巻43 文禄3年正月~文禄4年12月

投稿日 : 2016.06.20


文禄3年(1594)

正月 大巻43.jpg

豊臣太閤秀吉は大阪城で、関白秀次は聚楽城で越年した。秀忠は聚楽城外の館で新年を迎えた。

5日 越後の参議、上杉景勝が従3位に叙された。

6日 秀吉は、和泉の多門に城を築くために調査の使いを行かせた。彼らは、この地は京都や大坂との行き来が不便あると報告した結果、山城の伏見に城を築くことに決め、人夫を来月伏見に集めて、城を建設するように諸国の大名に連絡した。

この訳は、秀吉は、天下を幼い秀頼に継がせようとしたが、関白の秀次が譲りそうになかったので、大阪城を秀頼に与えて、秀頼の権威を顕わそうとしたからである

秀吉は朝鮮出兵に飽きてきた。黒田如水は、「あなたは今年27歳である。どうして秀吉の替わりに軍を指揮しないのか?さもないと秀吉と確執を生む原因になる」と秀次に忠告したが、秀次は聴かず、ただ謡や狩ばかりして月日を送っていたという。

23日 江戸城を27日から再び建設を続けることにしていたが、秀吉が伏見城の建設に取り掛かるというので、家康は中止したという。

2月大

4日 榊原康政の館に関東8州の諸将が集められ、伏見城の建設の段取りが通知され、16日に京都へ人夫を送るように指示された。1万貫で300人が雇われ、すぐに賃金が払われて、京都へ向かわされた。家康もすぐに京都へ行き、大阪へ向った。肥前の名護屋の警護を担う者以外は、全て大阪に集まり、伏見城の建設に携わった。

27日 秀吉は、家康など大小の大名を連れて25日から大阪を発って吉野山へ行き、吉水院を宿として、桜見物のため数日逗留して宴会をした。付き人、数10人の他は護衛をつけなかった。人々は秀吉の度胸に驚嘆した。

29日 吉水院で和歌の会が開かれた。家康も6首を詠じた。

今月、蒲生氏郷が上京し、「自分が先鋒を務めるから、関白秀次に早く朝鮮へ渡るように」と秀次に促したが、秀次は応じなかった。(氏郷は去年九州から京都へ戻り、冬に国に帰っていたが、今また京都へ来て、秀次と秀吉が不和になりそうなのを察して、このような忠告をしたわけである)

〇足利源頼氏が大阪に来て、秀吉に面会した。亡くなった兄国朝の職を受け継ぎ、左馬頭となって、すぐに上野の喜連川へ戻った。

3月小

2日 関東の諸士は人夫を連れて京都へ着いたが、家康が吉野からまだ帰っていなかったので、宿で休んだ。

3日 秀吉は紀州の高野山の金剛峯寺へ行き、青巌寺を宿として舞台を新しく作り、金春太夫に猿楽を催させて衆徒を慰めた。しかし、その途中のこと、晴天にもかかわらず、急に北西から暗雲が起こり、雷鳴や稲妻とともに暴風が吹き荒れ、雨で車が流されるほどとなって、人々は恐れ戦いた。ここでは昔から笛や太鼓を禁じるという、弘法大師の戒律があったという。秀吉は高野山から摂津の兵庫へ渡って、大阪へ帰った。

7日 伏見城の建設が始まった。監督は佐久間河内守政實、瀧川豊前守忠往、佐藤駿河守、杉山主水、水野亀之助、石尾與兵衛治一、竹中貞右衛門、伏屋小兵衛で、諸国から人夫を25万人集めて濠を掘り、石垣を築き、巨石を醍醐、山科、比叡山雲母坂から運び、材木は岐阜や土佐の山から伐りださせた。

14日 家康は伏見城の建設現場へ行き、諸士を訪れた。

16日 松平甚右衛門正次が死去した。法諱清厳浄。この人は長澤の松平兵庫守清宗の庶子の、右馬允宗忠の子で、遠州今泉の生まれである。子供がなかったので、大河内金兵衛久綱の次男、長三郎正久を養子とした。後の右衛門太夫正綱である。

