巻42 文禄元年正月~文禄2年12月 朝鮮半島侵攻

投稿日 : 2016.06.19


文禄元年(1592)

正月大巻42.jpg

2日 松平右馬助宗忠が死去した。この人は長澤の松平兵庫頭一宗の長男である。

5日 秀吉は朝鮮征伐の大将の小西と加藤を呼び、行長に駿馬与え、清正には南妙法蓮華経と書かれた旗を与えた。この旗は、信長が播磨を自分に与えた時にもらったものだという。秀吉は宮城長次郎豊盛(後の丹後守)に5千石を与え、対馬の宗対馬守義智が朝鮮へ渡るので、その留守番のために対馬へ行くように命じた。

朝鮮征伐がこの春から始まるといっても、これは徳川家には関係がなく、徳川の御家人は従軍しなかったので詳しいことは省略する。

2月小

2日 秀吉は朝鮮征伐のために、肥前の名護屋へ出向くので、家康も、奥州の諸将の上杉、伊達、南部、佐竹などを率いて、今日江戸を発って名護屋へ赴いた。本多中務大輔忠勝、大久保治部少輔忠隣、小笠原信濃守忠修、松平周防守康重など総勢は1万5千余りだったという。

内藤紀伊守信成、同左馬助政長、永井傳八郎直勝、粟生新左衛門は、白旗を許され大番5組の隊長となった。

榊原式部大輔康成、酒井河内守重忠、本多彦次郎康重、松平平三郎次郎康親、三宅越後守康貞(この組は吉良と高橋衆30騎と共に同行した)は、江戸城に留まって秀忠に仕えた。

〇ある話によれば、榊原はいつも徳川の先鋒を務めることで名が知れていた。そこで、もし家康が朝鮮へ渡ることがあれば、自分が魁として行きたいと志願した。しかし、家康は密かに「お前は自分の古くからの重要な家臣なので、秀忠を補佐してほしい」と話したので、康政は了承した。加藤清正は康正の桔梗の笠の小馬標を借りて、朝鮮の先鋒の形を決めたいと依頼し、康政は同意した。この馬標は、清正が朝鮮から帰った時に返却されたという。

〇阿部善九郎正次(後の備中守)は小田原に来て、家康に何としても家康に同行したいと頼んだ。しかし家康は「おまえの父が来ているので、来なくてもいい」と繰り返し止めた。

船を建造する監督として、山本帯刀成氏、多田三八昌綱、山高宮内信直の3人は伊豆から舟板を切り出し、高力河内守清長が総奉行として、建造作業を仕切った。

〇ある話では、常陸の河内郡下妻の城主、多賀谷修理太夫政継は、仮病を使って名護屋に行くのを逃れた。秀吉は怒って家康に連絡したので、家康は伊勢と榊原の軍を下妻へ派遣して事情を糺した。多賀谷はしきりに謝まり、罰金千両を出して償った。

16日 明け方家康は石部駅を発って、京都へ入った。

19日 公子下野守忠吉(23歳、幼名福松丸、後の薩摩守)は、武蔵の忍城の12万石をもらった。忍城の城主、松平主殿助家忠は下総上代の城へ移り、更に小美川城に移った。

松平源三郎勝俊の養子、豊前守勝政(本当は水野藤次郎重仲の子)が500石をもらった。(藤次郎重仲は家康と勝俊の外叔父である)

3月大

朔日 朝鮮征伐の大将の小西と加藤らが京都を発った。

4日 家康の外孫、上州長根の城主、松平右京大夫家治が死去した。(14歳)この人は奥平信昌の次男である。

17日 家康は1万5千余りの軍勢で京都を発った。秀吉から1泊当たり米10石、大豆5石が宛がわれた。奥州の常野の衆が最後尾に従った。

結城少将秀康朝臣、19歳はこの戦いに出征した。

26日 秀吉は肥前の名護屋城へ向けて、今日京都を発った。

名護屋は鍋島加賀守直茂の家来、波多野三河守信時の領地である。去年9月よりこの城を(*朝鮮征伐の為の)秀吉の陣とすることにしたので、建てられた館は仮とはいえ立派なものだったという。(後に寺澤志摩守廣高はこの城を破壊して、唐津へ移ったという)

