巻17 天正6年正月~12月
投稿日 : 2016.03.12
天正6年(1578)
正月大
元旦 諸士が浜松城に参集して新年を祝った。
16日 家康は浜松を発って岡崎へ赴いた。
18日 岡崎城に滞在していた信長は、三河の吉良で鷹狩をして4日間に及んだ。
この月信長が正2位に叙された。
2月小
4日 三河と遠州は大雪となり4尺(1.2m)程積もった。
18日 浜松の城の建設がこの春から開始される予定となった。
3月大
朔日 近々、家康は駿河へ出撃するので、浜松の城の建設は一時中止させた。
7日 家康は浜松を出発して掛川城へ着いた。今回、井伊満千代直政は初陣である。
8日 家康は大井川の川岸まで移動した。武将たちに駿河の志田郡田中の城辺りに出撃させ戦わせた。井伊満千代(28歳)は戦いに挑んで、いつも目立っていたので彼は豪傑だと皆は感心した。
9日 田中の城に攻撃をかけた。前夜、家康は御家人の酒井與九郎重頼、内藤甚五郎左衛門善教、熊谷小一郎、小栗又一忠政を選んで城壁に忍び寄って様子を窺わせた。城からは伏兵が出ているので彼らと交戦し、又一は3度槍で対戦し1人を討ち取った。他の3人も奮戦して伏兵を城へ追い込んだ。
本多、榊原、東條の松平甚太郎家忠、深溝の松平主殿助家忠は外側の曲輪へ押し寄せた。主殿が堀の深さを調べると浅く敵兵も少なかったので、柵を破って外の郭に侵入して本城へ迫った。
一条右衛門太夫信就の家来が、槍を構えて門外の橋で守っていた。
大須賀康高の家来久世三四郎、榊原の家来中根善次郎、本多忠勝の家来向坂惣十郎、井伊直政の家来近藤平右衛門秀用(後の登之助)が橋に向って突撃した。戸田三郎右衛門忠次の家来黒田次郎右衛門、安形平兵衛、岸上勘三郎、福井源蔵が続いて参戦し、主殿助家忠の家来彦十郎が敵の首を得た。
味方は苦戦して勝負はつかなかった。
家康は渡邊半蔵守綱と同半十郎政綱に兵を引くように全軍に指示させた。渡邊兄弟は味方の前方に出て一斉に軍を進めると、敵兵が散らばったので彼らはその時を狙って味方を引き取らせた。
家康は今朝選んだ4人(*酒井、内藤、熊谷、小栗)を呼んで、「なかなか勇敢だったが命令には叛いた」と叱って追放した。(*小栗)又一は横須賀の大須賀康高の家来となって味方として働いた。(高天神城が落ちたときに彼ら4人には戦功があったので再び家康の御家人に復帰した)
〇『小林家伝』によれば、勝之助正次も4人と同じく堀の下に隠れていたが、城内から松明を灯して見つけられたので皆は驚いて退却した。正次と松平善四郎康安は逃げずに城内を窺って本陣へ戻った。
10日 家康は兵を牧野の城へ収めた。
11日 上杉謙信は夜中に(*脳)卒中によって倒れ意識がなくなった。15日に春日山を出て近江と美濃の間で信長と決戦をしようと軍勢を集めたところだったという。
13日 家康は遠州小山の城を攻撃した。
〇ある話では、味方が敵の馬伏塚へ出兵するとき、大須賀小吉は軍の命令に反したので家康は怒った。小吉は本多忠勝の陣営に逃げ込んだが、家康は彼の陣の外まで出向いて、「小吉を出さなければ忠勝も殺す」と命令した。酒井左衛門はこの意向を汲んで小吉を平八郎の家より出し、牧野半右衛門正勝の家で自害させた。彼は康高の弟で21歳だった。彼は今回の戦いでも敵の首を獲ったのではあるが、軍令を犯したことで許してもらえなかった。ただし、3月とあるだけで日日が伝わっていないので、仔細を論じることは出来ないが、一応参考としてここに記した。
〇この日、越後、越中、能登、佐渡の全てと、加賀、飛騨、上野の半分を支配していた、従五位下、弾正大弼兼越後守藤原輝虎入道謙信が49歳にて死去した。彼の性質を評して、「膽智策略迅速激烈、寡をもって衆をくじく(*少人数で多数に勝つ)」というのが人々に親しまれている言葉であるが、あまりに厳格な性格だったために、敵の国を懐柔させることが出来なかったという。