17日 秀吉は伏見の城を見るために、大阪を発った。

18日 秀吉は伏見を見回ってから、大阪へ帰った。

4月大  

朔日 参議の前田利家が権中納言に任じられた。

8日 秀吉は利家の館を訪れた。この時、彼は慈照院義政(*足利義政)が細川右京大夫勝元の館へ訪問したときの例を調べて、そっくり真似をした。つまり従者たちは皆馬に乗せ、烏帽子、直垂を着せた。利家父子は数点の贈り物をし、猿楽を催し、珍しい肴や珍味でもてなした。

29日 秀吉は摂津の有馬温泉で湯につかった。家康は平岩主計頭親吉に、秀吉のご機嫌を窺わせた。

5月小

2日 秀吉は、大阪から伏見に行き城の建設状況を見に行った。工事の監督をする諸将を呼んで、夏服を贈り、松平家忠(*『家忠日記』の著者)にも夏物の胴着を贈った。

〇ある話によれば、家康は伊豆から巨石を船で大阪に運び、そこで川船に積み替えて、伏見へ送り石垣を築かせた。しかし、海上は風で荒れるので時間がかかったので、徳川家の分担場所の工事が他の諸将の分担場所より遅れた。

秀吉が見回った時、森 壱岐守勝信に「徳川家の家来がサボっている」と文句を漏らした。このことを家康が聞いて気にして勝信に、「秀吉が蓄えている石をしばらく借りて石垣を作りたい。やがて伊豆から石が届けば返すから」と交渉した。

勝信は「もともと巨石を蓄えているには、諸将の分担分が遅れた時に、その石で工事を続けさせサボりを注意するためである。しかし、それを自分が個人的に貸すのは非常にやばい。でも徳川さんの仕事が遅れるのも忍びない」といって、こっそりと巨石をしばらく提供してくれた。

おかげで家康は、多数の人夫を使って急いで石垣を完成させたので、かえって他の諸将より工事がはかどった。5日経ってまた秀吉が見回ってきて、「流石は家康だ。アッという間に成し遂げたとは」と褒めた。

家康は以来勝信とその子の豊後守勝永を引き立てていた。しかし、関ヶ原の戦いでは、彼らは石田方の与力として参戦したので、戦後は浪人となった。

5日 家康は、伏見の仮の館で秀吉が茶会をひらくとして訪問した。家康は終日饗応し、厚くもてなした。秀吉はこの日から伏見に滞在して、工事を見回った。

19日 家康は伏見から聚楽の館へ帰った。

7月大

16日 蘆戸にて、本多作左衛門重次入道呈楊軒が死去した。享年68歳。

8月小

5日 最上出羽守義光の次男、左馬助(22歳、二郎三郎となる)が御家人となった。家康は名家の子を家臣にするのは初めてだったので非常に喜び、、諱を与えて家親とした。後の駿河守というのはこの人である。後日、秀忠も「足下入魂欣然の由且左馬助参上喜悦」と趣旨の自筆の書簡を与えた。

18日 越後参議弾正大弼景勝が権中納言になった。

〇大阪本願寺門主顕如は前に紀州へ隠遁し、後妻の子の准如を愛して後継ぎにしたいと思って、長男の数如をひどくないがしろにしていた。一昨年からは後室の如春尼は、教如をやめさせ准如を跡取りにするように、秀吉に訴えると秀吉はその訴えを認めた。しかし、家康は密かに教如をサポートした。

今月、松前民部大輔慶廣の父、若狭守季廣は、長年にわたって蝦夷の島を攻めてきたので、秀吉は彼にこの島を与え、「この島に来る外国の商船や、この地へ渡る人は、全て慶廣の命令に従うことと。またそれに違反した場合は、その国の国王に連絡して罰するように勧告する」とした。また、東奥州の津軽から大阪までの北陸道の駅宿と、傳馬に対する許可書を発行した。

9月小

13日 御家人の逸見四郎左衛門義次が死去した。この人は元は北条氏邦の家来(武蔵の尻高の城主)で、この頃は家康に仕えていた。

15日 大久保七郎右衛門忠世が死去した。享年63歳。そもそも大久保は徳川家の代々の家臣であるが、特に忠世は家康の最初からの片腕であった。長男の治部大輔忠隣が家督を継いで4万5千石を領した。二男の庄次郎忠基、三男四郎左衛門忠成(後の玄蕃頭)、四男は半右エ門忠長である。