29日 秀吉は播州姫路に着いた。

出羽の戸澤平九郎光盛が姫路で頓死した。(*ウィキペディアでは塩屋で疱瘡に罹って死亡とある)

4月小 

〇上旬 秀吉は安芸の廣島に着き、厳島を遊覧した。また、青蚨(*銅銭)1貫文を神前に投げて、その銭が全て表面になれば朝鮮征伐の勝利は間違いないと述べて、1人の士に投げさせた。すると全て表が出た。衆人は皆驚いて喜んだ。しかし、実は2枚の銭を張り合わせていたので、永楽通宝の表が両面に見えたわけである。この銭は今でも厳島神社の神庫に保管されているという。

秀吉は、長門の国府で仲哀天皇と神功皇后の社に参拝し、赤間関では安徳天皇の像を拝覧してから、中旬に名護屋へ着いた。

この日から48万人分の糧米を、各隊や船子に配分した。

12日 小西と加藤は名護屋を出帆して、朝鮮国へ向かった。(今月28日に朝鮮の釜山の港に着き、翌日その城を落とした)

〇調べてみたが、家康が名護屋に着いた日時は分からなかった。

又ある話では、秀吉は家康の宿舎に訪れ、永井直勝が接待をした。秀吉は近臣に彼の名前を尋ねたところ、かくかくしかじかと答えた。秀吉は「池田勝入を討った者か。ああ大した奴だ」と覚えていたので、聴いたものは感心したという。

〇別の話では、家康は、一緒に来ていた逸見彌吉義助を呼んで、「おまえの老父、四郎左衛門義次を、相模の中原の領地に住まわせて世話をするように」と命じた。彼は家康の配慮に感心した。この人は北条安房守氏邦の家来で、天文甲寅に相模の厚木で戦死した四郎左衛門義久の子で、小四郎左衛門という。

20日 北条十郎氏房が享年28歳で蟄死(*病死)した。この人は北条氏政の庶子で、前の武蔵の岩槻の城主である。

5月小

7日 細川右京大夫信意が死去した。この人は京兆晴元の子で、はじめは昭元だった。(佐々木承禎の外孫)

16日 秀吉は手紙を榊原康政に送った。文禄1年5月16日 秀吉ー榊原式部大輔.jpg

『書簡』

月を置いてまた手紙を送った。

『書簡』文禄1年6月19日 秀吉ー榊原式部大輔.jpg

7月小 

10日 江戸城の建設が始まった。家康は名護屋へ出兵していたが、留守の諸士が事に当たった。

〇朝鮮へ渡った各大将は王城を破り、3道を進軍したが兵糧が続かず、その上明国から多数の援軍が到着したので、3奉行の増田長盛、石田三成、長束正家、それに加藤清正と小西行長は、援軍と兵糧を増やすように秀吉に要請した。

秀吉は家康と前田利家と日夜その対応を相談した。黒田勘解由孝高入道如水は席を外したときに、「そもそも大軍を出兵させる際にはまず大将の選び方が問題だというのは、昔からの常識である。日本兵が朝鮮に入るなら、大軍を指揮すべきなのは秀吉の外はいない。それができなければ、前田利家とか自分を行かせるべきだった。戦いを周知し、国を治められる者でないと、朝鮮の民衆を服従させることなどできない。ところが秀吉は、加藤や小西なんぞに軍を任せた。彼らは自分たちの勢いのままに先を競っている。その結果、小西の戦法を加藤は採用せず、加藤の戦法を小西が納得しない。だから朝鮮の人民は彼らを信用せず、みな恐れて逃亡してしまった。おかげでわが軍が抑えた三道はすべて荒れ地となって、草も生えていない状況である。このような状況で、あの国を治めることなんぞできるわけがない」と独り言をいった。