〇上杉家に伝わる話では、謙信は度胸があってスムーズに軍を進める術を編み出し、その強さは世間で賞賛されていたのはもちろんではある。また、私欲を抑え清廉で嘘を恥として他人を欺くことがなかったので、敵もそのまじめさに服従した。降伏や和融においても人質を要求することはなかった。しかし、猛勇で怒りやすく、激しくて生涯で自分で手をかけた者が90人にもなり、罪で死刑に決まったものを庭に連れだし、三十五人衆を放して斬り殺した。したがって、普段は賞罰に私が無くやさしい人でありながら、どの家来たちからも危険視されていた。しかし、ここ2年ほどは勢いが衰え、殺人を嫌い、自分が了解して決めたことを疑って翻し、刑を与えることが多かった。特に病で倒れてからは、食欲が無く痩せて、結局持病によって遂に死亡したとある。
18日 家康は軍を浜松へ収めた。
4月大
3日 信長方の播州三木の別所小三郎長治は、毛利に通じて信長に反抗した。今日ようやく羽柴秀吉は三木の砦と野口の城を落としたが、三木の城を落すのには3年もかかった。
7日 上杉謙信が没したのに乗じて、信長は佐々権左衛門政祐を軍監として妹婿の神保越中守正武に越中を攻撃させた。
5月小
4日 家康は駿河の田中の城を攻撃した。大須賀康高の隊は雨のためと訳あって遅参したが、彼は外の郭を破ったという。
〇『松崎家傳』によれば、権七郎は康忠の近臣、三右衛門の子で、この戦いで戦死した。家康はその幼子に家督を与えた。彼は後に善右衛門となった。この事項は諸禄には書かれていない。
〇『岡田家傳』によれば、家康は田中の城へ出撃したとき、先鋒の松平周防守康親の隊の岡田竹右衛門元次は、安倍川の中で馬上の敵を切り落とし、服部小十郎が首を取った。この年月は不詳であるが、恐らくこの時と思われる。
8日 遠州の井谷で近藤周防忠用が死去した。この人は登助満用の子で、当時は石見康用の父である。
7月小
11日 高天神の城兵と家康軍が新川村で戦った。
〇一説によれば、ある日、甲州勢が50騎ばかりで横須賀へ攻めてきたことがあった。大須賀五郎左衛門の兵がそれを聞いて直ぐに50騎で城を飛び出した。敵は退却したが、彼らは追撃しなかった。勝頼方は嘲笑ったが、岡部丹波眞幸は横田甚五郎尹松に「吾らが帰るときに大須賀勢が跡を追わずに退路を開いたのは彼らが弱いのではない。伏兵を潜ませているからではないか?だから本道を通って帰ってはならない。回り道をして帰ったほうが安全だ」といった。
甚五郎は「敵が引き取ったからといって本道を避けて帰ると後が厄介だから自分が見届けてこよう。もし伏兵がいれば大急ぎで本道を駆けて1里進むので。そのときには3里回り道をして帰ればよい。もし伏兵がいなければ扇で招くから本道をまっすぐに帰ればよい」といった。皆は「実際には伏兵がいるだろうから尹松が本道を通って帰ることは出来ないだろう」というと、尹松は「自分たち50騎を狙っている伏兵が、自分1人を襲うはずがない」といって本道へ駒を進めた。するとやはり伏兵はいたが攻撃してこなかった。そこで彼はまっすぐに城へ戻った。それで高天神軍は結局3里遠回りして城に帰る事になったという。岡部と横田は城番が終わって帰国し、また翌年に高天神の城番となって落城までそこにいた。
8月小
7日 牧野の城の城番として松平甚太郎が西郷氏と交代した。
8日 大須賀勢は高天神の城下、国安川の岸まで進んで交戦し、坂部三十郎廣勝など多数の首を獲った。本多忠勝、石川康通、久野宗能がこれを浜松に報告した。
久世三四郎廣宣、近藤武助、芝田三十郎、拓殖又十郎、神谷平六は、この時火砲で城兵を多数撃ち倒した。大須賀康高は横須賀城から日暮れに高天神の城へ兵を進めて攻撃したので、城兵は毎日困らせられた。
10日 深夜になって高天神から、篠田源五が遠州の山名郡木原村へ逃げてきた。郷民の太郎兵衛はこれを地頭の木原七郎兵衛吉次に伝えた。吉次は直ぐに木原権現の宮司の鈴木織部久秀とともに駆けてきて、吉次が源五を討ち取った。久秀は敵の2本の刀を取り上げた。家康は感心して源五の刀を吉次に与え、神官には金10両を贈った。
〇『木原家伝』によれば、吉次は鈴木平兵衛吉頼の子で、吉頼は天正3年5月18日、家康の命令で住所、村木原を屋号としたという。