忠世には弟が7人いて、治右衛門忠佐(後の沼津の城主2万石)、大八郎忠包(藤縄畷で戦死)、新蔵忠奇(味方が原で戦死)、勘七郎忠正(犬井で戦死)、権右衛門忠為、甚右衛門忠長、彦左衛門忠教である。妹は大河内善兵衛政綱の妻となった。

大久保の当時の宗家、新八郎康忠は、七郎右衛門忠世の従弟である。この一族は沢山いて、いずれも徳川家に尽したことでは他をはるかに超えていたという。

10月大

24日 渡邊但馬秀綱が奥州で58歳にて死去した。この人は八右衛門義綱の子で、母は小笠原三郎左衛門の娘である。

11月大

2日 秀吉は蒲生氏郷の労をねぎらうために、彼の館を訪れた。その前に諸将は珍しい贈り物を届けた。伊達政宗は錫千双を贈った。氏郷の病気は、彼が名護屋へ出征したときに、秀吉が彼の働きを嫌って彼に毒を飲ませたためである。

23日 御家人の曲淵庄左衛門吉景が死去した。この人は武田信玄の武将、板垣信形の家来で、信玄と勝頼に仕え天正10年からは家康の家来として軍功があった。家康が江戸へ移った時には、甲州に持っていた領土の代わりに相模の中村あたりで500石をもらった。吉景の死期がせまり、嫡男の彦助正吉がその500石を相続するところだったが、正吉が天正10年以来の功労によって、家康が江戸に移った時に、武蔵の鉢形150石と感謝状をもらっていた。そこで更に遺領を受け取るわけにはいかないと、弟の七左衛門、助左衛門、甚右衛門に遺領を配分したいと父に頼んだ。臨終の近い庄右衛門は非常に喜んで、家康に許可を求める遺言を書いた。家康は正吉の気持ちに感心して、父の遺言に従って遺領を三人に配分した。(慶長9年3月に、正吉には80石が加えられた)

〇この年、家康は娘の督姫(初めは北条氏直の妻)を、秀吉の媒酌で池田三左衛門輝政に嫁がせた。母は鵜殿三郎長持の娘の西郷殿という。(西郷殿の甥の鵜殿藤助長忠の子、大隅長次が、この姫の家来として、以来子孫は今も池田家にいるという)

〇家康の庶子、松千代丸が誕生した。

〇高木主水正清秀が引退し、相模の東郡海老村の領地で隠居した。今年、次男志摩守一吉は、下野守忠吉の家来となった。清秀は最初水野下野守信元、次は、和泉守忠重に仕えていた人である。清秀は、家督を三男の善次郎正次に譲って5千石を領した。給料千石は四男の善三郎守次に与えた。

〇小笠原兵部大輔秀政の嫡男、幸松丸が生まれた。母親は岡崎信康の娘である。(幸松丸は後の信濃守忠時である)

〇杉浦市十郎正友(彌一郎親正の長男)が初めて家康に謁見した。(この時は幼かったが、慶長5年からは近習となった)

菅谷左衛門太夫範政は、上総の平川村で千石をもらって御家人となった。この人は常陸の小田天庵の家来で、信太郡領主の政貞入道全久の子である。

小幡源太郎正次(太郎左衛門正俊の子)、逸見左馬助義助(以上の3人は関東の武将である)、建部傳右衛門正興などが御家人となった。

この正興は佐々木六角承禎の家来で、近江の建部の城主、箕作の城衛、傳内賢文の士である。天正に承禎が滅びてからは浪人だったが、青連院尊朝親王の筆蹟を学んで翰墨の才(*文才)もあって、秘書の役をこなした。家康の近江の領地にある老曾利で、500石を宛がわれた。

〇肥前の長崎の商人の総代、安東某は、以前に秀吉に願い出て地子銀(*地代)25貫目を秀吉に納めるので、町の内外を治める許可をもらっていた。この人は安芸の村山の生まれだが、長崎に来て筑前の素生の末次輿善の庇護を受けていた。彼は雄弁で幹部になっていたが、今度秀吉の命で東菴と改めた。

