巻37 天正18年5月

投稿日 : 2016.05.26


天正18年(1590)

5月大巻37.jpg

18日 浅野と木村及び家康の武将、本多忠勝、鳥居元忠、平岩親吉らの3万余りの軍勢は、これまでに安房より上総、下総あたりを攻めて、廳南、廳北、伊南、伊北、萬喜、萬里、谷、鶴亀、佐貫、久留、里池、和田、勝浦、小井、戸海、上裳原、五井、矢作、鳴渡、小瀧、根小屋、印西、椎津、窪田、一宮、飯沼、他高、関宿、古河、筒戸、臼井、国府台、千葉、小浜、相馬、鳴戸、守山、土気、東金、古金、佐倉など48か所の城を落とし、人質を取って支配した。

家康の家来、内藤彌次右衛門家長は、今日佐倉の城を千葉の家臣、原大隅から受け取り、酒井宮内大輔家次も原式部から臼井の城を受け取り、城に入った。

20日 浅野弾正少弼長政、木村常陸介重茲、岡本、赤座、および家康が両総へ行かせた諸将は、投降した武将たちを魁として、武蔵の岩築城へ向かって出陣した。

この城の城主、太田十郎氏房は、北条氏政の親戚である。春日左衛門は河合、田羽、細谷、恒岡など3千人を率いて小田原の城に籠っていた。岩槻城の留守番役の伊達輿兵衛定鎮と宮城美作が本丸に、妹尾下総兼延、片岡源太左衛門と福島出羽、立川伊賀が二の丸に入って、2千あまりの軍勢で町口で抗戦した。(松山の落人の金子紀伊家基は、もともとは北条家に忠誠心が深く、この城に籠っていたという)

〇この日、武蔵の鉢形では、城内から城兵が寄せ手に攻めかかろうとした。しかし、前の晩に上杉景勝の先鋒の藤田信吉へこのことを漏らすものがあった。そこで寄せ手は夜中の内に幸い奈摩山から15~6町離れたところの道筋に大きな森があるので、そこに伏兵を置き、又騎兵や軽率を5段に備えた。大将には小馬標を腰にささせ、兵には傘験(*陣笠に付ける目印)を付けさせた。

1の備えには、敵の正面へ横から乗り入れるようにと命じた。ただし、1隊は右に進に進んで丸く備え、もう1隊は敵の2の手に襲い掛かるように。残った2つの分隊の内の1隊は遊撃隊だから、動かずに敵の動きをよく見るように。もう1つの分隊は敵の後ろへ回って、敵の本隊を切りくず様にと手筈をきめた。

一方、夜明けになって氏邦の寵臣の中村内左衛門と老臣の松村豊前は、歩兵を連れずに50騎でまず進み、次の70騎には3の備えや本隊が加わって上杉の陣所近くまで進軍し、敵の出方によっては1戦を交えようと考えた。彼らはその森から4~5町のところで兵をとどめ、松村はこの森には伏兵がいるだろうと疑って、1騎だけで進んで偵察し、味方の兵を森の手前で引き返らせるために合図として、馬に鞭を入れて馬を立たせてから味方の陣へ帰ろうとした。

それを藤田信吉が見つけて1隊を率いて彼を追った。続いて2陣の甘糟備後清長がすぐさま兵を出した。また、阿雅北組は葛籠折にゆっくりと軍を進めた。その後からは島津左京規久の歩兵で、足が速いので有名な鹿瀬という人が、松村が2~3町先を逃げているところに追いついて彼を突き殺して首を取った。上杉勢は城兵を10町ほど追撃し、雑兵も合せて270の首を取った。

秀吉はこの状況を知らなかったので、伏屋飛騨守、瀧川彦次郎法恵、大屋彌八郎に浅野と木村宛に、「堅固な城を避けて小さい砦ばかりを落としてどうする」という檄を飛ばす手紙を持たせた。3人は小田原の戦場から江戸へ向かった。

21日 岩築(*槻)城へ攻め込んだ。大手には本多忠勝と嫡子の平八郎忠政、浅野長政の父子が、新しい廓の巽門には鳥居元忠が、艮(*うしとら)和気の曲輪、卯の虎の口には平岩親吉、梶原某が攻めこんだ。