これを秀吉は障子の裏で聴いていた。

あるとき、秀吉は、家康と前田利家、蒲生氏郷、浅野長政などを呼んで会議したときに、「日本の兵は朝鮮へ出ても帰国の事ばかりを考え、敵を撃退させる意気はない。(*こんなことなら)自分が出て行ってあの国を治めよう。日本の留守を治められる人は、新田殿(*家康)以上の者はいない。自分は、前田利家を大将に10万の兵を左軍とし、蒲生氏郷を大将に10万を右軍として、自分の家来10万を中心に、都合30万で朝鮮へ渡り、すぐに明の帝都に乗り込んで、自分は中国の皇帝になる。早く船を準備せよ」と命じた。

これを聴いて家康は喜ばず「自分は子供のころから武士をやってきて、弱いといわれたことはないが、今自分が日本に残されたとして、さてどうしたらいいのかと思う」というと、浅野長政が進み出て家康に、「恐れながら今の太閤には狐がついて、気が狂ったことをいっていると思える。気にしないように」といった。これを聴いた秀吉は非常に怒り、長政を斬り殺そうと席を立った。利家と氏郷は袖を抑えて「秀吉が自身で手を下してならない。自分たちが長政を斬る」といった。

長政は慌てず「自分のような小者が命を落として、国が泰平になるのなら、何人殺されても命は惜しくはない。しかし、この先日本の人民は1日も休めなくなる。若い者は兵役に苦しみ、老人や子供は物資の運搬で疲れてしまう。ここは国費の消耗や国民の疲弊を考えるべきである。また、今秀吉が朝鮮へ渡ると、家康と云えどもあちこちで起きる一揆を収められなくなる。秀吉が朝鮮へ行くのを思いとどまり、朝鮮へ出ている兵も早く京都へ引き取らせてほしい。人民が平安で、国が長く続く策に出てもよいではないか」と続けた。

秀吉はカンカンに怒った。利家と氏郷は長政を叱って座を立たせた。長政は宿舎へ帰って罪が下されるのを待ったという。

14日 肥後の熊本城主、加藤清正の領地の佐敷の城代、加藤輿左衛門は朝鮮に渡ったので、留守をその子輿平次(12歳)、家臣の井上彌蔵(後の勘兵衛)、安田輿七郎(後の彌右衛門)、堺善右衛門など20数人と少人数の軽率とで守っていた。薩摩の住人の梅北宮内右衛門は一揆を企てて、佐敷に工作員をいれた。

堺善右衛門が糧米を朝鮮へ送るために、4里離れた日奈久田野浦へ向かったのを見計らって、梅北は佐敷城を急襲した。城兵は少なく耐え切れず安田と井上は主人の輿平次と連れて梅北に降参した。梅北はこの城を手に入れて周囲を侵略した。

この状況を清正の居城から秀吉に報告すると、秀吉は非常に驚いて、浅井長政の忠告を思い出して家康と相談し、長政も呼んで「お前の長男の左京太夫幸長を大将にして肥後に赴いて一揆を滅ぼせ」と命じ、家康にも「幸長はまだ若いので本多忠勝をつけてやるように」と述べた。家康はすぐに忠勝を呼んで、「幸長は勇敢だけれど若いので、戦いも未熟だから、お前が助けて陣中の彼是を取諮るように」と命じた。

幸長と忠勝は肥後へ向かった。忠勝は意気揚々としていた。

堺善右衛門が日奈久の城を一揆にとられたことを聞いてすぐに駆けつけて、戦いを挑もうとしたが、誰も従わなかった。しかし、庄官助兵衛だけが堺の轡を取って同行した。堺は単騎で佐敷に向ったが、すぐに熊本と八代の城、および相良の求麻(*球磨)城へ救援を求めた。その上で、佐敷へ向かい、すぐに降参して家来になりたいと申し出た。

