巻15 天正3年正月~12月 長篠の戦

投稿日 : 2016.03.05


天正3年(1575)

正月大巻15.jpg 

5日 応仁や文明以来、戦乱が続いて道や宿場が荒廃していた。信長は「東海道と東山道の道や橋を修理し、道幅を3間に広げて往来を自由にする」と布告し、坂井文助、河野藤蔵、山口太郎兵衛、篠岡八右衛門の4奉行に、その費用として黄金100両、米500石を与えた。これについては浜松にも連絡が届いたという。

18日 天野三郎兵衛康景は、「昨夜下女が夢で連歌の発句を見たそうで、『信玄か首を今年取ふにか』だった」と家康に話した。家康は喜んで、今日、安間村の道場など、連歌の達人たちを集めて、この発句で100韻を詠ませた。この夏には長篠の戦いがあったが、この戦いを機に、毎年正月の鎧の賀には連歌の宴を持つことになって、以後ずっと続いている。

2月小

8日 岡崎の随念寺に寺領50石を寄付し、証文を与えた。

15日 家康は浜松城下で鷹狩をしたが、道端に1人の男の子がいるのを目にした。その子の容貌にはただ者ではなさそうな相があったので名前を尋ねた。すると、「自分は井伊彦次郎直満の孫の肥後の守直親の子、満千代15歳である。父の直親は(*今川)氏真に殺され、自分は義父の松下源太郎清景に世話になって、岡崎城下でこっそりと暮らしている」と答えた。

家康は驚きまた喜んで、その日の内に城へ来させ、「遠州の引佐郡井谷はお前の先祖伝来の領地だ」としてこの地を与え、井谷三人衆の近藤石見康用、鈴木三郎太夫重路、菅沼次郎右衛門定治、木俣清左衛門守勝、椋原治右衛門、西郷藤左衛門を家臣とし、その外に与力をつけた。

直政は後に非常に優れた家康の家臣となり、国家のために尽くして遂には徳川家の干城の三傑の1人となり、従4位下、侍従兼兵部大輔として、近江の佐和山の城(*彦根城)で18万石を領するようになった。

28日 一昨年、奥平九八郎信昌は、家康から設楽郡長篠の城を与えられ、宮崎より移ったが、城に破損箇所が多く、急遽修理して万全を期した。家康は感心した。

3月小

〇上旬、信長は家康に近江の鎌羽の米2千俵を与え、国境の要所の城に配備するように命じた。家康はその内300俵を長篠城に配した。

16日 今川氏眞は摂津あたりを彷徨って京都に行き、父の仇である信長の宿となっている相国寺の慈照院を訪れて信長に面会し, 釣花800端帆を献上した。その後も「千鳥の香炉」を献上したという。

20日 氏眞は蹴鞠がうまいことは有名であるが、信長の望みで堂上(*公卿になれる貴族)といっしょに慈照院の庭で蹴鞠の宴を演じた。

〇下旬、信長の嫡男、勘九郎信忠が従5位下に叙され出羽守に任じられた。彼は秋田の国司となる。

〇今春、上杉謙信は越後の春日山の居城の全ての濠に水を満たし、城壁を修理した。これは信長と戦って天下をとろうという野望があるからである。しかしその隙に(*武田)勝頼は越後へ攻め込もうとしている。遠慮も何もないわけである。

4月大

朔日 近年公家たちは、領地を手放して実入りが無くなっていた。そこで信長は彼らの土地の買主に金や銀を与え、土地をすべて貴族たちに返還させた。この処置はなかなか感謝されたようである。

5日 武田勝頼は平山越えから浜松城を窺いながら、三河の宇利まできて駐屯した。

さて、岡崎の家来に大賀彌四郎という者がいた。この人は奴隷上がりだったが, なかなかよく働き、家康は三河奥郡24の郷の税の集金に当たらせていた。お陰で一族は大いに繁栄したが、次第に驕るようになり、最近は家康を滅ぼそうと思うようになった。そして家康と三郎(*信康)を不和にしようと企み、山田八蔵重秀、倉地平左衛門、小谷甚左衛門らと密に諮って武田に通じ、

「家康は浜松と岡崎の城を行き来している。そこで時を見計らって自分は岡崎の城門へ先回りして行く。一方、勝頼には三河の設楽郡作手まで進軍してもらっておいて、夜中に先軍の2~3隊にこっそり岡崎に来てくれれば、自分は「家康が帰った」といって門を開けさせ、そこで竹田勢を城へ入れれば直ぐに三郎信康を殺せる。そうすれば三河と遠州の人質はみな岡崎城にいるので、勝頼は戦わずして三河・遠州を手中に収められる。浜松の軍勢は200~300はいるが、岡崎の妻子を武田が捕らえると動きが鈍くなるだろう。大久保一族はなかなか降参しないだろうが、彼らは貧乏で手柄を上げるほどの力はない。上和田にいる妻子は矢矧(*矢作)川を越えて尾張へ逃げるだろうが、川向こうで小谷甚左衛門と山田八蔵が待ち受ければ捕らえてしまえる。そうすれば家康も浜松へは帰られず、船で伊勢へ退くか、吉良から尾張へ海を渡るだろう。そうして三河と遠州は、日を待たずして勝頼の物になる」と述べたという。

勝頼はこのアイデアを受け入れて、成功した後の恩賞を彌四郎に約束した。そして設楽郡築手へ兵を進めた。

ところが山田八蔵が考えを翻して、「いろいろ考えてみても、信康を殺すことは赦されないし、この計画は無理だろう」と密に岡崎の信康に伝え、「信じてもらえなければ、皆の衆を自分の家に呼んで、その謀略を聞かせよう」といった。信康は直ぐに彼のいうことを浜松に報告した。

小谷甚左衛門は計画が発覚したのを知って、遠州の国領の郷に逃れた。渡邊半蔵守綱が捕らえようとすると、天竜川に走って飛び込んで泳いで二股の城へ入り、そこから甲陽へ逃げようとした。しかし、今村彦兵衛勝長(桁之助重長は叔父である)と大岡傳蔵清勝(孫右衛門勘宗の子)が駆けてきて取り押さえ、首を取った。(これで勝長は褒美をもらい、清勝は怪我を負った)

反逆の張本人である大賀彌四郎は、岡崎の町役人、岡孫右衛門助宗に生け捕りにされた。

大久保忠世が彼を馬の鞍に後ろを向かせて縛り、彼が反乱の時に使うために用意していた旗を立て、首に首輪をはめさせた。それから法螺や鐘笛太鼓を打ちならして引き回す途中の次志原で、彼の妻子8人の磔を見せた。彌四郎はべつに悲しむ様子もなかったが、何を思ったか顔を少し上げて、「お前たちが先に行ったとは目出度い。自分も後から行く」といった。それを聞いて周囲の者は、彼の振る舞いを嫌い口々に非難した。その後、大久保は彼を浜松に連れて行き、城下を引き回してから岡崎へ引き返し、町の四辻に生き埋めにして首に板をはめ、10本の指を切り落として、彼の顔の前に並べ、足の筋を切切って竹鋸で往来する人に挽かせた。これまで彼を恨んできた人々がやって来て、竹鋸を挽いた。彼は7日目に遂に死んだ。家康は下賎のものを登用してしまったことを後悔した。

