巻19 天正8年正月~天正9年12月
投稿日 : 2016.03.19
天正8年(1580)
正月大
5日 家康が従4位上に叙された。
17日 一昨年から羽柴秀吉が攻めている播磨の三木の城では、糧米がなくなり、別所小三郎長治(29歳)と弟の彦之進友行(23歳)がそれぞれの妻子を殺して自殺した。家来の三宅肥前入道は殉死した。秀吉は長治の願いを入れて、城内の男女を皆殺しにしなかった。
秀吉は三木を居城として、美作、備前、備中など、毛利や浮田を年内に屈服させようと計画した。
24日 家康は三河の吉良と西尾で狩をした。
27日 家康は岡崎城へ戻った。
〇武田の家来たちは信長を恐れて、勝頼に信書を送らせた。しかし、当時信長は18州を制覇して猛威を振るっていたので、信長は勝頼を小馬鹿にするように、日付も宛名も書かずに返事をよこした、と『甲陽軍鑑』には記されている。
2月小
〇上旬、武田勝頼は駿河へ出撃し、浮島原を本陣として千本松原、沼津、吉原まで進軍した。北条氏政も伊豆と三島へ出陣し、富永、高城、遠山寺に駐屯して、2万5千の軍勢を配した。武田の海賊が沼津に船をつけた。北条の水軍は2里を隔てて、伊豆の重須に集結して敵の船団を窺った。
15日 未明に武田の船5隻が重須の浦へ向った。北条の海賊、梶原備前景宗と同兵部侍大将には、清水越前、富永左兵衛、山角治部、松下三郎左衛門、山本信濃常任などがついて、火砲を撃ち続けたので武田の軍船は沖へ漕ぎ戻った。北条の水軍はその勢いで10隻の大船で追撃した。
武田軍は、沖に出て火砲を放ち再び勢いを盛り返して磯の近くまで戻った。勝頼は軍船を見ようと浜辺に出て旗を立て、諸軍は潮に浸かりながら火砲を発した。しかし、北条の大艦隊50隻は船縁を椋の木で囲っているので、15間ぐらいから撃たれても弾は突き抜けなかった。鎧を着た武者50人が矢を射るための狭間から火砲を発し、舳先には矢や銃を配したので、敵が陸から放った数100丁の火砲などはものともせず、敵船を追い廻した。武田軍の船は小船なので早く動けるので、つかまりはしなかった。
勝頼の家来の織部昌茂(後和泉)は波打ち際に馬を入れて、向井兵庫守助忠次の船を呼び、「大軍団と戦っても無理だから船を棄てて陸に上がってよい」と述べた。向井は笑って、「海賊が陸に上がって手柄をあげるのは恥だから、あんたのいうことはきけないな」と船を漕ぎ進んだ。間宮酒之丞信高、小浜民部光隆、伊丹、岡部の船も彼に続いた。
敵味方の大小の船が入り混じって海戦をしているとき、間宮信高は負傷した。その外、武田方で負傷したものは多かった。清水の港には武田の小船が多数いたが、荒波のために出られず、もっぱら眺めているだけだった。
その内に武田の諸軍は、波打ち際の砂を掘って土居を築き、その陰から数100丁の火砲を発すると、北条の軍艦からも激しく火砲の反撃があり、結局、一日中戦いは続いたが、日が暮れたので小田原方は重須の浦に漕ぎ帰り、武田も軍を収めて甲陽へ撤退した。(千本の松原は海賊が来たときのことに備えて、勝頼が木をすべて切ってしまったのはこの時のことだろうか)
16日 高天神の兵が天王馬場へ出撃してきた。
中村の城から大須賀康高が出撃して、部下の久世三四郎、坂部三十郎、氏家金次郎、近藤武助、菅沼兵蔵、鷲山伝八が槍で対戦し、坂部は負傷した。
味方は敵の首を2個獲った。本多平八郎の軍の内山忠三郎と日置小左衛門が先鋒し槍で対戦した。その他本、多勢は競って突撃し、的場曲輪の柵から出てくる監使、松下嘉兵衛之綱を討ち取って浜松へ献じた。
〇家康も今日浜松を出発して、高天神攻めの指揮のために出撃した。
18日 家康は去年築いた高天神に対する附城の大阪山と三井山を修理すべきだと、松平主殿助に命じた。(三河の諸兵将は今月20日からこの修理を始めた)
25日 大阪山の砦の修繕が間に合わないので、高天神から1里南の海辺の中村に、新たに砦を築いた。(28日に完成した)
29日 城飼郡田中(大阪山と中村の中間地点)に砦を築いた。
閏3月大
5日 家康は高天神の城へ向かった。
7日 天皇の意による公卿の近衛前久、観修寺晴豊、庭田重通の斡旋によって、大阪本願寺光佐が信長と和睦した。
8日 家康は高天神から浜松へ帰った。
9日 越前の国主、柴田修理亮勝家は、加賀へ攻め込み布市の城を占領し、さらに奥郡へ進んで能登へも手を伸ばし、木越の寺中を攻め破った後、末森と出肥の城の傍まで押し寄せて荒らしたり火を放ったりした。
