巻26 天正11年正月~11月

投稿日 : 2016.04.08


天正11年(1583)

正月大巻26.jpg

朔日 三河、遠江、駿河、甲州、信州の諸士が浜松城に参集して、新年を祝った。今年ようやく駿河、甲州、信州が家康の支配下になり三河や遠江の人々は安堵した。

〇伊勢では北畠信雄の家来、津川玄蕃允義冬、田丸中務少輔直昌、日置大膳亮、本多左京亮親康が多気郡五箇の篠山城を包囲し攻撃したという。

2日 恒例の謡い始めの儀が行われ、徳川一族、国衆が城へ集まった。

〇今夜、伊勢の篠山の城将、北畠具親は城を逃れて伊勢に行き一揆を募った。瀧川三郎兵衛勝雅がこれを追い払った。具親の家来の稲生雅楽助は三河の三瀬に隠れていたが、信雄は彼を三瀬左京進と同波之助に討たせた。

13日 甲州の穴山の家来に家康は書状を送った。天正11年1月13日家康ー穂坂。有泉(穴山).jpg

〇甲州の士、牛奥綾部の子、甚之丞が御家人となった。

16日 家康は岡崎城へ行った。

18日 北畠信雄は岡崎に行き家康と閑談をした、理由はわからない。

20日 家康は吉良へ狩に行った。

23日 羽柴秀吉は三七信孝、柴田勝家、瀧川一益との和融の約束を破り、今日近江の草津辺りで勢ぞろいし、一益を討ち破るために事前に7万5千の兵を伊勢の口3手に分けた。1隊は土岐多羅口から員弁郡へ、1隊は君が畑越えから同郡へ、1隊は安楽越えから鈴鹿郡へ突入した。

今年早々、亀山の関萬鉄善斎と次男の右兵衛尉一政は、どちらも蒲生家に世話になり秀吉方として、秀吉に年頭の挨拶のために京都へ行った。彼の家来の岩間三太夫の一族43人は、その隙に謀反を起こして亀山城を乗っ取り瀧川一益に降伏した。

一益はすぐに鈴鹿郡の嶺の城を抜いた。(城主岡本下野守は逃亡した)。この城には甥の瀧川儀太夫を入れ、亀山城は佐治新助に守らせた。

新庄の城にも兵を配置した。秀吉の先峰の羽柴秀長と三好秀次は嶺の城を攻めた。信雄の長臣、津川玄蕃允義冬と織田上野介信兼も加勢し攻撃した。

〇今月 家康は異父弟の松平源三郎勝俊に駿河の久能城を与えた。というのは子供のころから親しかったためにこの重要な拠点を与えたのだという。

閏正月小

朔日 家康は岡崎から駿河に移動した。

14日 家康は甲州の家来、日向半兵衛政成に本来の領地である竹居村と後から信玄にもらった領地を、駿河の厚原村に元通り与えた。

26日 秀吉方の蒲生父子と関父子は、今日から亀山城を攻撃した。後日、城を守っていた武将の佐治新助は城を棄てて、桑名郡長島へ逃げた。

鈴鹿郡関の地蔵の新しい城にも、関父子が援軍を得て落し、河曲郡神戸の城将小島兵部を、信雄の家来の林與五郎と秀吉勢が何度も攻めた。兵部は城を棄てたので、信雄はこの城を與五郎に与え、神戸の諸士を家来とした。また、国府加太なども降参して、織田信兼の与力となった。秀吉は蒲生の願いを入れて、亀山と関の新城を萬鉄斎父子に与えた。

2月小 

8日 柴田勝家の先鋒が近江の木の本に出撃したとの連絡によって、秀吉は亀山城から江北長濱へ赴いた。この城の備えとして関の要害に柵や堀を設けて、蒲生氏卿、関父子、山岡美作守景隆、青地四郎左衛門を配置した。