梅北は田舎者で、礼儀を顧みることなく加藤輿座衛門の妻を自分のものにしようとしていて、堺が偽って降参したことに気が付かなかった。そして堺の甥の彌吉を人質に取って、堺の申し入れを認めた。梅北は嫁入りの宴に堺、井上、安田を呼んで酒宴を行った。兵士たちも城下の店に出て宴を催して盃が回ったときに、善右衛門は肴を梅北へ捧げる風をして、いきなり斬りつけた。相手もなかなか強くて傷を負いながらも奥に駆け込み、人質の彌吉を殺そうとした。三右衛門はそれを防ぐために後を追った。彌吉は若いが堺の意を密かに受けて、懐刀を忍ばせていたので、これを抜いて梅北を討ち取った。

善右衛門は大声で「宮内右兵衛を討ち取った」といいまわったので、梅北の場内に残っていた兵は肝をつぶして逃げ去った。そこで四方へ駆けまわって一揆衆を100人ほど斬り殺し、佐敷の場内を収めたことを報告した。このため浅野と本多はすでに筑後と肥後の堺まで来ていたが、秀吉は彼らを呼び戻し、浅野長政を肥後に行かせて統治させた。

20日 秀吉は堺、安田、井上に感謝状を贈った。d0e08ca89dc8c21f92a8400487e39cb91267ade9.jpg

晦日 秀吉は京都へ戻った。これは母親の病気の知らせを受けたからである。しかし、彼女は25日にすでに亡くなっていた。秀吉は悲嘆にくれた。遺体は大徳寺塔頭、総見院に葬り、大端院准三宮春岩桂公とした。

そもそも、秀吉の母親は尾張の御器所村(*名古屋市昭和区)の生まれで、織田大和守信敏の軽率の娘である。最初は尾張の中村の住人、木下彌右衛門に嫁ぎ、秀吉と三位武蔵法印一路の妻(後端龍院)を儲けた。秀吉が8歳の時に彌右衛門が死亡したのちは、織田秀信の友達の筑(*竹)阿弥の妻になって大和大納言秀長と家康の後妻の南明院(*朝日姫、駿河御前)を生んだ。

秀吉が名護屋に行って兵を朝鮮に送って滅ぼすということが彼女の耳に入ったが、彼女には信じられなくて、秀吉がそんな遥かな外国へ海を渡って、一体何年たったら勝って帰れるのだろう。もう会えない」と悲嘆にくれるあまり、病気が進んでとうとう亡くなってしまったという。

9月小

3日 大地震 (*後の慶長大地震の先触れか?)

9日 秀忠が権中納言に任じられ従3位に叙された。

10月大

6日 秀吉は京都から九州へ戻った。

10日 秀忠は京都から江戸へ向かった。

12月

17日 新見彦左衛門正吉が享年56歳で死亡した。その子勘三郎正勝が禄を得た。この父子は長久手で戦功があったからである。

〇この年、家康の4男が誕生した。母親は遠州の生まれである。(茶阿という)この子は肌黒で、容姿が醜く、武将の相がないというので、家康はその子を民間人にさせて、家来の下野の長沼の皆川山城守廣熈に密かに育てさせた。彼は辰千代という。この人が上総介忠輝朝臣である。

〇家康の外孫の奥平清匡(10歳、信昌の4男)は秀忠から諱をもらい、松平忠明となった。また上野の小幡で3万石をもらった。(後の下総守)

〇諏訪安芸守頼忠は、領地の武蔵の羽生蛭川に替わって上州、那波総社を領地にもらった。

〇保科越前守正直(槍弾正清の子)は、その弟甚四郎正光を養子とした。(後の弾正忠に任じ、肥後守になった)

〇関東の浪人、難波田善左衛門憲利(因幡憲次の子)、山田五郎兵衛直時、酒井一郎兵衛、近江の浪人、永田庄九郎正次(織田の家来四郎左衛門正吉の子)、北畠の浪人、石丸孫次郎有定は選ばれて御家人となった。

〇ある話では、秀吉が織田信雄を出羽の秋田へ左遷したとき、家康は牧野讃岐守を使者として信雄を訪ねさせ、安否を聴いた。石丸(*孫次郎有定)がこれまで信雄について秋田へ来ていたことを家康は感心して、召し出したという。(後に頭を丸めて半齋となった)