27日 武田勝頼は伊豆へ出撃した。去年家康方が攻めて焼き払った持船の城を再建し、駿河の将、朝比奈駿河氏秀を配し、田中江尻と連携して家康の附城の抑えとした。
4月小
9日 信長は摂津の大坂本願寺光佐を城から出させて、紀州の雑賀へ隠居させ、大坂には新門跡教如を入れて、この秋までに城内の男女を退去させて城を明け渡すように命じたという。
18日 松平主殿助は牧野の城に行き、西郷孫九郎家員と交代した。
27日 三河と遠州の兵は池田の宿に陣を張った。
5月大
朔日 家康は浜松から掛川へ移った。
2日 すでに先鋒の軍は伊呂に駐屯し、諸軍は牧野の城の内外に駐屯していた。
3日 家康は駿河の田中城を攻撃した。
4日 味方の軍は遠目に到着して八幡山に駐屯し、花澤の苗を踏み潰した。
5日 味方の軽兵に田中の城の場外の麦を全て刈らせた。
家康は兵を収めて帰った。石川伯耆数正が後殿したときに、持船城から朝比奈の近臣、天部彌三郎が後を追ってきた。石川数正は一計を謀って、城兵が全て出てきて遠目の坂を下って半場に来るのを待って突撃を開始し、矢部彌三郎を数正の従兵の安藤彌十郎正次(後治右衛門)が斬った。これが今日の一番首であった。
松平善四郎康安(後の石見守)、鳥居右衛門、内藤彌次右衛門、酒井彌四郎重忠(後河内守)、平岩七之助、牧野右馬允、石川八左衛門正次、大久保荒之助忠正、鈴木喜三郎重時、小林勝之助正次が引き返して抗戦しているとき、大給(*おぎゅう)の松平左近眞来は横から攻撃して敵を坂上に追い上げて追撃したので、敵は大敗北を喫した。
水野彦九郎(内藤政七の外甥)は敵陣に深く入って戦死した。菅沼藤蔵定政が駆けつけて敵の2騎を斬って首を獲り、彦九郎の首も敵に渡さなかった。彼は更に攻撃を続けて、城方の朝比奈小隼人が兵に指図しているところを斬って馬から落とした。しかし、従者が来て小隼人を助けて退却した。定政は尚も5町ほど追ってから帰った。小隼人は陣地に戻れたが死亡した。定政は朝比奈監物も組討にしたという。
須田文平は桜井兵庫を討取った。大野小麦右衛門重次は朝比奈市兵衛の首を獲った。松平眞来の家来松平久助は首藤左衛門を討取った。同眞来の家来の松平隼之助、河合帯刀、梅村喜八、伊予田次兵衛、近藤又左衛門、武井角左衛門、河合藤十郎、鈴木源太郎、その外、鈴木一族は引き返して敵と交戦し、城兵の長谷川左近、石原五郎作、天野角右衛門、庵原傳内ら32人は、雑兵80余人を討ち取った。
残党は城へ逃げ込んだ。城将の駿河と奥原日向は、この戦況を久野覚之助に調べさせ、敗北の知らせを聞いたという。しかし、救援には行けなかった。家康は戸田三郎右衛門を後殿として牧野の城へ帰還した。
〇『大田家伝』によれば、2代目善太夫吉正は18歳でこのとき敵を組討したという。
〇『内藤家伝』によれば、石川数正の家来の板倉源十郎と石川三郎右衛門は、内藤彌次右衛門家長に付き添って戦功をあげたかった。家長は自分で2騎を突き殺し、彼らの首を2人に獲らせたという。
17日 松平丹波守康長は、牧野の城番として兵を連れて到着した。
26日 信長は岩清水正八幡宮を造営し、今日完成した。宮奉行は武田左吉信吉、林高兵衛、長坂一郎だったという。
6月大
10日 家康は横須賀に出撃し、諸軍は見附の鎌田原に駐屯した。
11日 家康は高天神の城を見回り、鹿が鼻に砦を築いた。成瀬吉右衛門正一を呼んで、「お前は附城6箇所を昼と夜1回ずつ見回り、柵の中にいる兵士をサボらせないようにせよ」と命じた。彼が仲間が欲しいと頼んだ所「それが出来る者を自分で選べ」といわれた。これから彼らは6箇所の砦を20日間怠ることなく務めた。
15日 星が月を貫く(*星蝕)。
17日 家康は高天神の曲輪の外部を焼き払った。
18日 家康は高天神に出向いて、城の周りの稲を刈り取り、すぐに兵を横須賀にもどした。
〇長対馬守義連の末っ子、孝温寺は還俗して、九郎左衛門連龍となり、越中の森山から能登の福水へ討ち入って八伏佛性寺、小川、東番場の四箇所の砦を抜き、菱脇で2度、温井備中守景高と三宅備後守長盛と戦って大勝をし、両家は降伏した。信長の援兵の将、前田、菅谷、福富が能登に着いた。前田利家は飯山、菅谷長頼は七尾、福富定次は富木の城へ入り能登は平定された。
7月小
20日 家康は掛川に入り山口に進軍した。
