほど残っている。日ごろからあなたは私をよく知っているのだからさっさと殺してくれ」と述べた。


信長は、「お前の弟彦八郎と甚八郎が戦死したことこそ悲しむべきだ。お前を殺さずに赦すから浅井に仕えよ」といって不破河内守に身柄を預けて労わり小谷に返すように命じた。(朝倉の家臣、三段崎勘解由左衛門とこの安養寺を信長が返したのは、彼らを憐れんだのではなく、忠臣の心を自分に取り込むためだったと考えた方がよい)

木下秀吉は、「早く軍を小谷に進めて攻め滅ぼそう」と強く進言したが、信長は聴かなかった。秀吉は怒って「今日の戦いで浅井の主な武将は生きているし、朝倉の兵も犠牲者は少ない。今攻めても義景は馬鹿だから、大敗に懲りて直ぐには救援に来ない」と信長を諌めたが、信長は勝ちを先延ばしにする癖があって、結局秀吉のいうことに従わなかった。

横山の兵は城を棄てて明け渡したので、信長はここを秀吉に与え、佐和山の城を遠攻めにし、家康は岡崎に帰還した。人々は食べ物や酒を用意して国境まで出て帰還を祝った。

これ以降、「義師の至る所、砂を巻くが如く竹を破るが如く従い靡く」ことはなかった。また、諸国の豪勇も家康の活躍に感心し、彼の恩恵を慕わないものはなかった。

家康が出陣した後から戦場へ向かっていた部隊は、近江や濃州で一揆に遭遇し難儀した。その時、大野孫七郎が奮戦して一揆衆を追い祓ったが、自分は犠牲になった。家康が帰還後、彼の父の禅門は家康に面会した。家康は息子を誉めて、孫七郎の子、久右衛門を後年信康の家来にした。

〇今月、武田信玄は上野の国に出撃し、謙信の領地の沼田へ攻め込んで放火した。また、北条家の領内、武蔵の深谷、忍、秩父へ攻め込んで上州の箕輪まで進撃した。(*信玄は)上野の小幡図書景純と同参河員政から没収した土地を、上野の倉賀野淡路秀景と武蔵の長井豊前正貫に授けた)

7月小

6日 信長は京都へ行って幕府に姉川の戦いを報告し、その後岐阜へ帰還した。

〇下旬、家康の使節として、遠州の秋葉山権現堂加納坊光幡とその婿、熊谷小次郎直包(あるいは直近)が越後を訪れた。これはかつて今川氏眞の意向で、家康が謙信と組んで信玄を滅ぼすという計画を、家康は今もそのつもりであることを謙信に伝えるためで、これは村上源吾蔵人国清に伝えられた。

この際、家康には下心がないことを示すために、浜松城の図と太刀一本、馬代金10両を謙信に贈った。また、大給の松平左近太夫眞乗と菅沼新八郎定盈は謙信の寵臣の河田豊前長親へそれぞれ書状を送り、石川家成と植村家政連著の書状も河田に送った。謙信は非常に喜んで、「徳川殿は今は天下一の武将だ、自分を慕ってくれるとは光栄で、できれば長く仲良くしたいことは間違いない」と、使者たちに沢山の引き出物を与えた。

27日 阿波の細川六郎勝之、三好笑岩、同北斎、同謙斎、同為三以下一族、岩成、篠原、松山、加地、塩田、逸見、市原、矢野、牟木と紀州の雑賀の一揆衆1万3千あまりは、海を渡って摂津から中島の天満の森に駐屯した。

昔、源義経の逆艪の話の伝わる渡邊の野田、福島というところは、西は大海に面し、南の海への玄関口である。また、南北東は淀川の激しい流れが帯のようである。また、近くには深い田圃で(*戦略上)非常に重要な場所なので、彼らはここに城を築こうと毎日堀を掘って城壁を築いた。