〇大和、紀伊、和泉の三国を領地とした権中納言秀長従三位豊臣秀俊が横死した。この人は秀吉の弟の権大納言秀長(初めは羽柴美濃守)の養子で、実は三位法印一路(*三好吉房入道一路)の庶子で、関白秀次の親戚である。

この人物は非常な悪党で、無実の士や庶民を殺したり、奈良の猿沢の池や法隆寺の堂前の池という昔から殺生が禁じられていた池で網おろして、魚を獲ってその場で調理したり、と悪行を重ねていた。しかし、とうとう癩病に侵され、吉野の十津川の温泉で療養していた。その時のこと、吉野川の上流の西河の瀧を見物に行ったが、幼い小姓に数十丈という高い崖から飛び降りよと命令した。この小姓はひるむことなく秀俊に飛びつき、一緒に岸壁の底の流れへ飛び降りて2人はもろとも死亡した。

秀俊には子がなかったので、秀吉は三国を取り上げ、秀俊の家来の中の箸尾宮内少輔行春、十市常陸守、布施左京亮だけに遺領を配分し、秀吉の直参とした。そして、その他の家来は全て浪人となった。

秀長時代からの近臣の藤堂佐渡守高虎は、当時は髪を剃って高野山に籠っていたが、秀吉が彼の武功を惜しんで高野山から招いて還俗させ、2万石の領地のうえに5万石を加えて、伊予の今治で7万石を持たせた。関ヶ原の戦いの後に、彼は家康の家来となった。難波の役(大阪の役)で活躍した藤堂和泉守はこの人である。

〇加藤遠江守光泰は卓越した武将である。彼は天正18年から甲斐を領地として治めていたが、朝鮮に渡って戦功をあげた。しかし、石田三成と不和になって、一昨年8月29日に朝鮮の西生浦(*ウルサンの南)の宮部少輔の陣(*倭城)の中で毒殺された。(52歳)彼の子の作十郎貞泰は今年まだ15歳で甲斐を治めることはできないと石田が述べたので、秀吉は甲州ではなく美濃の黒野に4万石だけを与え、甲州は浅田長政に与えたという。

〇服部市郎右衛門保元が秀忠に仕えた。

文禄4年(1595)

正月大

朔日 家康は、秀忠と共に聚楽城で新年を迎えた。

4日 京都の名医、翠竹院一渓道三が死去した。享年83歳

2月大

7日 大阪にて、参議従三位飛騨守藤原朝臣氏郷が享年40歳で死去した。

秀吉は氏郷が勢力を伸ばして天下を取りに来るのではと疑ったことがある。氏郷はこれを察して「朝鮮を支配すればこれを自分に与え、秀吉の先鋒となって明国の400余州を征服したい」という訴状を用意していたが、まだ秀吉へは渡していなかった。秀吉は氏郷の死後この文章を目にして、彼に毒を盛ったことを後悔した。

20日 家康の家来、永井傳八郎直勝(当時5千石)は、秀吉の命で従五位下右近太夫になった。また、豊臣の姓を与えられた。直勝は長久手の戦いで秀吉方の武将、池田勝久を討ち取った功績を認められたからだという。実に英雄の名誉を授けられたものである。

28日 秀吉は牛車に乗って聚楽城下の家康の館へ来たが、全員直垂姿だった。家康は「長光の太刀」、「行光の脇差」、良馬一匹(黒毛で鞍付)、白銀3千枚(3万両)、美服を100着(種々の唐織)、八丈島500反、褶500反を献じた。秀忠は太刀一本、馬一匹、白銀500枚、時服50着、越後布100反を献じた。また、伝通院からは黄金千枚、時服10着を、結城少将秀康朝臣からは時服30着を献じた」。

家康の御家人の内10万貫から2千貫までのものは、時服を3領から2領を献じた。饗応は紙に書ききれないほどだった。

5月小

3日 家康は帰国のために京都を発った。その時家康は秀忠に、「秀吉と秀次の間できっと戦いが起きる。その時は秀吉方について背いてはいけない。仮に秀吉が負けるようなことになれば、急いで大阪に行って城を守るように」と指示した。大久保忠隣が同席して聴いていたという。