21日 家康は伊呂崎へ進み。田中の城あたりの稲を刈り取らせた。
22日 酒井忠次の兵は小川城辺りに出て。敵と小競り合いをした。
23日 家康は駿府の田中城のあたりの八幡山に駐屯して、忠次によって味方の兵が苦戦しているので。石川数正を先鋒として田中の城を攻めさせた。
24日 本多忠勝の家来は、小山城の辺りへ稲を刈りに行って3騎が死亡した。
25日 松平主殿助家忠は小山あたりの稲を刈りに行った。
家康が出陣したという知らせに、勝頼が後援として甲陽を出撃するときに、松平康親の家来の岡田竹右衛門元次は家康に、「今は洪水のころだから川の水は一夜で増水する。勝頼も迂闊には出陣はしないだろうから、刈田が終われば直ぐに川を渡って兵を引いたほうがよい」と進言した。家康は元々部下のいうことによく耳を傾けるので、直ぐに了解して兵に川を渡らせた。果たしてその夜暴風雨となって大井川は満水になった。
26日 勝頼は駿府の砦を次々と見回ったが、家康が田中へ攻めてきたと聞いて駆けつけた。しかし、家康は牧野の城へ兵を速やかに帰したし、川が増水して渡ることができないので、非常に悔しい思いをしたという。家康は今日掛川の城に着き、諸軍は町で休んだ。
27日 家康は浜松へ帰った。
〇今月、浜松の新城の中に以前からあった五社大明神を、新しく立て直して拡張したいという要望があったので、社を城外へ移すことになった。ところが社から大量の蜂が出てきて、大工や人夫が近寄れなかった。家康は御幣を持って本丸の裏門に立ち、扇で命令すると数万の蜂は直ぐに退散して、神社を新しい場所へ移動できた。古い社の跡地には汚さないために松を植えた。「五社の松」といって今に伝わっている。(慶長15年に、家康は神領100石を寄進した。寛永11年にもう一度200石を加えた)
〇天野甚右衛門景隆が死去した。彼の長男の三郎兵衛康景は政務を担当し、次男甚右衛門昌繁は信康に仕えた。
8月大
2日 摂津の大阪本願寺新門跡、教如は、自分の城と木津丸山と廣芝正山などにある51箇所の城を開けて、紀州の雑賀へ退去した。これで信長は摂津を完全に征服した。
12日 信長は、家来の佐久間右衛門尉信盛父子、林佐渡守通勝、安藤伊賀守範俊を追放した。
16日 北条家の笠原某が浜松に来て「氏政と勝頼が黄瀬川で対峙しているので、早く駿河へ来て欲しい」と要請した。
27日 三河の能見で松平次郎右衛門重吉が死去した。享年83歳、家康は別れを哀しんだ。
9月小
3日 家康は遠州、奥山郷方廣寺が、昨年浜松の打ち入りの時の道案内を勤めたので、山林寺内を甲乙人不入の印章を与えた。
18日 駿河への出撃の命が下った。(訳があって4.5日で中止された)
23日 信長は水野惣兵衛忠重に、父の領地だった三河の刈屋と尾張の小川の城を与えた。これは兄、下野守信元が佐久間信盛の陰謀と讒言によって冤罪となり、天正3年に信長が家康に殺させて信元の領地を信盛に与えたが、先月信盛が貶謫(*へんたく:流刑)され信元の罪が嘘であったことが露呈した。これを信長が悔いて、家康に命じて忠重に兄の昔の仕事を継がせた。(忠重は後の和泉守)
家康は高力與左衛門清長に、遠州の鎌田郡馬伏塚を与えた。
〇この秋高天神の城兵が連名で鷲坂甚太夫を甲陽へ派遣して、「徳川軍の攻撃が日を追って熾烈になり城を何重にも包囲して、こちらは籠の鳥の状態で逃げ出せない。この城は堅固だから決戦には耐えられるが、城には食料がなく力を保つことができないので至急救援して欲しい」と要請した。
横田甚五郎(後の甚右衛門)尹松は1人だけ違う考えで別の手紙を書いて「援兵によって寄せ手を打ち崩しこの城を保つためには、彼らを救うべきであろうが、徳川勢は横須賀に陣を敷き、附城を6か所設けて兵を置き、戦いの準備を固めている。この軍勢は非常に強いのでいたずらに戦っても勝ち目はない。甲陽の兵が来ると6か所の砦はもちろん各城から出撃してきて阻止される。その上、信長の援軍が来れば武田の滅亡するのはそのときだろう。または信長勢は金谷や島田から、藤枝の本道を経て駿府へ進軍して後路を断つだろう。その時もし北条が駿河へ出てくれば、武田軍は退路を断たれるので負けるのは歴然としている。もし武田家が潰されたくなければ、この城を救ってはならない。またどうしても救うのであれば、時期を決めて陰符(*打ち合わせのための密書)を欲しい。武田の旗が塩買坂に見えると城兵は突撃して包囲網を破り命拾いできれば幸いである。しかし、この包囲から逃れて生きてはいけない。城を敵に獲られ生き残ったとしても、勇敢とはいえないだろう。城中が一致団結して玉砕するのが本来家来の職務だ」と命がけで理路整然と状況を勝頼に連絡した。
