巻32 天正14年正月~12月
投稿日 : 2016.05.06
天正14年(1586)
正月小
10日 家康は濱松から岡崎へ来た。
13日 織田信雄の使者として、織田源五長益、羽柴下総守勝雅、大野佐左衛門雄光が三河を訪れ、家康の上京を再三促した。しかし、家康は一切首を縦に振らなかった。そうして「今度来たら命はないかもしれないぞ」といった。3人はむなしく引き下がった。
家康は、甲州巨摩郡武川の士たちに手紙を送った。
家康は、本多正信(後の佐渡守)と大久保忠隣(後の相模守(この人は忠世の子である)にも命じて、武川の士たちへ書状を送らせた。
19日 家康は三河の額田郡吉良で、狩猟をした。
21日 織田信雄の使いとして、源五長益、羽柴下総守勝雅、土方勘兵衛雄久が家康を訪れ、「秀吉は家康が上京を拒否すれば、毛利と浮田が四国と北國の軍を率いて三河を攻撃し、自分と組んで天下を取るといっている。秀吉は、自分に近江で軍費1万石を与え、大納言に推挙した。3人の使いの内の下総守には、羽柴の姓を与えて領地も与え、更に自分の元老の領地を増やした。自分と長臣たちの妻子は、結局大阪に移って質となる。自分は家康に対して長久手の救援の恩は忘れていないが、質を入れたのでどうしようもない。表向きには秀吉に付かざるを得なかったのだ。家康も早く京都を尋ねてほしい」という意向を伝えさせた。
家康は鷹をひじに止まらせて、「この鷹を手配して、喜んで一戦を受けて立とう。どうして自分が秀吉の家来になりたいなどと思うか」と述べた。3人はすぐに宿に帰った。
22日 羽柴勝雅などが、また家康を訪れた。家康は、「まだ帰っていなかったのか。一昨年申の霜月に、信雄と秀吉が和融したときからこの方、信雄は、自分には何の挨拶もなかったではないか。父上からは何度も挨拶状をもらったものだ。去年の霜月には、秀吉は、我が老臣の石川伯耆守に20萬石を与えるといって、大阪へ引き抜いた。自分は秀吉の領土へ攻め込みたい気持ちである。しかし、それには信雄の領地を通らねばならないので遠慮して今日まで来たのだ。それでも信雄が自分に上京を促すとは、どうかしているのではないか?
自分は信長との連盟の約束を守って、尾張へは出て行かない。しかし、そちらが攻めてくれば受けて立とう。もし信雄が出てくれば、武田信玄が侵略した東美濃、土岐、遠山、恵那の三郡を奪い取るぞ。そこで秀吉が怒って戦いを挑んでくれれば、望むところだ」といった。
〇豊臣家譜の資料によれば、翌日羽柴下総守は再び家康に会いたいと尋ねて来た。家康は出て行って、「お前たちはまだ去らないのか、早く帰れ」と怒ったという。
勝雅は、「自分たちがこのように何度も頼みに来ているにもかかわらず、従ってくれないのなら、秀吉は三河へ出兵する。今三河を見ると城も整備されてないし要害にならない。ただ放鷹で楽しんでいて、危なくないのか?」と述べた。
家康は憤然として、「無駄口をたたくでない。秀吉勢はせいぜい10万程度で、われわれ5州の勢力は3,4万だろう。しかし、秀吉の軍勢は多いが地理に疎く、こちらの兵は少なくても地理をそらんじている。狭いところで戦えば勝利はこちらにある。お前たちは長久手の戦いを忘れたのか。もう一度会いに来たら命はないぞ」といった。
〇3使は大阪へ帰って家康の意向を報告した。秀吉は「いい度胸だ、家康め」と憤慨した。丹羽長秀と蒲生氏郷秀治などは、何度も秀吉に家康と和融するように進言した。
ある夜のこと、秀吉は深夜に信雄と家来の羽柴勝雅を寝室に呼び、片手に脇差、片手に紅の細帯をもって童子に灯りをもたせ、身を乗り出して2人に「自分は何日も考えたが、家康を上京させる方法を考えついたぞ」といった。
2人は驚いて言葉が出なかった。秀吉は「自分の妹を家康の嫁にしよう」といった。堀尾茂助吉晴と生駒甚助正俊が控えていて、「その妹とはどなたか」と尋ねた。
