巻27 天正12年正月~3月

投稿日 : 2016.04.08


天正12年(1584)

この年の春から夏にわたって、尾張の羽黒、長久手の戦いがあった。これについては『四戦紀聞』に詳しいので、ここでは簡単に述べる。詳細はそちらをよく読んでほしい。

正月小巻27.jpg

元日 家康は駿河城にて徳川一族、譜代、旗本を集めて新年を祝った。

2日 家康の領地5州の諸士(いわゆる外様衆)を集め、夜に恒例の謡い始めを催した。

〇織田信長の嫡孫、三法師丸(後の岐阜中納言秀信)は当時安土城跡に住んでいたが、大小の諸士を集めて新年を祝った。また、家来に北畠中将信雄の館へ行かせて、新年の挨拶をさせた。しかし、羽柴秀吉の計略によって、巷に様々な風評が流された。これは秀吉の征服欲が強いためで、信雄の方から戦いを起こさせて、その戦いを止めないからということを口実として、戦いを起こすための流言だった。

信雄は愚かなことに、この策略に落ちて風評を信じ秀吉を恨んでしまった。また秀吉も信雄を恨んでいるように振る舞うために、近江の坂本城へ戻って信雄への年賀をしなかった。信雄は伊勢の長嶋へ戻ったが、織田の諸士は関係者を集めて、園城寺の金堂での信雄と秀吉の和睦のおぜん立てをした。

しかし、秀吉はその前日の晩、大津の宿に信雄の元老、尾張の星崎の城主、岡田長門守重善(このときは重吉)、伊勢の松ヶ島城主、津川玄蕃允義冬、尾張刈安賀の城主、浅井多宮丸(27歳)、滝川三郎兵衛勝雅を招いて密談を凝らし、秀吉方につけば十分に恩賞を与えることを約束した。

秀吉の謀略は次のようなシナリオで実行された:滝川は信雄を裏切らないだろう。しかし、他の3人は秀吉との約束を守るだろう。当然滝川は信雄にこの事態を報告に行くはずである。その間に3人を殺してしまえば戦わずして信雄を滅ぼすことができるはずである。もし万が一滝川も秀吉側につけば、これもラッキーな話である。滝川は本心を隠して、秀吉側についたふりをし、4人はそろって血判を押した。

さて、三井寺の金堂で信雄と秀吉の連盟が成立する前日に、滝川は信雄にこの謀略を伝えた。信雄は危機を感じてすぐに「鉄銕」という馬に乗ってその日のうちに長島まで急いで帰った。おかげでその馬は息が切れて、すぐに死んでしまったという。

信雄は秀吉に戦いを挑もうとしたが、三臣は滝川がこの件を信雄に伝えていたことを知らず、長島へ帰って連盟の利点を説いたところ、信雄は、「秀吉は信長の下男だ。あんな奴の家来になったら後世の恥だ。ここは徳川家に救援を頼んで勝負を決めたい。そうすれば秀吉がいろいろな謀略を弄しても、徳川家には向かうところ敵はいない。お前たちも軍功を上げよ」とのべた。三臣は口を噤(*つぐむ)んで引き下がった。

〇ある話では、信雄は三臣を誅そうと考え、それがばれないように、「屋根に鳩のひなが生まれたので自分で取る」といって土方勘兵衛(その時は彦三郎)、飯田半兵衛、森勘解由(そのとき源三郎)の3人を従えて屋根の上に登り、「時を見計らって知らせるが、飯田は長門守を斬れ、土方は津川を討て、森は浅井を討て」と命じた。

土方は岡田を討ちたいといったが、岡田は強いので、飯田はどうしても許さなかった。しかし、屋根の上なので声が漏れるのを恐れ、信雄も説得したので飯田は(*岡田)長門守を土方が討つことに応じた。土方が以来短い脇差をさす様になったのは、岡田を討つためである。しかし、長門守は病気だと蟄居したので、三臣を誅殺することはできずに月日が経ったという。