勝頼は援軍の派遣救援の得失についての横田の命を顧みない詳しい意見に感心し、長坂跡部も納得したが、「高天神の救援に甲陽が何もしなければ、世間では勝頼は弱虫だといわれて恥をかき、上杉景勝の主人の東上野の北条の姿と似てしまう」と心配し、ここは救援して眉目(*びもく)を整えよう(*体裁を整えよう)と急遽出撃し、沼田、尻高、勝名、久留美、中条、小川、猿ヶ京、信条、岩櫃、大胡、山上、高岩、厩橋、北武州の領地、相模の筑井など15の城や砦を攻め落とした。しかし、遠州や三河では、武田の大小の城は落とされ、今は小山と高天神だけが残っているだけである。又、駿河の要地である田中や江尻も危ない状況である。そんな時に敢えて上州の国境から出撃してして、小さな城を15箇所抜いた所で、労して功のないことをどうして勝頼はやったのだろう。
〇今月、福松が誕生した。
10月大
12日 家康は高天神を攻めるために浜松を発った。
19日 本多忠勝、榊原康政、鳥居元忠は高天神の攻め口に迫り、他の隊は横須賀、大阪山辺りに到着した。
20日 味方は山へ雑卒を行かせ柵にする木材を伐採した。
22日 高天神城に対する砦としては、桶が谷口に向っては10町あまり離れた場所の野部が坂に、火ヶ嶺の東方20町離れた鹿が鼻と2里離れて塩買坂と7~8町離れて原村、南方の鹿が谷口に向っては10町ほど離れて萬福寺、20町離れて大阪山の乾の方向24~25町離れた小笠山に砦を築き備は万全だった。又、西には横須賀の城と中根村の砦があるので高天神の兵は出られなかった。
寄せ手は徐々に城に近づいて仕寄し、7重8重に堀や柵を設け土居を築いた。また、後ろから攻められるのを防ぐために裏側にも広い範囲に堀を設け、土塁も築いた。こんな状況では城からは鳥でなければ出られない。しかし、城兵は北側の橘ヶ谷から逃げ出そうとしたので、榊原康政は地形をよく調べ、橘カ谷の尾根の先から多数の兵を回し橘ヶ谷口から攻め込込んだ。
敵は尾崎の井桁の段と左右から横向きに火砲を撃とうと林の中に布陣した。康政はいきなり尾崎に登って後ろから攻めると敵は狼狽した。康政の部下の伊藤雁助や鈴木藤九郎などが手柄をあげた。本多忠勝と鳥居九忠は城から出てくる軽率を城へ追い込め、肘金曲輪の虎の口で交戦した。水野惣兵衛忠重、同国松勝成(後左衛門、日向守)も筋金曲輪を猛攻して落とし、敵を二の丸へ追い込んだ。
清水次右衛門、山本市作が戦死した。家康付きの横田平八郎は怪我を負った。今年16歳の国松は彼ら3人と共に肘金曲輪や二の丸に乗り入れた。大須賀康高は的場曲輪まで迫ったが城兵が防いだ。旗本の侍、小栗又一忠政が一番槍として対戦した。寄せ手は破れて撤退した。
本多平八郎の部下の桜井庄之助勝次の組の袴田源右衛門は、大手堀切橋で戦死した。その遺体を持ち帰るために庄之助が忠勝の兵を連れて城門へ向うと、敵は又来たと城の中でばたばたした。その間に彼は遺体を持って堂々と味方に陣へ帰った。庄之助は家康が忠勝の補佐として付けた優秀な武将だが、翌年浜松で病死した。
〇『小栗家伝』によれば、忠政は最初は庄次郎といっていたが、いつも一番槍で活躍したので家康が又一と改名させた。しかし、あるとき制止を無視して先鋒したので叱られ、大須賀康高に預けられた。高天神の戦いでは数回城兵と槍で対抗し、特に一番槍を3回も果たし首も1個取った。彼はいつも久世や坂部と功を競っていたが、2人は又一にはかなわなかった。又一の指物は白地に黒い丸で彼の活躍は城の中でも注目されたという。
〇『小林家伝』によれば、勝之助正次は高天神の戦いで数回手柄をあげた。
〇ある話では、伊藤雁助は、以前は康政の家来だったが何度も活躍したので家康に騎士にされた。今日の戦いで雁助の得た首を大須賀の丸山傳十郎が自分が取ったものだといい出したので、2人は家康の前で論戦した。鈴木藤九郎が証拠をもって申し開いたので雁助は負けた。
24日 高天神の城の周辺で寄せ手の柵がすべて完成した。
28日 家康は高天神の現場から馬伏塚へ移った。
11月小