秀吉は「佐治日向守に嫁いだ妹だ。あれには子がいない、これを取り返して濱松へ送れ。佐治は思慮深い奴だ、妻を出せば天下が収まるというのであれば、渋らないはずだ。これでも家康がなお疑うのであれば、自分の母を質として送れば、家康はすぐ京都へ来るだろう」といった。信雄らは秀吉のアイデアに感嘆した。
翌朝、生駒と堀尾はすぐに佐治を訪れ秀吉の考えを伝えた。日向守は、「秀吉の命令とあれば受け入れよう。自分が夫婦でいるのは血気の致すところなので、国家のためにはならない。妻を返して天下が収まるのであれば、どうして断れるだろう、しかし、自分はもう生きているわけにはいかない」といって、すぐに自殺したという
2月大
22日 秀吉の使者として、織田源五長益、羽柴下総守勝雅、天野佐左衛門雄光、富田左近将監知信は大阪から三河の吉田を訪れ、城主酒井左衛門尉忠次に面会して、秀吉の意向を伝えると、家次も秀吉が家康と和融したいという考えが本当だと感じて、4使を連れて家康の吉良の宿を訪れた。
家康は「秀吉の使いが何度来ても無駄だ」といった。
秀次は、「今度はただ上京を頼みに来ただけではなく、縁談の使いである」として、家康に使いを対面させた。
4人の使いは秀吉の命を述べると、家康はようやく納得した。しかし、3つの条件を申し出た。使者達は、「それを聞かせてほしい」と述べた。しかし、家康は「まず帰って秀吉の考えを聞いてくるように」と命じた。すると「秀吉の密書をもって尾張清州まで浅野彌兵衛長政が来て待っている」と述べた。家康は「すぐに呼び寄せるように」と命じた。そこでその夜すぐに清州へ飛脚を派遣した。
23日 昼頃、浅野長政は吉良へ到着した。そこで家康は次の3か条について秀吉の誓約を要求した。
1)秀吉の妹、朝日姫が男子を生んでも、長丸(秀忠)に代わって嫡子にせよとはいわぬこと。
2)今度の和融によって、長丸を秀吉は人質に取らないこと。
3)今後家康が死去したとしても、必ず長丸を三河、遠州、駿河、甲州、信州の守護とし、まだ8歳であるが秀吉はこれを愛して粗末に扱わないこと。以上を保証すれば連盟することを約束する。
この草案は神尾庄左衛門が執筆し内田善阿彌が提示した。(*浅野)彌兵衛はそれを読んでから、懐から秀吉の自筆の草稿を出して読むと家康の条件と一致したので、その場にいたものは2人の名将の知恵が同じであることに感心した。長政は懐から霊社の牛王を出して、草案が秀吉の自筆であることを確認した。それから飛脚を送って秀吉にこれを報告した。
26日 秀吉自筆の返事が夜中に家康に届いたので、家康は連盟を了承した。その結果、羽柴勝雅と大野雄光は清州へ帰り、織田源五と浅野彌兵衛は濱松へ行き、家康が帰ってきたときに、すぐに結納の使いを大阪へ行かせる手筈を整えた。
27日 家康は吉良から岡崎に帰った。織田長益と浅野長政が岡崎を訪れ、元老に秀吉の考えを報告し、翌日はここに滞在した。
〇ある話では、家康は北条氏政父子と駿州沼津と三島の間で会談するために、昨日6日駿府へ行き、家来たちは島田に泊ったというが、恐らく間違いだろう。
29日 家康は濱松へ帰った。
30日 御家人の成瀬藤八郎と浅井雁兵衛が先導して、長政は岡崎から濱松へ行き、城へ入った。その夜は猿楽の囃子三番が催された。家康は両氏を饗応した。
家康は来月中に朝日姫を、濱松へ輿入れするように計らい、追って結納の使者を送るということを両氏に伝え、彼らは退出した。
〇秀吉は去年の閏8月以来、京都の聚楽城を建設していた。南北は一城から二条まで、東は堀川から西は内野までで、本丸には築山、山里や花園があり、外郭には黒門や日暮門などを備え、めったにみられない立派なものだったという。
3月大
1日 秀吉の使者は濱松を出発した。
5日 家康からは結納の使者として本多半八郎が京都へ向け浜松を出発した。
11日 本多忠勝は聚楽城へ入り、秀吉に謁見して贈り物を捧げた。