29日 淡路の安宅甚太郎ら1500も兵庫に陣を敷いた。

8月大

2日 謙信から秋葉、加納房、熊谷に帰国の許しがでた。また、家康の老臣と菅原にも連絡があった。その1通の文面があるので次に示す。

「書状」元亀1年8月2日 謙信ー松平左近丞.jpg

13日 淡路の軍勢は摂津の伊丹の城を襲撃したが敗北した。しかし、古橋の砦を攻めて勝利した。

20日 信長は南方の敵を退治するために京都へ来た。

21日 暴風雨によって三河と遠州では家屋が大破したり作物が大被害を受けたりした。

26日 信長は天王寺に陣を敷き、軍を徐々に上は渡邊神崎、下は難波、木津、今宮に出撃させ、敵方の新しい城、野田福島を攻めようとした。河内と摂津の味方は天満の森に陣を張った。三好越後守一任と入道為三、香西越後守が裏切って味方に加わった。

28日 家康の宗子、三郎信康が元服した。12歳。織田信長の諱字をもらって『信康』とした。(天正7年故あって自害した)この祝賀として家康は今日と明日、浜松の城で観世左近太夫入道宗雪、同左近に命じて猿楽を催し、一般に公開した。

松平の一族、譜代外様の諸士が城で見物した。また、三河の人々も見物を許され、上下によって内容は違ったが、それぞれに饗応を受けた。(観世左近が、「本日の出し物は10数年前に今川氏眞の所望によって一度やったものだ」といったので、家康は怒って左近を叱責した)

〇下旬、信玄は越後の大田切へ攻め込み、すぐに兵を引いて信州海津の城で駐屯した。

9月小

4日 播州の別所重治の陣代、同孫右衛門重棟(140騎)、紀州根来の杉房(5千人)、畠山昭高の家来玉木、湯川の陣代(千人)が天王子に集まった。また、今日義昭は中ノ島の内堀にある細川與厩の城に来た。到着した味方の軍勢は6万余りになったという。

7日 信長は天満の森に陣を移した。魁は野田の北側の海老江堤の田の中に陣を設けた。

8日 摂津の石山の一向宗本願寺も三好と合体したので、信長はこれを攻めるために木津の川口と龍の岸に砦を築いて備え、近日中に野田福島の城を落すことを密かに謀った。
義昭は中ノ島の浦江の塞に陣所を移動させた。石山本願寺門跡光佐は檀家を集め、防戦の用意は万全だったという。

〇上旬、武田信玄は伊豆の薤山を攻撃した。

北条氏政は3万8千の兵を率いて山中を本陣とした。先兵は三島に止まり、後軍は箱根の西の山麓に沿って陣を張った。

信玄は小山田馬場に先陣を備え、旗本は三島に駐屯して北条方を抑えながら全軍は薤山の城の近くの刈田へ進軍した。更に、その後、軍を三島に集めて駿河を窺った。

氏政は山中から装備54隊、兵3万8千をまとめて30町離れた山に展開して威勢を示した。(これを俗に立競という)信玄も31の備えで2万3千の兵を河原の北側の田に展開し、140~150騎で見廻った。また、曽根内匠昌世、真田喜兵衛昌幸に敵陣近くを偵察させ、明日の合戦で雌雄を決しようとした。ところがその夜氏政は全ての兵を引いて小田原へ帰った。そのため、後日「氏政は戦が下手だなあ」と人々は嘆いた。信玄は駿河の江尻に赴いて城を築いた。

20日 摂津の野田福島の兵は森口あたりへ駆り出し、味方は川口の向城から出撃した。信長も出馬したが味方の後軍は敗北して野村越中守が戦死した。
前田又左衛門利家は単騎で折り返して交戦した。毛利河内守、湯浅甚助一忠、中野又兵衛が奮戦して敵を追い、後殿して退却した。