このように勝頼らの計略はうまく運ばなかったので、勝頼は今度は二連木を窺った。家康は吉田城へ移動し、三郎信康は山中の法蔵寺に駐屯して姜原まで勝頼に迫った。勝頼はここで遂に戦いを始めた。

8日 その昔、河内の高屋の城主、畠山昭高が死んでから、地下人は浪人だった三好山城守康長入道笑岩を取り立てて城主としていたが、笑岩は信長に攻撃され今日降伏した。これで信長は河内一円を掌握した。

12日 武田信玄の遺骸が甲陽の恵林寺に葬られた。勝頼は以前から信玄の横死を隠してきたが、世間にその事実が知れ渡ったので仕方なく葬儀を行うことになった。

19日 信長は泉南の堺辺りの新堀の砦を攻撃して、城将2人の内、十河因幡守は討ち取られ、香西越後守は捕えられてすぐに殺された。

21日 勝頼は2千の兵を三河の長篠の城へ向けて出撃させた。

25日 大樹寺14世現住成誉(家康の叔父)が死去した。

5月小

朔日 勝頼は三河の八名郡山野吉田を経て、金村に出て、戦の支度を整えてから長篠城を急襲しようとした。

城には奥平九八郎信昌、五井の松平彌九郎景忠(後の太郎左衛門)、形原の松平又七郎家忠(後に紀伊の守)、福釜の松平三郎次郎親俊などが200人の騎兵と200丁の鉄砲で守っていた。

武田側はあらかじめ小山田、高坂、諸賀、小泉、相木など2千ほどを岩代川の辺りの篠原に配置した。本隊は横山、村内、金村までに順に陣を張って、ところどころに長篠城に対抗する城を築いた。鳶が巣山には武田兵庫信實の250あまり、山中山には浪人隊の70あまり、それに鉄砲隊を加えていた。君が伏床には和田兵部信業の500、久間山には和気善兵衛、大戸民部直光、倉賀野淡路秀景、波合備前ら213人、山際にそって柵を立てて立て籠っていた。

勝頼の旗本は醫王寺山に陣を張り、典厩信豊を大通寺山、穴山陸奥入道梅雪を西川岸に配置して長篠城への補給路を断った上で昼夜を分かたず城を攻め立てた。城将奥平信昌は若いが非常に勇敢で、援軍として徳川の一族が来ているので懸命に防戦した。

〇野田の菅沼新八郎の一族の助十郎勝重は奥平藤兵衛貞友の甥で、信昌の縁者だから定盈に頼んで長篠の城へ入ることを志願した。定盈は家臣の黒屋某を付けて彼を城へ派遣した。信昌は喜んで刀一振りを勝重に贈った。(勝重は後に治太夫となり、法諱は在間)

6日 勝頼はかれこれ1万ほどの兵で渥美郡二連木と宝飯郡牛窪へ向かい、橋尾の堤を切らせた。ここは東三河の田に送る用水である。「これで東三河の稲は全滅するだろうが、敵の城を攻撃しているときに敢えてこんなことまでやることないだろう」と甲州勢は溜息をついた。

勝頼は渥美郡の吉田城へ向かった。家康はこれに対抗して5千の兵を吉田口に配した。信康は法蔵寺に駐屯し続けた。勝頼は小山に登って戦闘を始めようとした。酒井忠次は家康に、「味方の兵を町の中へ引き入れるのがよい」と進言した。家康はそれに従って左衛門尉を後殿として軍を引いた。

山縣三郎兵衛は鉄砲隊5隊を率いて後を追ってきた。酒井は撤退をとどめて交戦し、けりをつけてから引き取った。敵は町の入り口に来て薄暗くなるまで戦ったが決着は付かなかった。左衛門猪尉はまた馬を躍らせて、大津土左衛門時隆とともに敵と戦いながら味方の兵を全て城へ引き戻した。

7日 山縣の与力、廣瀬郷左衛門景房は、吉田の城へ挑んで酒井左衛門尉と3度一騎打ちをした。そのうち互いに言葉を交わすようになり「証據とすること両度なり」(*?)

小菅五郎兵衛元成、孕石主水、曲淵庄左衛門吉景、辻 彌兵衛盛昌、和田嘉助、長坂十左衛門が救いに来た。それぞれが名前を名乗った。水野惣兵衛忠重、戸田左門一酉、渡邊半蔵守綱など騎士30人ほどが激しく交戦した。酒井左衛門尉と山縣三郎兵衛は互いに相手を知ったうえで槍を交わした。甲州勢は突き破られ結局敗北した。この時廣瀬が後始末をして軍を撤退させた。それを見た人々は廣瀬の勇敢さと騎乗の巧みさに感心した。

勝頼は再び醫王寺山の陣所に戻り何度も長篠城を攻撃した。家康は小栗大六重常をもう一度岐阜へ派遣し、信長の出兵を乞うた。しかし、「信玄はもういないし、勝頼はやがて人望を失うので、その時に自分は撃って出る」といって援軍を認めなかった。

家康は設楽郡まで出撃した。家康は目の前の九八郎を見殺しにすることは武士として赦されない、少人数でも何とか救援しなければと決死の思いで近臣の浅岡某を大河内隼人のところへ派遣し、射鞲の緒の留様(*戦況?)を聴いてくるように命じた。

一方、長臣たちの勧めによって何度も家康は小栗大六を岐阜へ派遣し、信長の出陣を依頼したが応じてくれなかった。ある時、大六は矢部善七郎に、「自分(*家康)は前に信長と融和しこれまで互いに助け合って来た。近江で佐々木を滅ぼしたことを始めとして、何度も信長を勝たせた。特に姉川で大貢献したのは誰もが知っていることだ。その自分との約束を破って今救援してくれないのならば、自分は勝頼と手を組んで尾張を攻撃し、遠州を勝頼に渡し自分は尾張を領地とする」という家康の密書を渡した。このことを善七郎が信長に伝えると、信長は驚いて長篠の後援として出陣することを命じ、諸州の兵を招集し、各人に柵を一本、縄を一束持ち寄るように命じた。

〇ある話では、信長がなかなか兵を出さないので家康が疑い始めたというので、酒井左衛門尉は兜を脱いで縄にぶら下げ、延々と「猪首の狂言」をやったので、皆が大笑いをして気分が一新、皆の戦意が向上した。家康は重ねて石川数正に信長の出馬を要請させた。

11日 長篠城の寄せ手は、二の丸の波合口の門の際までおし寄せてきた。信昌はこれを防ぎ、更に門から突き出て敵を討ち破った。

12日 長篠の寄せ手はまた敗北した。このとき城兵の今泉内記は矢狭間から顔を出したところを銃で撃たれた。後藤助左衛門も同様に鳥銃に当たって倒れたが、薬を服用して元気になった。

今日、廣忠(*家康の父)の代からずっと家臣だった、設楽郡川路村の設楽雅楽助貞重が死去した。79歳。

13日 信長父子は岐阜を立って尾張熱田に着いた。

信長は老臣に向かって、「勝頼が長篠の向の原まで進軍すれば、こちらが勝つのは間違いない」といった。(実際その通りになったのであとで皆が感心した)