秀吉は大いに喜んで、「忠勝の名は天下に轟いている。一昨年の長久手の戦いで龍泉寺では少人数で自分の3万8千の大軍と互角に戦った。火砲でお前たちを打ち負かそうと思ったが、一度は家康と和融して親戚になろうと思ったのである。今は秀吉の家来は家康の家来でもある。お前のような逸材を助けることは国家にとって重要だと思ったのだ。今褒美として黄金をおまえに沢山与えると家康に怪しまれるし、少ないと世間が(*けちだと)嫌うので、吉光の脇差と定家卿筆の小倉山庄の色紙という宝を2点だけお前に与えよう。お前のような優れた武将には、このような宝の値打ちが高まる」として忠勝に与えた。
小倉の色紙は伊勢の国司、北畠具教から連歌師の紹巴へ与えた50枚の一部である。その歌は、
哀れとも 云うべき人は おもほえて 身のいたつらに 成にけるかな
〇ある話では、家康は結納の使いとして天野三郎兵衛康景を行かせた。秀吉は天野は知らないので、酒井、本多、榊原の内の誰かを来させるようにといったという。これを信雄を通じて土方勘兵衛雄久(後の河内守)が家康に伝えた。家康は怒って、「結納を白紙に戻す」といった。
土方は「今心変わりをすると信雄の顔が立たなくて秀吉に会えなくなる、なんとか3人の内の誰かを行かせてほしい」と頼んだ。家康はようやく彼のいうことに応じて、4月23日に浜松から聚楽城へ本多忠勝を行かせ、使者は無事役を終えて5月5日に濱松へ戻ったという。秀吉は忠勝に相州貞宗の脇差、小倉の色紙、天野康景にも高木貞宗の刀を与えたともいう。(貞宗ははじめ江州に住んで刀鍛冶として高木貞宗と名乗っていた。後に鎌倉へ移り正宗の伝統を受け継ぎ有名となって相州の貞宗といわれた)
〇この日、家康は黄瀬川を越えて伊豆の三島で北条氏政と会合した。これは「天正10年に講和して氏政が婿となってから会ったことはなかったから」ということを名目としたものであるが、本当は北条の父子が家康に協力的だったので手を携えて常陸や下野を平定することや、もし秀吉と戦争になった時には一緒に抗戦することを確認するためであった。
北条氏は伊勢氏から分かれた家柄なので格式が高いだろうと遠慮して、長袴を着用すべきだろうと徳川の御家人はみな準備したが、氏政は横柄にも革の袴で一同さっさと上席に座った。徳川の一同は警戒して革の袴も用意したところ、北条一同も皆長袴に着替えた。徳川家の一族は誰も家康とは同行せず、酒井忠次、井伊直政、榊原などが同行した。氏政は家康に、大鷹12、馬14、剣2本を贈った。家康は氏政に縅(*おどし)200端、虎皮と豹皮を各5枚、猩々の緋2間、守家の刀菊一文字の太刀、長刀、南蛮鳥銃を贈った。また、国俊の刀、吉光の脇差を氏直に贈った。
互いに盃を交わすとき、酒井左衛門尉は立ち上がって海老救川(*狂い小舞謡 「 海老救川 」)の演技を披露した。氏政は非常に喜んで一文字の刀貞宗の脇差を与えた。
両家が別れた後、家康は氏政の家臣、山角紀伊守定方を連れて沼津まで帰り、目の前にある沼津の城の堀を壊させ、両家の間に城を置かず兵も置かないことを示した。
21日 家康は駿府の城から濱松へ帰った。
4月小
2日 家康の異父の弟 駿河久能城の城主、松平源三郎勝俊が死去した。35歳
10日 秀吉の妹、朝日姫が聚楽城から輿出したという。浅野彌兵衛長政、津田四郎左衛門、富田左近将監、滝川儀太夫、伊藤太郎左衛門(朝日姫の乳母子)が随行した。信雄からの従者として、伯父の源五長益、羽柴下総守勝雅、飯田半兵衛が随行した。付き人の女性150人が着飾って籠に続いた。
家康からは、酒井小五郎家次、内藤三左衛門信成、松平主殿家忠、三宅惣右衛門康貞、高力與左衛門清長(後の河内守)、榊原隼之助忠政、久野左太夫宗秀、粟生長蔵、鳥居忠兵衛が三河で迎えた。
