巻35 天正18年正月~3月
投稿日 : 2016.05.17
天正18年(1590)
正月
3日 秀忠(12歳、長丸)は、京都へ向けて駿府を出発した。井伊兵部大輔直政(30歳)と酒井右衛門太夫忠世、内藤修理亮正成、青山常陸介忠成らが随行した。
13日 秀忠らは京都に到着し、秀吉の使いの長束大蔵少輔正家が、上京の挨拶に訪れた。
14日 家康の後妻が聚楽内の館で死去した。享年48歳。東福寺塔頭に葬り南明院となった。当時は小田原出陣の前だったので家康はこのことを秘密にし、「すぐに秀忠に伝えるな」と命じたので、それは後日、秀忠に伝えられた。(南明院は家康に嫁いだが、子供はなかった)
15日 秀忠は聚楽城で、秀吉に面会した。酒井忠世が太刀持ち、内藤正成と青山忠成が脇に控えた。秀吉は「若いのにはるばるよく来た」と喜んで、侍女を呼んで手を取って居間へ連れていき、秀吉の母(秀吉が下僕時代の木下肥後守家定の妹)に会わせた。
彼女は「よく大きくなった、でも髪のゆい方や着物の着方は、田舎者風で見苦しい」といって自分で秀忠の髪を直し、用意していた衣装に着替えさせた。秀吉は、金龍(後藤徳乗の作)の三つ物、二つ物拵えの刀と脇差を、自分で秀忠の腰に付けて、謁見の場へもどすために、田舎くさかった秀忠を都風の装いに直した。
秀吉は「もしこの姿を家康がみれば喜ぶだろう。家康が気を使って息子をここまで送ってきたのは、礼儀とはいえ内心は人質のつもりだ。自分は家康を疑ったりしないので、息子をここに置くのは不憫だから、すぐに連れて帰るように」と直政などにお金と服を与えた。
秀忠はそのあとすぐに、浅野弾正少弼の館へ移りもてなされた。
17日 秀忠は京都を発ち、帰途に就いた。
この日、前田利家が参議に任じられ、従4位となった。
20日 北条氏政父子は、北条左衛門太夫氏勝、間宮豊前康俊、朝倉能登重信を呼んで、「秀吉が攻めてくるのは確かだというが、箱根の山で防げば問題はない。それぞれは山中の城の城主、松田右兵衛太夫氏植の援兵として戦うように」と命じ、氏勝と康俊には刀を一腰(志津兼氏来国吉)、重信にも脇差を与えた。
間宮は「今度の戦いでは皆が必死に防戦するので、心配なさるな」といった。しかし、朝倉は広間に出てから眉をひそめ、「北条の家運はすでに尽きている。山中の城は非常に粗雑で、秀吉の猛攻には耐えられない。兵を籠らせても敵の餌食になってしまう。命は義より軽いといっても、重信は間宮の考えには納得できない。防戦した上で、最後は左金吾氏勝とともに行動しよう。そもそも北条家は、ここ10年ほど理屈に合わないことばかりをやってきた。そろそろ終わりだな」と嘆いた。
北条一族は、それぞれ5騎ずつ出して山中の城の援兵になった。伊豆の韮山は上方口の玄関なので、もともといた北条美濃守氏規に援兵を加えて守りを固めた。
上州松枝城は、中山道の碓井口という要害だから、城主の大道寺駿河守政繁10万石が守っていたが、ここにも援兵を送り込んだ。
小田原は北条早雲以来98年間北条の居城で、関東の8州の質子を収容して、氏政父子が4万あまりの兵で立てこもり、糧米や芝や薪、味噌や大豆などを数年間にわたって集めてあるが、弾薬や矢が不足していたので補充した。
外郭の宮ケ崎口は、元老松田尾張憲秀と上田上野朝廣式総の兵1万3千人余り、湯元口は千葉信助氏胤が子供だったので、陣代の原式部胤成の兵が2千、竹浦口は北条陸奥氏照、皆川山城守廣熈、成田下総守氏長、壬生上総介綱房が1万5千の兵で守った。
その他、上州のすべての主な城には兵を配置し、小さな城や砦にも兵を立てこもらせた。更に伊豆と相模の海岸には水軍を配備した。しかし、井の中の蛙の知恵で「秀吉の猛攻も恐れるに足らず」といっていた。