21日 夜中に近江と山城の伝令が急ぎ到着して、「浅井長政(その兵4千)と朝倉の援兵が比叡山、八王子、和示、堅田まで攻めてきて宇佐山の城を落とした。織田九郎信治と森三左衛門可成を城外で討ち取り、城には兵を配置した。昨20日には大津の近辺を放火して、今朝は山科あたりを焼き払うらしい」という連絡が入った。

22日 信長は和田惟政と柴田勝家を後殿として、義昭を護衛しながら大満の森まで退却した。

23日 信長は江口筋より撤退したが、敵は中津川の舟橋を流して江口川の船を隠してしまったので、味方は非常に困った。しかし、宗徒の様子を見ると、江口川はいつもより浅く、馬の腹程度の深さだったのが分かったので、信長らは直ぐに渡って一揆衆を追い払い、鳥養堤まで撤退した。ところがどの軍も食料が切れたので、畿内、播磨、紀州の兵は休暇がほしいと要請した。

義昭ら幕府の軍勢は、細川右馬頭藤賢がうまく計らって京都へ帰還した。信長は尾濃の軍を率いて大津坂本を経て志賀の宇佐山に着き、浅井と朝倉式部景鎮と対峙した。浅井と朝倉の多勢は合戦を避けて比叡山に登り、鉢が嶺、坪笠山、青山に駐屯した。

24日  信長は陣所を東坂本に移動した。朝倉左衛門督義景は兵を分けて上坂本、千野、仰木、雄琴、苗鹿に兵を展開した。先に比叡山へ登った同景鎮の兵と合わせると、兵の数は3万余りだったいう。

25日 将軍義昭は京都より東山の将軍塚へ移動した。味方は比叡山の麓を取り囲んで、香取、屋敷、穴太村、田中、唐崎、西坂本の城など5箇所に城を構えて兵を配置した。

信長は檄を飛ばして、家康に援軍の要請をした。そこで家康は早速石川日向守家成、酒井左衛門忠次、本多彦太郎次郎康重、松平主殿助伊忠、松井左近忠次を隊長として、諸家の精鋭2千を集めて近江へ向かわせた。

信長はこれを聴いて、木下秀吉を美濃の墨股に迎えに行かせた。また後から松平勘四郎信一、松平紀伊守家忠、鳥居彦右衛門元忠、牧野右馬允康成、内藤彌次右衛門家長、また軍監として松平備後守清善、本多百助信俊、小笠原安芸安元など全部で1千余人が滋賀の陣に臨んだ。

10月大

3日 北条左京太夫氏康が享年56歳で相模の小田原城中にて死去した。(法諱大聖院宗陽岱公)戦にかけては甲越の雄(*信玄と謙信)にはるかに劣るものの16歳で武蔵の小澤原の戦いから生涯で36回戦勝し、仁愛の徳に秀でて坂東の武将は全て服従したという。

20日 信長は菅谷と佐々を敵陣へ行かせて、一回だけの戦いで勝負を決めようと申し出た。しかし、両将は返事をしなかった。信長の命令で、三河の松井忠次らは勢田(*瀬田)と草津の間に駐屯し、佐々木承禎の兵と毎日足軽が戦った。敵は忠次が小勢なので四方より挑みかかった。そこで忠次が先鋒となって24回交戦して敵を破ったので、承禎はひとまず信長に降伏したという。

〇越中の新川郡富山の城主、神保安芸守氏春は、婦負、礪(*と)波、射水の3郡にいる浪人を募集し、また一向宗の僧徒や宗徒を組織して一揆を起こし、謙信の武将、柿崎和泉景家、同源左衛門景則、吉江織部定俊、同中務、小笠原右馬助長隆、同民部少輔信定が守っている魚津の城と、河田豊前長親、岩井備中政房、長澤、有坂が守る小井手の城を包囲して攻めた。

この事態は越後に伝わったが、ちょうど東上野に駐屯していた謙信は急遽軍を戻してしばらく越後で兵馬を一日休憩させた後、直ぐに越中へ出陣した。両方の城を攻めていた一向衆は恐怖して囲いを解いて退散し、富山と水橋の城に立て籠もった。謙信は早速それらの城へ出撃して水橋は陥落させた。しかし、富山は首謀の神保が頑強に抵抗して寄せ手は攻め倦(*あぐ)んだということである。