20日 朝日姫は濱松城下の榊原小平太の宅に着き、旅の服を着替えて城中に入った。酒井河内守が重忠が輿を迎え、婚礼の儀式が執り行われた。姫の付き人は、秀吉から派遣された清水平左衛門正親と山本千右衛門だった。
26日 榊原康政が使いとして濱松から聚楽へ向かい、富田左近将監知信の宅に着いた。
秀吉は突然夜中に榊原を訪れた。秀吉は「一昨年の小牧の陣でお前は回文を流して、『秀吉は信雄と戦いを始めた、実に恩知らずの悪党である。しかし、諸将は仕方なく秀吉について戦っている』といっただろう。自分はそれを読んで頭に来た。そしてお前を殺した者がいたら、首を見て笑ってやろうと思った。しかし、今、家康が婿となった上は、お前はよく主人に尽くしているので、その恨みは捨てたことをお前にいってやりたいので、お前が城に来る前にいいに来た。だからお前は、娘をお前の子のようにかわいがってほしい」といったという。
27日 康政は聚楽城へ入り秀吉に謁見した。秀吉は康政を厚くもてなしたという。(一説によれば、康政が濱松を発ったのは5月26日という)
〇下旬、濱松城内に舞台が建てられ、家康の婚儀の祝いと、秀忠(8歳)を朝日姫の子とする祝いのための猿楽が3日間行われた。このとき、秀忠の遊び相手の10人あまりの小姓に、秀吉は奈良曝(さらし)の白の帳1個、絹の摺箔の帯1本を与えた。彼らは、長谷川倉之助正吉、吉木多山懸成重(後、丹下)、小幡熊千代(後、甚兵衛)景憲、植村久太郎長政、長坂血槍九郎信宅、丸毛辨千代(後、午之助)重成、弓気多玉千代、木村伊勢千代(後、源太郎)元政、武尾千代松、興津千松、小笠原虎福である。更に善阿彌疱厨頭と神谷又五郎正重にも贈り物を、また子供たちにも若狭の白布の帷(*とばり)を1個づつ与えた。
7月小
家康は上京について家来たちと相談した。酒井左衛門は、「秀吉は何を考えているかわからないので、様子がわかるまで待った方がよい。もし秀吉がこれで怒って攻めてきても、味方が負けはしない」と進言し、諸臣も同意見だった。そこで家康は上京を取りやめた。
「秀吉が怒って、質にとっている参河守秀康を殺そうとしている」という噂があった。家康は「前に秀吉の願いで秀康を養子としたので、これを今殺すとなると、秀吉は不義理をすることになる。自分はそれが悲しいので、あえて従っておこう」といった。このことは詳しく秀吉の耳に入ったという。
17日 信州の真田安房守昌幸を攻めるために、家康は駿府へ軍を進めた。
24日 皇太子、誠仁が崩御した。太上大皇の尊号を授け陽光院となった。
8月大
7日 秀吉は真田へ密書を送って、家康に降伏するように要請したので、家康は攻撃を延期した。
9日 秀吉は三河刈谷の城主、水野忠重へ手紙を送った。
〇(この手紙に書かれた秀吉の考えによれば)家康は真田を撃滅すべきところだったが、昌幸だけでなく木曽も小笠原も、家康が秀吉と和融した上は、もう景勝の後援も期待できないので、信州と甲州の諸将に何度も嘆願した結果、家康に出兵は中止してもらって、家康の支配下に降りることに決めたという。
14日 秀吉は先月から聚楽城に住んでいたが、島津修理太夫義久が勢力を蓄えて、西国の諸公が彼の配下に入ったので、彼らを服従させるために、中国勢を豊前に向けて出兵した。監軍として黒田勘解由孝高宮城入道を任命し、今日大阪に入ったという。
16日 家康は甲州を巡視した。まず当地の相撲取りを集めて相撲を取らせて、観覧した。そこに秀吉からの慇懃な手紙が届き、酒井左衛門佐が家康に披露した。
24日 秀吉から飛脚が着いた。その趣旨は、「島津義久を討つために、来年の春に九州へ出撃する予定である。その件で相談があるので美濃へ行ってもよいが、今は親戚同士なので、もし京都へ来てくれれば非常にありがたい。今の秀吉の家臣は皆信長の時代の仲間たちで、位や禄を与えてはいるが、自分を主君ではなく同士だと思っている。その辺を考えてもらって、京都へ出てきてくれれば、秀吉の威信も高まる。それでもなお自分を疑うのであれば、母を濱松へ質として送ってもよい」という自筆の書簡であった。家康はすぐに自分で筆を取って、この提案を受け入れる返事をした。しかし、密書だったので、その中身を知る人はなかったという。