岡田長門守は、先に小豆坂七本槍の一員の助右衛門善教の子である。浅井多宮丸は新八郎の嫡子なので、若かったけれども信雄の長臣となっていた。津川は武橋義統(後四位下式部大輔)の三男で、名前は転々と変わっている。妻は北畠黄門具教の娘という。

2月大

上旬、家康は、酒井河内守重忠を長島へ派遣し、信雄に密書を送った。この理由は明らかにされていない。

10日 岡部彌次郎長盛の父、次郎右衛門正綱が享年42歳で死去した。そのため遺領7千60貫はそのまま長盛に与えられた。(当時長盛は27歳、後の内膳正)

27日 家康が参議従3位に任じられた。

3月小 

朔日、長澤の松平念誓に家康は手紙を送った。これは彼が去年「初花の壺」を家康に贈ったためである。(当時の言葉では茶入れを壺といい、茶壺は葉茶壺といった)天正12年3月朔日家康ー念誓.jpg

〇自分が調べたところでは、念誓の息子、松平清蔵親家は禄を持たず、蔵役や酒役を許可されて自分の田を所有し、長澤に住んでいた。後年、家康の命で長澤周辺の税を集める係を命じられていた。

彼の嫡男の清蔵親重も、私田を耕して長澤に住み、やはり蔵役や酒役を許可され、祖父の名をとって自分も念誓と改め、秀忠に朱印を授けられ土呂に住んだ。

親重の次男の清左衛門親正は父の役を受け継いで、秀忠の時代に遠州の中泉あたりの代官を務め、禄5百石をもらっていた。また、出羽の延澤の銀山も仕切っていた。(彼は則清次郎正勝の高祖父である)

2日 織田信雄の元老3人の内、岡田長門守善重は最近巷に「誅殺しかるべし」という噂がしきりに聞こえるので、しばらく病気だとして出仕をやめていた。しかし、剛士だからといって泰然としていても臆病で出てこれないと思われてしまうと、長島へ出てきて、土方勘兵衛雄久に向って、「殿が戯言を信じて家来を殺そうとしているという話を聞くが、殺すのは必ず側近にちがいない。覚悟せよ」と短い脇差を抜いて袖で払って鞘に納めた。

土方は微笑んで、「今、どうしてお前が殺されることがあるのか?でも万が一自分が討ち手を頼まれれば、その脇差しの柄に手を掛けさせないぞ」と口論になった。すると信雄から「明日の上巳の祝い(桃の節句)に鷹の取った雁の料理でもてなすので、岡田、浅井、津川は早朝に城へ来るように」という命が下ったとか。

信雄は永禄12年以来、奄藝郡田丸の城にいて、天正8年の火事に会って、飯高郡松ヶ島に移転し去年から桑名郡長島に住んでいた。

3日 3人の老臣は長島の城へ出た。この城の天守には付属の櫓としてひさしが附いた狭い部屋があり、信雄が寝室としていて2,3の近臣の以外は入ることができなかった。この朝は特に寒かったので、信雄は饗宴が始まるまで、その部屋に老臣たちを呼び込んだ。そうしてそこで祖父(備後守信秀)から信長へ贈られた南蛮張りの火砲を持ってこさせて老臣たちに見せた。

しばらくして、信雄は寝室としている天守から降りてきて老臣たちのそばに座って上巳の賀を述べた。岡田、津川はこの火砲を眺めて象嵌の素晴らしさを褒めた。

「岡田が着座する」と土方勘兵衛が述べる時、津川の席と飯田半兵衛が控えている場所とは4畳離れていた。これは信雄が出てくるときに(*津川)源蕃允が少し下がり、飯田が進めば1畳を離れるつもりだからである。土方は、「多宮丸がまだここに到着していないので、しばらくこの鉄砲を見ていてほしいと殿がいっている」といいながら(*岡田)長門守のそばによって二の腕を掛けて岡田を抱きとめ、短剣を片手で抜いて岡田を突いた。岡田は伏せながら脇差を片手にもって土方を引き立て、部屋の隅に行った。そのとき信雄は「大左文字の刀」を抜いて、岡田に土方を放せといったが、岡田は「大きな獲物だから愚かな家来も一緒に斬るがよい」といって土方を放さなかった。