木村重茲は遊撃隊だった。本多忠勝は町の口の柵を破って大手に攻め込むと、敵は退却しながら橋の上で踏みとどまって抗戦した。平八郎忠政(26歳、後に美濃守)と佐原作右衛門義成が一番乗りして活躍した。佐原は城兵の山田大学の矢に当たって死亡した。

本多家の兵士の梶 金平は進んで槍を合せ、多門傳十郎は山口喜平次の脇を槍で突いた。浅野左京太夫幸長(25歳)とその家来浅野日向、同兵部が大活躍をし、秀吉の軍監の赤座久兵衛直保の手へ多数の首を取って渡した。

本多家の向坂輿三右衛門、内藤源太左衛門、蜂須賀金左衛門は手柄をあげ、他の隊と共に大手を破り二の丸へ乗り込んだ。忠勝の兵の下里藤八、江原市内、長坂甚平、小野田新五郎が戦死した。忠政は二の丸の妹尾下総を討ち取った。

浅野の家来、浅野右近、松井文右衛門などが手柄を上げた。本多忠勝の家来の内藤左兵衛政勝は、敵が本丸へ退却するとそのまま堀下に張り付いたので、城兵は動揺した。

三河の設楽郡和田の春興院秋過和尚は、渡邊久左衛門茂(後の山城守)の弟だった。この野衲(*やのう、田舎の僧)の父の祖先は、徳川家の重臣だった。僧侶だけれども徳川のために何かしなければとかねて思っていたが、今度忠勝の軍に加わって、最初に堀に登ったところを敵に殺された。

御家人の渡邊半兵衛直綱と長坂源十郎重信は、深く攻め込んで傷を負った。天野小麦左衛門重次は首を取った。本多忠政、植村土佐守泰忠、永田角右衛門は活躍した。

忠政は鞍の前を矢で射られた。本多の旗奉行、三浦理兵衛、鈴木九左衛門は旗を本城に運び入れた。

鳥居元忠が向かった新郭の隠居廓では、敵が廓から出てきて火砲を放ったが敵わないので城へ退却した。平岩親吉も新郭に向ったが、敵が2人外側に残っていた。親吉はこの兵を撃とうとしたが、旗奉行が制止し、「彼らを城へ入れよう。その道筋を知ってから乗り入れよう」といった。果たして彼らは堀の中を通って城の中へ戻った。味方が後を辿ると、堀の中に簀(*すのこ)を2筋敷いて道にして行き来していた。平岩勢はすぐにこれを伝って城を攻撃した。親吉の組の三枝平右衛門昌吉は、城の壁を破って櫓の下まできた。この時大手での戦いはまだ半ばで、城兵は2手に分かれて奮戦した。昌吉の甥の源十郎守秀と家来の1人が戦死した。昌吉が撤退すると城兵が急に襲ってきた。小尾監物祐光、津金修理胤久、跡部又十郎久次が戻って抗戦し、2人を斬ったが、傷を被った。久次は討ち死にした。親吉は手勢とその組に属している甲州の兵を指揮して、廓の中に攻め込んだ。

大野宮内右衛門(景貫の子)は城兵の佐枝輿兵衛と槍を合せた。河窪新十郎信正は山口平内の首を取った。下曽根刑部は戦死した。本多四郎左衛門貞近は傷を被った。

隠居曲輪は破られ、本丸の持ち口では岡野平兵衛房恒(江雪齋の子)が、巳の上刻から午の刻まで激しく抗戦し、自分で寄せ手2人を斬った。また彼の2人の家来も奮戦した。房恒は寄せ手の村井無右衛門に突き伏せられたが、家来が助けた。その間に親吉の弟の六郎康長が本丸へ最初に乗り込んだが、多数の塀に囲まれて命を落とした。

そこへ他の口を護っていた城兵も加わって、平岩勢を本丸から追い出し門を閉ざした。鳥居元忠も平岩と一緒に隠居廓を乗っ取り、手勢と甲州の先鋒の士を連れて本丸を乗っ取ろうとした。しかし、もともとこの城の兵は優秀で、防戦に尽くしたので、安藤孫四郎、小田切三郎、一宮左太夫など30人ほどが戦死し、70人ほどが傷を負った。