北条家は、早雲、氏綱、氏康の3代は優れた武将だったのは間違いないが、氏政は戦いに疎くて、土地をむさぼり嘘ばかりついていたので、家来たちが憎んで民も従わなかった。
氏直も取り柄のない凡人で、論外だった。その上、佐竹、結城、宇都宮、里見、那須は秀吉に内通していて、禍は味方からというような始末で、秀吉の軍勢は「今度の戦いは必ず勝つ」と意気を上げていたという。
21日 家康は家来の諸将を集め、小田原への準備が整ったので、三河、遠州、甲州、信州の諸将は、2月上旬に軍を率いて駿府へ集まるように命じた。
〇ある話では、家康は今回の戦いの戦術と軍の進め方について巻き物にしたため、花押を記して井伊直政に渡した。松平周防守康重と榊原が先鋒になることを準備していたが、直政が家康に近い関係で、家康の要請によって先鋒を務めることに決まった。
25日 秀忠が駿府へ帰ってきた。
家康は「今回秀吉が長丸を早く返したのは、東海道の自分たちの城を秀吉が借りて、彼の軍勢を駐留させ、小田原へ出兵させるためだろう。道筋の城を掃除して整えておくように」と本多作左衛門重次と本多佐渡守正信に指示した。案の定2、3日後に秀吉から急の連絡が入り、それらの城を借りたいという要請があった。家康はすぐに承諾した。諸臣たちは家康の勘の良さに感心した。
〇『本多家伝』によれば、伊奈の本多彦八郎忠次の養子の彦市郎康俊(28歳後の縫殿介)を、秀吉の東征に際して家康の人質として送った。この人は先の長篠の戦いにも、信長への人質となったが、この人の実の母が清康の息女で、家康の伯母だったからである。
2月大
朔日 家康はこの6日に出兵するという。
秀吉はかねて家康に要請したように、三河と遠州の城に関西勢が駐屯した。吉川蔵人廣家の1万5千は、本多作左衛門重次と杉浦藤次郎時勝が岡崎城で受け入れ、彼らは小田原の戦いが終わるまで滞在した。
家康軍の構成は次の通りだった。
一の先の備え7手:
酒井宮内大輔家次、松平源七郎康直、松平丹波守康長。
本多中務大輔忠勝組、遠州の松下党、匂坂党、参州高橋の鈴木党。
榊原式部大輔康政組、大須賀出羽守忠政、岡部内膳正長盛、小笠原兵部少輔秀政。
平岩主計頭親吉組、甲州先方衆、曽根、遠山など武河衆、津金衆、晴近衆。
鳥居彦右衛門元忠組、小笠原掃部助信嶺、木曽仙次郎義就。
大久保七郎右衛門忠世組、諏訪安芸守頼忠、知久座光寺。
井伊兵部大輔直政組、松平周防守康重、松岡刑部。
二の先の備え7手:
松平玄蕃清宗、酒井河内守重忠、本多作左衛門重次、内藤彌次右衛門家長、柴田七九郎康忠、松平和泉守家乗、石川左衛門太夫康通。
旗本前備え2手:
戸田三郎右衛門忠次、植村庄右衛門忠安。
左の備え3手:
内藤三左衛門信成、三宅宗右衛門康貞、天野三郎兵衛康景。
右の備え3手:
松平伊豆守信一、菅沼藤蔵定政、久能三郎左衛門宗能。
後ろ備え 4手:
松平因幡守康元、奥平美作守信昌、高力河内守清永、保利弾正忠正直。
遊軍:
本多豊後守康重、牧野右馬允康成、菅沼小大膳定利。
武者奉行:
内藤四郎左衛門正成、高木主水清秀
陣場奉行兼小屋営作奉行:
山本帯刀成氏、九島織部、朝比奈彌太郎泰成。
旗奉行:
村越輿総左衛門、権田織部泰長。
長柄奉行:
丹羽六太夫、彦坂小刑部直通、小宮山又七郎、保坂金右衛門、内藤源介。
弓鉄砲頭:
大久保治右衛門忠佐、渡邊忠右衛門守綱、日下部兵右衛門定好、高木九助廣正、成瀬吉右衛門正一、服部半蔵正成、森川金右衛門氏俊、島田治兵衛重次、水野太郎作清久、神谷彌五郎宗弘、渡邊彌之助光、加藤喜助正次。
使い番19人:
三宅彌次郎兵衛正次、小栗又一忠政、石川右衛門八郎政次、米津清右衛門清勝、山本薪五左衛門正成、鈴木久右衛門重量、阿部八右衛門正次、大久保輿一郎忠益、大塚七蔵忠次、酒井輿九郎重頼、山田彦八郎、牧助右衛門長勝、川合次郎兵衛久正、榊原甚五兵衛、内藤金左衛門忠清、城織部助正茂、初鹿野傳右衛門正備、横田甚右衛門尹松、安藤彦兵衛重次。
その他、曽根下野正清、遠山丹波直景は、五の字の捺物(*染め物、マーク)を許されて、使い番に準じた役割を務めて命令を伝達したという。
大番頭組50騎:
松平忠左衛門重勝、松平善四郎康安、松平助十郎勝信、松平三十郎勝玄、荒川次郎九郎、水野清六郎光忠 の松平4人は徳川家で、荒川は外甥である。三十郎は病気だったので、その与力の頭である鳥居久兵衛が代わりを務めるように命じられた。荒川も病気でその与力の頭、菅沼藤十郎定顕が組の指揮を執った。
家来衆火の番衆:
この80騎は、水井右近太夫直勝、本多佐渡守正信、加々爪甚十郎政澄、牧 勘七郎長勝、が指揮した。その内本多正信と阿部善右衛門正勝、牧野半右衛門正勝は、旗本や諸軍の連絡係、板倉四郎右衛門勝重、浅井雁兵衛、黒田半右衛門は、旗本や諸軍にもめ事が発生したときに、それを調べ解決し、解決ができないときには本多正信、牧野などが調べて結論を出すことになった。
甲陽小人:
以上の人々には、去年大和大納言秀長からもらった、胴金の具足を300人に着せて、長巻きの太刀100振りを肩にかけて、家康の前に並ばせた。
〇家康の持つ槍は十文字の1本で、その他、薙刀1振りが馬の横にいた。
〇今回出された15箇条の軍令は『武徳安民記』に記載されている慶長の制令にほとんど変わらないので省略した。
6日 大雨で家康の出兵は延期された。(9日まで雨が続いた)
10日 家康と秀忠は少し雨が降っていたが駿府を発って、賀島の郷に着いた。先発隊はその4,5日前に出陣して、由比や倉澤辺りで駐屯した。
東山道からは、上杉景勝3千が越後の春日山を出兵した。
15日 東山道から前田利家が加賀の金澤を発った。景勝が信州川中島に着いた。
16日 家康は、伊奈熊蔵忠政に秀吉が来た時のために、富士川に舟橋を造らせた。
24日 家康は、向井兵庫守康安の領地で、一丸という軍船に乗って賀島から蒲原へ渡った。
25日 尾張内大臣信雄の松ヶ島侍従氏郷と、そのほかの伊勢の軍2万あまりが、沼津と三島へ進軍した。
26日 秀吉の到着に備えて、家康は諸将に命じ、三河と遠州の駅に茶店を設けさせたが、今日出来上がった。
27日 景勝は海津の城を発ち、利家は望月を発した。信州の真田、依田、小笠原が道案内となって碓井口に向った。
3月大
朔日 秀吉は聚楽城より参内して、今回の戦いにための刀を受け、聚楽城で連歌師を招いて、100韻興行を行った。
諸軍は徐々に駿河に向って進軍した。聚楽の留守番は、毛利中納言輝元の4万人の兵で務め、大阪城は大和大納言秀長、尾張の清州の要害は、織田信の城を借りて小早川中納い隆景が守った。
秀吉は、小田原の城を攻撃してから数日後に、隆景または廣家を呼び寄せるように命じた。
2日 秀吉は聚楽城を発った。東海道の魁隊の近江中納言秀次は、駿河蒲原に陣を敷いた。
東山道の両将のうち利家は、上州との境の碓井峠に着いた。景勝は2里進んで坂本に着いた。道案内の信州の3将は6千の兵と共に1里進んだ。
上州松枝の城主大道寺駿河守政繁は、早雲以来代々北条家の腹心である。彼は援軍と共に坂本まで出陣したが、戦わずに敗北した。沼田の名胡桃の領主猪俣能登範直は、大軍に恐れて戦うことなく城を真田源三郎信幸(後の伊豆守)に明け渡し、箕輪の城へ退却した。
真田安房守は、天正13年以来秀吉の斡旋で家康の家来となっていたが、なお密かに景勝を崇拝していた。しかし、今回は大谷兵部少輔吉隆を頼って、次男源次郎幸村を秀吉に質として預けて、上杉につかなかったので、景勝は憤慨した。