11日 秀吉は志津ヶ嶽(*賤ヶ岳)辺りに出て、あちらこちらに砦を設け兵を配置した

12日 過日、甲州先方の士、三枝土佐虎吉は、信州の佐久郡高野町を守り、阿江木の砦を攻撃した。城兵は逃亡したので家康は書状を依田信蕃に与えた。天正11年2月12日家康ー依田右衛門.jpg

18日 松平周防守康親は、伊豆と駿河の境目にある沼津三枚橋の城にいて、功績が大きかったので家康は朱印と恩禄を与えた。天正11年2月18日家康ー松平周防守康親.jpg

22日 柴田七九郎康忠は、甲州と信州の軍勢を集めて昨日から上杉景勝の領土、小縣郡小諸と佐久郡岩尾の城を攻撃した。

今日、依田右衛門佐信蕃、弟の伊賀守信幸、同善九郎信春は、自分たちだけで岩尾を落すと暴言して田口の城へ入って岩尾を攻めたが、兄弟三人共、矢や銃弾に当たって陣地に戻り、夜遅く皆戦死した。(10年10月、家康は信蕃の弟新九郎源八郎に手紙を送った。そこには加賀守信幸と善九郎信春となっている。しかし、加賀守は新九郎と善九郎は源八郎だから、名前が改まったのだろうか? 『葦田記』という依田家の家録で調べる必要がある)
○ある話によれば、甲州と信州の先方の士、杉原日向直明、小幡藤五郎昌忠、山中主水、岩手助九郎、塚原次助、山本源蔵、知久氏式部頼氏、河窪新十郎信正、浪人塩澤無市政は、槍で対戦したり首を取ったりした。一宮修理と松澤五介も城兵が城から出てきたときに槍で対戦し、雨宮半兵衛、市川、内藤清成、土屋三郎右衛門も手柄を上げたが、それが何時だったかは不詳である。

23日 岩尾の城主、岩尾小次郎は城を棄てて京都へ行った。

25日 小笠原大膳太夫長時入道麟翁は、奥州会津の備中入道味庵の家で家来のために殺された。享年65歳。

3月大 

〇家康は依田右衛門佐信蕃と弟たちが戦死したことを憐れんで、信蕃の子供を呼び、嫡男、竹福幸平(24歳)を松平源十郎泰国とし、父の領地の信州佐久と小縣両郡のうち6万石を加恩して駿州と甲州の中の4万石あわせて10万石を与えた。(後の修理太夫)、次男福千代は松平新六郎康貞とした。(後の右衛門太夫)。

大久保七郎右衛門忠世は、家康の命で松平康国の兵を信州へ出し、小縣郡小諸の城を攻撃した。城には上杉の浪人宇佐美民部定行が、景勝方として立て籠もり防戦した。味方は何度も戦いを挑み田口の城を落とした。

大久保平助忠孝が首を取った。宇佐美は小諸城を棄てて越後に逃げ、小縣郡は大方家康の手に落ちて、松平康国が小諸城を居城とし、改修して郭内を広げた。(付記:この合戦で小幡又兵衛昌忠、知久式部少輔頼氏、河窪與左衛門信俊は、岩尾の前山で戦って、それぞれが首を取った。杉原大和守直明は佐久郡で戦って戦功があった。三枝土佐守は相木の砦を攻め落とした)

〇ある話では、依田右衛門佐の家来の中澤彦次郎清秀は、依田に少々不満があって以前に逃げだした。この度清秀の子の五郎左衛門が康国の家に帰って来たので、佐久郡岩村村の永楽37貫文を堪忍分として与えた。慶長3年にこの家は絶えたが、同5年に一族が家康に直訴して領地を受け継がせてもらい、子孫は駿河の亜相忠長の家来となったという。

〇近衛前摂政前久(法諱龍山)は当時秀吉と不仲で、京都を避けてはるばる濱松まで来た。家康は厚遇して彼は長く濱松に滞在したという。

14日 信州佐久郡の士、屋代左衛門尉勝承(後の越中守)は、酒井忠次に家康の家来になることを頼んだ。家康は彼に印章を与えた。

16日 松平周防守康親の長男の右近丞に、家康は諱の一文字を与え康次とした。(後の康重と改名する)