25日 家康は甲州を出発して、巨摩郡下山の萬澤に泊った。
26日 駿府へ帰った。
27日 掛川の城へ入った。
28日 家康は濱松へ帰り、朝日姫の付き人を命じられた山本千右衛門に急遽上京させ、「家康に母親を質として送れば、早速家康は上京する」と密かに告げた。秀吉は非常に喜んで、山本に金の熨斗のついた脇差を与えた。
9月小
11日 吉辰(*祝日、神嘗祭)のため、家康は一時駿府城へ移った。幕下の諸将が随行して家康と秀忠へ太刀折り紙や酒肴を献じて祝賀した。この城は未完成だったので、すぐに濱松へ帰った。
24日 家康は岡崎城へ行った。
26日 秀吉の使者の浅野弾正少弼長政、津田隼人正、富田左近将監知信と、信雄の使い織田源五、羽柴下総守、土方勘兵衛が岡崎を訪れ、「秀吉の母を質として送るので、上京してほしい」と要請した。この件はすでに秘密裏に話がついていることだから、6人の使者は家康に会って了承を得た。
彼らが京都へ戻る途中のこと、秀吉の弟、大和参議秀長は怒って「母を敵に送るなど滅相もないことだ」といった。秀吉は笑って、「大きなことをするときに、細かいことなどどうでもよい。お前は心が狭いぞ、気にするな」といった。
秀吉は、井伊、本多、榊原の親族を1人ずつ大阪へ質として送れと要請した。3人は了承した。家康はすぐに岡崎から濱松へ帰った。
10月大
4日 秀吉の推薦で、家康は権中納言に任ぜられた。羽柴秀長も権中納言に任じられ、三好秀次は参議に任じられた。
13日 家康は上京するために濱松を発った。菅沼藤蔵定政を秀忠付とした。茶入と銭舜挙(*せんしゅんきょ:宋末元初の文人画家)の絵一幅を与えた。
14日 吉田城で泊った。
15日 岡崎城に着いた。そこで秀吉の母の到着を待った。
諸臣は、「今秀吉は天下の3分の2を統治している。彼が母親を贈ってくるのはきっと何か策略があるに違いない」といった。家康は「確かに怪しいところがないではないが、母親を贈ってくるのを信じなければ、秀吉を恐れているようなものだ」と受け入れなかった。
18日 秀吉の母が池鯉鮒の宿に到着した。松平主殿助が迎えて、輿の警護を厳重にした。
20日 秀吉の母が岡崎に到着した。家康の妻も岡崎にきて母子が面会し、諸臣もこれを見て疑いを解いた。
〇『武徳大成記』には、母親は18日に岡崎に到着して、家康は20日に岡崎を出発して京都へ向かったと書かれている。この真偽は不明である。
家康は井伊兵部へ極秘に命令を下した。その内容は次のようなものだった。
「三河、遠州、駿河、甲州、信州の勢力4万2千の内、1万2千は家康に随行させる。鳥居と平岩は甲州と信州へ配置する。また、石川家成と大久保忠世を浜松の留守番とする。この4人には2万千あまりを付ける。井伊には1万をつけ、本多重次と共に岡崎に残る。
この理由は、もし秀吉が裏切るようなことがあれば、自分は京都に火を放ち、東寺に立て籠るだろう。この時には信雄と共に行動する。もしそう信雄から連絡があれば、自分に従う1万の兵を備えとして、また左衛門尉平八郎に付けている1万の兵を呼び寄せ、尾張佐屋の渡りから近江の千種越えにて京都へ攻め上る。また、敵が万が一大津でこちらの進軍を遮った場合には、武田勝頼が長篠でやったように一気に敵を突き崩すべきである。
上方勢がこちらの攻撃に一歩も引かなかったり、勢田の橋を焼き落としたりした場合は、その6,7町北の宇治田原へ出られるので、そこにいる案内人の相撲取りについて京都へ入り、東山の八坂に駐屯して、秀吉が聚楽城から大阪へ撤退するところを、東寺の本陣とで挟み撃ちをするように。