〇今月、奥平九八郎家昌(16歳)が大膳太夫従五位下になった。弟の忠七郎は秀忠の前で元服した。秀忠の諱字をもらって忠政となり「景光の脇差」をもらった。(慶長2年、菅沼小大膳定利の養子となり、同7年には松平の氏をもらい、摂津守に任じた。同19年には35歳で死亡した。その子飛騨守忠隆も25歳で寛永9年に死亡し家は絶えた)

6月大

10日 下総の古河の居城で、小笠原右近太夫貞慶が死亡した。享年50歳。信州の深志の城主、大膳太夫長時である。彼は三男であるが嫡子となったが病気で引退し、その子の兵部少輔秀政が古河の城地3万石を相続した。

〇秀吉は諸国の田畑を全て検地し、応分の租税を徴収するように命じた。

伊勢の13郡は、羽柴下総守雄雅、岡本下野守宗憲、朽木河内守利網、稲葉兵庫頭通廣、服部采女正一、柳 右近太夫、新庄東玉齋などがその業務にあたって検地を行ったが、先に両大神宮の領地が全て没収された上に、今回残った宮川の40の村も検地しようとした。ところが、秀吉は、西洞院家の尼孝蔵王の膝枕で寝ていると、神の怒りに触れて「もし検地するなら命を絶つぞ」という悪夢で目が覚めると、汗でぐっしょり濡れているのに気づいてひどく驚き、急ぎの連絡を伊勢に送って、検地を中止させた。これ以来全国の検地では、神領は検地をしないようにと決めた。神官は謝礼として黄金100枚を贈ったが、これも秀吉はすぐに返した。そうして以後はその40の村については、穀高については調べられないことになった。

因みに日本で全国一斉の検地は、これまで行われたことがなかった。文禄4年の検地高だと末代まで伝わっている値は、この時算定したものを指している。

7月大

3日 関白秀次は木下武蔵入道三位法印一路の子で、母は秀吉の妹である。(京都の村雲に住んで瑞龍院と称した)

最初は三好山城守康長入道笑岩の養子として、河内の若江に住んでいたが、その後、また宮部善祥坊継潤の養子となり、結局秀吉の嗣子となって、伊勢、尾張、濃尾、近江の4国を領地として、あまりに栄えていたために人々が彼の残忍暴虐さを噂し、特に秀吉のお抱えの石田や増田が、あることないことを言いふらし、更に秀吉に謀反を起こそうとしていると言葉巧みに秀吉にいいつけた。そのため秀吉はそれを鵜呑みにして、今日、石田三成、増田長盛、富田左近将監知信、前田徳善院法印玄以、宮部善祥坊法印継潤を聚楽へ呼んで、秀次の謀反の有無を尋問した。

秀次は驚いて急いで吉田侍従兼治を呼んで、七枚綴りの誓状を作らせた。これによって秀吉は疑いを解いたという。

4日 木村常陸介重茲は秀吉の老臣の隼人の子で、小隼人の時代から武功があった。彼は父から政務を継ぐつもりだったが、石田や増田に出世の先を越されたので秀吉を恨み、最近は秀次に接近していた。当時彼は淀にいたが、女用の輿に乗って聚楽へ行き、秀次の寝所へ忍んで行って話し込み、夜に帰った。石田と増田は木村の傍にスパイを入れていたので、その話を聴いて、すぐに秀吉に伝えた。

5日 早朝、秀次は、秀忠を捕えて質にしようと聚楽城下の家康の館へ使いを送り、「朝になれば食事を一緒にしよう」と誘った。

甚三郎利勝(後の大炊頭)はその意味を察して、「秀忠はまだ寝ている。日が昇ったら知らせよう」と答えて使いを帰らせた。そして、大久保治部大輔忠隣(後の相模守)などと相談して、秀忠を伏見へ行かせることにした。

その時、大路を行くのがいいか、竹田の間道を行くのがいいかを協議した。利勝は「忍んで行くとしても、小道を行くと後々笑われるので、ここは大路を行った方がよい」といったので、利勝など7人ほどを伴として、大路を伏見へ向かった。そうこうしている間に秀次からはしきりに来るようにという催促が来たが、大久保が対応し、一行が伏見に着いた頃を見計らって「秀忠は茶の会の約束があって、明け方に伏見に向った」と答えた。秀次は非常に悔しがった。秀忠が伏見に着いて秀吉に面会すると、「流石に新田殿の子だ」と秀吉は感心した。