1日 東條の松平甚太郎家忠が26歳で早世した。子供が無かったので、家康は領地を彼の一族に管理させ、後見人だった松平周防康親にも与えたが、康親は固辞した。そこで、家康は自分の庶子、次丸主(*秀忠の弟、母は西郷局)に東條家を継がせ、家来は全て康親に属させた。次丸主は後に下野守忠吉朝臣となり、慶長の乱の後尾陽侯に封じられたが間もなく亡くなった。彼の親戚は吉直卿(*?)から尾張を与えられ、以後東條の家来は全て尾張に仕えた。
12日 家康は高天神の橘ヶ谷口の砦の城壁を修理させた。
松平主殿家忠を安土へ行かせ、高天神城を攻めることを報告し、検分に来るように要請した。
17日 備前の国主、浮田和泉守直家が降伏を申し出たので、羽柴秀吉は報告のため安土へ行った。
20日 柴田勝家は、加賀の一揆衆、若林長門守吉家など棟梁たちをあちらこちらで19人を討取り首を安土に献じた。
松平家忠は安土に着いて、家康の伝言を信、長に届けた。信長は家康が自ら高天神城まで出陣して城を攻めていることに感心して、さっそく検使を派遣すると返事した。
信長は能登を前田又左衛門に与えた。能登から菅谷九右衛門と福富平左衛門が安土に戻った。これは能登の一揆衆の温井三宅がようやく越後へ逃げ、国が平定されたためである。
12月大
5日 高天神城外で石川数正の柵の中央で失火が起きた。しかし、統制が取れていて諸兵が冷静だったので、敵がそれに乗じて攻め込むことは出来なかった。
〇『安藤家伝』によれば。安藤與十郎正次(二代目、後治右衛門)と大田善太夫吉正(二代目)の2人が酒井與四郎忠世(後、雅楽頭)の陣営へ来ているときのこと、城から敵が多数出てきて軽卒を追い散らそうとした。安藤と大田は番所の槍で敵2~3人を突き伏せて軽卒に首を取らせ、敵を城へ追い入れた。
忠世の陣を仕切っていた石川数正は両人を呼んで、「他人の陣まで来て手柄を上げて敵を撃つのは掟破りだ」として、罰として柵の木を20本提出させて3日間蟄居させた。
21日 安土から検使として、長谷川藤五郎秀一(始めは貞長)、西尾小左衛門吉次(後隠岐守)、猪子兵助一忠、福富平左衛門定次が昨日高天神城の戦場へ着いた。家康は出迎え、それぞれの柵を巡回して饗応をして帰した。
〇今月、勝頼は駿河へ出撃し、家康に討たれた向井伊賀勝政の持船の領地を嫡子の兵庫忠安に授け、ここから伊豆へ出撃して敵地を焼き払った。また、湯川に砦を築いて兵を配した。
戸倉の城将、笠原新九郎範貞は北条の老臣、松田尾張憲秀の子である。彼は武将の器ではなく多欲無道で勝頼に降参して城を明け渡した。勝頼はこれを評価して戸倉の番として、信州の先方海野をつけて甲陽へ帰った。この笠原は自分が不肖だったために、代々仕えていた北条氏政にかまってもらえなかった。そこで氏政を裏切って勝頼に降参したのは馬鹿なこと甚だしいが、勝頼が滅ぶとまた北条家についたという。
〇この年、皆川山城守廣照の一族は、家康が関東へ出撃するときには必ず先鋒すると何度も使いをよこした。家康は中川市右衛門を下野の長沼に送って感謝の意を示した。
天正9年(1581)
正月小
3日 勝頼が高天神へ援軍を送るとの連絡があったので、織田三位中将信忠は尾州青洲まで出陣した。
4日 家康の領内、遠州の横須賀の城番の水野監物忠元と同惣兵衛忠重に、尾張の大野勢が信長から加勢された。
25日 近江八幡山の領主、京極長門守高吉が死去した。
2月大
〇勝頼が1万6千の軍勢で伊豆を出撃した。北条氏政は小田原から3万あまりで三島で対峙した。
勝頼は武田左馬助信豊から戦いを始めた。信豊は長坂釣閑と相談して「敵が小川を前にして、矢や鉄砲で武装した軽卒によって5重に戦線を構え隠れて待ち構えている所へ、1万5千もの兵で攻め込むと、長篠の時のように負けるだろう」と兵を引いた。勝頼は怒って彼らの弱気を叱った。信豊は、「笠原新六郎が翌日伏見田カ原へ兵を進めて襲い掛かるときっと勝利すると言ったので今日の所は兵を引いたのだ」と弁解した。
その夜、氏政は小田原へ兵を収めた。勝頼も高天神城の助けられず甲陽へ帰った。このため、高天神の城では食料がなくなってしまった。家康はこの状況を察して、九島綾部など5人を城へ行かせ、城兵に「城兵は殺さないで甲陽へ返す。だから早く城を棄ててはどうか」と伝えた。しかし、城中の駿河勢は以前に(*北条)氏眞を追い出した人たちだったから、徳川と北条が仕返しをするだろうとこの提案を拒否した。