21日 家康と信康は遠州の小山の城を襲撃した。
22日 家康父子は大井川を渡り、軽卒を先に行かせて駿河の田中城あたりの稲を刈り取らせ、兵を分散させようとしたが、城将の一条右衛門太夫信就が出撃して抗戦すると察して、城を攻めるふりをして兵を城の近くへ進めた。城兵が出てきて抗戦した。榊原康政の兵と清水久三郎は2度槍を合わせた。続いて味方の兵が多勢でかかって行ったので、城兵は慌てて城へ戻った。
その時、康政の兵の小澤兵右衛門は1騎で陣地を出て鉄砲で敵2人を撃ち殺した。すると城の中からも鳥銃で撃ち返してきて、小澤は撃ち殺された。康政の部下の伊藤雁助が付き添っていたので、小澤の遺体を肩に架けて戻った。
そのころ康政の部下の中根善次郎は槍を構え、鈴木藤九郎は鉄砲を持ち、鷹見新八郎は弓を構えて城門へ挑み、善次郎が槍で交戦している間に藤九郎は、城門の戸から城に乗り込もうとした。敵は急いで戸を閉めて、藤九郎を押し出した。この3人が虎の口へ迫ると、敵は総攻撃に合うと思って慌てて鉄砲も撃てなかったので、3人は傷も負わずに後ずさりして戻った。一条右衛門太夫が郭の門に兵を固めて防衛に専念していたので敵は撃って出てこなかった。それで味方の兵は楽々と帰ってきた。
家康は石川伯耆守を後殿として城を離れ、牧野の城へ入った。そして松平主殿助家忠を大谷の城へ行かせた。そのとき平岩親吉の家来が稲刈りをしていたが、その中に敵に傷を負わされた者がいた。家忠の従者はその人を連れて井呂へ送った。家康は中根善次郎と鈴木藤九郎を呼んで彼らの働きを誉め、康政も藤九郎に馬を贈った。
26日 松下主殿助は駿河の田中に行って稲を刈った。
28日 暴風雨があった。明け方に敵7~8騎が牧野の城辺りへ様子を視に来た。
9月大
4日 家康は牧野の城に兵を収めた。この城の番は戸田孫三郎康長に代わって松平主殿助が務めた。
6日 家康は三河の諸武将に牧野城の城壁を補修させ、板倉四郎右衛門勝重に兵糧を蓄えさせた。家康と信康はそれぞれ牧野の城から浜松と岡崎へ戻った。
12日 家康は浜松から岡崎に赴いた。
13日 高天神の城下にある峰山で、大須賀勢は城兵と交戦した。久世三四郎が矢を発して敵を多数射殺した。
14日 家康は岡崎から浜松へ帰った。
24日 信長の援軍の将、斉藤新五郎は越中へ出撃して、遂に上杉方の椎名小四郎泰純の津毛の城を落し、そこに神保越中守正武を入れ、更に今泉の砦を攻撃して500人あまりを討取った。小笠原右馬助長隆は富山の城を取り、河田長親が魚津の城を包囲した。
10月小
8日 大須賀康高は高天神の城下の三峰山で合戦した。坂部三十郎廣勝(28歳)は敵の野中郷左衛門を討ち取った。
19日 武田方が甲陽を出撃したとの連絡が入った。
21日 高天神城の近くの川上村で、家康軍の久世三四郎、坂部三十郎、氏家金次郎、近藤武助、菅沼兵衛、鷺山伝八郎が城兵を討取った。
27日 勝頼が駿河に到着したという連絡が入った。そこで信康は岡崎から浜松へ入った。
28日 勝頼の先陣が遠目峠を越えたことを牧野の城将から連絡があった。
申の刻(午後3-5時)に大きな地震があった。
30日 武田軍が大井川を越えたという知らせが牧野の城から届いたので、三河の諸将は見付の宿まで進軍した。高天神城から1人の敵が味方の陣地から抜け出る所を渥美源五郎勝吉が討ち取った。
11月大
2日 勝頼は小山と相良あたりに陣を敷いた。家康と信康は馬伏塚にへ向けて出撃し、各部隊は芝原に駐屯したという。
3日 家康と信康は横須賀の城の近くの大淵の郷、熊野大権現を祭った三社山に陣を設けた。各部隊は山下に駐屯した。全部で8千の勢力であった。
勝頼は横須賀の城を攻撃しようと進軍するとき、(*家康たちが陣取っているので)三社山の麓を通ることが出来なかった。そこで塩買坂の本道を避けて浜辺を進軍した。勝頼の家来、小笠原與八郎長忠、山縣の陣代小菅五郎兵衛元成らは、海から横須賀の城へ迫った。城将、大須賀康高の部下の筧助太夫正重が出撃して火砲数100丁で攻撃したので、敵は戦わずに退却した。渡邊半蔵守綱は跡を追って敵1人を斬った。大久保四郎次郎がその首を獲った。この時討取った敵はこれだけだった。