浅野、木村、本多、鳥居、平岩らの相談の結果、兵を隠居廓、和気廓などに入れ、虎の口の際に柵を建て、本丸を取り囲んで攻撃しようとしていることを、軍監の赤座直保が秀吉に連絡したという。

〇ある話によれば、今晩平岩の組の村井無右衛門は、城の付近で、昼間に城内で見かけた赤白の筋違いの折り掛け差し物の騎士と槍を合せた。そこで「名前を知りたい」と叫ぶと、その騎士は岡野平兵衛だった。しかし、痛手を負っていたので、家人が出てきて挨拶したという。この平兵衛は後に家康の御家人になった。

22日 秀吉は、岩槻(*附ともある)の寄せ手の監軍の岡本宗憲(重政ともいう)へ書状を送った。天正18年5月22日秀吉ー岡本下野守.jpg

〇この日、岩槻の本城を護っていた伊達輿兵衛定鎮方は、昨日の攻撃によって妹尾が戦死し、片岡は痛手を負ったので、将兵たちは意気が衰えて城の上から笠を振って戦いを止める合図をした。

浅野弾正少弼は大声で「城を開け渡せば、兵や、奴隷の命を救おう」と呼びかけた。すると「昨日の戦いで奮闘した寄せ手の中に、鳥居の紋が付いた旗の武将がいた。彼の活躍に照らして城を彼の組に渡したい」と返答があった。そこで鳥居元忠はこの城を受け取り、浅野に渡した。(この城へ加わっていた金子紀伊は、この城を出て鴻巣あたりで蟄居した。後に平岩親吉から300人の扶持をもらった)

〇同じ日、石田治部少輔三成、大谷刑部少輔吉隆、長束大蔵少輔正家、速水甲斐守時之、堀田図書助勝嘉、野々村伊予守雅春、中江式部少輔有澄、伊藤丹後守長實、中島式部少輔氏種、松浦安太夫宗清、鈴木孫三郎重朝などは、上州の舘林の城を攻撃した。この城は北条家の武将、美濃守氏規のもので、南条因幡、下間越前、渕名上野、片見因幡、富田又十郎、浅羽甚内、富岡六郎四郎、白石豊前など勇敢な武将たち数100人と、軽率と農民や商人、巫女、修験者なども戦いに加わり、総勢5千ほどが城に詰めていた。

東南に躑躅(*てきちょく)ヶ崎の大沼(*現在の城沼)を持った城で、西側から攻めようと石田と中江、松浦と武蔵と、上州の敗残兵あわせて7千あまりは、佐川田の渡りを越えて佐口から大屋原という松原の前で陣を敷いた。また、一方、大谷吉隆、堀田、鈴木らも敗残兵も含めて5千600あまりが城門へ向かった。下の外張口には長束、野々村、中島、伊藤など、やはり敗残兵も合せて攻撃して、城の通路を遮った。しかし、城兵はびくともせず防戦したという。

23日 秀吉の3人の使者が岩槻に着いて、秀吉の書状を浅野と木村に届けた。天正18年5月23日秀吉ー岡本下野守・赤座久兵衛.jpg中身を見ると、利家と景勝には「前に山崎志摩守と岡本下野守を通じて堅固な鉢形の八王子の城を攻めよと命じたのにまだ攻めていない、早くしろ」という催促と、

浅野と木村には「江戸と川越の城を受け取ってから、利家と景勝と一緒に鉢形を包囲する段取りをせよ、とその攻め方も指示したはずだ。

また、結城、佐竹などがすでに味方になっている、この関東勢を率いてまだ落ちていない城を攻めるように命じたにもかかわらず、それには従わず、2万の大軍で安房や常陸をうろついて、小さな城や砦ばかり落として時間を無駄にしている」という叱責だった。ところが浅野と木村はその時は岩槻の城を攻め落とした後なので、驚くこともなく、3人の使者に戦場を見回らせて小田原へ帰した。