3日 秀吉は江州八幡山に着いた。
今日、岡崎で家康の譜代の杉浦藤次郎時勝が享年66歳で死去した。
この頃信州小縣郡の浪人は、北条家の企てによって仲間を集め、依田康国の居城小諸を攻めようとした。
4日 秀吉が近江の柏原に到着。旗本の諸軍も順々に到着した。その内訳は、傍組が4千300、後組3千500(奴隷を含む)、矢砲組 1千75人で隊長は木下輿右衛門(この組は130人)、大島雲八郎義光(200人)、野村肥後守(250人)、船越五郎右衛門長直(170人)伊藤彌吉(250人)、宮城藤右衛門(130人)、橋本伊賀守(150人)、生熊源助(250人)、黄母衣衆17人、使い番20人という。
水軍の脇坂安治が、淡路から駿河の志水に着いたという連絡は入った。秀吉は次の手紙を送った。
『書簡』
6日 秀吉は清州に到着した。ここから黄門秀次へ手紙を送った。
『書簡』
8日 家康は明後日10日に、伊豆と相模へ進軍するという指令を出した。
東山道を東へ向かっていた上方勢は、松枝城を包囲した。景勝は西へ向かい、山の手に沿って大手の安中曲輪に攻めよった。利家は裏から東の本丸の山を包囲した。南は意図的に兵を向かわせなかった。
道案内の徳川傘下の三将、小諸蘆田の松平修理太夫康国、上田の真田父子、深志の小笠原が北谷へ向った。中でも康国の兵は猛将ぞろいで、諸隊より10間ほど先行したが、利家は功を急いで大道寺を攻めずに、まず城を落そうとしたので、康国へ使いを何度も送って康国の攻撃を制止した。しかし、康国は聴かなかった。利家は秀吉の指令を見せ、利家のいうことを聴かねば秀吉にいいつけるといったので、康国は仕方なく柵を下げて退いた。そのためかえって死傷者が増えた。
厩橋の城主北条安芸(丹後長固の弟)は、「降伏する」と利家の一族の中川武蔵守光重に伝え、先隊に合流したので、箕輪の城兵も防戦せず降伏した。そうしてこの城に立てこもっていた猪俣能登も武州鉢形城へ退いた。
10日 家康は駿河と伊豆との国境にある長久保の城へ移動した。北条家の伊豆泉頭の城を守る大藤長門多門某と戸倉の城代北条右衛門佐氏堯、獅子の浜城番、大石越後などが、皆小田原へ撤退したので、どの城も手薄になったからである。
11日 秀吉は三河の吉田に着いた。家康は小栗傳右衛門忠吉に接待をさせた。
8日から雨が激しく、御家人の伊奈熊蔵忠政(後の備前守)は秀吉に、「雨だから進軍は控えるように」と進言した。しかし、秀吉は「川の前で雨が降ってきたときは、早く渡らないと渡れなくなるものだと戦の書には書いてあるので、自分は渡る。どうしてそんなことをいうのか」と述べた。忠政は「少人数の時はその通りだが、大軍でわたると、馬も人も多数が溺れてしまうからだ」と述べた。秀吉は納得して3日間そこに留まった。
14日 家康は、松平主殿助に命じて駿河吉原に、秀吉の陣を設けた。
松下若狭守(最初は源太左衛門)長則が享年78歳で死去した。この人は今川の家来で、その子石見守(若狭守の子)之綱は家康についていたが、今は秀吉の配下にいた。
17日 上州小幡の上総介貞政と弟播磨守昌尚は、小田原に立てこもり、戸澤の南目西目の谷を根城として、末弟の彦三郎と長臣の小幡帯刀左衛門、丹羽庄左衛門尉は、200余名で宮崎の砦を守っていた。
上杉景勝の先鋒の藤田と木戸源齋、村上源吾国清が、この砦を攻めて落とした。
18日 信州の浪人は、依田能登と伴刑部は5~600人の敗残兵を集めて、阿江木山家の郷民と共に北条方として方々を荒らし回った。小諸の城主松平修理太夫康国兄弟が駆けつけて、百岩に立てこもっている一揆衆を襲撃した。敵は林平まで撤退して猛烈に抗戦したが、結局味方が大勝し上州野栗谷まで追撃して、3代目の伴刑部以下380人余りの首を取った。依田肥前信守と同右馬助守繁も、佐久郡の一揆衆の籠る小田井、加摩須の砦を破った。