秀次は謀反を起こすためではないが、かねがね武将たちに金銀を貸して手なずけてきただけでなく、朝鮮へは渡らず、武将たちを狩に誘って武器を支給し、その上白江備後守を毛利輝元へ派遣して同盟を結ぶための草稿を送った。輝元は今日その草稿を秀吉に渡した。そんなことで秀次に対する讒諛(*ざんゆ、悪口)がますます盛んに流れた。

そこで、秀吉は「秀次に罪がないのならば、伏見に来て疑いを晴らすべきだ」と、堀尾、中村、山内、宮部、前田、両法印、尼孝蔵王を通じて秀次に命じた時、秀吉は再び堀尾帯刀呼んで「もし秀次が自分の話に応じず伏見に来なかった場合はどうしようか?」尋ねた。吉晴は「ご心配なく。自分は死ぬ覚悟で聚楽へ向かうつもりである。もし秀次が秀吉の命に応じなかった時には、自分は秀次と共に死ぬつもりだ」と答えた。秀吉は非常に喜んで、「自分がお前に命を懸けさせたのは3度目だ。自分に対する忠誠が並々でない」と述べた。

5人の使いは聚楽城へ着いた。秀次はその話を聴いて躊躇していると、摂津の芥川で堤の建設していた家来の吉田修理亮(斯波武衛の子孫)が急いで聚楽へ駆けつけ秀次に面会して、「あなたが本気で謀反するのなら、伏見へ行ってはならない。あとから使節を送って謝ればいいことである。もし、その時秀吉が許してくれなかったなら、1万の兵をあなたに提供するので、伏見を急襲して一挙に勝敗を決めた方がよい」と忠告した。しかし、秀次は彼の忠告を聴かずに伏見へ行くと、秀吉は城内へ入れず、木下大膳亮の家に行かせ、関東へ急ぎの使いを送って家康に、秀次の謀反が発覚したと伝えた。

8日 秀吉は秀次を高野山へ行かせた。彼は断髪して伏見を発ってその夜玉水に泊った。密かに彼に従った兵は200~300人に及んだ。秀次は愛妾30人を今夜徳永式部郷法印壽昌の家に移し、徳善院と田中兵部少輔吉政の多数の兵に厳重に守らせた。

9日 秀次は玉水を出発した。20騎と歩兵10人の他は、誰も同行するなと木下大膳亮が命令した。これは石田の密命によるという。この夜、秀次は奈良の井上源吾の家に泊った。

10日 秀次は高野山の青巖寺へ着いた。

11日 秀吉は、秀次の妻子を丹波の亀山城へ行かせた。

12日 秀吉の五奉行は、高野山の木食興山上人から秀次に自殺を勧めるように命じた。
高野山では協議が行われ、その命令を拒否した。

14日 秀吉の使いがようやく江戸に着いた。家康がすぐに京都へ赴くために榊原式部大輔康政に早速道中の警備のために兵を出す様に命じた。この命令は午後2時ごろ館林に伝えられた。康政は夜中に兵を準備して、翌朝に出発することを領内に伝えた。康政はさすがに優れた武将だけあっていつでも出撃できる体制を常に整えていたので、10万石の領地から従軍をたちまち夜中にそろえ、出発の用意を整えたという。

15日 秀吉の検視として福島左衛門太夫正則、福原右馬助直高、池田伊予守秀氏が高野山へ着いた。

秀次の家来、山本主殿助(18歳)、不破萬作(18歳で尾張の住人)、山田三十郎(18才、播磨の出身)がそれに先立ち自殺した。秀次は自分で彼らを介錯してから「国次の脇差」で自殺した。享年28歳。

摂津の尼崎の住人の雀部淡路守重政が、備前兼光作の「波游(*なみおよぎ)」という刀で秀次を介錯し、すぐに国次の脇差で自殺した。

東福寺南昌院西堂虎岩玄隆と履奚者(*?)松若が殉死した。

今日榊原康政は館林を発って、夕方に高坂に到着し食事をしてから夜通しで進んだ。

6日(*16の誤植) 秀吉の3人の使いが秀次の首を夕方に伏見に届け、秀吉に「首を見るかどうか」を尋ねた。秀吉は「興山(*上人)は何といっていたか? どうでもいいが」といって見なかった。これ以来、秀吉は興山上人を避けたという。