19日 柴田修理亮勝家は越前から江北の柳ヶ瀬と中尾山に出陣した。秀吉はこれに対して向城を築いた。

23日 秀吉は、柳ヶ瀬から濃尾の大垣にある池田紀伊守信輝入道勝入の城へ入った。

28日 諏訪安芸守頼忠に信州の諏訪郡を与えた。

4月小

12日 家康は屋代勝永に書簡を送った。天正11年4月12日家康ー屋代左衛門尉勝永.jpg

〇織田三七信孝は独立したいと考えて、再び柴田、瀧川と相談し、岐阜から兵を出し、秀吉方の稲葉伊予守通朝と氏家内膳政行廣の領内のあちらこちらを焼き払った。秀吉は怒って清洲にいた信孝の母親と、彼の長臣の幸田彦左衛門の母を安土の城で磔にした。人々はこれまでと一転して秀吉の暴虐さを憎んだという。

17日 秀吉は近江の長濱を発って、夜に大垣城に入った。

18日 秀吉は稲葉氏家に信孝の領内を放火させ戦わせた。信孝方の幸田彦左衛門兄弟は戦死し、可児才蔵吉長、木股善次郎忠住、石崎次郎右衛門は槍で対戦した。

家康は再び屋代勝永に書簡を送った。天正11年4月18日家康ー屋代左衛門尉勝永.jpg

19日 秀吉は岐阜城を攻めようとしたが、前夜からの暴風で呂久川が渡れず、先陣の川端に駐屯したところ、江北の志津ヶ嶽の田神山の砦から佐久間玄蕃允盛政が出て余湖の中川清秀の砦を落そうとした。しかし、中川の兵は少なく、柴田勝家が攻めてくるという報せを聞いて、秀吉は氏家と稲葉に岐阜城攻めを任せて、すぐに呂久の陣を出発して、近江の木の本に行って夜の内に田神に陣を敷いた。

敵方は驚いて諸軍は撤退しようとばたばたした。立原彦次郎胤廣と安井将監を後殿として撤退したのだが、ちょうど月が明るく秀吉は追撃した。

近臣加藤虎之助清正(紙のれんの指物。後の主計頭、肥後守)、福島市松正則(紙の切裂麾(*まねき)の指物、後の左衛門太夫)、加藤孫六郎嘉明(紫縨(*ほろ)、後左馬介)平野権平長康(紙子羽織、後の遠江守)、脇坂甚内安治(白結棧(*?)の指物、後の中務少輔)、片桐助作直盛(銀の棧の指物、後の東市正且元)、糟屋助右衛門武則(銀角取紙棧の指物、後内膳正)の7人が一番乗りをして、清水坂の敵を追い散らし勇敢に戦った。(これを7本槍という)

石川兵助一光と秀長の家来の桜井左吉と伊木半七は、魁として戦功が光ったが、一光は戦死した。敵は大敗し柴田三左衛門勝政など戦死者は50~60人だったという。

21日 茶磨山で柴田の寵臣、毛愛勝助勝吉は、勝家の金御幣の馬印を預かり勝家に化けながら兄の茂左衛門や弟の庄兵衛など、騎兵50、雑兵300あまりで奮戦したが戦死した。その間に勝家は逃亡して深夜に府中に着き、北の庄に戻った。(そのとき彼の兵は100騎だった)

22日 秀吉は越前へ赴き、前田又左衛門利家と和睦した。それ以外の敵の城は全て落ちた。

23日 秀吉は北の庄の守備を打ち破ったという。

24日 明け方、北の庄の本丸が陥落した。城には五層の天守があって、勝家は200人ほどで立て籠もった。秀吉は狭い所での戦いでは味方同士が怪我をするだろうと予想して、諸軍から屈強な兵を選抜して刀を抜いて天守へ攻め込んだ。柴田の兵は7度まで抗戦した。昼ごろに天守の5層目で、勝家が享年57歳で自害した。妻(信長の妹)と家来53人と幸若太夫は殉死した。秀吉はすぐに加賀へ向った。