土方と岡田は互いに刀を突き合いながら部屋の隅に寄った。信雄は何度も「土方を放せ」と命じたので、岡田が土方を投げ捨てたところで、信雄は岡田を切り殺した。

津川を討つ役目だった飯田はどうしようかと戸惑っているときに、「(*津川)義冬は自分も殺されるのか」というと、信雄は「お前も誅殺する」と答えた。義冬は「自分の心の奥を察してくれないのか」といったが、飯田は刀で切りかかり、信雄が津川を切り殺した。森勘解由が浅井多宮丸を間もなく斬ったが、多宮丸は若いので少し抵抗した末に間もなく斬り殺された。

当時長島の城は麤畧(*粗末)で、天守に信雄が住んでいるので、城内では何が起きたのかがわかず、騒ぎが広がった。しかし、信雄は家来に長刀を持たせ、近臣12人で場内を見回らせて騒ぎを収めた。

信雄は尾張の愛智郡星崎と中島郡刈安、賀州桑名郡松ヶ島へ出撃するように命じた。

岡田の家来は長島から星崎に戻って、この事件を長門守の弟、庄五郎善同(後伊勢守)に告げると、家臣の天野五左衛門、坂井下総、赤川宗左衛門、須賀太左衛門、同彦次郎、同隼人、喜多野彦次郎は星崎の城へ立て籠もった。

長門守の妹婿、山口半左衛門重政(後伊豆守)は、母を長島の城へ送って信雄に従おうとした。その理由は、以前彼は、佐久間右衛門尉信盛とその子の駿河守正勝に世話になったからで、当時駿河守は信雄の長臣だったよしみで、信雄に付こうとしたのである。

長門守の弟の僧良瑑は怒って、重政を城から追い出した。信雄は長島の城から尾張の清州城へ移り、長島を天野周防守雄光に与えた。

5日 伊勢の戸木の城主、木造左衛門佐長正は、松ガ島の城を攻撃した。城内には、斯波右兵衛、佐義銀人道三松軒、その弟津川右衛門佐入道謙人、同彌太郎義長などの、故玄蕃の親族および神田清右衛門、中村仁右衛門、佐々半右衛門、援兵の富田半右衛門知信などが立て籠もって防戦した。三松軒謙入斎は玄蕃允の兄である。木造は城を猛攻撃し、玄蕃允の伯父、彌太郎をはじめ城兵100余人を殺したが、残りの兵が奮戦したので、城は陥落しなかった。

6日 滝川三郎兵衛勝雅は松ガ島へ攻め寄せた。城兵は昨日木造のために兵が多く討たれたので戦えず、すぐに城を明け渡した。信雄の命令で前の近江、栗本の城主、三雲対馬守の子、新左衛門成持が100人余りの軍勢で松ガ島へ駆けつけた。

信雄は松ガ島を滝川に与えたが、三郎兵衛が直ちに本丸や曲輪を守り、七日市場蒲田の城主、日置大膳亮も加勢して城の櫓を守り、家康からの援軍として服部半蔵正成、伊賀の砲兵100人、そのほか伊勢と近江の甲賀の兵など3千人がこの城を守るという、非常に堅固な備えとなった。

三郎兵衛はかねがね南伊勢の諸士の質子を取っていたが、田丸中務少輔直昌、九竜大隅守嘉隆、長野左京亮、和州の秋山右近光匡、澤源六郎、芳野内宮などは織田上野介の勧めによって、秀吉方についたという。

