巻24 天正10年8月~11月

投稿日 : 2016.03.31


天正10年(1582)

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12日 以前氏政の命によって、北条左衛門佐氏忠、右衛門佐氏尭、左衛門太夫氏勝は1万あまりの軍勢で甲州都留郡に入り、黒駒と味坂の城を守っていた。

氏忠は、「古府と善光寺の徳川の勢力が少ない内に、氏忠が火攻めにして撃破し、氏尭と氏勝はその煙を合図に新府(*韮崎)を攻撃すると、徳川は耐え切れず、下山筋を経て駿府へ撤退するだろう。その時に氏忠と氏尭は二手から追撃しよう」と考え、氏勝は東郡へ動き、左衛門佐氏忠は雑兵3千あまりで、味坂から黒駒に兵を進めて、市川の姥口という山まで戻って駐屯した。

古府の老臣たちはこれを察して、すぐに鳥居彦右衛門元忠、内藤藤三左衛門信成、水野藤十郎勝成(後の日向守)、松平備後守清宗、高力権左衛門正長、三宅惣右衛門康貞など千500あまりを出撃させた。佐衛門佐氏忠勢は相手が小人数だと油断していたので、家康勢の急襲を受けて大敗を喫した。内藤信成は敵を黒駒城へ追い込んだが、北条方も盛り返して抗戦した。

水野勝成の部下の大田仁蔵が一番首を取った。鳥居元忠は敵の後詰の攻撃を遮ったので、北条方は思案して進軍を止めた。元忠の部下の鈴木源助が一番乗りした。元忠が指揮を取って兵を進め、後続の家来100騎がこぞって突撃して敵は大敗した。

間宮新左衛門康信、田中五郎左衛門、中野某をはじめとして、多くが戦死した。内藤信成の1隊は首30あまりを取った。敵方も藤岡と筑井の内藤大和秋宣が堂の木の町で引き返して、何度も抗戦した。松平清宗も2度も槍を合わした。三河の浪人佐橋甚五郎は強弓の士で、水野勢と同様に堂の木の橋の際で矢で戦ったが、鉄砲で弓を打ち砕かれた。

水野の部下、滋野前十郎、落合左平次、三宅の従士、大河内某、巨摩郡の武川衆はよく戦った。その外、辻甚内、高橋次左衛門、中根長右衛門、土屋次郎右衛門などは力を合わせて敵を味坂の下まで追撃し、敵は岩や石に当たって死亡した者は全部で2千670あまりだったという。西江右京、福島丹波、大草丹後、内藤右近は山林へ逃げ込んだ。氏忠の馬は疲れて動かず、福島の馬を借りてようやく1騎だけで、味坂の城へ逃げ込んだ。

〇『高力家伝』によれば、権左衛門正長(後河内守)は平原次郎を討取って、家康から刀をもらった。

〇ある話によれば、今日、家康は新府で戦場の煙を見て、「味方は勝ったな」というと、果たしてその報告が来た。また、「滋野善十郎は怪我をしない士なのでやってくれるぞ」というと、はたしてその通り首を取ってきた。この人は後に常陸介頼宣の家来となった。

〇新府では、今日古府で取った首300ほどを陣の近くの柵にかけた。氏直勢はこの敗戦を知らなかったが、この首が自分の知り合いや親戚のものだったの見て驚き悲しみ、以後家康を恐れるようになったという。

〇ある話では、知見寺越前は、若御子で手柄を上げた。家康は彼を蔦木と名前を変えさせて御家人とした。

〇ある話では、若御子筋での幾度もの戦いで大須賀と榊原が勝ったとき、家康は彼らに、本多豊後守廣孝を加えてこの地に駐屯するように命じた。これは界隈の国人と謀って、氏直を古府へおびき寄せるための配慮だったという。

〇巨摩郡恵林寺筋の麻木の城の勢力に、家康方の岡部次郎右衛門、多田淡路などの兵が加わり、敵の黒澤上野の2千あまりの軍勢を破った。また、大村存生を増上淡路が討取り、存生の子伊賀を岡部忠次郎が討取って、大野の砦に持ち帰り、松平家清と内藤家長に報告した。(黒澤はすぐ兵を撤退させた)