〇三七信孝の岐阜城を北畠信雄が攻撃した。柴田が敗北したのを聞いて、美濃と伊勢の信孝勢は皆降参した。岐阜城では岡本下野守宗憲と神戸の士480人が信孝を棄てて退散し、残ったものは僅か25人で、遂に信孝は城を棄てて逃亡した。

〇ある話によれば、伊勢の嶺の城将、瀧川儀太夫は100日ほど城を硬く守ったが、糧米が途切れ、仕方なく寄せ手を和睦して、城を離れて長島へ逃れた。林の城主、林治兵衛は城を堅固に守ったが、遂に万策尽きて秀吉の家来になり、但馬に領地をもらった。

〇ある話によれば、家康は小栗又一忠政を近江へ派遣し、秀吉を慰問した。家康も兵を率いて浜松を出撃したが、勝家が敗北したのを聞いて浜松へ帰った。今回の秀吉と勝家の戦いは2人の間の私怨で起き、秀吉が信雄と信孝の代理戦争に仕立てたものである。家康が参戦したのは信雄の要請による。

28日 家康は政務のために浜松を発って甲州へ赴いた。その後、彼は信玄の小人頭だった萩原甚之丞昌友、窪田助之丞正勝、中村助六之丞道重を浜松へ召集し、井伊直政に甲州と隣国との国境を定めさせ、国境の砦には各人を配置して他国の情勢を監視させ、ひそかに報告するように命じた。また、去年から甲州先方は、早々と家康の御家人になってよく働いたので、三河や遠州の譜代と同等に待遇するように命じた。そして彼らには、信玄の時代と同様国境を守らせる朱印を与えた。彼ら8人は小人240人の頭を務めていた。

29日 三七信孝は尾張の野間の内海において自殺した。(36歳)神戸の士で新属の近臣、大田新右衛門が介錯した。彼は神戸の鍛冶石堂但馬助の子の小林甚兵衛とともに殉死した。(信雄は兄弟のよしみを棄てて、中川勘右衛門雄忠を派遣し、信孝に自殺を勧めたという)

5月小 

〇上旬、家康は甲州尊體寺の宿で、井伊兵部直政の家来で、元は馬場氏勝の家来だった廣瀬美濃昌房と三科肥前形幸を呼んで、信玄と謙信の川中島の戦いにおける軍の配置を書かせた。

〇小幡景憲の説によると、家康は「信玄の兵法には五カ条の秘策がある。第1は「問働」、第2は、「立競は味方の大斥候にて報ず」、第3は「敵国に深く侵入し日数をかけるときは5間に堆」、第4は「天地人の三の備え」、第5は「強敵に会う時は大正大奇の格」、これを信玄は川中島で使ったようである。至極理屈に合っているので、皆は十分理解するように」と命じた。

廣瀬と三科は、「川中島では謙信も5間1堆を使っていた」といったという。家康はまた「敵も味方も同じ戦法なら、大正大奇でなければどうしても勝てないな」といった。2人は、家康が実に兵法に明るいと感嘆したという。

〇ある話では、去年北条方について、すぐに家康に投降した真田安房守と保科越前守、また、家康の家来から北条方の家来となって、又家康の家来に戻った小笠原喜三郎貞慶と諏訪安芸守頼忠などが、家康が甲州に滞在中に家康のもとに集まり拝謁した。(附考:貞慶が去年謀反を起こして、この時に家康に復帰するという説は13年のことを指している)