〇『甲陽軍鑑』よれば、天正9年のこと、武田典厩、長坂跡部、天龍寺麟岳和尚が相談して、信玄の時代に取り押さえた信長の子、織田御坊を典厩の婿として近江の安土へ帰して、信長を宥(*なだ)めようとした。信長は返書で、「その内こちらから迎えに行こうと思っていたので、そちらから返すとは賢明だ」とあり、今回も日付けよりずっと下に武田四郎殿と書かせて見下したという。また日付も書いていない。しかし、これは恐らくこの頃のことと思われる。
3月小
9日 信長は、先月28日に京都での天皇の観閲に備えて近隣の諸将を招集し馬ぞろいをした。
その隙に上杉景勝の家来の河田豊前守長親(越中松倉城主)は、地元の勢力を集めて佐々内蔵成政の越中、小井手の城を攻めた。また加賀の一揆が景勝側について、加賀の白山の麓、府峠の砦を抜いて、柴田勝家の家来毛利九郎兵衛など300余騎を討取った。このことが加賀の尾山城に届いたので、城主佐久間玄蕃允守政は直ちに府峠に駆けつけ、一揆衆を追い払い、まもなく砦を奪回した。
15日 この出来事が安土に届き、信長は佐々成政、神保安芸守氏春と越前府中の三人衆、不破、前田、金森に、柴田勝家の兵を加えて早速北国へ行かせた。
22日 家康は高天神の城の食料が無くなったので城兵が困って逃げ去るだろうと察して、兵が出てくる方向へ陣を固めさせた。
二股の城主、大久保七郎右衛門忠世が守っている林谷口は高い山と深い渓谷があって、前には六笠の城と掛川牧野の城がある。南方には大阪山と横須賀の城があり、家康が横須賀に控えているので城兵は出ようがなく、どこにも行く場所がない。したがって忠世は時間を決めて見回る侍6人を一隊として守らせていた。
城兵は夜中に囲いを破って逃げ出そうと考えた。彼らは2隊に分かれて林谷の守りが薄いのを察し、岡部丹波眞幸、横田甚五郎尹(*おさ)松、相木市兵衛昌朝などが夜半に林谷口へ突撃した。寄せ手の大久保平助忠教(忠世の弟)など6人の衛兵や19騎が駆けつけて交戦した。
丹波を平助が槍で突き、本多主水が首を獲った。大久保の兵は首を5~6個取ったが、横田甚五郎と相木市兵衛は大久保忠世と大須賀康高の陣の間の柵を破って逃亡した。宗徒の敵を小栗又一が1人捕らえた。
城兵は300人が一列となって、石川長門守康通と足助勢が守る高原の地は入り江のようで取り囲まれる危険が少ないと踏んで突撃してきたが、石川の夜警は守備が堅くて、挟み撃ちにして全員を討取った。夜が明けてみれば堀は死体で埋まり、首が取られた。生き残った残兵は水野国松勝成の陣営に連れて行かれた。国松はまだ子供だったので本陣にいて、同苗太郎作清久と村越與三右衛門が陣代だった。
敵が突然出て来たので国松の陣は慌てている間に、敵は頑丈な堀や柵を破ってきて危ないところだった。しかし、大久保忠世の本陣は国松の陣の隣だったので直ぐに忠世の部隊が駆けつけ、敵の多数を討取った。
本多忠勝、鳥居元忠は逃げ出そうとする敵を肘金曲輪に追い込んで攻めた。長澤の松平源七郎康忠は家康の命令で、命がけで一隊をつれて追手の櫓を焼き落とした。
的場郭の敵は逃げ、戸川三郎右衛門忠次の家来、芳賀清助、石原孫十郎、大屋喜助、植田十兵衛は先鋒して城に乗り入れた。(家康は後に芳賀をと石川を呼んで感謝状と村50貫を増やした)、
戸田康長は家康に頼んで的場曲輪に乗り入れて火を放ち手柄を上げた。(26歳後松平丹波守)、深溝の松平主殿助家忠の家来、板倉木工右衛門忠重は先に城に突入し、敵と戦って堀に墜落した。忠重も一緒に落て敵の首を獲った。弟の喜蔵定重(28歳)など、家忠の家来は5騎戦死した。渡邊平六眞綱は槍で戦い相手の首を獲ったが、更に進んで戦死した。刈屋口では小林勝之助正次が、槍の腕で有名だった大河内善兵衛政綱の首を獲った。大須賀の部下の坂部三十郎廣勝らは手柄をあげた。
落城に備えて家康は内藤三左衛門信成と菅沼次郎右衛門忠久を国安に行かせて陣を張らした。予想通りあとで敗兵が来たので2人で13人を討取った。
〇水野勝成について調べてみると、水野惣兵衛父子がこの時肘金曲輪に乗り込んだと、いろいろな資料に書かれているのは間違いで、2人が乗り込んだのは去年の10月22日である。
23日 石川伯耆守数正は高天神の城に入って、以前捕虜となって場内の牢獄に入れられている御家人の大河内源三郎政局を探し出した。8年間も牢にとじ込まれていたので、彼の足は麻痺して椅子に乗せて家康の前に出た。家康は長年の石牢での苦労を考えると誰にも比べられないと非常に感心した。