一方、浅野と木村の使いが小田原に着いて、岩槻の状況を報告した。秀吉は非常に喜んで、2人の使者に金熨斗のついた脇差を与えた。そして岡本と赤座へ手紙を送った。

秀吉は、岡本と赤座には岩槻での戦功に対する感謝状に代えて、この書状を送った。彼らは秀吉とは十分意思が通じていたので、言葉は少ないが秀吉の意向は十分通じたという。

24日 関東の8州の将の1人で数代にわたって武勇で名高い下野の結城中務大輔晴朝が、小田原に来て秀吉に謁見した。この人は先日北条と戦ったが、佐竹と一緒に秀吉へ挨拶状を贈り、更に彼は50歳を過ぎても子供がなく江戸但馬守の娘を養っていたので、家来の富ヶ谷の城主、多賀谷安芸を聚楽城へ送って、秀吉の親族を養子としたいと申し出ていた。秀吉は「於義丸を養子としよう」と述べた。多賀谷は「於義丸とは誰か」と尋ねると秀吉は気色ばんで「自分の養子だ、何を疑っているのか?」といった。

多賀谷はその提案を受け入れて、退席してから近臣に尋ねると「於義丸は徳川の子で、秀吉に養子となった人で、三河守秀康という」と答えた。多賀谷は喜んで国に帰ってそれを晴朝に報告した。そこで晴朝はほっとして秀吉の関東攻め待っていた。

宇都宮の宇都宮三郎左衛門国網は、去年岡本清五郎正親を京都へ送り秀吉方についたが、両股をかけて北条との手も切らず、箱根の山中城の備えも宇都宮上総房興が援助し、援兵も送っていた。この事情を一族の芳賀伊賀が秀吉に訴えた。しかし、秀吉は「戦時ではよくあることなので、今度の戦いでは味方として関東へ行くのだからいいじゃないか」と秀吉はその訴えを聞き流していた。

一方、結城晴朝は「宇都宮の態度が悪い」と宇都宮の一族の壬生上総介網房の鹿沼の城を攻撃した。小山の城主、小山七郎政昭は以前からの北条の味方で、国綱が秀吉に通じていることを知らず、国網と親しかった。そこで彼はすぐに鹿沼を援護したが、結城晴朝の兵と遭遇した。結城勢は小山勢を撃ち破り、城の裏手からは結城の長臣の多賀谷修理政経が火矢を放って、城が燃え上がった。壬生勢は耐えかねて城を出て逃げ去った。晴朝は更に小山へ軍を向けて、七郎政昭の護る小山と榎本の城を抜いてから、秀吉の陣を訪れた。秀吉は非常に喜んで大いにもてなしたという。

25日 岩槻へ秀吉が派遣した使者の伏屋、瀧川、大屋らが、秀吉の許へ帰ってきて城攻めについて報告した。特に浅野幸長と徳川の本多父子、鳥居、平岩の働きを報告すると、秀吉はすぐに「金作の脇差」を浅野幸長と本多忠政に贈って、彼らの働きを褒めた。又、家康と本多、鳥居、平岩には感謝状を贈った。鳥居は「自分の名誉ではない」として感謝状を返上した。小尾監物は380石の褒美をもらった。

〇伝えられているところでは、関東の知行割りの時、小尾監物は甲州の領地の代替地や追加分と共に、武蔵の深谷と勅使河原の860石をもらった。

〇ある人の話では、先に沼田城を棄てて鉢形城へ移った猪俣能登範直は、今度は松山の落ち人の味方として、秀吉方についたので世の人は彼の腰の座らぬ様を大いに誹謗したという。

26日 館林では、石田三成は、数万の人夫を使って竹を刈って大きな袋に入れ、躑躅ヶ崎の大沼に投げ入れ民家を壊した材木をその上に重ねて、浮橋のようなものを作って道を作るように命じた。金で有志を募ると郷民がすべて集まり、3昼夜でこの仕事をやり終えた。

28日 館林の寄せ手は、平野部の3方から勝鬨を上げて城へ攻めよった。城兵は大沼があるのでそこには兵を置かなかった。しかし、寄せ手は沼に幅8~9間の道を作り、それをさらに延長させるために少しずつ鉄砲を撃ちながら前進して、道を城の傍まで通じるように作ってしまった。