7日 秀吉は北国から近江の安土に帰った。

10日 家康は甲州より浜松へ帰った。

21日 家康は、石川伯耆守数正に秀吉が柴田を退治した祝いをいいに行かせ、「初花の壺」を贈った。この壺は三河長澤の浪人、松平清蔵入道念誓が、家康に最近贈ったものである。念誓は最初は清太夫といっていた。彼は松平兵庫頭勝宗の庶子であったが、事情によって武将を辞めて町に住んでいた。

22日 秀吉が参議従4位下に叙された。

6月大

6日 秀吉はこのころ近江の坂本に住み、志津ガ嶽で特に活躍した7人の労に対して感謝状を贈った。また、恩賞としては、特に福島市松正則は秀吉の親戚だったこともあって5千石を、両加藤、脇坂、平野、片桐、糟谷には、それぞれ3千石を与えた。桜井左吉以下も恩賞に浴したものは多かったという。

中旬、伊勢長島の城主、滝川左近将監一益は、力を失って北伊勢の5郡を棄てて長嶋へ退去した。秀吉は近江の南郡で5千石の領地を一益に与えた。一益の甥儀太夫と彦次郎法忠には、別に生活費を与え、秀吉の直属の家来とした。

三七信孝が滅びてから秀吉はある計略で北畠信雄を厚遇して、伊賀、伊勢、尾張の三国の領主とし、御本所と呼んで崇敬した。

信雄は伊勢の松ヶ島の城から長嶋城へ移り、松ヶ島は津田玄蕃允義冬、薦野城は天野周防守雄光、神戸城は林與五郎(家号を神戸とする)、嶺の城は佐久間駿河守正勝に与え、織田上野介信兼を安濃津城に住まわせた。

秀吉は美濃の岐阜城を池田紀伊守信輝入道勝人に与えた。ここにはその後すぐに嫡男の庄九郎之助が住み、摂津の数郡は従来通りとした。越前、若狭、加賀の半分は丹羽五郎左衛門長秀に封じさせた。若狭の佐柿城には木村隼人、高浜城には堀尾茂助、越前の敦賀には蜂屋出羽守が住んだ。

加賀の河北と石川の2郡は、能登の領主前田利家に与えた。これは前は佐久間玄蕃の領地である。その他、加恩を受けたり領地を増やしたりした者も多かったという。

17日 駿河三枚橋の城で松平周防守康親が63歳で死去した。彼の子の右近丞康重が家禄を継ぎ、やはり周防守を名乗って父と同様な豪勇だった。譜代の臣、岡田竹右衛門元次、石川善太夫昌隆、都筑助太夫重次が彼の補佐をした。

7月小

11日 去年から上杉景勝が占領している信州川中島の4郡を攻撃するために、家康が来月6日に出撃することが各国へ連絡された。

督姫が相模、小田原の北条氏直へ嫁入りのために、今月20日に浜松を出発することが発表された。このため幕下の諸将は大方が浜松城へ集まった。

〇近衛前摂政前久はこの春から浜松に滞在していたが、家康はこの日猿楽を催して饗応した。浪客、今川上総介氏眞入道宗誾持も同席したという。

20日 暴雨が止まず東海道の川が氾濫して陸地に船が浮かぶ状況となった。そのため督姫の相模行きは延期された。このことは何度も北条家に連絡され、改めて良い日柄を選んで小田原へ輿入れした。彼女には、酒井左衛門尉忠次、鳥居飛彦右衛門元忠、平岩七之助親吉、本多彦次郎忠久、同彌八郎正信、西郷孫九郎家員、石川又四郎重政、蜂屋半之丞(故半之丞貞次の子)、渡邊源蔵と石川、福阿彌などが随行した。小田原で酒井忠次は、輿を松田尾張憲秀と伊勢備中定宗に引き継がせた。氏直は「一文字の刀」と「貞宗の脇差」を忠次に授けた。この姫の母親は鵜殿長照の娘なので、鵜殿大隅長次と矢部四郎右衛門なども随行して小田原にそのまま住んだ。氏直が没してからは、姫は池田三左衛門輝政の室となった。良正院である。