今夕、敵は長篠の本丸の東の方にある瓢の丸へ攻め込んできた。これはもともと山のガレ場に塀を築いたもので、東西48間、南北22間あったが、そこには多数の兵が隠れていた。雲が出て月が朦朧としたのを幸いとして、静かに敵を近くに引き寄せてから鉄砲を発した。敵兵はすこし死傷したが怯まず、塀に鹿の角をかけて引き倒そうとした。

城兵は柱に縄をしっかりと縛り、横から矢を激しく放った。この曲輪は瓢箪のように路が狭くなっていて、寄せ手は800人ほどの死傷者が出て、結局撤退した。

信昌は昼間に撤退するは無理だと、この曲輪を夜中に棄てて本丸へ兵を移動させた。その夜半のこと、敵は又大手の際に足場を立てて城の中を窺いながら本丸の西の隅に押し寄せ、土塀に金棒を差し込んだり、いろいろな道具を使って城へ乗り込もうとした。松平景忠などが猛反撃をして撃退させた。

信長衆の佐久間信盛と毛利河内守秀頼は、宝飯郡長澤に着いたが、そこで心算を相談してそれ以上進軍しなかったという。

〇ある話によれば、これは信長の計略で、彼らに家康を救援させるふりをさせて長澤まで行かせ、実は勝頼と取引しようとしたのに違いないという。

14日 長篠の寄せ手はふたたび総攻撃をかけてきた。信昌は奮戦して敵は退却した。味方も数10人が傷を負った。

松平又七郎の家来の戸田藤五郎は、日ごろ八幡宮を信仰していたので明け方城門を出て川端で垢離(*かり、沐浴)していたところ、寄せ手の武将が川辺を巡視していた。しかし、その武将は足を滑らせて川に転落した。彼はこれは神様の思し召しに違いないと喜んで、その武将を組み伏せ首を取った。

城中で奥平の一族老臣と援兵の松平一族が相談して、「敵の大軍は何度も攻めてくるが、城にはもう4~5日分の食料しか残っていない。早く飛び出して戦死し、名を残そう」とした。鳥居強右衛門勝高は「今夜自分はそっと城を抜け出して、向こうの寒防が峠から狼煙を上げて家康に後詰を要請したい。もし話がうまく運んだら3日後にあそこから3度狼煙を上げる。もし援軍がかなわなければ2度上げよう」とかってでた。

信昌は、「城には矢も弾丸も無くなり食料も切れてきたので、自分が自殺して家来たちを守りたいと思っている状態だから、早く援軍を出して欲しい」と家康に申し出て欲しいと、鳥居に詳しくいい含めた。鳥居は承知した。信昌は「お前は日本一の勇者だ。もし敵に討たれるようなことがあっても、子孫まで恩賞は保障しよう」といった。勝高は「自分には亀千代という6歳の息子がいる。母がいるので心配はしないが、うまく生き延びて運が開けて欲しいものだ」といって、その夜、密に城を脱出した。彼は36歳だった。

16日 鳥居強右衛門は、岡崎に行って信昌の言葉を直接家康に伝えた。家康は、「今夜信長は牛窪へ着くので、直接彼に訴えよ」といって鳥居を牛窪へ行かせた。確かに信長父子は牧野康成の牛窪の城に到着していて直ぐに強右衛門に会った。

信長は、牛窪城に福田参河守と丸毛兵庫守長照を入れ、近在の武将の質子をこの城に収容した。(酒井忠次はその子の彦八郎7歳を牛窪に送った。これは本多忠俊の養子となり、後に、縫殿助康俊となる)

16日 家康は実川まで信長を迎え、援軍に対して感謝した。

しかし、去年は高天神の援軍として信長はくるには来たが遅かったので、その間に城主の小笠原與八郎は武田に降伏してしまった。そこで、「今回は自分が先鋒として勝敗を決しに行く」という家康の考えを信長は悟り、「自分は何度でも出陣しても困らない、あなたは名将でありながら戦うのを控えて、自分の来るのを待っていてくれたとはありがたいことである。しかし、勝ち負けは時の運であって、何度も分が悪くなっても勝てるチャンスはあるものだと自分は思っている。もちろん兵卒の死を軽んじてはならない」といった。そして、鳥居に信長が救援に行くことを伝えた。鳥居は信昌に伝えるために例の嶺から3度狼煙を上げた。長篠城内は喜んだ。

その後彼は長篠の向篠原から城に帰ろうと敵の隙間を窺ったが、鳥にでもならない限りかなわないような始末で、とうとう穴山勢に捕まってしまった。勝頼は彼を咎めず家来になれといったので、彼は偽って受け入れた。

17日 信長は設楽郡野田の原を経て、川倉原で菅沼新八郎定盈に面会し、去年野田城での篭城における功績を誉めた。それから根小屋に着陣した。続いてどんどん軍団が到着して5万ほどになった。

鳥居強右衛門は勝頼に「自分が城門へ出かけて知り合いを呼び、信長の救援は期待できない早く城を明け渡した方がよい」と伝えてくるといった。勝頼は喜んで10人ほど兵を添えて城の柵まで行かせた。そこで彼は自分の知り合いを呼んで、「家康の援軍が来る」と大声で伝えた。敵は怒って彼を捕らえ有見原で磔にした。

信長は設楽村川上村の地勢を調べて、設楽の極楽寺山を本陣とし、長男の信忠は矢部郡天神山、次男信雄は御堂山を陣所とし、13段に兵を配して柵を二重に強化した。

20日 酒井左衛門尉忠次は夜中に、参遠の兵3千あまりに信長の軍監を加えて、相当南に回って長篠に対抗する武田の城、祖父山、鳶の巣山、君が伏床、久間山などを攻撃することを信長に提案すると、信長は許した。夜が明けて彼らは全ての城を陥落させた。

21日 勝頼は1万5千あまりの兵で瀧川の石橋を渡り、一騎打ちの細道を30町ほど進軍して信長と家康の陣に向かった。味方は空堀の上に柵を設けて、信長の火砲3千、家康の鳥銃300を柵の内外に配し、騎兵を柵の外に出して相手を挑発した。

特に大久保兄弟は柵の外に出て敵を誘き出し、柵の中へ呼び込んでは鉄砲で撃ち、相手が引けばまた柵の外へ出るということを繰り返し、結局甲陽の兵や武将などを全て殲滅させた。

勝頼は這って身を隠しながら大慌てで逃げだし、初鹿野1人が従った。小山田掃部、同彌助、寺島甫庵は手柄を上げるために勝頼に追いついて、6騎は三河の黒瀬の小林ヶ瀬を渡って逃亡した。

長篠の兵と鳶ヶ巣山を攻めた兵が前後から競って攻撃し、数箇所の附城をすべて陥落させた。酒井忠次の作戦で、設楽甚三郎貞通は領知川路から、樋田、伊原、陣場の三箇所で川に向かって陣を張り、附城の負兵を少々討ち取った。

長篠の戦場はもちろん、それ以外の附城での戦いで、今日家康と信長連合軍は武田勢の首を1万3千ほどを取ったという。(味方の松平兵庫頭親重の庶子、平十郎七平は、鳶ヶ巣山で戦死した。本多甚九郎正近、土屋治左衛門正家が戦死した。味方の軍功は『四戦紀聞』に詳しい)