〇松平周防守康親、大澤兵部大輔基宿、小笠原安芸信元、同丹波安次、同市蔵時忠、(小田八嶽重次の子)は三枚橋の城を守った。韮山の北条美濃守氏規の兵は、小田原から加勢した橋本兵部とともに三島へ出撃した。康親は黄瀬川を越えて合戦し戦勝した。小笠原の部隊が特に活躍した。しかし、丹波安次(51歳)と市蔵時忠および康親の兵の都筑助太夫重次、岡田藤八、山崎清四郎、更に小笠原信元の部下、大嶽彌吉などが戦死した。康親の家来の石川善太夫昌隆は深い傷を被った。小笠原信元が活躍した。

伊豆の戸倉にある康親の領地に砦を築き、家臣の岡田竹右衛門元次と、援軍の将服部半蔵の90ほどの兵が入った。彼らに稲を刈らせるために三島へ行かしたところ、北条方の「八重がまり」(*伏兵の襲撃)を受けて多くが討たれた。松井石見守正康(後は松平)、平岩七兵衛、星野氏父子、甥が5人踏み止まり奮戦した。味方は彼らに激励されて盛り返したが、敵は多数なので星野は馬を引き寄せて乗ると、子と甥も馬に乗るのを見て、「このように後攻めの場合は、馬を敵の方を向かせて乗るものだ」と声をかけ、敵がすぐそこまでくると、今度は馬から飛び降り、「これに習え」と又馬を引き寄せて乗った。そうしてその間に若い士たちを退かせ、自分は少しずつ後ろへ引いた。彼のこの様子には、敵も味方も感心した。彼は味方の方を向いて、「自分は逃げ上手だ」と冗談をいった。

この戦いで康親の組の水澤水右衛門は、猿の皮の靱(*やす、矢を入れるもの)をもって敵をどんどん射殺した。彼は後に尾陽侯忠吉朝臣に仕えやがて義直の家来となった。

〇家康方の海賊は、伊豆の足城を破って多くの敵を討取った。向井兵庫勝次は旗を持った敵を討取った。

14日 海賊の阿善九らが政臣書(*?)を沼津城へ送った。天正10年8月14日 沼津城 .jpg

〇敵は重ねて松平康親の持ち分の伊豆、戸倉の砦を襲った。三枚橋から防州(*周防守康親)の後攻めが、北条方を破って韮山の外郭の木戸辺りまで追撃し首を30取った。その後、戸倉から康親の家来の岡田竹右衛門と援軍の服部半蔵が、交代で韮山あたりへ兵を出し刈田をした。富永源六郎は活躍して後で家康に誉められた。黄瀬川での戦闘で、関東の浪人の反町大膳幸定は北条勢にいたが、徳川衆の8騎に取り囲まれ、その内の2騎を突き落とした。荻原新左衛門が来てもう1騎を討ち取って逃げ帰った。(氏政は幸定に褒美の馬を与えた)

19日 家康は先日の信州蘆田小屋での戦いで活躍した、甲陽の武将たちに感謝状を贈り、辻彌兵衛盛昌の部下の今井兵部が首を取ったので印章を与えられた。534a2cee2bb4a514a04060d7f5780e6cdbd01e12.jpg

20日 家康は古府を訪れて諸将を観閲し、鳥居彦右衛門元忠に甲州都留郡を授けて証文を与えた。そして「これは自分がお前に与えるのではなくて、お前が実力で取ったものだということをよく自覚せよ」といった。

〇この日、辻盛昌の部下で、甲斐源氏の庶流である、甲府雀明神の宮司の加賀美七郎右衛門が戦死した。そこでその子作蔵に朱印が与えられた。天正10年8月家康ー加賀美作蔵.jpg

26日 家康は松平主殿助に新府の砦を守らせた。

27日 北条勢は伊豆の生田に砦を設け、軽卒に稲を刈り取らせた。

新府の7将が相談した結果、大須賀から抜擢された忍びを始め、各将の忍びたちに敵陣を探らせると、「敵は生田の砦に居ると聴いた」と報告した。家康は明日出撃して敵の動静を探れと指令した。