21日 家康は信州への出撃を、来月12日まで延期した旨を通達した。

8月大 

6日 秀吉の使いの津田右馬允が浜松城で家康に会い、「不動国行の名刀」を贈った、これは「初花の壺」のお返しという。

12日 信州への出陣は、事情があって中止された。

14日 家康は浜松を出陣した。その理由は、北条家が表面上は和融しているものの本心は変わらず、密かに信州の佐久郡の一揆の残党に、上野から糧食を常に補給して籠城を助けているために、こちらの作戦がうまく運ばないためである。そこでまず家康は補給路を断った上で、川中島の4郡を支配しようとした。

家康は日を待たずに甲州尊体寺まで行き、そこから信州の佐久郡川中島のあたりの地図を書かせて、自分が出てゆく準備をした。ただし、「蛮夷をもって蛮夷を討たすべき」という兵法に従って、去年以来譜代は1人もつれず、柴田七九郎庸忠だけを監使として、その他はすべて甲信の先方の士で佐久郡勝間の砦を守らせ、時々鳥居、大久保、平岩に巡視させた。その後、彼はこの地の7か所の敵の砦を毎日攻撃させた。各隊はそれぞれ頑張ったが、武田の直参だった石黒八兵衛、今井源次郎、矢崎助六郎など18名が戦死した。また各所の城にいた敵方の将兵も多くが死傷した。

家康が攻めさせた7つの城のうち、岩尾、小諸、前山は先日陥落し、残った4か所も今月までに残らず抜かれた。佐久郡が支配下に入ったという報告が尊体寺の家康に届いた。これで景勝が占領していた川中島の4郡は全て家康が支配できたので、家康は出兵を取りやめた。

〇今月から服部半蔵正成は、伊賀組200人に甲州郡の谷村城を月末まで攻撃させ、服部保正(保次の子)を巖殿の加番として、先方の士、有賀式部種政に甲州成田44貫文を宛がった。

あるとき家康は、尊体寺の宿に廣瀬と三科を呼び、信玄の兵法の極秘6箇条について詳しく尋ねた。というのは家康が19歳の時にある理由で、これをざっと聞いたことがあったからである。

家康は、故高坂弾正の甥の春日惣次郎を秋葉山加納坊大蔵藤十郎長安に招かしたが、病気で来なかった。後日彼は越後へ隠れたという。

〇今月、家康は真田安房守昌幸に上田城を与えた。

9月大

8日 家康の家来の小笠原貞慶は、3千の兵で信州深志(*松本)を出撃して、敵方の川中島の尾味の城を抑え、更に猿ケ馬場まで兵を進めて、清野左衛門佐の龍王城を攻めようとした。これは上杉景勝が、家来の斯波因幡治長の謀反を抑えるために、川中島の地士を促して新発田へ出撃した隙を貞慶が狙ったからである。清野の留守組の父、清壽軒は敵に峠を越えさせては城から出撃して抗戦し、山の手に兵を隠して多勢と見せかけた。

11日 小笠原貞慶は、9隊の内の3隊を後殿として段々に引き取りながら交戦した。備えは万全だったが、清野清壽軒は老獪な武将でわずか40騎で彼らを追撃して、5~6の騎兵と歩兵を少々討ち取った。清壽軒は最初村上源吾国清へ救援を求めた。しかし国清は病気だとして救援に来なかった。

後日景勝は村上を呼んで、「亡父義清の敵討ちのために去年川中島の守りとしてお前を貝津の城へ置いたが、未熟なお前に重要な城を預けるわけにはいかない」と諭して、国清を春日山へ行かせ、上條民部少輔義春を貝津の城代にしたという。(10月5日更級郡の1つの村を清壽軒の領地に加えた)