家康は康国の獲った首を調べて秀吉に報告した。今日秀吉の返事が届いた。
19日 秀吉がもうすぐ駿府へ着くところで、石田治部少輔三成は、「徳川家は密かに北条と通じているという噂があるので、富士川の舟橋は危険ではないか」と進言した。そこで秀吉は手越しの宿でしばらく進軍を見合わせた。浅野長政は「これは全く巷の噂で実はない」と強調したので、秀吉は安心して籠を進め、宇都山に着いた。里民は勝栗と馬の轡を捧げて歓迎した。秀吉は感激して、紙子表紅梅裏の胴着と黄金を里民に与えた。秀吉は駿河の城へ入って浅野を褒めた。家康も後でそれを聞いて喜んだという。
20日 家康は、長窪の興国寺の城から駿府へ行って、秀吉に面会した。
22日 家康は駿府から興国寺へ戻った。秀吉は有渡郡草薙神社に参拝して、戦いの祈願をした。
23日 秀吉は清見寺に着いた。
下野国那須の家来の7人の武将たちが秀吉についたという知らせがあり、特に太田原晴清は秀吉の陣までやってきた。秀吉は敵地の向こうから遥々きたので感激して、従5位下備前守に叙し、正恒の刀を贈った。
今日家康の命令で松平備後守清宗は吉原の駅を守った。
25日 長井實盛の子孫、上州三山の城主長井豊前守正實が死去した。彼の弟の右衛門尉信實は三山に住んでいたが、勝頼に滅ぼされて上州の北条の配下となっていた。数年は武田の家来として氏政に敵対していたので、城を棄てて越後へ行き、上杉の先鋒藤田信吉の隊に加わった。この度は地元の地下人を集めて、三山を奪回するために藤田と相談して、平豊後の平の城を急襲した。城兵はわずか500人だったので、攻められる前に降参した。三山は荒廃していたが、藤田能登が整備し長井を復帰させ、今回の戦いが終わった後には、信吉の口添えで家康の長臣によって御家人に加えられ、三山の城を与えられた。(右衛門尉は彦六、後年右馬允となる。元和元年に死去。母は岡部石見守の娘である)
27日 秀吉は長髪を結い直し、金作りの太刀を付けて化粧直しをしてから、沼津三枚橋の城へ入った。軍勢は総が原に駐屯した。
〇ある話では、家康は総が原で白旗を戸田三郎右衛門忠次に与え、箱根路には伏兵がいるのでお前が後殿して軍を撤退させよと命じた。
28日 秀吉は総が原にきて、作戦会議をした。
諸将は皆、「氏政父子が多勢で駿河と伊豆の境で合戦をすると思ったが、どうもその気配はなく変だ。どうやら山岳の城を固めてゲリラ戦に出てくるようで、道の不案内な寄せ手を引きつけて戦う構えらしく、長期戦になる」といった。
秀吉も「自分もそう思う」といい、「家康の考えを聴こう」といった。諸将は「いくら家康でも、それ以外の考えはないだろう」とささやいた。
家康が出てきたので秀吉が尋ねると、家康は「氏政父子のある武将が昨日国境で戦ったがうまく運ばなかったので、今後は大軍で攻めてくることはなさそうである。そこで相手に会わせて味方を3手に分けて、2手が山中と韮山の城を攻めれば、敵は自分の持ち場で出てきて戦うだろう。残りの1手は家康が引き受ける」といった。
秀吉は承知して、「尾張内大臣信雄と兵2万と、蜂須賀阿波守家政、福島左衛門太夫正則、細川越中守忠興、蒲生飛騨守氏郷、中川藤兵衛秀政、森右近太夫忠政、戸田民部少輔勝重など1万5千で韮山の城を攻め、近江中納い秀次を大将として、中村式部少輔一氏、田中兵部少輔吉政、堀尾帯刀吉晴、山内対馬守一豊、一柳伊豆守直末ら3万5千で、山中城を攻めよ。北条が出てきて戦う場合は、最初は徳川が出るように」といった。