〇水野左近太夫清久の伝書によれば、信長は今朝家康に「武田は徳川家の年来の敵だが、恨みを晴らそうとして深入りはしてはならない。徳川が戦死しては戦いに勝っても意味がない。とにかく今日は菩薩戒をもって戦いに挑んではならない。(*おそらく慈悲を棄てて、冷酷に行けの意)武田勢を「ひばり」の雛だと思って戦うべきだ」といったという。

戦場では柵の外へ騎兵を出し、敵が追ってきたときには柵の中へ呼び込み、敵が一度に50騎、30騎と突撃して柵を破壊しようとした時には火砲を撃って、5騎、10騎をまとめて撃ち殺すと敵はばらばらになった。

そこを信長の本陣から勝鬨を上げて少数の正規兵を出しすと、敵は負かされて川に追いやられ、殲滅させられた。これで残ったのは2千ほどの雑兵だったという。

〇織田城介信忠は三郎信康とともに長篠の城へ入り、城将九八郎に向かって、今回、僅か6町もない小さな城に立てこもっていろいろな策を講じて、3万の敵にたいして防戦した手柄を賞賛し、援軍の将、松平一族、信昌の一族七人、藤兵衛貞友修理定良(40歳)、土佐(21歳)、但馬(40歳法諱利庵)、治左衛門(22歳)、周防(主馬の祖)、與兵衛(24歳)長臣5人、山崎善兵衛(25歳)生田四郎兵衛(26歳、法諱空心)、兵頭新左衛門、黒屋甚右衛門、夏目五郎左衛門、更に援将の家来たちの労を労った。

〇信長は長篠の城を見回ってから大久保七右衛門と同治右衛門を呼んで「お前たちの家来を集めて自分は能の稽古をする。自分は家康と組んで天下を治めようとしているから、誰も恐れていない。近いうちに全国を平定しよう。今回の勝利は織田と徳川の精鋭の成し遂げたことである。歴戦の勇士が多い家康軍は少数精鋭で信玄の大軍と何年も戦ってくれた。おかげで自分は関西を平定することができ、また今回の戦いに勝てた」と家康の貢献を誉めた。これを聞いてみなは感服したという。

〇ある話によれば、勝頼の秘蔵の馬が放たれて味方の陣地にやってきたので、これを捕らえて信長に贈ったところ、えらく喜んだという。一方、今回乗って来た「柴田驄(*あしげ)」といういい馬を帰路に熱田神社へ奉納せよと命じた。

22日 信長は長篠から帰路に就いた。

古昌水坂にて奥平九八郎が謁見した。若くして篭城して城を守った功績は絶大だったので、信長は彼に盃を授け、一族7人、老臣5人にも盃を授けた。その後九八郎は、別名武者之助と呼ばれるようになった。

信長は川路村の松楽寺で休息し、その後も出陣の折にはこの寺を使った。そこで、松を勝に代えて、それからその寺は勝楽寺となった。

〇ある話によれば、九八郎はこれまで貞昌(曽祖父の名前と同じ)といっていたが、信長の諱を一字もらって信昌となったという。

今回、久世三四郎廣宣、坂部三十郎廣勝、杉浦八郎五郎鎮貞は一列目で戦功があり、3人それぞれに平安城長吉の槍をもらった。

島田治兵衛重次、加藤重次、加藤喜左衛門正次は柵の際で首を取った。また、神谷與左衛門も手柄を上げたので、各人に領地50貫が贈られた。

〇長篠の戦いで、作手、田嶺、岩小屋、鳳来寺など勝頼の砦はすべて放棄され、武田勢は甲州へ撤退した。

家康は奥平信昌に各所の城を渡し、兵士を配して守らせた。また彼には作手、田嶺、長篠、領、吉良、田原の内、遠州刑部郡吉備、新成、口梨、高邊などの村3千貫を与えた。その上、姉川の戦で信長から贈られた「般若長光の刀」も贈った。

信長は西尾小左衛門吉次を通じて家康の娘を、信昌の妻にするように命じた。家康は了解したが三郎は信昌を嫌って承知しなかった。家康はそのことを信長に伝えた。信長は「信康のいい分は尤もだが、相手が功績があって敵との境界の要所を守る信昌だから辛抱して妹を嫁がせてくれ」といった。そこで信康もようやく承知した。このとき信長は、信昌の妹を本多豊後守廣孝重純に嫁がせるように命じた。

25日 信長は家康に会って、「長篠で大勝して武田の近臣はすべて死亡した、前田利家と木下秀吉にこの機を逃さず甲信を攻撃して武田を滅亡させよう。勝頼は跡部と長坂を好んでいるが、2人は幸い生き延びて家臣を贔負偏頗(*ひいきのひきまわし)ばかりして家臣や民衆の支持を失っている。だからやがて勝頼は滅びるだろう。

一方、味方の兵は疲れているのでしばらく休養して、それから近いうちに美濃の岩村を出て秋山伯耆を滅ぼし、家来や民衆が勝頼に背いたときを待って勝頼を滅ぼそう。そのときに家康は参遠から甲州と信州へ出撃してほしい」といって岐阜に凱旋した。

信長の父、備後守信秀は遺言で「人は戦いに勝った後はその国を豊かにしてうまく兵を育てると敵は自然に滅びる」といったにもかかわらず、織田は今すぐに敵地を攻撃するので、武田の残党の高坂も兵は少ないながらに織田や徳川に歯向ってくる。これは信長の慎みが無くなくなっているからだと当時世間は非難した。

〇調べてみると、家康は信長と(*今日)三河で対面したが、一方で今日信長が岐阜に着いたという説もある。おそらくこちらは間違いだろう。

〇ある話では、経営下使(*事務職か)鈴木太郎次吉は、家康の命令で自分の居住地の村を屋号にして木原と改めた。(これは木原内匠重弘の高祖である)

6月小

2日 家康は遠州の城東郡鳥羽山に陣を張り、勝頼方の信州蘆田の依田下総守幸成が立て籠もっている二股城へ兵を進めた。幸成の子、右衛門太夫幸致(後の信蕃)は城から鳥羽山の麓に出てきて、小川を隔てて鉄砲を発した。味方の内藤彌次郎右衛門家長が矢を浴びせたので敵は恐れをなして撤退した。

松平彦九郎(彌次右衛門忠長の弟)は敵の中に朱桃燈の指物があり、味方にも同じ指物があったので間違って敵の中にまぎれ込んだ。そのため朝比奈彌兵衛が彼を射殺してしまった。

彌次右衛門家長は彦九郎の縁者である。その矢は彼の鞍の前後を貫いていた。彌兵衛の弟の彌蔵が駆けつけ兄の死骸をもって帰ろうとしたとき、二の矢で弟も射殺されてしまった。結局2人の遺体は敵が持ち去った。

本多忠勝は城を急襲した。敵方が城外に火を放ち、その煙にまぎれて城の中に撤退したが、怪我で遅れた兵が1人いた。ある城兵が引返して怪我人を城へ連れ帰るところを、味方の桜井庄之助勝次が首取と取り、なお敵を追撃した。

家康はそれを見て、「茜四半の指物は桜井だろう。深追いはもっての他だ」と苦言した。この時怪我をした敵兵を助けた兵はようやく一の木戸、揚鎖門の中に入ったが、手負いの兵はまだ門の外に残っていた。勝次は走って行って彼の足を取って3間ほど引き出し首を取った。その時、門の中の者が勝次の指物を折った。彼は敵の死骸につまずいてそのことに気づかなかった。しかし家来が教えたので急いで戻って指物を取り首を鳥羽山にいる家康に献じた。