彼は自分が捕らえられたことを謝るので、皆は「あなたが捕まったのはあなたが弱かったのではなくて、高天神の城主の小笠原與八郎が裏切って武田についいたためで、あなたは監軍として其の城にたまたま居たので敵のとりこになっただけだ。むしろ名誉なことだ」と異口同音にいった。しかし、彼は、「囚われたのは戦わなかったのと同じことだ」と髪をそり、皆空と名乗った。家康の命令で、尾張の津島の温泉で湯治すると足の痺れは全快した。彼は遠州の稗原の地を与えられた。(天正の長久手の役で彼は戦死した)
家康は高天神の近所の山や谷で落ち武者がいないか徹底的に探すように命じ、色々探して兵は討取ったが、雇われ兵の首は取らなかったという。
大久保忠世の家来の三倉忠右衛門定次は、甲陽の武将孕石主水を捕らえていた。その昔家に家康が今川義元の質子となっていた頃のこと、彼は義元の家来で家が家康のいた住まいの隣にあった。
家康が上の原へ小鷹狩に行ったときに、鷹が間違って彼の家の林に入ったが、その時と彼は「三河の倅にはもうあきあきした」と罵っていつも無礼だった。家康はその時の態度を糾弾して、孕石を殺害した。
小栗又一も取った首を家康に献じて、何度も手柄を上げたことを認めてもらって御家人になったので目が出た。
〇結局、家康勢は高天神の城を落として首を730取った、首を取られた武将の名前は次の通りであった。
駿河勢:岡部丹波、三浦右近、三浦雅楽助、森川備前、孕石和泉、朝比奈彌六、近藤與兵衛、油比藤太夫、岡部帯刀、松尾若狭、名郷源太、武藤刑部、六笠彦三郎、神應但馬、安兵衛
信州勢:栗田鶴壽丸と従者2人、栗田刑部、栗山彦兵衛、同弟2人、勝股主税、櫛木庄左衛門、山上備後、和根川雅楽、水高備中
上州勢;大戸丹後と従者、土浦野右衛門。横田甚五郎(遁去)従士、土橋五郎兵衛、福島木工助、
信州勢:依田能登(遁去)の従士、依田美濃、依田木工左衛門、依田武兵衛、河上三蔵、江戸主税助
監軍:江間右馬允直盛
味方の首帳(各人などが取った首の数、首級の記録簿、単位は「級」)
鈴木喜三郎重時 (『鈴木家伝』によれば、これは鈴木の一族、越中重愛、友之助、信喜、忠兵衛、重次らが討ち取ったものである。忠兵衛友之助は中でも貢献した):238、
水野国松勝成:15、
本多作左衛門重次:18、
内藤三左衛門信成:7、
菅沼次郎右衛門忠治:6、
三宅惣右衛門康貞:5、
本多彦次郎康重:21、
戸田三郎右衛門忠次:7、
本多庄左衛門:5、
酒井左衛門忠次:42、
石川長門守康通:26、
大須賀五郎左衛門康高:171、
石川伯耆守数正:40、
松平上野介康忠:10、
本多平太郎忠勝:21、
植村庄右衛門忠安:6、
大久保七郎右衛門忠世:62、
榊原小平太康政:42、
鳥居彦右衛門元忠:19、
松平玄蕃家臣:1、
久野三郎左衛門宗能:3、
牧野勘八郎:1、
岩瀬清助氏則:1、
近藤平右衛門秀用:1、
松平 赫:1、(赫は幼名で、東條の松平甚太郎義春の甥、陣三郎親資の養子、大河内左衛門佐元綱の次男である)
鳥居俄右衛門:13、 (菅沼新八郎定盈の家来である)
24日 家康は浜松城へ凱旋した。一昨年以来高天神城の攻撃に参加した将兵の功績を誉め、休暇を与えた。
佐々木内臓助が越中の中郡に着任した。これを聞いて小井手を囲む敵は直ぐに退散したとの連絡があった。信長は前に神保安芸守氏春を越中の国士としたが、これを変えて佐々木を守護とした。
25日 丹後は信長の支配下の土地であるが、完全ではなかったので、丹後を細川兵部大輔藤孝に与えて行かせた。実は藤孝には、前の国主の一色左京太夫義定を殺して邪魔を除くよう密かに信長が命じていた。藤孝は義定を宴に招待した席で暗殺した。
一色式部少輔藤長は幕臣として重職について、丹後の山辺の城を持って、畿内10箇所の荘園を持っていた。義昭が都を逃れたとき丹波に行き田邊の城で将軍を助けた。しかし、諸国の味方が信長に降伏したので、藤長は長年の友人である藤孝のもとに行っていた。
〇この春、伊賀の国主、拓殖三之丞宗家の子、三之丞清廣は浜松に来て、「伊勢は元来、仁木の領地だけれども、義植将軍の時に拓殖や服部などが国士で守護の仁木兵部少輔を討ち取って分割統治し、互いに勢力を競っている。信長は伊勢を支配しようとしていたが、地元はそれを嘆いて、伊勢は家康につく」ことを家康に申し述べた。