〇勝頼は軍を17隊に分けて、家康軍の陣地と入り江を隔てて陣を張った。
信康は木原平兵衛吉頼を連れて密に勝頼の陣所の3町前まで馬を進め、敵陣を偵察してから一戦を挑もうと家康に進言した。しかし、家康は、「大敵に対して地の利の整わない所で戦ってはいけない。敵が入り江を渡ってきたら三社山から兵を出して戦うべきだ」と敵が来るのを待った。内藤市四郎左衛門正成もここで戦うのはよくないと信康を制止した。
勝頼も戦いをしようとしたが、戦闘を熟知している高坂弾正晴久は兵を引いて高天神の城へ向かった。
横須賀から大須賀の武将渥美源五郎勝吉、鷺山伝八郎、浅井九左衛門、拓殖又十郎らが武田軍を追撃して、渥美と拓殖がそれぞれ敵の首を獲った。家康は渥美の活躍を誉め胴服を贈った。
〇『小栗家伝』によれば、又一忠政は馬伏塚で一番槍をあわせたというが、それはこの時だろう。
〇ある話によれば、馬伏塚の戦いの前日、大須賀の方へ鳥居金五郎(後、彌右衛門)という浪人が武者修行にきて、伯父の鳥居金六を頼って康高に仕えたいと頼んだ。康高は、兵が多くて食料が乏しいので帰ってくれと断ったが、鳥居は自分と奴隷2人分の食べ物をくれればそれでよいと述べた。康高は彼の望みを叶えた。
翌日の戦いで、敵のいる方角に土居があり、味方はその陰に隠れて鉄砲を撃っていた。金五郎は長さ2間の紙の指物をつけて土居の上に登って立ち鳥銃を発した。家康は遠くから見ていて、「あれはあっぱれだ」と感心し軍使に名前を聞かせた。金五郎はいろいろと経緯を説明したので、家康は非常に喜んで褒美を与えたという。
7日 三河の刈屋の水野藤次郎重次は、摂津の荒木摂津守村重が信長を叛いて伊丹、尼崎、花隈、石岡などの城に兵を立て籠もらせ、中国の毛利丹波の波多野、大阪本願寺と連合したことを信長に連絡した。信長は間見仙千代を大将として荒木を攻めるように命じた。家康は水野藤次郎重次と同太郎作清久と15騎の武将を援軍として派遣した。
〇『水野清久家伝』によれば、仙千代は有間(*馬)城を攻めた。城中に忍んでいた近江の甲賀の侍が手引きして寄せ手を城へ引き入れる約束になっていたが、城将が感づいて衛兵を交代させたので、甲賀の侍は裏切ることが出来ず、寄せ手は約束の時間に攻め込んだ。
水野太郎作清久が一番乗りして堀の柱に取り付いたが、敵の矢に首から肩先まで射抜かれ、浅い水堀に落ちて息が絶えた。彼を陣に担いできてみるとわきの下が まだ温かかった。そこで突き刺さった矢を引き抜き鎧をそのままにして朝から夜まで介抱していると、息を吹き返し、しばらくは生きていた。
藤次郎重次も堀に取り付いたところを火砲で胸板を撃ちぬかれ、大将の仙千代や都築藤太夫(水野惣兵衛忠重の小舅)など多くが命を落とした。
14日 勝頼が一昨日に高天神を退いたので、味方の先隊の武将たちは家康の命で遠州の掛川の益田に軍を進めた。敵の先兵は大井川を越えて、勝頼は牧野の城まで来たという報告があった。
17日 敵の3つの隊は、駿河の島田に来た知らせが牧野城から入った。
19日 敵は青塚の駐屯地を引いて田中城に退いたという。
晦日 勝頼は25日に甲陽へ退却したという連絡が入った。家康と信康は二社山から兵を引き、牧野からの援兵も帰った。
12月小
2日 家康は浜松から岡崎へ帰った。
〇今月、武田の家臣で信州、海津の城主、高坂弾正晴久が死去した。以後は長坂長閑と跡部大炊信元が国政を牛耳って、勝頼の暴挙が日増しに増えた。
〇この年、徳川家の老臣、遠州、掛川の城主、石川日向守家成が引退した(70歳)
彼の領地や家来は嫡子の左衛門太夫康通に譲られた。家成は老後のための領地をもらったが、後年外孫の大久保内記成尭を養子としてこれを継がせた。
〇福釜の松平右京亮親盛の部下、天野彦右衛門忠次の三男、彦八郎忠重が19歳で御家人になった。
武徳編年集成 巻17 終
コメント