家康は「9年前に徳川では、1万ほどで甲州のところどころで秋から冬まで、5か月の間、北条の3万と戦ったが負けたことはない。しかし、今度は優劣着き難く、とくに険しい山の中の戦いだから、作戦次第では負けることもあるかもしれない、そこで2回戦の準備も重要だ」と述べた。
秀吉は笑いながら「2回戦は秀吉が引き受けよう、望むところだ。家康が先鋒で自分が2軍を務めれば、日本はもちろん、唐や天竺が攻めてきても恐れることはない。ただ一つ心配がある。もし北条がそれでも出てこなかったらどうするのだ?」
家康は、「山中と韮山のどちらかを何とか落としたい。自分の兵は山中城の北の嶺に元山中という、木こりの道があるのを知っている。そこで片方の城を落せば、その勢いでその道を経て相模に侵入し、酒勾川の河原に駐屯して、八州諸城への通路を断つ。その時に秀吉は小田原城を攻めるのがよろしかろう。山中と韮山のどちらかに残った方は、必ず降参するだろう」といった。
秀吉はまた尋ねた。「徳川殿が酒勾河原へ出陣するとき、元山中からの道筋に敵の城はないのか?」
家康は「鷹巣、足柄、新庄の城はあるが、皆撤退するだろう」と答えた。
秀吉は更に尋ねて、「どうして敵が撤退するのか?」
家康は「大軍に恐れて撤退するだろう。もし籠城して防戦したときには、自分の兵が一挙に落とすだろう」と答えた。そこで諸将はようやく安心した。
秀吉は山中城の西の高い山に登って現場をよく眺め、夜になって沼津に帰り、韮山と山中の道の絵図を広げて山地の地形を全員で深夜まで検討した。その結果、秀吉は福原右馬允直高を呼んで、両城への寄せ手に対して次のように命令した。「堀左衛門督秀政、木村常陸介重茲、丹羽五郎左衛門長重、長谷川藤五郎秀一など3万あまりは、山中城と深い谷を隔てて南の目金の峡谷を登り、近江黄門秀次を援護せよ。家康軍は北の方の嶺を越えて元中山へ登れ」
この日の深夜、秀次の先鋒堀尾、田中、中村、一柳らは沼津を出発した。
29日 朝、中村式部少輔一氏の一隊が、山中袋崎の出丸に乗り入れた。これを皮切りとして各手が奮闘して競い合って攻めた。中村勢は三丸を破った。(この城攻めについては『武家閑話』に詳しく述べたので合わせて参照のこと)
昼頃に本丸が陥落して、城主松田右兵衛太夫秀植、援兵の間宮豊前康俊、同監物、同源十郎をはじめ、500人あまりが全て戦死した。援将の北条左衛門太夫氏勝と朝倉能登重信(入道して犬也齊)は何とか逃れて深山に隠れた。
今朝家康の先鋒、井伊の備えの一番松平周防守康重、次の牧野右馬允康成などは、元中山の険しい山を苦心して登っていると、山中の城が落ちた煙をみて先を遮っている敵を討ち取った。
松平周防守の兵、阿部河内守正實、岸上五左衛門、黒田二平次は敗残兵に出会った。相手は味方だといったが、岸上と黒田は相手の言葉が関東弁だったので、味方ではないと察して槍で戦うと、河内も馬から降りて敵の左の肩を突いて、岸上の下に押し倒した。そこへ敵が多数やってきて突いてきたので、河内は槍を取り直す間がなく、折り重なって傷を負ったが鎧が丈夫だったので死ななかった。
河内の従者も逃げるときに、生駒藤六という豪傑が河内を救って戦っていると、敵が数10人に取り囲まれ、河内の首を取ろうとした。味方は岸上から矢を発したので、敵は逃げ河内は命拾いをした。しかし生駒は戦死した。牧野康成の長臣の稲垣平右衛門長茂は、地の利をよく察して2陣から進んで敵を遮り多数の首を獲った。
箱根の山は東海道第一の険しいところなので、北条家の諸軍はこのために油断していたが、家康は前からこの地の道を熟知していて、先軍を送り、谷間から潮が満ちるように大軍を登らせて、山中の城をまたたくまに陥落させた。