11月小 

21日 伊勢の長島の一向宗が蜂起した。

25日 近江の堅田の郷士らが信長についた。

坂井右近政尚は、徳川の兵士千人ほどとともに堅田に向かい、敵の糧米を貯蔵している補給地を攻撃して40~50人を討ち取り、兵糧を押収して坂井はその場所に駐屯して北国との通路を遮断しようとした。

26日 明け方、朝倉式部景鏡が3千あまり、山崎、長門、吉家、赤尾、美作など2千あまりで堅田に押し寄せて、部隊を入れ替えながら急襲した。
坂井右近は必死で応戦して、越前の剛士の前波藤右衛門、堀平右衛門、中村木工丞、小谷の鋭士の浅井新七郎、赤尾勘助、田辺平内、八木又八郎など若干の武将を討ち取ったものの、遂に坂井右近、軍監の織田甲斐守、堅田の住人馬場孫次郎、居初又次郎などは戦死した。

松平勘四郎信一、本多百助信俊らは丸くなって敵の陣兵に突撃して100人の首を取って坂本に帰った。

信長は右近が戦死したので涙を流した。また、信一と信俊の働きに感謝し、信一を伊豆守、信俊を刑部丞とした。これは正式の叙爵ではないが、当時私的に官名を与えるのは普通なことになっていた。結局家康は信俊を刑部丞とせず、信一は後に従5位下となり伊豆守にもなったという。

〇北条氏政一族は伊豆の鷹巣、湯川、泉頭、戸倉、山中、韮山の5つの城を守っていたが、沼津の敵城へ監視の軍を送って数回交戦した。武田方も興国寺の城から足軽軍を出して小競り合いが何度も起きた。

深澤の城将の駒井右京昌而、小山田弾正、今井九兵衛勝利と興国寺の城代から甲陽へ急ぎの書状が送られ、深澤の近境の足柄や新庄にも甲陽勢を出して砦を築いてほしいと依頼した。ただ、北条氏政は信玄の婿で、息子の左京太夫氏直は信玄の外孫である。しかし、今川氏眞が落ちぶれたので北条と武田が戦うことになった。

去年氏康が亡くなり、氏政の能力が今ひとつで武田に脅威を感じていることを信玄が察して、老侍女や小宰相(*信玄の重臣、大熊 朝秀の正室、小宰相の局)を通じて氏政が信玄と和融することを勧めたので、氏政父子は同意して小田原の称田寺と結願寺を甲府に招き講和を整えた。しかし、信玄は裏と表を使い分けるのが得意な武将だから、「氏康の一族には北条幻庵長綱、地黄八幡の左金吾綱成、その子の左衛門太夫氏繁がいるので油断はできない」と、年内に甲府を出撃して駿府へ赴くことにした。

〇今月中旬、上杉謙信は越中の陣から黒瀧の城代、興市景連を江州坂本の織田の陣所に派遣した。これは、この秋に公方義昭が三井寺浄福院大和、淡路守を使いとして相越三連合を示唆して三家がおおむね了承していたが、9月下旬のこと、信玄は川中島から越後信濃の境にある野尻の城を攻めて、大田切あたりを焼き払った。また、秋山伯耆晴近も美濃に侵入して信長の支配地にある遠山刑部入道宗叔の居城、明智を攻めたという。

信玄はこのように油断のできない武将なので、謙信は儒者の専柳斎を甲府へ送り、絶縁状を信玄に送る旨を興市景連が信長に伝えた。この書状で謙信は信長に「信長はこのことを早く幕府の許しの許に信玄と戦うのは当然である」と伝えた。