〇北条家の浪人、諏訪部惣右衛門定吉が御家人となった。この人は八条流(*馬術)の達乗である。この人は北条と滝川一益との小鳥原の戦い以来北条家で源次といってずば抜けて戦がうまく、何度も戦功をあげた。氏直が高野山へ流された後も、家来として仕えたので、家康は憐れんで御家人とした。

〇(*藤原)妙壽院惺窩は金吾秀秋(*小早川)の勧めで、名護屋を訪れた。家康は儒学の概論を聴いた。

〇元は出雲大社の巫女の国(*出雲のお国)という人が、蒲生家の浪人で名護屋三郎と相談して、神楽を大幅に変化させた歌舞く芸を編み出した。これは昔の白拍子の類で、雅楽の亜流である。歌う声は大きく、人心を惑わしたという

〇羽柴秀次は非常に弓術を好んだ。馬術は大坪流の荒木志摩守元清(入道となって安志)、弓術は京都の山科に住んで切磋琢磨していた片岡平右衛門家次や吉田源八重氏など6人を呼んで技を競った。家次は吉田出雲守重高の第一の弟子である。源八重氏は後に越前家に仕え、やがて家康や秀忠に謁見した。晩年は入道となって印西と号した。

〇肥前の長崎は、秀吉が天正丁未に藤堂高虎と寺澤廣高による吟味の結果、鍋島加賀守直茂に預けられたが、今年から寺澤志摩守が奉行となった。

〇伊勢の安濃津の城主、織田上野守信兼は、永禄12年以来持っていた領地を秀吉に没収され、近江でわずか2万石を与えられた。入道してから老犬齋と号した。彼の一族の分部左京亮政壽は秀吉の直臣で、伊豆の上野の1万石をもらった。関ヶ原の戦の後、家康は丹波の水上3万6千石を老犬齋に与え、伊勢の林の1万石を長男の民部少輔信重に与えた。

〇秀吉は今年の初秋から、秀次に朝鮮へ行くようにと言われ、秀次は断ることができず軍令を下した(7月18日)。しかし、その後秀吉の母が病死したので、今もって渡海はせず、噂ばかりが流れて家来たちは眉をひそめた。

文禄2年(1593)  

正月小

朔日 肥前の名護屋の旅営にて、御家人たちは年賀を祝した。江戸に残っている者は、秀忠を訪れて参賀した。

5日 正親町天皇が70歳で崩御。

〇今月、武蔵から戸田三郎右衛門忠次と高木主水清秀が名護屋を訪れた。この2人は歴戦の勇士だが、高齢で家康に付いて名護屋へ行けなかった。しかし、関東ではこの3月に家康が朝鮮へ行くらしいという噂が流れたので、遠路はるばる会いに来たのである。家康は大そう喜んで、それを秀吉に報告した。秀吉は2人を呼んで2人の昔の活躍を褒め、「徳川殿物語也、若い者は見習え」といった。2人は「過ぎたことだ」といった。

3月小 

3日 江戸城が完成した。(この城は太田道灌齋の築城の技術を尽くして建設した名城だという)

4月大

朔日 秀吉は、大友宰相義統が朝鮮でサボタージュを行ったというので、豊後の国を没収して長門へ流した。(毛利輝元が預かった)又息子の左兵衛督義乗は武士を廃業して宮中へ勤務せよと、100人分の月給を与えて肥後の熊本へ行かせた。

島津又太郎(諱は不明)は同姓兵庫守頭義弘に従って朝鮮で参戦したが、義弘の命令に背いてサボタージュを行った。そのため給料を没収されて一旦義弘に預けられた。

波多三河守信時は鍋島加賀守の家来だったが、やはりサボタージュを行ったので、肥前の戸津の領地を没収されて黒田長政に預けられた。

豊後の竹田、7万石あまりを中川修理太夫秀成に、臼杵の佐伯3万石を太田飛騨守一吉に授け、大谷は1万5千石あまりの与力を付けて、秀吉の公田10万石を支配させ、残りの郡は垣見、熊谷、福原、竹中などに与えた。