〇伊勢の信雄の城としては、南方の戸木と新美の城には木造左衛門佐が立てこもり、小倭衆(盛長、吉掛、山岡、福田)などが奥佐田と口佐田の城に立て籠もった。また、船江には本田左京、河股谷には日置大膳の家来、七日市市場にはその弟の治太夫などが立て籠もった。北方では、神戸の城には神戸與五郎、加太の城には加太右馬助、同左京、峯の城に佐久間駿河守、国府の城には国府次郎、そのほか千草、楠、持福、濱田、上木などそれぞれの領地の砦を守った。

長島の城は天野周防守、薦野の城には土方勘兵衛、尾張の海東郡蟹江の城には前田與十郎がいたが、そのほかには、美濃と尾張には信雄方の城は多くはなかったという。

家康の命によって、信雄を援護するために三河の岡崎の城代、石川伯耆守(その組のもの)、刈谷の水野惣兵衛忠重、同藤十郎勝成が出撃し、岡田庄五郎の尾張、愛智郡星崎の城を攻撃した。

城からは軽率が出て来て抗戦したが、敗北した。水野は城下の天野五右衛門の住居に放火して根小屋をすべて焼き払った。そこへ須賀太左衛門らが城から出てきた。水野の士、鈴木與八郎が須賀と槍で対戦した。太左衛門は橋から下へ突き落された。水野藤十郎は自分から天野五右衛門の陣地へ攻め込んだ。

久保田傳十郎、波々伯部十郎三郎、岩村作右衛門が一番乗りし、外郭を破って本城へ迫った。城中の木村や荒川らの精鋭が知恵を絞って応戦した。

秀吉は、水野忠重へ密使を送り、「自分の味方に付けば三河と遠州を与える」という直筆の書簡を送った。忠重はすぐに家臣の神谷金七郎長直にそのことを浜松へ報告させた。家康は喜んで、金七郎は小鳥驪といういい馬をもらって帰った。(長久手の戦いでは金七郎はこの馬に乗って指揮を執った)。

上方勢の派遣した忍びが、星崎城へ入ろうとしたが、石川数正が傷を負いながらもこれを防いだ。

7日 家康は浜松を出発した。(これは尾張へ向かうためである)

8日 信雄は以前から信長の功臣、池田、森、堀などの人質を受け取っていたが、その中の池田勝入は信長の乳母の子だったのでとりわけ大事にしていた。一昨年山崎の寶寺城を建設する時に、勝入はわけあって秀吉に恨みを抱いた。しかし、秀吉の子、秀次を勝入の婿としているのに、自分が秀吉にこのような振る舞いをする功臣を質に置くと、自分が秀吉に疑がわれてしまうとして、長島の城中にいる勝入の次男、三左衛門輝政を送り返した。

すると秀吉は尾藤甚右衛門知宣を通じて、勝入を味方に付けさせ、自分の家来にさせれば美濃、尾張、三河を与えると、津田隼人から説得させた。この状況に勝入の功臣の片桐半右衛門は、勝入に「信雄についた方がよい」と諭した。一方、伊木清兵衛は、秀吉の猛威に屈して恩賞として数国を増やせることにひかれて、強く「秀吉につくべきだ」と述べた。

勝入は初めは信雄のもとにいる質子のことが気になっていたが、三左衛門が返されたので、秀吉に付こうと決め、堀久太郎秀政と森武蔵守長可と相談して、「5か国をもらえるのであれば信雄につく」と伝えた。これは実に無茶な条件である。

一方秀吉は、家康にも「信雄は能がなく国を治められないので、自分につけば彼の持ち分である美濃と尾張を授ける」と伝えた。家康は、「自分は信雄の父の信長と同盟を組んで互いに助け合ってきた、このよしみを捨ててどうしてそんな封をむさぼることなどできない」と嘲笑した。