信雄は若狭、加賀、松任を領地とする丹羽長重(五郎左衛門)、伊勢の松ヶ島の蒲生氏郷、江州比田の長谷川藤五郎秀一、佐和山の堀久太郎秀治などと内々に約束をして、家康に通じている。もし秀吉が裏切れば、むしろ家康が天下を取ることになるかもしれない」
井伊直政と本多作左衛門重次は、岡崎城で秀吉の母を厳重に守り、居間には柴薪を置いて、もし家康が京都で何かが起きた時は、即刻母を焼き殺す用意をした。
浜松の留守番は、石川日向守家成と大久保七郎左衛門忠世、甲州には鳥居彦右衛門元忠、平岩七之助親吉が住んで、軍勢の2万千は大久保、平岩、鳥居が指揮したが、これは密命に従ったものである。
21日 家康は岡崎を出発した。秀吉の命令によって駅には米、野菜、魚、鳥などが山のように用意され。道は掃き清められ、ところどころで数万の従者を饗応した。
22日 家康は熱田の駅に到着。織田信雄は当時尾張の主だったので家康を懇ろに迎えた。
23日 伊勢の四日市に到着。
24日 同関の地蔵に到着。
25日 同土山に到着。
26日 近江の石部に到着。
27日 京都に到着。兼ねてから懇意だった三条新町の大商、茶屋四郎次郎清延の家を宿舎とした。
秀吉は、弟の秀長に命じて浅野長政に家康の上京を祝い、2,3日風邪をひいているのでしばらく面会を延期すると伝えさせた。しかし、その深夜、家康が寝室にいると、秀吉は従者を連れずに大和中納言と浅野彌兵衛の兵に紛れて、歩いて茶屋の家を訪れ、先に来ている浅野に秀吉が来たと伝えた。
秀吉は家康の寝室へ入って家康のそばに座り、「長篠以来会っていなかったが、12年の間に立派になって京都へ来てくれた」と謝辞を述べ、脇差を家康に贈った。これは婚礼の引き出物だったという。また弁当の蓋を開け、秀長と長政が配膳して家康に献じた。どの料理もみな秀吉が毒見して家康に勧めた。盃を交わして彼は聚楽城へ帰った。
〇『雍州府志(*ようしゅうふし)』によれば、茶屋清延の家は、新町三条伊藤町南にあり、洪水や火災から逃れて今も残っている。こえは家康の威光が今も残っているからだろうか。
28日 秀吉は、夜中に自分で吉躬の白雲の茶壺を持参して、家康に贈ったという。
29日 秀吉は、夜中に金を3百枚持参して小禄の者に配るようにと家康に与えた。
11月小
朔日 秀吉は、夜中に家康の明日の謁見のための立派な衣装を持参していった。「明朝面会する。その時には前にいったように自分に対して慇懃に対応してほしい。そのわけは、徳川でさえ自分にこのように対応しているというところを、諸大名に見せて、このように自分に礼を尽くせということを演出するためだ」
家康は承知した。また、あらかじめ秀吉は、「三河、遠州、駿河、甲州、信州の5州の長へ、明日の明け方に家康は秀吉に対面するので、大小の大名は烏帽子直垂の装束で城へ来てほしい」と述べた。
2日 家康は聚楽城へ行き、太刀1本(蒔絵)、黄金100枚、馬10匹を贈った。これを新庄駿河守直頼が披露した。
家康は中段に座り、秀吉に礼を述べた。諸侯は驚いて、「今回は秀吉の母を質にとって上京したのに、このように秀吉に恭順を示すとは、自分らも秀吉を崇拝しなければ」といったという。
今晩は大和中納言秀長の家にて家康をもてなした。家康の家来たちが家康の様子を窺うと、秀長は後ろの席を饗応するために席を立つとき、障子のそばに立ってみていた従者が、退席していなくなる音を聞いた。そこで家康に危険が迫っているかと、御家人たちは袴を高く引き上げ刀を取って様子を窺った。中でも成瀬小吉正成(後の隼人正)は刀を抜いて、奥に駆け込もうとした。近臣の長の大久保新十郎(後の治部少輔)は、「あわてるな、よく様子を見よう」と制止した。すると、富田左近将監が出てきてその座を鎮め、「秀吉が母を濱松へ質として送りだした上は、関白に下心はない、酒井、本多、榊原も同席している。大久保新十郎、鳥居新太郎忠政、永井傳八郎直勝に行ってみてくるように」といって、3人を導いた。