5月小

5日 名護屋の秀吉の本陣の北側の入江を隔てて、家康と利家の陣が並んでいた。伊達政宗の陣はその北側にあった。

家康の仮の館の近くに冷水がわき出した。利家の家来の篠原出羽守の部下の人夫が2町ほど歩いてきて、この水を汲もうとした。もともとそれほど多く出ない冷水だったので、家康の下卒が止めようとすると、どうしても汲むと怒鳴った。その声を聴いて利家の陣所から2~3人が駆けてきた。こちら側からも人が出て来て双方で2~3千人が集まった。

利家の方からは上級の武将は誰も来ず、長九郎左衛門連龍ら500人で入口を守った。徳川方は本多忠勝ら上級の武将10人ほどが出て行って、騒ぎを鎮めようとした。

その内双方が矢や鉄砲を持ち出すまでになり、槍を構えてにらみ合いとなった。

入り江を隔てて陣を布いていた蒲生氏郷、浅野幸長、毛利河内守秀頼は、馬に乗って家康の館へ駆けてきて、双方の兵が粗相で兵器を持ち出して集まり大事になりそうになった。

家康サイドでは、渡邊と服部の両半蔵が軽率300程を連れて利家の陣の裏手に回り、事が起きれば本陣を撃破しようと備えた。

伊達政宗が老臣を2~3人を行かせて、ようやく騒ぎは下火になった。利家は徳山五兵衛則秀を家康のところへ行かせて、全て人夫が喧嘩したのが元なので、これが秀吉に聞こえるとまずいと、早く止めたいと要望した。家康は承知し騒ぎは収まった。

秀吉はその後家康と利家の仮館を名護屋の城の傍に移転させた。

今日、武蔵の府中六カ所の大明神の祭礼が行われ、松平主殿助家忠は良馬を連れてきたが、秀忠の考えでその馬を神社に献じた。

26日 御家人の柴田七九郎康忠が享年56歳で死去した。(法名東白)彼は傑出した人物だった。その子康長が禄をもらった。

6月小

3日 五井の松平平太郎左衛門(最初は孫九郎)景忠が享年53歳で死去した。

10日 御家人の守山豊後俊盛が死去した。

25日 明の使いが名護屋を訪れた。謝 用梓は家康の陣に入り、徐 一貫は前田利家の陣に入ってもてなされた。今日から21日まで滞在した。(22日から浅野長政、太田和泉守資方、建部壽徳、小西如清、蘆浦観音寺らは、明の使節の饗宴を取り仕切った)

20日 肥前名護屋の家康の本陣の前で、御家人の阿部傳八郎は恨むことがあって同僚の柏原新五郎を殺害して逃亡した。

7月大

18日 島津龍伯と弟の祈答院左衛門太夫歳久入道晴蓑は、朝鮮国で怠惰だったとして、細川兵部大輔藤孝入道玄旨を立ち会わせて自殺させた。この人は病気で苦しんでいたのに、サボりだとされてしまった。

8月小 

3日 秀吉の妾(浅井備前守長政の娘で、淀殿という)が男子を生んだ。捨丸と名付けられた。後の秀頼である。秀吉は非常に喜んで、朝鮮との和平交渉は沉 惟敬にまかせ、派遣軍の処置は前田利家にゆだねるといって、船に乗って名護屋から大阪へ帰った。祝賀気分は世に満ちた。家康も誕生祝のために日を待たず、名護屋から出帆した。

29日 家康はこの日大阪に着いたそうである。

9月小

朔日 眞田源三郎信幸、従五位、伊豆守になった。

閏9月大

2日 秀忠は江戸を発って上京した。これは家康も名護屋から大阪へ帰還したことを、先日報告を受けたからである。

10月大

14日 家康は江戸へ帰るために近日中に大阪を発つという。

16日 蒲生飛騨守の家来で白石の城主、蒲生四郎兵衛郷安(本氏は赤座)と中山の城主、蒲生左文郷可(本氏は上坂)とが領地について諍いを起こして合戦になりそうになった。ちょうと両人は会津にいたので、蒲生源左衛門郷成(本氏 坂)などが中心となって講和させた。