信雄方として尾張の春日井郡岩崎の砦に立てこもっていた丹羽勘助氏次(後の式部少輔)のもとに、秀吉は今井検校を派遣し、「おまえに尾張の半分を与えるので味方につくように」と伝えた。氏次は非常に怒って、「自分は信雄についているが、徳川の名将に付きたいと思っている。豊臣方について名を汚したくない」として秀吉の書簡を破り捨てた。検校はおののいて帰国した。

滝川左近将監一益は、一昨年から三七郎信孝に付いていたが、信孝と柴田が滅んでからは浪人として近江に住み、秀吉から5千石の援助を受けていた。今回秀吉は彼に「北伊勢の5郡を支配している信雄を攻撃してこの地域を支配せよ」と命じた。一益は日ごろから信雄と仲が悪かったので、この命令を受けて大喜びし、大阪へ行って秀吉に謁見し、近江へ戻って仲間を集めた。

幸い北伊勢の亀山、関の城主、関萬銕齋とその子、右兵衛督一政(後長門守)が秀吉方なので、一益は家来佐治信助を援兵として亀山にいる一益の甥の滝川金七郎と同彦次郎法忠を関の城の加勢とし、自分は富田平右衛門知信(後左近将監)とともに、一志郡木造の城に立てこもって北伊勢を征服しようとした。

9日 信雄の長臣、佐久間駿河守正勝と山口半左衛門重政は5千の軍勢で、亀山城へ攻撃をかけ城下の商屋を放火したが、「この城を抜くのはたやすいが、要害ではないので味方にとって価値がないから抜くこともない」と兵を戻した。

〇『勢陽雑記』によれば、上野の城主、林與五郎は、100人の兵で亀山城を奇襲した。たまたま城には兵力はなかったが、関萬鉄斎は老巧な武将で家来の葉若藤左衛門、同九郎左衛門、岩間八左衛門、同七郎左衛門、入道草庵と、子の與七郎、同三太夫、同勘兵衛、穂積喜太郎、桜井吉兵衛、井坂傳兵衛、萩孫右衛門、豊山新右衛門、草川仁兵衛など13人を率いて城を出て、町の数か所に火をかけて煙を立て、畑に隠れていて大敵の中へ突撃し、敵をことごとく撃退した。岩間三太夫は竹の指物で戦って戦功があった。萬鉄斎は早期の撤退を命じて兵を城へ収め、豊田新右衛門がすぐに城門を閉ざした。寄せ手は重ねて攻撃を仕掛けたという。

〇『蒲生軍記』にも、去年信孝方として最初に関萬鉄斎が亀山にこもった時のことを記していて、内容に恐らく間違いはなさそうである。

〇信雄の伯父の織田上野介信兼は、熱烈な秀吉方の武将である。彼は蒲生忠三郎氏郷と共謀して、信雄の家来の佐久間駿河守正勝が改修して立てこもろうとした鈴鹿郡嶺の砦が重要な場所であることと、信雄には援兵も多いと聞いていたので、城の修理が終わる前にここを抜くべきだと考えた。そして氏郷を主将として、長谷川藤五郎秀一、日根野備中守弘就、同彌次右衛門、滝川左近将監一益など1万余りの軍勢でこの砦へ向かって出撃した。

信雄方の飯高郡船江の本田左京亮親康は、千人ほどの勢力だったが、彼の婿の中村仁右衛門が勧めたので、密かに秀吉方についていたという。

10日 秀吉方は多数で嶺の城を攻撃した。

この城の修理は完成していなかったので、大敵には対抗できず、城将の佐久間駿河守正勝と援将、中川勘右衛門雄忠、山口半左衛門重政、関甚五兵衛、小坂助九郎雄吉、山岡八郎左衛門景友(後道阿彌)は城外で、川を隔てて長時間交戦した。