家康は「今は自分と信長は同盟を結んでいるので、自分が伊勢を統治することは出来ない。皆は早く信長に降伏して領地を確保すべきだ。清廣父子には、住まいを三河や遠州へ移して親しくなろう」と言った。三之丞は伊勢へ帰って家康の意向を伝えたけれども、国人は信長につくことを拒否した。
4月大
16日 若狭の高浜の逸見駿河守昌経が病死した。
信長は彼の領地8千石の内、武藤上野介信由、粟屋越中勝久の跡3千石を武田孫八郎元次に授けた。元次は神宮寺の桜木に蟄居していた。残りの高浜の城5千石は、溝口金右衛門秀勝(後伯耆守)に与え若狭の目代とした。この溝口は若狭武田の庶流で長らく落ちぶれていて、当時は丹羽長秀の家来となっていたが、優れた武将だからである。
5月小
23日 武田勝頼は、この春高天神が落城したときに戦死した遺族の子弟に、家督を継がせた。信州善光寺の別当、栗太鶴壽丸(山縣政景の婿)の子永壽丸に与えた手紙には、
『(*概略として)あなたの父上は3年間高天神城で立て籠もり、粉骨を惜しまず働かれて戦死された。彼の志は非常に重く受け止めている。ついては父上の所領と知行はあなたに与えることを保証する。これからも自分に忠節を尽くす様に』
と書かれていた。
〇横田甚五郎は高天神の城から脱出して甲陽へ逃れたが、勝頼は己の死を覚悟して援軍を辞退したことを誉めて、刀を与えた。横田は「城から逃げ出すのは勇気がないのとおなじだから誉められることはない」と刀を返した。この人は武田が滅びた後、家康について領地をもらい、使番となった優秀な武将で、子孫は繁栄したという。
6月大
5日 北条氏政は、家康方について信長へ駿馬3匹を贈り、瀧川一益がそれを信長へ届けた。
28日 家康は浜松を出て目付に駐屯した。
7月大
3日 遠州の相良の砦を改修した。松平主殿が陣を張った。
〇甲州で、穴山梅雪斎が勝頼に「遠州の城飼郡が再び家康領になった。武田は北条とも手を切ったのだから必ず家康は信長と結託して甲陽に攻め込むだろう。だから居城を韮崎に築いて防衛すべきだ」と進言した。勝頼は同意して直ぐに建設を始めた。これが新府城である。
9月大
〇上旬、信長の命令で信雄と信孝は大和、近江、伊勢の七道から伊賀へ攻め込んだ。富益、久野、羅上山、丸山、壬生、野佐、奈子嶺、下風、河合、甲屋、岡本、国府、木奥などの城は全て今月中に落とされ、伊賀の国士75人と一族は多数が討ち死にした。伊賀は信長に征服され、信長は信雄に伊賀4郡のうち3郡を、1郡を織田上野介信兼に与えた。
10月小
13日 三河の設楽郡名倉の奥平喜八郎信光の領地は、信州との境にあり、地勢上もっとも美濃と関係が深いので、家康の家臣にもかかわらず国境に砦を築けと家康は信長に命令された。今日瀧川左近将監からその旨の書状を受け取った。
11月大
朔日 下野の長沼の城主、皆川山城守廣照が家康方について、信長に駿馬を2匹贈った。
使者の関口石見を廣照の兄の京都智積院が信長に会わせると、信長は喜んで紅花50斤、虎の皮5枚、ラシャの布百反を山城守に贈った。関口にも黄金1枚を与えた。石見はそれをもらって国に帰るとき、皆川は良い馬1匹、家康にも贈った。家康は手紙と上等の茶3斤を返礼として贈った。
12月小
15日 家康は馬伏塚で狩をした。
17日 牧野の城の加番の交代として松平主殿助が城へ入った。
18日 来年信長は駿河と甲州へ出撃するために、西尾小左衛門吉次に糧米8千石を三河吉良と東條の城に運ばせた。これは羽柴秀吉が山陰を平定するのに成功したので、次は東国を征服することにしたからである。
〇この日、家康は竹谷の松平玄蕃に妹を妻として与え、諱を一字与えて家清とした。
20日 東條の松平の名門で、次丸の後見人である松平康親に印章を与えた。
〇今月、奥平美作守信益の嫡子、九八郎(二代目)が15歳で家康に前に出て元服をした。諱を一字と守家の刀をもらって家昌となった。(後の大膳太夫)
森川金右衛門氏俊と渡邊彌之助光が軽卒の隊長となった。御家人の前田五左衛門定久が死去した。
〇この年、桜井庄之助勝次が浜松城で死去した。
〇関東の反町大膳幸定の傳によれば、この年、勝頼と景勝が交戦した。勝頼は信州の諏訪まで原隼人と馬場民部昌行を行かせ、海津の高坂と幸定が魁になって犀川の渡しで景勝と戦った。大膳が一番槍をなした。
武徳編年集成 巻19 終
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