家康は「なかなかすばらしい働きだったが、なるべくこのような深入りはしないように」と注意し、遠州の神間村、敷地村、下敷地村、高木村に領地を与えた。また彼の家来も何度も活躍したので侍にさせ、内田彦右衛門とした。味方は松平源太郎清景などが負傷し、討ち死にしたものも少し出た。

3日 依田幸成は、昨日内藤彌次郎右衛門が発した矢に札をつけ「これは誰の矢か? (*源)為朝か(*平)教経か?」と書いて石川家成の許に送った。家康も家長の弓の術に感心して胴着を贈った。

家康は大久保七郎右衛門忠世に命じて毘沙門堂、鳥羽山、和田の島蜷(*にな)原に砦を築かせ、敵には長く居座ることを示すために、蜷原で猿楽を催し皆に鑑賞させた。これによって味方の兵はリフレッシュし、敵城の意気を砕いた。

〇この頃、家康は懸川に駐屯して、諸軍に武田方の海野、遠山などが守っている遠州の諏訪原城を攻撃させた。桜井の松平與一郎忠正が附城を守っていたが、家康の命令で山下の亀甲曲輪という出丸を乗っ取った。

ある日、大給の松平左近太夫眞乗が菊川から攻め込んだとき、城から出てきた敵と交戦して眞乗軍は敗北した。

味方の星野某が間違って穴にはまった。敵はそれを知らずに山に登ってきたが、星野は穴から躍り出て槍を奮うと、眞乗の敗残兵はこれを聞いて勢いを盛り返し、敵を再び城門まで追撃して城に乗り込もうとした。しかし敵は城門を堅く閉ざしたので兵を引いた。

家康は星野を誉めたが、星野は、「これは自分ががんばってやったことではなく、ただ穴に落ちたためのことだ」と弁明した。皆は彼の正直なことに感心した。

〇信長は上京し慈照院に泊まった。

城介信忠が正五位下に叙された。

応仁以来、世が乱れ天皇の力がなくなり、叙位任官が天皇ではなく勝手に行われるようになっていた。たとえば羽柴秀吉は筑前守に、川尻與兵衛鎮吉は肥前守、明智十兵衛光秀は日向守(屋号も変えた)、塙九郎左衛門直政も原田備中守となり、染田左衛門太郎政次は戸次右近と改めた。(天正15年秀吉は従五位下少将)

11日 家康は田中へ出撃した。

八幡山を本陣として田中城の揚土門まで、松平康親、牧野、大須賀が攻め込んだ。康親の家来岡田竹右衛門が一番乗りをしたが、弾丸に当たり堀に転落した。家僕の杉浦仁右衛門が肩に架けて退いた。

追ってきた敵と康親の家来平岩源右衛門と岡田多左衛門が抗戦し、仁右衛門を助けた。(竹右衛門は丸山大琳が治療して回復した)、味方は城へ乗り込んだが、大須賀組の紅林助六郎吉次が戦死した。享年33歳。

〇『紅林家伝』によれば、後に家康が田中城を訪れたとき、吉次の戦死した場所で「大須賀組の中でも彼は特に優秀だったが若くして亡くなった」と残念がったという。

〇家康はこの戦で勝って勢いの余りに敵地に深く攻め込み長居をするのはまずいと、大久保五郎右衛門忠勝に兵を引くように命じた。しかし、忠勝は敵城を陥落させようとして、「退却の旗なんぞ誰も見てないぞ」と怒鳴った。大久保七郎右衛門忠世は心配して、「酒井忠次の一隊はそろって上道を退却すべきだ。自分は伊良崎へ向かって進むので、はやく家康は退却してほしい」と述べた。

その時、敵はすぐそばまで攻めて来た。大給の松平左近太夫眞乗、大久保治右衛門忠佐、内藤四郎左衛門正成、筧 助太夫正重、佐橋甚兵衛吉久、内藤甚五左衛門善教、黒野五郎太夫、都築藤一が後殿して、忠佐はたびたび後に戻って抗戦した。

左近太夫は、白い旄を揮っで兵を指図し敵に当たった。甲州方は躊躇した。黒野は井呂の渡り口で火砲で敵の先鋒を撃ち、佐橋吉久はしきりに矢を射たので敵は恐れて進めなかった。

味方が瀬戸川へ入って渡ると、敵も川を渡ろうとした。忠佐は黒野に伏せさせ、背中を台にして筒を置いて撃たせると、敵は川を渡らず退却した。家康は黒野を誉めて自分の鳥銃を贈った。

家康は榊原小平太康政と本多平八郎忠勝に光明の砦を攻めさせた。ここは険しい路が10町あまり続く要害の地である。味方は仁王堂門にから急襲した。

家康は横川を本陣として、兵を鏡山に登らせて裏から場内へ攻め込ませた。安藤彦左衛門直次は諸軍へ指示を出し、自分も首を二つ取った。城将の朝比奈又太郎と援兵の天野宮内右衛門の家来は遂に降伏し、砦を明け渡して甲陽へ逃げた。

家康は大久保忠世の兵をこの砦に配した。

〇今月、蜷原の砦にいる大久保忠世は家康に使節を送り、「二股の城将、依田下総守幸成が病死して、その子の幸致が諸軍を指揮しているが、この喪に乗じてここを攻撃すべきだ」と伝えた。

家康は二股へ兵を送り、大久保と榊原を先鋒として城を攻めた。

信長の援兵がやって来ると、能見の松平次郎右衛門重吉、78歳は率先して城下へ攻め込んだ。人々が感心すると本人は松平善四郎康安に、「年寄は先を争うことはできないが、尾張の平手衆の援軍に越されるのは悔しいので出たのだ」と述べたという。家康にこれが聞こえてすごいと賞賛した。

〇『福釜家伝』によれば、二郎次郎親俊は鳥羽山の砦で病気になった。家康は彼を見舞って自分の手で湯薬を与えた。しかし病気は重くなり村に帰った。そこでその昔、長親によって福釜の祖、右京亮親盛の家来にされた大野兵衛忠俊の子、彦右衛門忠以に兵を200人をつけて守らせたという。

〇酒井左衛門尉と奥平九八郎は家康の命令で岐阜を訪れた。信長は厚遇して、「長篠の勝利は信昌が籠城して敵の猛攻を防ぎ忠次の鳶ヶ巣山の夜討ちの計略のあったお陰だ」と大いに賞賛し、自分の「摺上一文字の刀」、(この目貫(*めぬき:刀を塚に固定する釘)は後藤光乗作である)と夏物の紋付、唐織の胴着を信昌に贈り、「法城寺の薙刀」、皮の袴、なめし皮の羽織を忠次に贈った。

7月大

11日 福釜の村で松平三郎次郎親俊(後左京亮兵衛)が死去した。法諱桑心。

天野彦右衛門忠次は直ちに親俊の子、康親に属した。

〇『福釜家伝』によれば、康親と彦右衛門忠次は、甲州方の伊藤左近が立て籠もる遠州大坂の砦を攻撃した。そのときのこと、康親と忠次は右近を相打ちにさせたという。しかし、時は定かではない。