城の3方を守っていた城兵は、慌てて兵を分散したので3方の方が手薄になった。ところが関東の武士の気風として、彼らは死を覚悟して戦うので、今日も日が西に傾いても寄せ手は城を落とすことができなかった。しかし、寄せ手は明日は攻め落せると機嫌よく兵は引き上げた。

ところが夜の11時ごろのこと、城の中から松明を2~30を灯して、2~3万人もいるような人の声がして、何かを修繕している様子だった。寄せ手は「大沼の方に道ができたので、堀を築いたり柵を建てたりしているのだろう。それにしても、そんな大勢の人数は城の中にはいないはずだし、外から援兵が来た様子もない」と訝った。

29日 翌朝3方の平地からの攻め手が出撃した。石田三成は兵を2手に分けて躑躅の﨑に作った道から攻め込もうとした。すると材木はすべて泥の中に沈み、元の沼になっていた。武将たちも兵もあっけにとられた。

その時、東国の敗残兵が1人出てきて、「これは人の力によるものではない。野狐の仕業のはずだ」といった。というのはこんな話があったからである。

天文5年、この国の青柳城の城主、赤井山城守勝光はこの辺りで勢力を持っていて、利根川を隔てて武蔵の忍城の成田長泰と戦ったり、ここの金山の由良國繁と戦ったりしたことがある。

天文20年3月、山城守入道道陸が病気に罹り、その年の6月に亡くなり、その子の但馬守家督が後を継いだ。しかし、青柳の城の地盤が緩いのを心配して、天文22年5月に城を大袋へ移転して住んでいた。

弘治元年の春のこと、但馬守は用があって舞木というところへ向かったが、その道で子供が集まって狐の子を捕えて殺そうとしていた。但馬守は可愛そうに思ってお金を子供らに与えて帰して、狐の子を林の中へ逃がした。

さて、舞木に行って後、夕方に帰途についたが、怪しい小男が道端にいた。彼は赤井の前にひざまずいて「自分は狐でございます。昼間に私の子が死にそうだった所を貴方様のおかげで助かりました。このご恩のお返しをいたします。今住まれている城の大袋は子々孫々が栄えるところではございません。西北の方にある館林こそが長く住めるよい土地でございます。そこに城を築かれるように」といった。

但馬守は大そう喜んで、彼を道案内にして見に行くと、確かに城を作るにふさわしい良い要害の地だった。そこでその年から建設を始め翌年の5月に完成して、そこへ移転した。特に南間という裕福な民の家を立ち退かせ、そこに八幡曲輪とした。するとまた狐が化けて出てきて、「自分を稲荷神社に祭って鎮守としてほしい」と頼んだ。但馬守はそれを許した。

永禄2年10月のこと、但馬守入道法連が死去した。その時息子の文六を家臣の毛呂因幡忠季に育てるように頼んだ。ところが永禄4年、因幡が謀反を起こし文六(25歳)を殺そうとした。そこで大胡彦三郎という家来が文六を連れて山に隠し、文六の姉婿の長尾但馬守顕長と相談して、館林家来の下間、渕名、片見、富田、浅羽、富岡、白石を誘って同5年3月、館林の城を急襲した。西南の2方向から攻め込んで大手は太鼓門まで進んだ。裏口は中の門から稲荷曲輪を破り、大門まで攻め寄せたが、城は落とせず和融して撤退した。

長尾はいろいろな手を使って、毛呂因幡の菩提寺の土橋善長寺の住職を味方につけて、同8年4月、毛呂を善長寺に招待し風呂に入れた。その時に長尾但馬守は伏兵数10人を使って風呂場を囲み、毛呂を始め従者14~5人を斬り殺した。城兵は主を失ってすぐに逃げ去った。その結果長尾が館林の城主となった。元亀2年9月北条氏政は伊勢備中守定運、山角上野介定方、同紀伊守定勝、芳賀伯耆守正綱など2千あまりでこの城へ向かわせ攻撃した。

ある日の夜のこと、深夜に城から4~50人の兵が芳賀の陣を襲ってきて打ち破った。更に寄せ手の後ろから12人ほどが松明を灯して勝鬨を上げたので、寄せ手は慌てふためき囲いを破って小田原へ逃げ帰った。この時助けたのは例の狐である。