滝川一益の命令に応じて秀吉方は、競い合って城兵を討ち、残兵を追撃して付属の城を抜こうとしたが、城兵には鋭兵が多く、城の際で猛然と盛り返し抗戦した。

秀吉方の蒲生家の上坂左文郷可と、信雄方の小坂郷喜が槍で対戦した。関左内などが首を取った。堀家の長臣、堀監物直政と山岡八郎左衛門が、槍で対決した。関甚五兵衛は後殿して激しく交戦したが、城の際で名村百右衛門に討たれた。その他城兵300余が戦死した。

佐久間駿河守は踏みとどまって塚の上で自害しようとしたが、山口重政が走ってきて、「城将は城の外では死ねないものだ」と諫めた。佐久間は敵を追い払って城の中に戻った。

敵は更に攻撃を強めた。佐久間と山口は木井戸から飛び出して敵が退いたときのこと、尾張の海東郡津島に、家康の先鋒の酒井左衛門尉忠次、奥平美作守信昌、松平主殿助家忠が陣を敷いたという連絡が入り、寄せ手は1里ほど退却した。

夜になって、城兵は嶺の城を棄てて尾張へ帰ろうとした。中川勘右衛門雄忠が居城の丹羽郡犬山に帰る途中、江尻半左衛門は以前から持ち続けていた怨みで中川を殺害した。

13日 家康は清州へ着いて信雄に面会した。酒井忠次などが同席した。信雄は家康に礼を述べ、また、忠次に向って「国家の危機とは今のことである、特におまえには期待している」と述べた。忠次は、「自分は齢を取っているが、あなたの命によってもし先鋒を頼まれれば、100万の兵も恐れることはなく、必ず勝利に導く」といったという。

清州に近い春日井郡の小牧山は、その昔織田信長が居城を築いたが、信長はその城を壊して、愛智郡名護屋へ移り、その後清州城を居城とした。

榊原小兵太康政は、「もし小牧山を敵がとれば尾張を眼下に見下ろして敵に利があり、こちらは損をする。そこで、小牧山を家康の陣所とすべきだ」と提案した。そこで酒井忠次は現地を見回って、小牧山の地の利を調べ、榊原の考えは尤もだと、家康に報告した。家康はその提案に応じた。

今夜、池田勝入は丹羽郡犬山の城を抜いた。ここは勝入の領地で、彼は一昨日長臣の日置三蔵を犬山に行かせて、地元民に「中川は死んだので、味方について犬山城をよこせ」と要求したので、郷民はそれに応じて人質を2人送った。そこで勝入は「明日の夕に東美濃を攻撃せよ。ただし、日帰りするだけなので腰兵糧を使え」と命じた。しかし、実際は勝入は今夜に父子で宇留馬川邉まで行って、しばらく休んだ。(ここで東美濃を攻めるというのは彼の謀略である)

そこで彼はかねてから用意していた猟船20艘を大豆戸の渡まで呼び、深夜に池田紀伊守之助などを乗せて川を渡って、夜陰に紛れて犬山城の坂下水の手口から忍び込んで勝鬨をあげると、城中は慌てふためいた。中川勘右衛門の伯父の清蔵主という禅僧は、兵が少ないにもかかわらず奮戦したが命を落とし、勝入は犬山の城を落として大喜びをした。

古来いわれて来ていることだが、上方から尾張へ攻め込むには、西から攻めると勝つのが難しい。しかし、犬山口から攻めると勝てることが多い。実際信雄の功臣、澤井左衛門尉が、西口の黒田の城を守っていた。そこで犬山を抜けたことは必勝も近いと勝入は喜んだ。

この日秀吉は、越前、加賀、若狭を治める丹羽越前守長秀へ書簡を送った。それは「現在支配している国々をしっかり守るのが肝要である。またお前は加賀の金澤の城主前田又左衛門利家に援兵を送って、佐々を抑えなくてはならない。自分は近日尾張を攻める」というものであった。