〇同家伝によると、当初親俊には子供が無かったので、酒井忠次の庶子甚三郎久恒を嫡子とした。その後親俊の妻、(奥平久兵衛貞延の娘または妹)が男子を生み、これが康俊である。後に久恒実家に帰っても松平を名乗り、その係累は多く、酒井左金は我が家にもいる。

20日 鳥居彦右衛門元忠は斥候として諏訪原の城あたりまで行った。敵は元忠の狒々緋色の羽織を見覚えていて鉄砲を撃った。弾2発は腰指の鞘(*さや)に当たった。しかし、彼は驚くこともなく進んだが、今度は左の股を打たれ馬より落ちた。家来の杉浦八郎が彼を助けて退却した。元忠は痛手を受けたが回復したものの足が不自由になってうまく歩けなくなった。そこで近藤平右衛門秀用と小林勝之助正次が先頭になって城兵と交戦し首を取った。

大久保治右衛門忠佐は首を2つ取った。榊原の家来外山小作(二代目)、長谷川内記などが戦死した。その外、康政の1隊は奮戦して卯の刻から辰の刻まで(*朝まで)激しい戦闘を続けたが城を落すことはできなかった。

〇ある話によれば、戸田三郎右衛門忠次の嫡子、三九郎は斥候に出て諏訪原城からの鉄砲に当たって死亡した。家康は忠次に「お前の子だから斥候に行かせた。不幸なことに亡くなったが悪く思わないで欲しい」といった。

〇『奥平家伝』によれば、織田信忠は岩村の城を攻めているときに、佐久間右衛門信盛に甲州方の三河設楽郡竹節の城を攻撃させた。家康からは奥平九八郎信昌の1隊が援軍として来て、この城を陥落させた。家康は感心してこの武節城と領地を信昌に与えた。(或いは後に武節を伏地ともいう)

〇『松平眞乗家伝』によれば、武田勢が信州を出撃するという噂があった。家康は書状を眞乗に送り、三河の信州の境にある竹節の城を守るように命じた。眞乗は奥平信昌の兵に代わるか、援軍のいずれかになった。

〇ある話によれば、諏訪原の刈田奉行の一族は毎日軽卒700~800人を率いて小山の城外に行った。ある時駿河の岡部、鞠子、田中、江尻の敵が示し合わせて2千ほどで攻めてきて、味方は窮地に立たされた。諏訪原の兵はこれを聞いて一騎驅(*いっきがけ)で、多勢が須曳(*しゅす:あっという間)に駆けつけ、家康も出動した。敵は河原を越えて大井川の中洲に退いて駐屯した。味方も突然のことで用意が不十分だったので諏訪原の附城へ撤退した。

8月小

14日 信長は4万あまりの大軍で越前の敦賀の港に陣を敷いた。これは去年この国の一向宗門が蜂起し、大坂の本願寺からもはるばる軍監を出して一揆を起こしたのを鎮圧するためである。

若狭からは粟屋越中守勝久、同彌四郎、逸見駿河守昌経、内藤筑前守、熊谷伝左衛門、山縣下野守、白井民部丞、寺井源左衛門、松宮玄蕃梳允、同左馬允、香川右衛門太夫、畑田修理進、丹後より一色左京太夫義定の兵船が越前の北浦へ着岸した。寄せ手は全部で1万8千という。

一揆方の虎杖、木の目峠、鷹打ヶ嶽、鉢伏、府中、龍門寺中の河内、河野、杉津の城は全て陥落し、その外今庄などの砦も全て落とされ、宗徒は斬り殺された。その数は不明である。

18日 味方は本多忠勝などが諏訪原城を攻撃した。忠勝の家来中根九郎左衛門などが戦死した。酒井雅楽助正親が活躍した。家康は褒美として白い旗を贈った。これは永く家宝となっている。この城は前に馬場美濃氏勝が改築した名城であるが、味方が短期間に築山や櫓を組んで猛攻撃したので敵は非常に困った。

〇越前の一揆を平定した後、信長は越前一円を柴田修理亮に与えた。府中10万石は前田利家、不破彦三、佐々内蔵助に与えた。大野郡は原彦次郎と金森五郎八に与え柴田の家来にした。丹波の国、長岡、桑田、船井の3郡は細川兵部大輔藤孝に与えた。(藤孝とその子與一郎忠興はともに長岡と名乗った)丹後の国は一色左京太夫義定の領土とした。

24日 諏訪原の城兵、諸賀、小泉、海野、遠山らは遂に防ぎきれず、今夜密に城を棄て小山城へ逃亡した。家康は諸将に向かって「諏訪原の城は高天神へ通じる要路にあり、また駿河の田中や持船の敵とは河の堤を隔てているだけだ。したがって、田中から敵が攻めてくる。また、勝頼も隙を狙って攻めてくるだろう。誰か家康のために諏訪原で守ってくれるものはいないか」と尋ねた。

松井左近忠次は進んで「不肖自分が守りましょう」と答えた。家康は喜んで松平の名前と諱の一字を与え、周防と改名した。これによって彼は松平周防康親となった。(後に従5位下に叙され周防守となり、その子が康重である)

勝頼の暴虐は紂(*ちゅう:殷の最後の皇帝)に似ている。「周によって防ぎ、敵を牧野で破ろう」と、諏訪原を牧野と改めた。そして遠州の樽木川尻の700貫の地を康親に加えた。そのため彼の領地は4千700貫となった。それに小笠原丹波安次と小笠原安芸信元も添えてこの城を守らせた。また、徳川の譜代が輪番せよと命じられ、牧野右馬允が加わり守った。

康親は、「駿河を徳川が征服できなくても、自分が死んだら遺骸は駿府へ葬って欲しい。骨になってからも必ず駿河を家康のものにする」と誓った。聞くものは皆その心意気に感激した。

さて、それから7年の後に駿府は家康が支配した。それまでに勝頼が数回攻めてきた。また田中から城兵が大井川を越えてくるので、こちらの足軽の休める日は無かった。康親も城を出て、麦を刈り、田を耕す日は数知れないほどだった。敵が何度戦いを挑んでも勝てなかった。

勝頼は長篠で大敗してからは北条家を頼り、まるで北条の家来のようになった。勝頼はしきりに使節を送って氏政の妹を妻に迎えたいと伝えた。それで小田原の老臣は協議した結果、それも尤もだと同意した。それ以来勝頼は5節句には儀礼として小田原へ名代を派遣した。人々は勝頼を馬鹿にして、「名門の北条家が馬鹿と縁結びをするなんて」とあざ笑った。

28日 家康は光明と諏訪原の城を陥落させて、小山の城を攻めることについて審議した。
酒井忠次は、「われわれは両方の城を落としたので、敵は大打撃を受けて次第に衰弱するはずである。わが軍は永く戦いに出ているのでみんなが疲れている。ここは兵を収めて、別の日まで攻撃は待ったほうがいいのではないか? 勝頼は血気盛んで無謀だから、今小山城を攻めると必ず救援に来る。これは我々が勝ち続けるのに支障がある」といった。一方、松平周防康親は、「長篠の戦で武田側は粉砕されている。今、小山城せめても勝頼の救援はありえない。小山城を陥落させると高天神の兵が戦うこともなく敵は逃げてしまうだろう」といった。