敗残兵は新庄や足柄へ逃げ込んだが、それらの城や鷹巣城の城兵も離散した。新庄を守っていた遠山左衛門景政も退却するところを、井伊直政の部下の甲州先方土屋の兵が追撃し、雑兵32人を切り殺した。依田大膳師治も足柄の城から逃げようとしたところを、近藤登助秀用と甲州先方一條衆が追撃し雑兵26人を討ち獲った。
鷹巣の城兵は遅れて逃亡しようとしたが、松平周防守と牧野右馬允が追撃して、雑兵70人あまりを討ち獲った。しかし、林の中へ逃げ込んだ宗徒の兵は討ち獲れなかった。
家康は、大須賀忠政の家来のベテランの武将久世三四郎廣宣と坂部三十郎廣勝に、二子山などの地勢を探らせた。井伊直政は箱根路から小田原の酒勾坂の上まで行って、井の文字の赤い旗を春風にたなびかせ陣を敷いた。
山中の援将の北条氏勝と弟の新八郎などは、夜陰に紛れてかろうじて死を免れた。しかし、敗北を恥じて主従18人が髪を落として相模の甘縄の居城へ帰って蟄居した。
〇その昔北条早雲の家来だった松田左衛門尉の子孫の尾張憲秀は、当時氏直の老臣として一族は繁栄して禄も高かった。しかし、この人は生まれつきの曲者で、信義に乏しかった。
彼の長男は、笠原氏の後を継いで笠原新六政堯となったがいい加減な人で、前は伊豆の戸倉の城にいたが、主人に背いて武田勝頼について城へ武田の兵を呼び込み小田原を狙っていた。ところが勝頼が滅びると、笠原は心変わりして引き込んだ甲州の勢力を殺して、もう一度北条へ投降した。本来は殺されるべきところが先祖の業績によって免除され父の領地の相模の河村郷に蟄居させられた。しかし、今度は父を勧めて秀吉に内通し、北条を滅ぼして禄を得ようとした。
北条父子は、箱根山の険しさを利用してそこを越えて戦うことはせず、小田原にいて関八州を集めていた。しかし、山中の城が落ち、足柄はじめ府城が目の前で落ちてしまったので、氏政氏直は仰天して畑、石橋へ出撃して勝敗を決しようと諸将と相談した。この時、松田尾張は、「このように敵が勝っているときに苦しんでいる味方が敢えて戦うのは負けを呼んでいるようなものだ。前に上杉謙信や武田信玄が小田原へ攻めてきたときには、自分の亡くなった父は、大聖院、謀を帷(とばり)幕(*謀)に潜龍に擬して(*上手くだまして)敵を退散させた。上杉や武田のような隣国でさえ、兵糧が切れて長くは陣を張っておれない。まして、今度は畿内や山陰、山陽、南海、西海の大軍であるから、遠路はるばる来ているので疲れているし、兵糧が切れてどうにもいかなくなるので、その時を狙って攻めれば、石で卵を割るようになろう」と言葉巧みにここで雌雄を決することを止めさせた。氏政父子はこれに従って敢えて戦いをしなかったという。
氏政の弟美濃守氏規が立て籠もった伊豆の韮山城へは、尾張内大臣信雄を総大将に蒲生氏郷、細川忠興、稲葉右京亮貞通、蜂須賀阿波守家政、福島正則、中川右衛門太夫秀政、森右近太夫忠政、戸田民部少輔勝重など数千騎が押し寄せた。城兵は懸命に抗戦して大軍が城を破ると、城兵の氏規、小笠原十郎左衛門、横井越前などをはじめとして、騎兵や歩兵が18町口から突撃して寄せ手の陣を撃破し、彼らが切り殺した寄せ手の数は非常に多かった。人々は氏規の勇猛さに感心したという。
〇『細川家記』によれば、忠興は「一両日中に韮山の城を乗っ取るので、検使をよこしてほしい」と秀吉に依頼した。秀吉は竹中定右衛門と石尾與兵衛治一(本名は荒木)を韮山へ派遣した。越中は夜中に兵を2手に分けて山上へ回し、忍びを出丸へ入れて放火させ、そのすきに弟の玄蕃頭元魁が乗り込んで、出丸の敵を城内へ追い込み、出丸を全焼させた。
検使は帰って秀吉に報告すると、秀吉は大喜びしたという。
武徳編年集成 巻35 終(2017.4.24.)
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