そのことを秀吉は聞いて、「徳川の家来は、そこまで主人のことを思っているのか、いつの戦いでも少ない勢力でもめっぽう強いわけだなあ」と感心した。
3日 秀吉は猿楽を催した。家康の知り合いの金春太夫が演じた。式三番が大蔵彌右衛門、開口が春藤六右衛門だったという。
4日 大和中納言秀長は、朝の挨拶を家康にした。その途中、秀吉が、小袖の上に、白の紙子襟裾の先が赤い地に桐唐草萌黄白浅黄色の縫い、紅梅の裏地の羽織を羽織って突然現れ、台に登って自ら茶をたてて家康に進めた。家康が茶碗を受けるために立った時に、秀長と長政が、秀吉の極秘の意思を家康に告げた。
この宴が終わると、秀吉は聚楽城へ家康らを導き、別れを惜しんで門まで一緒に出てきた。毛利輝元、浮田秀家、長曾我部元親など一族老臣が控えた。秀吉は彼らに向って「母を急いで京都へ迎えるために、早速家康を帰国してもらう」といった。
家康が殿中へ入った時、秀長と長政は家康の肩着を取って近臣に手渡し、家康の股をひねると、家康はすぐに秀吉のそばに立ち「その紙子羽織をいただきたい」といった。秀吉は「これは自分が鎧の上にきる胴着だ」といって離れた。家康は、「それなら、鎧をいただけないか? 自分は今まで賓客に甲冑を着せたりしないが」といった。
秀吉は感心して、すぐにその羽織を家康に着せて、「聴いたか? 家康は自分が鎧を着ていないことを心得ている。実にいい婿をとったものだ。これで果報が秀吉にあるわな」といいふらした。
また、中国と四国の諸将には従者が多いのをとがめてから、家康向って「これから清水寺へ参るが、従者が2,3万とは多いな」といった。家康はすぐにそれを彼らに伝えた。秀吉は「家康が一言あれば、秀吉の軍勢もどうにも手がだせないな」と恐れ、聚楽城へ帰って家康を饗応した。
秀吉は、「家康の妻はときどき母に会いたいし、有馬温泉にも入りたいので上京する。そのために聚楽城内に徳川家の館を建てる。そのため浮田宰相など諸侯の家三軒を立ち退くように。書院は秀吉が建てる。厨は秀長が作れ。警護は秀長の老臣藤堂仁右衛門高虎(後の佐渡守)に命じる。長屋は徳川家が管理するように。その費用として金3百枚を与える。留守番は伊吹市右衛門がするように」と家康に話した。
そして秀吉は市右衛門を呼び出して、盃を与え金の服を与えた。家康の在京の宿代として、近江の守山の地3万石を与えた。酒井左衛門尉にも京都での宅地(忠次がもらった屋敷は桜井の亭と呼ばれ、後年忠次が受け継いだ)と近江の領地千石を与えた。本多、榊原、奥平などにも京都の宅地を与えた、長久手の話などをして皆の活躍を褒めた。家康には数々のもてなしをして、三好郷の刀、正宗の短刀巣鷹を贈った。
5日 家康は京都を出て帰途に就いた。秀吉の推挙で、家康は正3位に叙された。秀長も同じであった。
9日 本多平八郎忠勝、榊原小平太康政は、従5位に叙された。忠勝は中務大輔、康政は式部大輔に任じられた。
〇ある話によると、「家康は先月20日に岡崎を出発し、25日に京都に到着した。秀吉もその日に大阪より聚楽に到着した。夜中に家康の宿の茶屋を訪れ家康に会った。26日に大阪に帰った。家康も淀から船で大阪に赴き、大和中納言秀長が森口で迎えた。(そしてすぐに秀長の家を宿とした)27日家康は衣服を整えて大阪城へ行き、秀吉に対面した。そこで大変な歓迎の宴を受け、夕方に秀長の家に帰った。これから様々なもてなしを受けて、家康は参河へ帰るのを忘れるほどだった」というが、これは大間違いである。
〇また別の話では、「家康は京都へ着いたが、京都には泊らず、すぐに大阪に赴いた。家康は遠慮して信雄の後に歩いた。秀吉はそれを見て家康の手を取って信雄の前に歩かせ、城へ案内して宴を催した。また、徳川の家臣たちを呼んでもてなした。秀吉は家康を天守へに登って、千利休宗易に命じて茶をふるまい、礼を尽くした」というのも間違いである。今回家康が大阪へ行ったという説は、実録にあるからといって信用してはならない。