家康は康親の考えを入れて小山を攻撃した。康親と石川伯耆守が先鋒となった。松平善四郎康安(後、善兵衛と改名石見守になった)が一番乗りをした。

本多忠勝の部下の中村與惣、内山忠三郎、小野田彌一郎が城兵と槍で対戦した。日置三蔵は脇を槍で刺された。小泉彌八郎、杉下七兵衛、土屋甚助が戦死した。(二代目)松平又八郎家忠(後、主殿助)は突撃して首を取った。松平康親と本多忠勝が指揮を取り、兵は優勢に戦いを進め、康親自身も敵を多数倒して、城を遠巻きにした。

〇越前の一向宗の宗徒は15日以来生け捕りにされたり、探し出されたりした。斬り殺された僧侶は700人、郷民は1万2千250人余に及んだ。信長は一乗谷に本陣を置いて、柴田羽柴(*勝家)惟任光秀(*明智)、戸次右近政次、細川藤孝、稲葉一鉄に、細呂木から加賀へ出陣させた。

日を待たず、能美、江沼の2郡が降伏したので、檜屋と大聖寺に城を築き、戸次右近を主将として、佐々木権左衛門政、祐島彌左衛門と味方に戻ってきた堀江中務景忠、溝江大炊助を配置させた。この時、奥郡で一揆が勃発して、羽柴秀吉が交戦して首を250~260を取ったという。

9月大

2日 信長は越前豊原寺から軍を北荘へ戻した。

この年、信長は豊原寺の僧などが他宗の下間、筑後、法橋、杉浦、壱岐、法橋七里、参河の同士を集めて敵対するのを止めないので、寺を丸ごと焼き払った。(今月下旬信長は岐阜へ帰った)

15日 勝頼は小山の城を救援したいと思ったが、長篠の大敗の後で、戦死者の親族や、僧、宮司、医者までも兵とし、名前のない衆人をなだめて、ようやく2万を集め甲陽を経って駿河へ出た。

17日 勝頼が遠州へ来るという知らせに、家康は、「前には堅固な城がある。後ろから大軍が攻めてきては困るので退却するのがいいが、どのルートがよかろうか」と尋ねた。

内藤三左衛門信成は、「直ぐに山を越えて帰るべきだ」と答えた。しかし、酒井忠次と富永太夫は「山に入って退却するのは敵を恐れていると思われて却って危険だ。川に沿って敵に向かうように戻るべきだ」と述べた。家康はこの意見を採って、手順を整えた。

石川数正、松平玄蕃頭清宗、同與一郎忠正、同又八郎家忠、同左近太夫眞来、鈴木越中守重愛、同喜三郎重時、酒井與七郎忠利、西郷孫九郎清員が先鋒となった。それに信康は続いた。

榊原康政、本多忠勝、石川長門守康通、本多廣孝、大須賀康高、柴田七九郎康忠、久野三郎左衛門宗能、三宅惣右衛門康貞、水野惣兵衛忠重、鳥居彦右衛門元忠、大久保忠世、本多作左衛門重次、同百助信俊(信春とあるのは間違い)、菅沼藤蔵定政、植村出羽守家政、同庄右衛門忠安(正勝というのは間違い。正勝は忠安の子)が旗本を囲んだ。

後軍は、酒井忠次、松平甚太郎、松平周防康親、松平源七郎康忠、本多彦八郎忠俊、菅沼新八郎定盈、牧野右馬允康成と決めた。

東三河の兵もこれに属した。はたして小山の城兵は味方の跡をつけて来た。東條の松平甚太郎、同周防、酒井左衛門尉は後殿で撃退した。

〇勝頼の軍団5~6千が園部、藤枝まで出撃してきた。家康は川に沿って敵に向かうようにして井呂崎の丘まで撤退したが、敵が川の対岸に来たのを見て、信康に、「今までは敵に向かっているように撤退していたが、今度は敵が実際に後ろにいる。お前はまだ若くて練れていないので早く撤退せよ」といった。

信康は「父に従って北に行くと、敵は後ろにいる。まずは父から撤退して欲しい。自分は後ろを守る」といった。しかし、家康は許さなかった。信康は「父を後にして、どうして自分が先に行けるというのですか」と固辞した。

そこへ酒井忠次が来て、何もいわず「先に撤退するといい置いて去った」ので、家康も撤退した。信康は、「様子を見ながら退こう」と命じて、準備をを整えて後殿をしようとした。

ちょうどその時雨が降って、夕方に向かうにつれて兵たちが落ち着かなくなってきた。そこで、榊原康政は「こういう時は皆は勝手に撤退すべきだ」と牧野半右衛門から信康の本陣へ急ぎ連絡させた。軍使はすぐにそれぞれの部隊へ順序は構わず撤退せよと命じると、諸軍の動揺も収まって直ぐに撤退も終わったという。

家康は上ノ台で様子を見ていて、信康の撤退する様子を誉めて、「なかなかよろしい。勝頼は10万の兵が攻めてきてもくじけることはないだろう」と述べ、牧野の城へ入った。

武田の先隊、100騎あまりが攻めてきて井呂川の岸まで来た。

味方の後殿12騎、中でも大久保治右衛門忠佐、小林勝之助正次、中根善次郎、池 水之助は川の傍で踏み止まった。そこへ高力権左衛門正長(後、土佐守)、日下部五郎八重好などが馳せてきた。これを見た敵は夜だったので多勢と思ったのか川を渡ることはなかった。この後殿の手際は後日世間で評判になった。

武田の軍団は次々川辺に到着したが、新参の兵は弱く家康を恐れて川を渡る気力がなく呆然としていた。勝頼は怒って檄を飛ばして渡らせようとしたが、高坂弾正はこれを止めた。

18日 勝頼は鎌束原に進撃した。家康は柵の中に駐屯し、斥候を谷の向こうに行かせた。夜になって勝頼は小山の城に入った。篭城している駿河の先方、蒲原小兵衛、鳥居甚太夫、朝倉六兵衛在重、朝比奈金兵衛、村松藤左衛門、望月七郎左衛門、岡部忠次郎、鈴木彌次郎右衛門に感謝状を贈った。家康は横須賀に出て陣を張った。勝頼は小山の城を補修し、食料を高天神の城へ補給し軍を撤退させた。家康も牧野の城を修理して浜松へ帰った。

21日 大坂本願寺から平井、矢木、金井の3人が和睦の謝礼として上京し、小玉檻(*こぎょくかん:十三世紀中ごろの宋元の画家)の枯木花の名画3幅と三輪肩衝(*かたつき:茶の道具)を信長に献じた。

三好山城守康長入道笑岩も再び降伏して、三日月という名物の葉の茶壷を献じた。そのとき信長は京都妙覚寺に住んでいたという。

23日 飛騨の国主、姉小路中納い頼綱は上洛して信長に謁見した。

28日 信長は、京都と堺の茶道家を呼んで千宗易利休に茶を点じさせてふるまった。茶室の床には遠寺晩鐘の掛け物(牧渓筆、東山義政の所有)、三日月の葉茶壷違い棚には茶碗、白天目、内赤の盆、くも髪という茶入れ、その下に香炉があって、松島の壷、乙御前の釜が飾られていたという。