28日 家康は生田へ移り、7将の部下の軽卒を選んで出撃し、刈田をしていた敵軍を撃退した。北条勢は全て砦に戻った。大須賀隊の坂部三十郎が先頭に立って活躍した。(稲垣彦八が彼の働きの承認となって申し出た)

榊原隊の原田権左衛門は進んで前に出て槍で対戦した。家康は遠くからその様子を見ていて感心し、7将に砦に乗り入れるように命じた。皆は競って突撃し、中でも大須賀の部下の久世三四郎廣宣は、敵の激しい銃撃の中を突き進むと、土居に立っている城兵8人が防戦した。廣宣は彼等を何度も槍で払うと、敵の野中六右衛門は、久世の槍を打ち落とし、顔や額に怪我をさせた。廣宣は土塁から落ちながらも野中の槍の柄を片手に握って右の手で刀を抜くのを見て、野中は槍捨てて退いた。その時土塁の陰から発した弾丸が三四郎のわきの下をかすめて、後ろにいた久代某の腰を打ち抜いた。また敵が襲って来たので、廣宣は野中が棄てた槍を拾ってその敵を突き倒し、首を取ろうとしたが敵は起き上がった。しかし廣宣の両眼に血が入って、その姿が見えなかった。そこへまた敵が駆けて来た。彼はやっと目を開いて敵を槍で突き、目を拭いてようやく首を取った。

久松某や菅沼兵蔵など大須賀の家来たちは奮戦した。

木内忠左衛門蕃正、服部和泉正吉、桜井仁兵衛久忠、小林理右衛門守吉、大久保善六郎忠豊、依田肥前信政、大久保荒之助忠直、石原孫助重宗は、砦の裏側から攻め込んで、ついに生田の砦は陥落した。

戦いが終わって大久保治右衛門忠佐は、久世三四郎を連れて家康に会わせた。家康は傷薬を自分で塗りながら、彼の先祖を誉め、今日の活躍を賛美した。また小林昌琳を呼んで、廣宣の鼻が壊死しないように手当てをするように命じた。

29日 松平主殿助は、新府の砦から進軍して敵を抑え軽卒に苅田をさせた。

〇この日、大久保七郎右衛門忠世は、信州佐久郡小澤山の城を攻撃した。平原善眞や同五郎兵衛が活躍した。この2人だけでなく望月卯月斎、智久與左衛門、平尾平蔵、大井民部、小山田六左衛門信有など信州甲州の先方は、今月から来年の秋まで戦いを続けたという。

〇北条方の相木入道は、佐久郡相木の城を撤退するときに平原五郎兵衛が首を1個取った。
大久保忠世は、最初は野澤の城に居たが、小諸の城、根津小屋、望月の城、穴小屋、内山の城、岩尾の城、耳取の城、平原の城、野田の小屋、岩村田の城、海野口の城、平尾の小屋、荒子の小屋など12~13箇所ある中道(*中仙道)に兵を進め、敵と離れたり攻めたりしながら攻略しようとした。(当時の小屋というのは、搔揚構(塀のある)屋敷のことである)

〇家康勢は信州の佐久郡岩崎で戦い、北条方の153人を討取った。中でも増上豊前は内田加賀の首を取った。海野市助は氏直の監使、芳賀四郎右衛門の首を取り、後日家康から盛家の刀をもらった。

津金監物、弟の修理、小池筑前、米倉主計、折井市左衛門などはよく相談の上、板橋の嶮を通る道15里に砦を設けて交代で守り、佐久郡の一揆の城を抜くように家康に提案した。

伊賀の部隊が甲州江草の小屋を夜襲して乗っ取ろうとした。甲州の先方は北条方が3千ほどで攻めてくると察して、伏兵となった。伊賀隊はこの小屋を乗っ取った。すると予想通り北条方の3千人ほどが駆けつけたが、甲州の先方は彼等を撃って478人を殺した。家康は特に伊賀の武将たちの活躍を誉めた。