11日 家康は帰国し、留守番の諸将や三河の衆は、尾張の大高の城へ迎えて帰国を祝った。家康が岡崎城へ着くと皆が大喜びした。また、前もって長尾丸(秀忠)が濱松から帰って待ち受け、家康と対面した。
12日 秀吉の母が京都へ向け岡崎を出発した。秀吉は誰に護衛をさせるかと尋ねると、家康は「井伊兵部直政だ」と答えた。秀吉は「彼が長久手の戦いで赤鬼と世に轟いていた萬千代か? 何歳か」と尋ねた。家康は「彼は26歳だ」と答えた。
秀吉は驚いて、家康というのは実に珍しいすごい武将だ。自分が命の代わりとして質に納めた母を、26歳の元気な武将に預けるとは。しかも彼のような武将を多数育てているとは」と感心した。そして「直政に早速母の伴をして京都へ来てほしい」といったという。これで直政は、秀吉の母を連れて京都へ行った。家康は濱松へ帰還した。
15日 治部大輔従五位下兼駿河守の大江元春が死去(法諱梅翁)した。この人は毛利元就の次男で、吉川の名家の出である。
18日 秀吉の母が京都へ戻った。
その後、秀吉は、井伊兵部を聚楽の城へ招いてもてなし、石川伯耆守数正が食事に同席したが、直政は石川が裏切ったのを嫌って、ついに一言も言葉を交わさなかった。また直政は秀吉の家来に、「数正は人の顔をした獣だ、長年の主人の叛いていながら、どういうつもりで自分に会ったのだろう」と述べたという、家来たちは直政の凄さに感心したという。
25日 新しい天皇が即位した。秀吉の関白は変わらなかった。
12月大
朔日 秀吉は太政大臣に任じられた。めったにないことである。また藤原氏を改め豊臣の姓を賜った。
秀吉は、来年の春九州へ出撃して島津を滅ぼすと連絡した。そして畿内、南海、山陰、山陽、江州、美濃、伊勢、合わせて17の国の兵、大体20萬人分の1年間の兵糧、馬の餌を考えて、年内から豊州、小倉へ運ぶように命令したという。
4日 家康は濱松から駿府へ移り、5か国の本府と決めた。菅沼藤蔵定政(後の土岐山城守)などが濱松を守護した。
大久保新十郎忠隣以下は、濱松から駿府へ転居した。年末を控え、御家人たちの移転も多く、年を越えて妻子が移転したという。
12日 関白秀吉の先軍の四国勢は筑紫に向い、豊後戸次川で島津中務大輔家久(後の中務豊久の父)は交戦して敗走し、長曾我部元親の子、三郎信親、十河民部大輔存保などが戦死した。(存保は非常な美男の民部大輔の子である)、元親と仙石権兵衛秀久はなんとか逃げ去った。
〇この年、北畠大納言信雄は従2位に叙され、徳川参河守秀康は正4位下に叙された。
京都の名医、延壽院源朔は法印に任じられた。家康の家来高力與左衛門清長は土佐守に任じられ、豊臣の氏を授けられた。
〇大須賀五郎左衛門康高の娘が、安倍左馬助忠吉に嫁ぐことについて、家康は秀吉にお伺いを立て、横須賀へ忠吉を招いて婿とした。これは忠吉の父、善右衛門正勝と康高が親友だったからである。
〇内藤紀伊守信政(三左衛門信成の長男、29歳)が大番頭となった。
〇小川三益入道は伊勢の生まれの書の名人として有名だったので、秀忠の習字の教師となった。
〇筧 平十郎為春(勘右衛門重成の二男)は、家康のお叱りを受けて信州の菅沼小太夫定利の下に住まわされた。
〇大橋與左衛門重賢が尾張津島で死去した。彼の弟の織田勘七郎信弐(天正10年本能寺で討ち死にした)は、大橋山城康忠(関東北条の家来で、上州白井総州蘆戸に住む)を名乗った。重賢には子が2人いて、嫡子は眞野蔵人頼包(大蔵定季の養子)、次は祖父江五郎右衛門定翰入道で法斎と号した(この人は祖父江の家を継いでいる)
武徳編年集成 巻32 終(2017.4.15.)
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