13日 家康の子、萬千代が誕生した。

〇附考:13日家康の第5子、萬千代が遠州浜松の城で生まれた。母は秋山越前守虎康の娘である。諱は都磨下山という。虎康は清和天皇7世の孫、新羅三郎義光から5世の秋山太郎光朝が初代で、代々の甲州の豪族である。光朝から19代目の新左衛門信任には息子が2人いた。長男の伯耆守友信は濃州岩村の城を守った。次は平十郎信藤でどちらも信玄に仕えて大いに戦功をあげた。虎康は信藤の長男である。武田が滅んでからは家康に仕えた。家康の家来の秋山十右衛門もこの親戚である。彼の母が16歳の時、家康のそばに仕えて萬千代を生んだ。武田の家来穴山玄蕃信君が家康の家来となったが、子供がなく、家康は萬千代に武田を継がせ信吉とした。母は19年10月6日、領地の下総、葛飾郡小金村で病死し、地元の本土教寺に埋葬された。秋山は代々法花教(*法華経)を信じていて、母も身延山の檀家であったので、法名は日上妙眞院と号し、墓の上に松が植えられていた。土地の人は「日上松」と呼んだという。信吉は常陸の水戸に封じられたが後継ぎがなく、家康は自分の庶子、頼房を水戸に入れた。頼房は信吉のために浄鑑院を建立し、線香を奉じた。後年水戸光圀が信吉を妙眞院に改葬して石碑を建てた。以上はその銘文に記されている。

22日 松平源四郎親常が死去した(はじめは右馬助)。この人は長澤の松平兵庫守一忠の弟の右馬助宗忠の子である。

10月小

2日 家康は甲州から駿河の江尻城へ帰った。

4日 家康は、駿河の長窪(興国寺とも呼ぶ)の城を改築するように松平主殿に命じ、その地へ赴いた。この城を牧野右馬允康成に与え、家来の稲垣平右衛門長成に守らせた。

5日 家康が正4位下に叙され、勅使が浜松へ向かったというので、家康は急いで駿河から浜松へ戻って、その辞令を受け取ったという。

7日 家康が近衛権中将に任じられた。

25日 羽柴筑前守秀吉は家康へ書簡を送った。天正11年10月25日秀吉―家康.jpg

11月大

15日 家康は駿府に道中も含めて20日間滞在してから帰った。

〇この年、西山十右衛門昌俊は勅使として、越中の国主、佐々内蔵助成政へ赴いた。

〇駿河の江尻城を天野三郎兵衛康景に与えた。これは前の城主の穴山勝千代が早世したことによる。

〇美濃、苗木の遠山久兵衛友忠父子は秀吉方についていたが、森武蔵守長可の部下とされた。彼は怒って浜松へ来て家康についた。(この時までは苗木を屋号としていた)

〇竹尾平右衛門の子、四郎兵衛は12歳で家康の近臣となった。

〇本多豊後守康重の娘は、家康の命で諏訪小太郎頼永に嫁いだ。

〇城 小三郎(松平亀千代の部下)は家康から書簡をもらった。

〇豊臣秀吉は、京都が海岸から遠い上に、60余州の諸伯が来て集まり住めるだけの土地がないと考えて、熟慮の上、摂津の大阪に城の建設を始めた。家来となった10程の国の太夫を集め、海や陸から大石や木材を集め、年を追って大きな館や高い天守が金や銀を鏤め造営された。そして天下を統一すると、国主や郡長が皆大阪へ参勤し、沢山の市街が城の周りを取り囲んだという。

〇堀太郎左衛門秀重が享年75歳で死去した。この人は左衛門督秀治の祖翁である。

附考:この年、「高木九助廣正は家康に仕え、その子甚左衛門正綱に家督を譲り、歩卒50人で武州の忍城を守らせた」とあるが、このとき忍城はまだ北条氏政の領地である。家康が伊豆や相模を越えてこの地を守るべき理屈がたたない。この説は誤りだろうが、その判断は後世の課題として残そう。

武徳編年集成 26巻 終(2017.4.9.)