今回大沼に道を付けた材木を沈めたのは人の力の及ばないことで、後で聴いてみると、城兵はその夜に起きた不思議な出来事を知らず、むしろ沼に道を作られて、明日は必ず城は落とされると憂鬱になって、夜通し酒宴をして死を覚悟していた。しかし、翌日材木が泥の中に沈んでいるのを見て仰天し喜んだという。

石田、長束、大谷は相談して、北条左衛門太夫氏勝にあれこれと交渉して降参を勧め、城兵も今のままではどうにもならないので、とうとう寄せ手に城を開け渡した。

〇伊豆の韮山城へは、福島正則、蜂須賀阿波守、明石左近太夫實則などが攻撃した。北条美濃守氏規の城兵は大手から飛び出し奮戦した。彼らの勢いは相当なもので雲霞のように群れて激しかった。城の裏からも小田原の援兵が飛び出して戦い、それぞれ勝利して城へ戻った。この戦いで福島正則の兵では可児才蔵吉長、大崎玄蕃長行、福島丹波、林亀之助がともに追手門に迫った。

城兵は門を閉じようとしたが、才蔵の槍の矛先が扉の間に挟まって閉じることができなかった。そこで4人は戸を押し開けようとした。これを見た福島の兵が駆けつけたが、火砲を浴びされて門の傍へ行けなかった。そうこうしている間に槍の穂先が折れてしまって4人は仕方なく撤退した。城将の氏規はこの4人の奮闘に感心して、火砲を撃つのを止めさせ、彼らの名前を尋ねたという。

〇ある話によると、秀吉の命令によって、韮山の城攻めの監使として家康の小笠原丹波廣勝が派遣された。この人は安芸安次の子である。彼はよく知られた武者だったが、(*役を忘れて)味方と一緒に城へ攻め上り、命を落としたという。

〇今月、越前の北ノ庄の城主、堀左衛門督秀政が、小田原の早川口の陣中で病死した。(28歳)。彼は天正10年から秀吉に早い時期から貢献してきたので、秀吉は今回東北方面を制圧した暁には、彼をその国の主に据えるつもりだった。逝去の知らせに秀吉は非常に残念がって、その子の久太郎秀治はまだ子供だったが、遺領に加えて29万800石を与え、彼の一族の堀 美作守親吉、近藤綾部正重勝と家臣の堀 監物直政が幼い彼を補佐するように命じた。

〇奥州の岩城左京太夫常隆は小田原城へ参戦した。秀吉は敵地を眺めながら遠来の参戦をねぎらって、彼の領地をすべて与えたという。

〇伊達政宗は去年までに会津の4郡、仙道7郡を征服し、自分の領地も加えると相当な禄に達した。彼は北条家と親しくしていたので小田原城が攻められていると聴いて非常に驚き、家臣の太宰金七を派遣して様子を調べさせた。すると関東の城が少しずつ陥落して、氏政の父子は存亡の危機を迎えているという報告を受けた。そこで彼は急いで沿道不入斎を使いとして、秀吉に贈物を届けた。すると、かねてから政宗と知り合いだった家康や前田利家、浅野長政などが「早く戦いに参加して秀吉方につくことを表明したら」と勧められた。

そこで政宗は100余りの少ない兵を率いて、去る6月中旬に高原峠から下野へ赴き南山までくると、その辺りには小田原方の城があって行く手が厳しいので、一旦会津の城へ帰って、今度は越後、信濃、甲斐を経て小田原を訪れた。

秀吉の家来たちは「北条が滅んでも奥州は広くて人々も手ごわい。中でも政宗は若いけれども隣国と戦って、しかも蘆名という大物を滅ぼしたような武将である。だからあそこを無理して征服しに向かうべきかどうか」と、思案していたところ、政宗の方からやってきたので大いに喜んだ。しかし、秀吉はなかなか鋭くて度量もある人だったので「彼は戦功は大きいが所詮田舎の武将だ。恐れるほどのことはない」と彼の本質を読み取ったように、彼の宿を底倉の深い谷に移した。