秀吉は、蜂須賀彦右衛門家政(後阿波守)には2千の兵力で大阪にとどまらせ、和泉の岸和田城には中村式部少輔一氏の3千で守らせた。しかし、根來、雑賀の敵が大阪を窺っているので、蜂須賀小六至鎮(彦左衛門の子で後の阿波守)、前野将右衛門長康(後の但馬守)、生駒甚助政俊(後の雅樂頭)、黒田吉兵衛長政(24歳、後甲斐守)、播州の赤松明石、泉州の松浦安太夫宗清、寺田間鍋、桑原など6~7千を援兵とした。

また、山城の淀に松岡九郎次郎、小野木清次郎重勝(後縫殿助)、近江の勢田に長岡越中守忠興、同国甲賀の堀尾茂助吉晴(後帯刀)、木村小隼人重茲を置き、筒井順慶、伊藤掃部治時は和泉の秋山澤、芳野の質人を取って、伊勢に向わせた。

近江の森山には羽柴美濃守秀長、草津には於次丸秀勝、永原には三好孫七郎秀次、高山右近友祥、中川藤兵衛秀政、氏家内膳正行廣が1万4~5千で美濃口の後詰とし、伊勢へは蒲生、長谷川、加藤、一柳、山崎源太左衛門片家、浅野彌兵衛長政(後の弾正少弼)及び甲賀の士を呼び寄せていた。それでも勢力が足らない場合は、森山と草津からも救援するように命じた。西国、山陽道の抑えは、浮田秀家、備前、美作、因幡勢が担った。

浅井多宮丸が討たれ、その家来が刈安賀の城を守っていたが、それも陥落した。この城を信雄は森勘解由に授け、家康は信雄に「自分の支配地の城主の人質を預けようか」と尋ねたが、信雄は「信長の第1の家来で、特に禄もないのに尽くしてくれているので質子は納めなくてよい」と答えた。家康は、「この時節では縁の深い家来といっても油断はできないので、早く人質の件を処置した方がよい」と勧めた。

そこで信雄はまず安井将監に森勘解由の質子を求めさせた。森は「自分のような家来を疑うと清州城は守れないぞ」と怒って質子を出さなかった。次に安井は黒田城に行って澤井左衛門尉の質子を求めた。澤井は、「城には婦女子供を置いて害はあってもいいことはないので、妻子を差し出す。自分は親戚なので遠慮はいらない。籠城に備えて、兵1人すら惜しい時なので、自分の従者を削って差し出してもいいと」述べた。世間は挙げて澤井を賛美した。

〇この日、越後の国主、上杉景勝は、朝日山を出て信州へ進軍した。家康の家来小笠原右近太夫貞慶は計略を練って同国の小味の城主、小味左兵衛を味方に付け、すでに景勝の領地となっている川中島の4郡を奪還しようとした。しかし、それが露見した。景勝の出兵は小味を滅ぼすためである。景勝の家来、須田左衛門尉が抜け駆けをして52騎で小味の城を急襲し、250人あまりを殺し左衛門を捕虜にした。

14日 池田勝入が犬山城へ戻ったと聞いて、稲葉一鉄は援兵として犬山へ向かった。

そもそも元亀のころ、信長は犬山の城1万貫を勝入に与え、城を補修させ居城とさせたが、摂津の荒木を退治するために勝入は長期にわたって摂津に陣を張り軍功も大きかったので、荒木の領地尼崎、花熊(*隈)、茨木あたりも領地として加えられた。彼は天正9年までは犬山も持っていたが、信長の4男、源三郎長勝を勝入の婿として犬山を委譲した。しかし、翌年、本能寺の変で長勝も命を落とした。それで尾張一円は北畠信雄の領地となった。勝入は美濃の岐阜を領地としていたが、今度再び犬山を抜いて居城とし、岐阜を秀吉に献じたという。