秀次に同調した木村常陸介は、摂津の五筒ノ庄の大門寺で自殺した。秀次の家来、白江備後守成昌(最初は孫大夫)は京都四条の貞安寺で自殺した。彼の妻は四条の道場で自殺した。

熊谷大膳亮直之は嵯峨(*嵯峨野)の二尊院で自殺した。栗野木工頭は粟田口、吉水ノ邉、鳥居小路の館で自殺した。日比野下野守山口少雲は北野あたりで、丸毛不心は相国寺で自殺した。

この日明け方榊原康政は、相模の平塚に着いた。家康は江戸を出発して神奈川で泊ったので、康政は平塚で待っていた。

17日 家康は神奈川を発って平塚で康政に会った。康政が迅速に対応したことを非常に褒めた。康政は小田原へ向かった。家康は藤沢で一日滞在し後陣の到着を待った。

19日 家康は小田原城へ入った。

20日 三島に着くと、伏見から秀吉の手紙が届き、秀次を殺して都は安全だとの報告がされた。

21日 家康一行は今日から歩を速めて島田に着いた。

22日 吉田に着いた。

23日 石部に着いた。

24日 家康は直接伏見城へ行き秀吉に会った。秀吉は早々に京都へ来たことを喜こび、秀次の罪状を家康に話した。

晦日  秀次の子供(男子一人、女子一人)と一の臺(菊亭右府晴季の娘、享年24歳)、佐子局(北野松梅院の娘、この人は公達の母である)、辰局(山口少雲の娘の母である)、今局(最上出羽守の娘)などをはじめ、寵妾30人あまりは、大路を経て三条河原で殺害された。彼らの死骸は河原に墓を掘って埋められ、「畜生塚」という石碑が建てられた。これらの処置は石田と増田が取り仕切った。

秀次の家来の一柳左近将監は、家康に預けられ、服部采女正(伊勢の松阪の城主)は上杉景勝へ、渡瀬左衛門佐詮繁は佐竹義宣へ、明石左近太夫則實は小早川左衛門督隆景へ、前野但馬守長康は中村一氏へ預けられたがいずれも後日殺された。

木下大膳亮、荒木志摩守元清入道安忠と延壽院玄朔紹巴法僑は流刑されたが、後に赦された。

聚楽城は破壊され、秀次の館には前田利家に与えられた。その他の武将の館は壊されて、伏見城下へ移された。この時、前田利家は「秀次の謀反は嘘ではないのか? 城を破壊しながらトイレに金を張って極彩色で装っている。こんなことは大きな事業をこれからやろうという者のやることか?」といったという。

浅野長政は蒲生秀行がまだ幼いので会津に連れて帰って、政治を勉強させていたが、秀次が謀反を起こすという知らせを受けて、岩手山の城主だった伊達政宗と共に大急ぎで伏見へ向かった。しかし途中で事件を告げられた。出羽侍従は、先に秀次が奥州へ攻めてきたときに自分の娘を妾として差し出したので、秀吉に睨まれた。その上、石田三成の謀略に乗せられて聚楽の秀次の館に住んだので、秀吉の怒りが甚だしくなった。

政宗も義光の甥なので、石田らの讒言に憤慨していた。

政宗は秀吉のお抱えの施薬院と親しい仲だった。前に彼が大阪の施薬院の館に住んでいたときのこと、秀次が狩を楽しもうと施薬院と京都郊外の山でしばらく宿泊し、その時に陰謀の相談をした。政宗はいつもそこにいたので、秀吉は徳善院、寺西筑後守と岩井丹波守に命じて、その時に謀議があったかどうかを政宗に尋ねさせた。

政宗は、「自分の家来の従者、栗野藤八郎が自分のいうことを聞かないので殺そうと思ったが逃げられた。彼は小国という城へ逃げ込み城主の土部山民部の家来を質にとって越後へ行き、その後京都へ来て秀次に仕えて厚遇され木工頭に任じられた。だから、大した根拠もないまま秀次の厳命ということで自分は悔しかったが彼の罪を許した。すると粟野は非を悔いて「償いをする」といってよく働いた。そこで近頃は、秀次は彼を非常に寵愛ていた。自分は決して秀吉に謀反をい企てるなどもうとう考えたことはない」と述べた。