ここは鳥の声もほとんどしないような深い山の中で、政宗はとんだところへ連れてこられたと憂慮した。

秀吉は使いとして浅野長政、宮部善祥坊継潤、施薬院全宗を行かせ、「会津の三浦介盛隆は生前に信長へ礼を尽くすために、代官の金上遠江盛備を数回信長に謁見させて自分が信長の家来であることを確認してきた。しかし、政宗は勝手に盛隆の後継ぎである義廣を滅ぼしたのは、どういうことか、申し開くように」と伝えた。

政宗は、「自分の部下の大内備前定綱が会津方についたので、これを討つために出撃したら、蘆田家が彼を救うだけでなく、佐竹と岩城の両家も彼に加担したので戦いになった。更に父の輝宗が二本松右京義継に為に殺された。自分は復讐をしようとしたところ、佐竹、岩城、相馬がともに義継の子、国次を救った。お互い身内同士ではあるが仕方なく戦いになった。自分は蘆名との摺上原の一戦で大勝し会津を攻め取った。これだけではなく、大崎義隆や最上義光などが皆、自分に敵対し、昼となく夜となく攻められていたので、小田原へ参陣するのが遅れてしまった」と答えた。

彼らは重ねて政宗に「政宗はどうして親戚に嫌われているのか」と尋ねた。

政宗は「隣の伯父、最上出羽守義光は自分をかまってくれず、その上愚鈍で片目の家来だった鮎貝藤太郎に謀反をおこさせ、それが明るみに出ると藤太郎は最上のところへ逃げて、今は最上についている。このような義光の暴挙が恨めしいので戦いとなった。相馬弾正少弼義胤は自分の代になって和解したが、自分の甥の田村大膳太夫清顕が5年前に病死した。これに乗じて自分の家臣の石川弾正が謀反したので、自分が弾正を攻めようとすると、相馬から救援に来たばかりか、田村の悪い家来と結託して義胤の田村の領地を奪おうとした。そこで田村の味方は自分のサポートを求めてきたので戦いとなった。これはもっぱら相馬の方が起こしたことで、自分から仕掛けたことではなく、大崎左衛門督義隆は領土の境界を話し合いではなく戦いにゆだねたためである。申し訳なかった」と雄弁に陳謝した。

このことは秀吉に報告された。秀吉は「戦いの世の中だから近所の武将たちが政宗が強くて優勢なのを嫌って戦いを起こしたもののようだ。しかし、勝手に会津の蘆名を倒して領土を没収した罪は逃れようもない。早く会津に帰えすように。帰ったころには自分は北条を滅ぼして、さらに奥州へ兵を進めるので、政宗の代に横取りした土地をよく調査して取り上げ、祖先伝来の土地だけを与える」と申し付けた。

政宗は「命があってこそだ。領地などどうでもよい」と承諾した。政宗が秀吉と会うことを許されたとき、石垣山城を造営中だった。秀吉は素肌に陣羽織を着て芝の上に椅子に座り、諸公が傍に座っていた。政宗が退出しようとする時、秀吉は政宗を呼び止めた。政宗は24歳で、髪を剃ったその風体は異様だった。彼は秀吉に近寄るときに脇差を外そうとした。秀吉はそれを見て「いいから」と外させなかった。

秀吉の執事の和久宗是が傍にいた。政宗はその人と手紙で知り合いだったので、彼に脇差を預け秀吉に1間半まで近づいた。秀吉は椅子から立って崖際まで行き、政宗の方には向かず小田原城を指さして、「お前は田舎のケチな戦が達者になっても、このような大きな備えを見たことはないだろう。その仕組みを教えてやろう」といろいろな備えの良しあしを詳しく説明した。

政宗は退出してから家臣に「秀吉はただものではない、ヤバイぞ。自分はあの時は固まってしまった。彼を殺そうなど浮かびもしなかった。今日からは彼のいうことに従う」といったという。

政宗は許しを得て会津に帰った。秀吉の家来たちは「今政宗を会津に帰すのは、千里の広野に猛虎を放すようなものだ」と眉をひそめた。秀吉は微笑みながら、「自分はお前たちの考えとは違う。彼は奥州で強くても所詮井の中の蛙よ。吾軍の統制のとれた様子を見て恐れをなし、自分の保身のために占領した土地を自分に渡すだろう。自分は戦わずして奥州を平定する」と述べた。