家康は酒井忠次と松平家忠などに伊勢の桑名へ出撃させた。また、信雄の家来久保勝正へ書簡を送った。天正12年3月14日家康ー久保勘次郎.jpg

15日 秀吉方の蒲生氏郷、織田信兼、筒井定次、九鬼大隅守嘉隆、田丸中務少輔直昌、関安芸守入道萬鉄斎父子、岡本下野守宗憲、武護治部大輔、義銀入道三松軒、津川右衛門佐入道謙入の一族郎従など、多数が伊勢の松ヶ島の城へ向かった。

この城は伊勢の要地で、最初は信雄が築いた。城の整備が終わって城将は太剛の滝川三郎兵衛で、援将の日置大膳亮、家康からは服部半蔵正成など3千人が立てこもって、本丸に地元の士の質子を保護した。

船江の城主、本田左京亮親康(次郎親常の後胤)の愛子、千勝丸(24歳)が、この松ヶ島城にいたが、左京亮は信雄を裏切って寄せ手に内通していたので、状況を案じて家来の高島次郎右衛門を松ヶ島に行かせて、千勝丸を救い出そうと企てた。次郎右衛門は稲、竹、葦のように松がぎっしりと取り囲んでいる松ガ島の城壁に忍び寄って、散々苦労の末に城の中に入った。そして本田左京と日置大膳は、相婿のために千勝丸の最後を見届けるために忍び込んだと日置に断って、彼の隊に加わり、城の入口の衛兵として隙を見つけて、千勝丸を連れ出して逃げようとした。

16日 かねて榊原康政の勧めによって家康は、小牧山を本陣とした。今朝早朝康政はこの山に来て合図の狼煙を上げると、家康はすぐに小牧山に移って整然と陣や柵を張った。それほど高い場所ではないので、諸軍は大方ふもとに駐屯した。

秀吉側には家康が清州に着いたことが伝わり、松ヶ島の寄せ手の蒲生氏郷、長谷川秀一、加藤作内光泰が、尾張へ集められた。しかし、その余りはなお数万という多勢で、松ヶ島へ攻め寄せた。

筒井勢が先登して周辺を焼払い諸士の館を押収した。城の外郭にいて三の丸へ戻れない士卒が少々捕えられたところを、日置大膳は兵を率いて突撃し敵を追い払った。これは風が草をなぎ倒すようであった。

織田信兼が放った火が天守に移りそうだったのを、城将滝川三郎兵衛の兵の中津志摩介が天守に登って消し止めたという。その後、諸将は堀際でよって竹扭にとりついた。

〇この日早朝、信州深志(*松本)の城主、小笠原右近太夫貞慶は、小味城の救援に鳥居峠まで駆けつけたが、すでに城が落ちていたので引き返した。景勝は小味に着いて、左兵衛を城下に吊るした。また、須田の働きは大きかったが、軍令を叛いたので領地を3分の2に削ったという。

世間では、「上杉の軍は昔から優れて武田と優劣を争っていた。しかし軍令が厳格過ぎて敵に対しては恰好が良くみえても、味方は休まるときがない。須田のような家来も禄を削られて、結局は景勝を叛くことになった。戦時で軍法を厳格にする必要があるが、かえって禍となることもある」といわれた。

17日 松ヶ島の城から日置大膳亮は出撃し、筒井の陣を急襲して非常な戦果をあげた。

18日 日置大膳亮は再び城から出撃して戦功があった。城内には家康の精鋭服部鬼半蔵正成と伊賀の士が以前から立て籠っていたが、彼らも城から出撃して奮戦した。

〇この頃、今川義元の甥の伊予守氏詮は遊客だったが、家康は彼を呼んで「子供がいるか」と尋ねた。「4人いる」と答えると、「皆御家人にする」と命じて、氏詮の衆子、源五郎正勝、半右衛門定國、小源何某を呼び出した。彼らは家が落ちぶれたことを恥じて、名前を変えて瀬名とした。もう1人の子は修験者として京都の勝仙院に住んでいたという。

武徳編年集成 巻27 終(2017.4.11.)