11月小

4日 信長が権大納言になった。

7日 信長が右近衛大将を兼任した。

10日 (*織田)城介信忠は長篠に引き続いて出陣して、美濃の岩村の城(*武田方)を激しく攻撃した。

武田勝頼は後援として信州伊奈郡まで出陣したが、微勢のうえ大雪でそれ以上進めなかった。そのため城兵は力尽きて脱出するために今夜水精山に駐屯していた河尻與兵衛鎮吉、毛利河内守秀頼、浅野左近、猿荻甚六郎の部隊に夜討ちをかけて逃げ去ろうとした。ところが柵が頑丈な上警備も堅固で破れそうになく、信忠はあきらめて自分で逃げようとしたが、また城の中へ追い戻された。一方、水精山へ向かっていた兵もあわてて山に逃げ込んで隠れたが見つけられ、兵卒、大将、物頭など、21人、雑兵2千100人あまりが斬り殺された。

21日 岩村の城将、秋山伯耆晴近と大島座光寺は塚本小大膳に降伏を願い出たので、信忠はそれを認め、今日、小大膳と塙 伝三郎に命じて、秋山と大島木工座光寺勘左衛門氏定を城から出させ岐阜に送った。

城に残っている遠山の七家という加藤次景廉の子孫で、武勇の聞こえた市之丞次郎三郎、三右衛門四郎三郎、徳林斎内膳藤蔵などは市之丞郭へ追い込まれ、信忠の猛攻に対して数回城から出て交戦したが、結局7人は自害した。勝頼はこれを聞いて早速甲府へ帰ってしまった。

元亀3年信長の母婿で岩村の城主、遠山内匠助には子供がなく、信長の8男、御坊丸を養子とした。ところが翌年3月秋山伯耆が岩村を攻撃してきたときに内匠助が病死した。秋山は七家と和融して信長の援兵35騎を殺害して城を乗っ取り、内匠助の後妻を自分の妻にし、御坊丸を質として信玄に送って自分は岩村の城主となった。そのため信長は秋山夫婦を激しく憎み、今回伯耆と大島座光寺を捕らえて磔にし、その上、伯母が岐阜に向かう途中で殺害した。これを聞いて信長は暴虐だといわない者はいなかった。

23日 信忠は岐阜へ凱旋した。信長は今回の信忠の活躍を記念して、来年の春から岐阜の城と美濃中の国士の重器、金銀を全て取り上げて近江の蒲生安土山に新しい城を築き、近江の国を治めて自分はこの城へ移ることを宣言した。

佐久間右衛門尉信盛は刈屋の城主、水野下野守信元が勝頼に通じていて、岩村の城へ糧米を送ったと嘘の報告を信長にした。信長は使いを出して信元に事情を尋ねた。

本当は岩村の城の兵糧がなくたので、商人を通じて米を買ったのだが、信元は誰が買うかを知らないで金を受け取って米を渡したのである。したがって、これは謀反ではないと、信長の使いに信元の家来をつけて岐阜に伝えに行かせたが、その途中で使者が酒を飲んで酔っ払い2人とも死んでしまった。そのため信元は罪をかぶった。

信元は家康の助けを求めて岡崎まで来た。信長は怒って浜松へ使いを出し、「罪は重いので自害させよ」と家康に命令した。家康は信元を憐れんで大樹寺へ滞在させた。

12月大

23日 二股の城は城将の依田右衛門幸致が守っていたが後援がなく、寄せ手の大久保忠世に和を求めて城を明け渡し、質として弟、善九郎(後の修理太夫康国)と源八郎(後の右衛門佐康勝)を家康に献じた。しかし、家康は人質が辛いだろうと二股川で互いの質を交換することにし、依田は高天神から甲陽へ帰るときに二股の城を大久保右衛門忠世に贈り、一族の安倍四郎兵衛忠政と大久保権右衛門忠為を連れて行った。これは家康の命令による。しかし、忠政は訳があって二股に入ることを遠慮したが、家康は許さなかった。

忠政は憤慨して長男忠宣と共に伊勢へ落延びた。しかし、慶長の頃、将軍秀忠は彼を憐れんで忠政の老後に復権させた。四郎五郎忠宣は伊勢で刃傷沙汰によって死亡した。

当時三河の要所には、吉田に堺左衛門尉、吉良に石川伯耆、そして今度二股に大久保七郎右衛門、遠州の掛川には石川日向、横須賀に大須賀五郎左衛門がいた。これら5城は三河と遠州の要地と呼ばれ、城主は与力を添えた武将たちである。この他、三河と遠州には城郭が沢山あった。

27日 信長は佐久間の讒いを信じて怒り狂い、家康に水野下野守を殺せとしきりに催促してきた。家康は仕方がなく、久松佐渡守俊勝に信元を受け入れさせ、家康が岡崎につく頃に松應寺で待たせ平岩七之助親吉に殺させるよう指示した。ところが石川伯耆守数正が先に行って殺し、後で七之助が着いた。久松俊勝は信元が殺されることを知らなかったので、家康を恨んでしばらく出仕しなかった。信長は信元の領地刈屋を佐久間に与えたが、信盛は欲が深く刈屋の水野作清をはじめ全てを追い出して租税を横取りした。

〇この年、遠州の周智郡国社は遠州の一の宮で家康が造営した。戦国の世が終わってから、神田590石を家康は寄付した。

大須賀康高の部下、坂部又十郎正家の二男、三郎廣勝(後の三郎兵衛)15歳に碌を与え、大須賀の組に入れた。三河の碧海郡登賀利村の住人、深津四郎兵衛正利の二男、一郎兵衛も14歳で小姓になった。

三河の渥美郡田原にて内田近江正之が死去した。(実の氏は勝間田)野呂猪之丞正景が御家人になった。この人は伊勢の安濃郡椋本の城主である。敵に領地を取られ浪人となって浜松に来た。

〇『安倍家伝』によれば、家康は大蔵光眞を遠駿の境に砦を設けて守らせたが、甲州方の八講山の砦を抜いてそこへ移ったというのは今年だろうか。

〇大久保忠教の『参河記』などでは、家康が長篠の援兵の礼に岐阜に行くと、信長は厚遇して家来たちに贈り物を与えた。そのとき、「あの時のひげの男は来ているか」と尋ねた。江原孫次郎が出ると、「おまえではない。長篠の勝利を導いたひげ男のことだ」といった。今度は大久保治右衛門が出て、「自分の兄の忠世はここに来なかった1人だが、家来を1人よこした」と答えた。

信長は「お前たち兄弟はよくやった」と自分で衣服を与え、家康に向かって「勝頼はもう三河や遠州へ軍を出すことは難しいだろう。早く駿河を征服せよ。いつでも援軍は出す」と約束した。家康は礼をいって浜松へ帰った。残念ながらこの日が不明なので、このように後に書いてしまった。

〇信長は、佐々権左衛門政祐と赤座宮内左衛門を越後へ遣り、謙信へ贈り物をした。その後、春日山に柴田右馬助と稲葉彌助を交代で住まわせ、謙信の機嫌をとって、上方筋への関心を聞いて答えさせた。これは謙信をたぶらかすための謀略である。

〇家康は長篠の功労者を吟味して恩賞を与えた。今回の戦いで本多甚九郎正近が戦死した。子供が無かったので従弟の高木彦左衛門清政に家督を継がせた。清政は高木甚太郎清友の実子である。

武徳編年集成 巻15 終