〇北条氏直は、先日巨摩郡の諸士を味方になるように誘ったが、誰も応じなかったので、もう一度書簡を送った。中澤縫殿右衛門と同新兵衛は氏直に応じたが、武川の士、米倉左太夫(丹波重綱の弟)と伊藤信五郎は早速2人を斬り殺し、首を書簡とともに家康に献じた。その後逸見日野村の台花水坂で武川の士たちは敵と戦い、山高宮内信直や柳澤兵部信俊らは首を取って新府へ献じた。これによって家康は武川衆に領地を与えた。

〇今月 家康は駿河の田中城と山西村を、高力與左衛門清長に与えた。

9月大

1日 氏直の偵察隊が味方の陣地を窺いにきた。酒井忠次の一隊が駆け出て追い払った。

9日 服部半蔵正成の組と伊賀の武将たちは、信州の江草の小屋を乗っ取った。甲州の士、小尾監物祐光、同彦五郎、津金修理進胤久が道案内をして伏兵を忍ばせ、北条家の援兵を討った。とくに祐光は傷を負ったので、領地の追加として700貫の地をもらった。この処理は阿部善次郎正勝と山本帯刀成氏が行い、民家10軒の公役も許可した。さらに家康は禄として軽卒10名を召抱えるように命じた。

10日 家康は高木廣正を使節として伊勢に行かせ、北畠信雄の近臣に書簡を送った。天正10年9月10日家康ー飯田半兵衛(北畠).jpg

15日 北条家の伊豆韮山の佐野小屋は、永禄の頃から最近まで武田が奪い取りたいと策略を重ねてきたが、地形が嶮しくてうまくいかなかった場所である。この夏、家康の家来の伊賀の衆などは、夜中に忍び込むプロだからここで手柄を上げよう考え、天神尾の塞から腕利きの忍び2人がこの8日に小屋に忍び込む順路を調査し、松平周防守康親に仔細を報告した。

康親と牧野新次郎忠成(後駿河守)は今晩が大雨なので好都合だと、密に伊賀の士を先鋒として小屋を夜討ちし、落とした。伊賀の服部権太夫政光やその子與十郎政季などが手柄を上げた。信玄と勝頼が2代にわたって取れなかった要所を、伊賀の衆が一挙に抜いたことに家康は感心し、近国の武将たちも皆感心した。

韮山の敵は、三枚橋の城辺りに出没したが、家康方は奮戦していつも勝った。これには北条方の将兵も意気消沈したという。

〇甲陽の先方、加藤丹波は、北条方の武州宝峯の城を夜襲し、内藤周防を討ち捉えた。相模の筑井城へは甲陽の先方が夜襲して、番をしていた内藤大和秋宣の兵を討取り、無事帰還した。

駿河の深澤筋で、小山田弾正、今井九兵衛勝利、駒井右京昌直は、足柄を越えて松田尾張憲秀の陣へ4回夜襲した。憲秀方は城を堅く守っていたが、4度目の夜襲で勝利した。このように甲州の先方が活躍したので、家康は非常に喜んだ。

〇家康は、新府から当時北条方だった信州小諸郡上田の城主真田安房守に使いを送って、味方に誘った。真田は利に敏く、領地を増やしてくれれば家来になると答えた。大久保忠世はすぐに密命を受けて、密書を杉浦久蔵に真田の元に送ると、安房守父子は味方になって依田と共に家康の命で碓氷峠に関所を設け、氏直の補給路を断ったという。

〇信州の浪人、保科越前正直は、以前に氏直の味方となって伊奈郡に戻り高遠城にいた。しかし、酒井忠次の仲立ちで家康に通じていた。小笠原長時は姉婿の藤澤次郎頼親を味方になるように誘ったが、受け入れなかった。そこで正直はすぐに頼親の箕輪城を包囲して、3日間で落としたという。