〇東奥の津軽の久慈彌四郎為信は、主人の南部大膳太夫信直を軽蔑していて、浪岡の城代、南部帯刀南右兵衛を追い落として城を取り上げる勢いであった。そこで信直は、大興寺左衛門にこれを討たそうとしたが成功しなかった。その上、信直の親戚の九戸修理政實は久慈備前、櫛引河内などと結託するなど身内にいざこざが発生したので、信直は津軽へ出陣できなかった。

そうこうしている間に、大興寺は久慈彌四郎に負かされてしまい、彌四郎は津軽を支配した。大興寺は今年京都へ登って近衛信基に媚びを売り、藤氏の名をもらい杏葉の紋を許された。また彼の推薦をもらって小田原へ来て、秀吉に東奥の津軽の領主、津軽右京為信が参陣するといって、自分の領地の保証を得て帰国したという。

〇南部信直は京都の鷹屋清蔵という商人が訪れたときに、「秀吉が小田原を攻める」という情報を聞くとすぐに、彼に良馬託して秀吉に献上した。信直はその子彦九郎、伯父の南遠江守長義を連れて、前田利家の使節の堀四郎兵衛を導いて3月下旬に南部を出発した。

戦いの世なので、道を選んで田子から浄法寺に出て鹿角や北内を通るところで、津軽為信が杏葉の金の紋のついた装束を揃えてやってくるのに遭遇した。南 長義は「為信が京都に登って近衛家に秀吉の家来にしてほしいと頼んだという話を聞いていたが、どうやらそれがかなって杏葉の紋をもらったらしい。こうなれば、ここで歯向かうと秀吉に睨まれるので、ここはそっと避けて通った方がよい」と進言すると、信直も認め、腹が立つのを抑えて越後、信濃を経て武蔵の前田利家の陣営に来て、利家に面会した。

利家は「遠路はるばるご苦労だった」と信直一行を松山城で休ませた。信直は秀吉に献じようと、馬50匹、鷹50羽を連れてきたが、エサが違うために鷹は一夜にして死んでしまった。信直はようやく小田原へ着いて、山中長俊の口添えで秀吉に謁見し、馬50匹を献上した。秀吉は喜んで、「国次の脇差(鞘は梨子地)」と唐織の胴着を与えた。

小田原を訪問している間に信直は、津軽九戸が自分の領土を横取りした仔細を秀吉に話し、彼を滅ぼすように頼んだ。しかし、秀吉は、「津軽は先日小田原に来て自分の領土だといってそれを自分が保証している以上、今、追討するわけにはいかない。北条が滅びた後に奥州を平定しに行くので、その時に九戸の罪も明らかにして誅殺し、お前には元の領土を与えよう」といい、信直はその保証を得た。そして彼の嫡子彦九郎を利家に元服させてもらって、諱をもらい利直(後の信濃守)とし、急いで国に帰ったという。

〇以前の上杉家の家臣、太田安房守資房入道三楽齋道誉は、北条家に滅ぼされてからは佐竹に逃げ込んでいて、今は小田原の前線にいたが、松田尾張の陣の様子を伝え聞いて謀反の気配があることを察した。秀吉はこの話を聴いてその訳を尋ねた。三楽は「憲秀の力は関東の八州に及んでいるが、今は戦いの準備もせず、役所を巡視することもしないで兵が逃げるのも黙認している。これは必ずや寄せ手に通じようとしている風に思える」と答えた。

秀吉は家康に向って、「自分にはよくわからんことが2つあるが当ててみよ」と嘆かわしくいった。家康は「1つは三楽の正体でしょう。もう1つは分からない」と答えた。秀吉は「自分は卑しい身から立ち上がって天下を取っている。しかし三楽の知恵だけでは、一国も統治できないだろうが、それが何故かというのが2つ目のことだ。天命ということだろうか」と述べた。なお、三楽の2人の子供は後に越前の黄門秀康に仕えたという。

武徳編年摺集成 巻37(2017.4.28.)