26日 家康は江戸城へ帰還した。長旅の無事に皆が喜んだ。

〇伝承として、一色楽運の孤児、重政(後の次郎兵衛)は、今度家康が江戸への帰途、三河の長澤の茶屋で面会したところ、温かい声をかけてもらったが、わずか7歳だったのでどうしたらよいかわからなかった。久松佐渡守俊勝の先妻の娘が尾張の一色帯刀詮勝に嫁いで、彼らの娘が一色彌次郎貞重入道楽連の妻となって重政を生んだ。重政は松平定勝(後の隠岐守)の甥でもあるという由緒から、定勝の領地で養ってもらったという。(寛永16年10月、大獣公(*三代将軍家光)に面会して俸米をもらった。この人は源太郎政沆の先祖である)

〇ある話として、北条の家来に本多主膳正家という人がいた。氏直と佐竹義重が上州の藤岡で戦った時に、小池の沼にて槍で対戦して活躍したという話を家康が聞き及んで、天正18年から御家人となっていた。しかし、名護屋に家康が滞在していたときに、掟破りの一族がいたので家康は正家に殺させたところ、非常によく働いたので、家康が江戸へ帰還したときに武蔵の篠崎村450石を与えた。

29日 武蔵の深谷の城主、松平源七郎康直が死去した。享年25歳だった。娘が2人いたが息子がいなかった。そこで後に家康は忠輝を長澤の家督とした。この康直の父は上野介康忠入道玄齋で、天正16年引退して京都に住んで、この時まだ存命だったという。(康忠入道は元和4年(1618)8月10日京都で没した。73歳)             

11月大

〇甲陽の家臣、高尾惣兵衛嘉文が家康の家来となった。

12月小 

〇大久保治部大輔忠隣が秀忠の養育係となった。すでに天正年代から奉公職に就いていたからである(後に相談役となる)

〇今年、妙壽院惺窩が関東を訪れた。これは去年家康が名護屋で儒学の概論を聴き、江戸へ来るように依頼したからである。彼は家康に『貞観政要』(*唐の太宗の問答集:帝王学の教科書)を翌年まで講義した。

〇喜連川左兵衛督国朝が肥前の名護屋に赴いたが、途中の安芸で病死した。

〇信雄の家来、久保勘次郎勝正が御家人になり、上総の大和田村700石をもらった。

三雲新左衛門成持は最初信雄についていたが、天正13年からは蒲生氏郷の家に世話になっていた。これは成持の妻が氏郷の叔母であったからである。彼も御家人となった。

〇秀吉の命令で、京都の盗賊の張本人、石川五右衛門は、その子や手下など11人と共に七条河原で釜茹の極刑に処された。彼は朔望月(1日とか15日)などに大名などが秀吉に会いに来て混雑しているときに聚楽城へ忍び込んで、宝刀や名刀を鉛の刀に取り換えて立ち去るので、心ならずも刀を持参しないサボりだという汚名を被って悔しがるものが少なくなかった。

浅野左京太夫幸長は熟考の上、城へ登る者に刀を従者に預けて短刀だけを身に付けさせた。人々はこのアイデアと知恵に感心した。このため皆が彼の真似をして刀を家来に持たせたので、石川の手口が使えなくなり、それからは五右衛門が城へ紛れ込むことはなくなった。以後、武士の習わしとして玄関から上がるときには皆、刀を持たないようになった。

〇保科越前守正直の養子、甚四郎正光が従5位の下肥後守になった。彼の祖父、弾正正俊(または正清)は老衰して正直のもとに住んでいたが、今年83歳で死亡した。彼は甲陽でならした槍弾正である。

武徳編年集成 巻42 終(2017.5.2.)