19日 家康の命で、大久保成瀬は先月中麻木で戦死した曽根平太夫の子、松千代に父の遺産を与える手続きをした。天正10年9月19日大久保・成瀬ー曽根松千代.jpg

21日 信州伊奈郡高遠の城主、保科越前守正直は、老臣2人を使いとして家康の家来になる旨を伝えた。その他、小笠原掃部助信嶺、松岡刑部晴近の近衆という秋山の家来や波部衆知久座光寺も味方となった。こで家康はこの8月に甲州の先方に攻めさせた信州蘆山小屋を急襲するために、曽根下野正清は120騎、岡部次郎右衛門正綱30騎(與頭、植松彌蔵、剣持彌七郎と岡部竹雲斎の遺子はこの人とは別である)を寄せ手の援兵として行かせた。その時、今福求馬、三井十右衛門、川窪新十郎信正ほか、旧武田信勝の子供たちは、まだ戦場に出たことがなかったので見習として寄せ手に加えた。彼らは甲陽巨摩郡武川から台ヶ原から、信州梶ヶ原の役の行者の峯を経て、蘆田小屋へ進軍したという。

25日 先日東條の松平甚太郎家忠が死去した後に、その子の次丸を跡継ぎと決めて、今日駿州三枚橋の城へ移された。東條の縁者松平周防守が城に居たが、次丸が幼いのでその後は後見人として東條家の兵を指揮した。(次丸は後の下野守忠吉朝臣である)

〇蘆田小屋に寄せ手の援軍が到着し、夜から戦闘が始まった。それから毎日2~3度戦闘が起き、味方は有利に戦いを運んだ。特に横田甚五郎は敵を倒して妹婿の日向伝次郎に首を取らせた。今福と三井は互いに戦功を競って敵に5度突撃した。2人は横田の馬の上から敵を突き、2人の敵の首を取って帰った。

〇松平周防康親と小笠原の一隊が活躍したので、韮山の敵は恐れをなして三枚橋の城へ近づけなかった。家康は康親を誉めて葵の紋の旗を与えた。また小笠原安芸と丹波の子、新九郎廣勝に恩賞を加えた。(駿州富士郡の千石)

〇本多彦八郎忠次の養子(22歳)が家康の前で元服した。諱の一字をもらって康俊とし、後に縫殿頭に任じた。この人は酒井左衛門忠次の二男である。

〇この秋、家康は松平備後守清宗の日ごろの活躍に対して、三河の竹谷の領地を子の玄蕃家清に与え、清宗には2千貫の地を駿河に与えて駿河の長窪の興国寺の城を守らせた。

〇木村三右衛門吉清の次男、伊勢千代元政が家康の側近になった。(後孫太郎となり小姓兼目付となった)

10月大

3日 公卿たちが相談した結果、羽柴秀吉が信長の訃報を聞いてすぐに兵を集め、山崎で光秀と一族を滅ぼした功績は賞すべきとして、従4位下に叙して左近衛権中将に任ずると命じた。秀吉は固辞したが今日、従5位下左少将に任じられた。

天正10年10月3日左中辯ー秀吉.jpg

秀吉は下賎の姓無しの身分から立ち上がって平姓となり、やがて藤原と改め、遂に豊臣の姓をもらった。

6日 家康は甲陽の御嶽の城詰として、新府にいる諸将あたり足軽1人を出させて派遣した。

8日 阿波の仁宇山茨岡で、細川掃部助眞之を家来の江彦治郎、本木新左衛門、江村右兵衛、露口兵庫などが裏切って急襲し、眞之は自殺した。この人は細川刑部大輔頼春から14代目の讃岐守持隆の子で、この結果四国の細川家は断絶した。(去年阿波の勝緒の城を十河民部大輔存保は長曽我部土佐守元親に明け渡して没落し、三好家も阿波淡路に逃げたという)

21日 信州の浪人、望月源五郎の守る佐久郡望月城を、家康方の甲州先方の兵が抜いて、城将は逃亡した。金井原與十郎を味方の横田甚五郎が討取った。(砦は甲州先方の兵が番をした)

24日 保科越前守正直は高遠城にいて、信州の地元の士たちを説得して味方に引き入れたことを酒井忠次に報告した。家康は保科越前に伊奈郡の半分を与え、自筆の印章を贈った。天正10年10月24日家康ー保科越前守.jpg