信長は直ぐに興市景連に対面して、謙信の書状を読み、謙信の意向を承知し、今後は武田との友好関係を破棄して、上杉家と相謀って信玄を滅ぼしたいと返事した。

〇比叡山に立て籠もった浅井朝倉軍は寒さで疲労し、兵糧は運び込んではいるが本国の守りが薄くなって一揆騒動が絶えず、禍は蕭墻(*家の中)に生まれ薄氷を踏むような有様になっていることを信長は察して、「公方が秘密裏に示唆してくれれば、天皇の勅使を坂本へ来てもらって双方が和融した方が望ましいのだが」と義昭に連絡した。義昭は敕諚(*ちょくじょう:天皇の命令)を得ることを承知して、綸旨(*りんじ:蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)に手紙をつけ、二階堂駿河守孝秀が朝倉浅井の陣所に届けることになった。(この孝秀は後に一色氏になる)

30日 義昭は将軍塚から円城寺へ出向き、両陣営の和融を命じた。

12月大

13日 二階堂孝秀は信長の陣へ来て敕諚を伝えた。

これはもともと信長が計画したことで、彼は「誰も断れない」と了承した。孝秀は敵陣へ戻って、信長が既に勅命に応じていることを伝えると、浅井も朝倉も疲れているので綸旨に従った。そこで、信長と義景は今日互いに起請文を交わし、義昭は直ぐに京都へ戻った。

14日 信長は、滋賀の坂本の陣を払って琵琶湖を渡り、瀬田の山岡美作景隆の家に泊まった。

15日 朝倉浅井は、坪笠山、五箇村などの陣営を避けて、江北越前へ凱旋した。人々は「彼らが信長の策略にかかった」と笑った。

16日 信長は佐和山城に近い磯野郷に来て丹羽長秀と水野信元に面会した。彼は「今回の和睦は庚申の夜の俗歌だと心得よといった、つまり「和睦したようで、しなかったようなものだ」というのが本心である。

17日 信長は岐阜に帰った。徳川家の援軍も帰国の途に着いた。信長は家康の今年3度にわたる援軍に対して慇懃に礼をいい、諸士の功労に褒美を遣わせた。

〇武田信玄は小田原に使いを送り、早川尻に住んでいる今川氏眞を暗殺しようとした。氏眞はもはや信玄に復讐する気持ちはなく、信玄が今川の土地を奪うだけでなく、j実の外甥を罪もなく殺害しようというのは実に残忍な暴挙としか思えない。

氏眞はこの話を漏れ聞いて相模を逃げ出し、小船で遠州へ渡って家康の元に逃れてきた。家康は彼を見捨てず、彼の立場を憐れんで浜松の近くに宿舎を用意して懇ろに扱った。家康の家来たちはこれまで以上に家康の広い心に打たれて行動をともにしようと望んだ。また、この話は、これを聞いた諸国の人々を感動させた。

28日 甲州の秋山伯耆は連日、東美濃、明智の城を攻撃した。城主の遠山宗叔入道は迎え撃って敗戦し、今日戦死した。

秋山はさらに東三河へ侵入した。足助の鈴木越後守重近、布施の河出實度兵衛、名倉の奥平喜八郎信光が交戦したが勢力が少々敗戦した。秋山は三家三方衆を味方につけようと画策した。

〇近藤家説によれば、石見守康用は三河宇利の城にいたが、甲陽方の一揆が城を急襲した。少ない城兵で堅く城を防衛し、多数の敵を討ち取った。家康は感謝状を贈った。康用は数箇所傷して歩行が不自由になったという。これはこの年だったか、別の年のことだったかははっきりしない。康用は初めは秀用だったが家康の諱の一字をもらった。

〇この冬、伴中務盛陰の企てで、家康の異父弟の松平源三郎勝俊は密かに甲陽での囚われから逃れ、下山通りの深い雪道をたどって三河へ帰った。しかし、雪によって足の指が凍傷で取れてしまった。家康は喜びまた憐れんで自分の「一文字作の脇差」と「当麻竹」を贈った。

武徳編年集成 巻11 終