北条は怒って越前守正直の質子を殺した。家康は松平與次郎忠吉の妹、多刧を後日正直に再婚させた。

26日 8月以来、北条方の信州佐久郡蘆田小屋を味方はしきりに攻撃して、今日この城を落とした。小屋は先方の兵が守っていたが、糧米がなくなり牛を殺して食べようとした時に、真田安房守が米を送ったので城兵は非常に喜んだ。

29日 北条氏直は戦いに勝てず、補給路も断たれたので、美濃守氏規から、「家康の味方の真田が勝ち取った上州沼田の三万石の地を、氏直の持つ甲州都留郡信州佐久郡に交換する。上州一円は氏直が領地とするが、甲州信州の両国は家康の分国とする。また家康の娘をもらって氏直の妻とし、質として大道寺孫九郎直政山角某を差し出したい」と申し出ださせた。家康はこの要請を呑み、徳川からは酒井小五郎を質に出すと答えた。ここで両陣営は戦いを終え万歳を唱えた。(しかし、北条家の考えは、この合意は表面的なものであったという)

〇家康の命で、甲州の味方は、信州筑摩川(*千曲川)の上流、佐久郡村田牧澤の城を攻めたが失敗し、退却すると城兵が出て追撃して来た。依田右衛門佐信蕃の一族が後殿を務めて、300ほどを討取り逆襲した。この戦いで家康は右衛門佐信蕃と弟の善太郎信春、源八郎信則、従者の依田豊後、同右近、同主膳、奥平金彌に感謝状を与えた。

家康は大久保忠世、折井市左衛門次昌、権田織部泰長を諏訪に呼んで、以前に酒井忠次の命でなく忠世が最初に命じたことに応じて恩賞を受けるべきだと指示した。頼忠は了解してすぐに家来の茅野丹波房清と澤市左衛門房重を新府の家康に謁見して約束を糺した。家康は両氏を呼んで証書を送り、茅野には厚衣、澤には胴服を与え、これからは頼忠の家来となるように命じた。両人は諏訪へ帰り頼忠に報告した。頼忠は子の頼永を連れて新府の陣に家康を尋ね謁見すると、家康は「保昌五郎の脇差」を頼忠に与え、「信州にはまだ支配できていない地があるので、早速持ち場へ帰って出撃の命令を待つように。改めて連絡する」として頼忠に休暇を与えたので、彼は諏訪へ帰った。

〇高木善次郎清秀(六郎左衛門宣光の二男)は尾張に住んでいた。この人は水野信元に仕えた優秀な武将だったので、家康は今回水野九助廣正に彼を呼びよせさせた。清秀は直ちに弟の甚太郎清方と二男の内膳一吉、三男善次郎正次と一緒に新府で、家康に謁見した。家康は清秀には信州伊奈郡で千石を与え後で主水正に任じた。又、二男の一吉は志摩守に、三男の正次は主水正に任じた。清秀の弟清方は、天正19年に相模に560石をもらい、子の彦左衛門清政は従兄弟の大田甚太郎が先に長篠で戦死して子がなく家が絶えていたが、家康は後年清方に子の家を継がせ、三河に411石を与えて大田彦左衛門とした。清政の弟、陣右衛門も家康の家来となった。

〇去年来、家康は、伴刑部が一揆を起こして立て籠もっている信州小縣郡前山城を、菅沼大膳亮定利、柴田七九郎康忠、依田右衛門佐信蕃と甲州先方の兵で攻めさせた。城兵は何度も出てきて抗戦した。味方の一宮修理と松澤五助が槍で対戦し、雨宮故十兵衛家次の子、平兵衛、市川内膳清成、土屋三郎右衛門が手柄を上げた。山中主水介行と小幡藤五郎昌忠は戦いの崩れ際や、盛り返し際に活躍した。川窪與左衛門と三枝平右衛門が一番乗りをした。小尾監物や小池筑前守らも活躍した。しかし敵は尚も防戦したという。

〇穴山陸奥入道梅雪は、この6月山城の草内村で命を落とした。彼の子藤千代信治は家康の家来となり、駿河の江尻城を守っていた。しかし早世したのでこの家は絶えたが、家来は皆家康の御家人となった。(江尻の城は本多作左衛門重次が当時守っていた)

11月小

家康と北条が和融したことで、氏直は野辺山の陣を撤退したが、平澤の朝日山に砦を築こうとした。家康は怒って、「自分たちは甲信を支配し、上州をこれから支配しようとしている。氏直は自分から和融を提案した。自分は昔北条氏規と駿河で知り合いになったよしみでお前を捕らえることもせずに望みを受け入れ、上州を手渡す約束もし、親戚にもなった。にもかかわらず自分の支配地の甲陽の朝日山に城を築くとは下心があるに違いない。この上は戦で勝負を決するしかない」と朝比奈彌太郎泰成に告げさせた。

当時既に北条勢は平澤から信州へ侵入していたので、泰成はその中へ馬を乗り入れて家康の意向を伝えた。

大須賀、榊原、本多廣孝の3隊は若御子へ向い、左の方へ1番に酒井忠次の備えの松平主殿助、2番に石川数正の備の酒井與四郎、3番には本多忠勝が備えた。それぞれは敵の上野の先方の陣へ斥候を出し、若御子から長澤あたりまでを警戒した。彼らは、氏直が怪しい動きをすればすぐに対応できる形勢をとり、家康や旗本は新府で様子を眺めていた。

北条方は八ヶ岳の森林に紛れ込んで、大軍は身動きが出来ず戦いようもなく恐慌をきたしていて、早々に質人の大道寺山角の子を連れて朝比奈泰成とともに新府を訪れ榊原康政に会って陳謝した。家康は人質を鳥居彦右衛門に預けて郡内の勝山村に軟禁した。

家康側も酒井小五郎を質として送った。氏直は早速陣を払って信州佐久郡から碓井峠を経て上野へ帰り、質の酒井小五郎を帰した。その後、家康は北条家の人質を足柄通りから相模へ帰した。

4日 家康は甲州先方の士たちに姥口山の砦を修理させた。(12月7日に完成した)

5日 松平主殿助新は昨日の家康の命によって善光寺の城へ向った。

7日 主殿助家忠は佐久郡勝間の反り砦を修理することを命じられた。

柴田七九郎康忠を武将に、依田の兵を魁として刑部方の佐久郡前山城を今日攻撃し、城将を石黒八兵衛が討取った。刑部は小笠原の分家で数代にわたって刑部と名乗って弓馬の誉が高かった。この時この家が滅んでその栄光を失った。寄せ手は更に高棚小田井の城も落し、信州衆、平原善直、その孫の五郎兵衛盛繁を連れて小田井の攻め手に加わって活躍した。盛繁は元亀3年11月、遠江二股で勝頼の家来として戦死した平原右近昌忠の子である。

9日 家康は辻彌兵衛盛昌の組が今井の蘆田小屋で活躍した恩賞として、領地と証文を与えた。天正10年11月9日家康ー今井主計.jpg

11日 甲陽の家臣、日向半兵衛正成が御家人になった。後に叔父の日向大和昌時を呼んで甲州竹居村を与えた。

〇今月織田信雄と羽柴秀吉は織田三七信孝を攻撃した。というのは、信雄と信孝は異母兄弟で、誕生日が同じ年同じ月で、どちらが長男かわからなかった。

信孝は信雄と確執があり、越前の柴田勝家と越中の佐々成政に相談して自立しようと、伊勢の神戸城に小島兵部少輔、嶺の城に岡本太郎左衛門、鹿伏兎に加太左京、国府に国府四郎次郎、亀山に関兵部少輔父子を配して、美濃の岐阜の城で時を窺っていた。

羽柴は、越前、能登、越中は雪国だから冬から春までは柴田も佐々も兵を動かせないと踏んで、丹羽、池田、細川など5万あまりの兵で信孝の岐阜城を急襲した。信孝の家来の稲葉一鉄や氏家行廣などはかねてから信孝に叛こうとしていたので、寄せ手に降伏した。そこで信孝は防ぎきれず、母と幼い息子と元老の妻子を秀吉に送って和融した

武徳編年集成 巻24 終