3人は更に「お前は国へ帰るときに秀次から褒美をもらったらしいがどういうことか、はっきりと申し開け」と糺した。政宗は赤面して、「自分は暇をほしくて秀次に頼みに行った。すると帰りに栗野から鞍を10個、帷子(*かたびら)を20着もらった」と述べた。

秀吉の3人使いは「これで政宗の運が尽きた。これを弁解することはできないので秀吉は非常に怒るだろう」といって帰り、秀吉に報告した。すると案の定秀吉は怒り心頭で、「政宗を左遷せよ。ただ、子の兵五郎は4歳の時から秀頼の近臣となっているので、家督は兵五郎に充てよ。早く家中を呼んでこれからは政宗とは接触せず、兵五郎を主人とするように誓約するように」と厳命した。政宗は蟄居させられ悲しんでいた。

ある時、秀忠の館の前に高札が建てられた。伏見城の築城の奉行だった伏屋小兵衛と杉山主水、竹中貞右衛門がこれを取っておいて秀吉が巡視したときに見せた。この札には「最上と伊達が謀によって秀吉を滅ぼし、西の33か国を義光が領土とし、東の33か国は政宗が領土とすべし」とあった。

秀吉はこれを見て「これは最上と伊達を憎むものの計略に違いない。彼らが秀次に組したといっても、今回の件は誰かのでっち上げによって起きたことに違いない」として、すぐに3人の使いを送って、政宗と最上の罪を許すと伝えさせた。

また、最上と伊達の両家には、黄金20枚ずつを懸賞金として出させて「京都と伏見で高札を建てた者を探し出せ」と命令した。両家は早速お金を出して「犯人を見つけたら懸賞金の他に領地を与える」と高札に書いたが、見つけた者はついに出てこなかったという。

長岡越中守は秀次に借金をしていたことで罪に問われたが、家康はそれを助けた。(『武徳安民記』に書かれている)

浅野幸長も秀次に組したという証拠になる手紙を、石田の家来の芥川藤助が石田に見せた。石田は増田と話し合って秀吉に報告した。幸長の館は伏見城の大手の門の前にあったので2人は兵を出して館の門を固め、幸長だけでなく長政も殺そうと秀吉に要請した。前田利家は最初幸長を婿としていた。娘とは死別したが、その縁を忘れず、利家の館が浅野の宅地の向いだったので密かに裏門を開けて浅野父子を招き入れてその実を糺した。

浅野の父子は「自分たちが石田と増田を恨んでいるので、彼らが讒言をしている」とはっきりと答えた。利家はすぐに城へ行き、秀吉に「罪のない家来をむやみに罰するのはあなたの間違いだ」と諫めた。秀吉はその結果、(*問題の手紙の一件について)事情をよく調べることになった。

そもそも、芥川藤助は元は磯谷六之助といって幸長の秘書だった。訳があって逃げたが、石田は浅野をひどく憎んでいたので彼を呼んで召し抱え、時宜を得て計略を実行しようとした。芥川は幸長の判型(花押?)を知っているので、その偽書を作った。この事実を弟の磯谷某(幸長の従者である)が訴え、その上幸長は毎月の上旬、中旬、下旬に判形の点を密かに変えていたが、藤助はこれを知らなかった。そのため幸長がこの手紙を一目見て書かれた時期と点の位置が合わないと述べ、そのころに別のところへ送った田上を証拠にしようとした。

秀吉はそれを集めて調べると、果たしてその判形の点の位置が違っているので、問題の手紙が芥川の偽書であることが判明した。そこで秀吉は芥川の身柄を幸長に渡した。幸長はほっとした表情になって、芥川を藤の森あたりで磔にした。

そもそも秀吉の弓の教師に、九州津島の住人の浅野又右衛門という人がいた。この人の姪が秀吉の正室の政所である。政所の兄は木下肥後守家貞といった。政所の姉は興といって、浅野長政の妻となった。この人の法諱は長成院である。このように幸長は、政所の甥であるが、石田の謀略を政所が非常に嫌って、人々も皆石田を誹謗していた。にもかかわらず秀吉は、毎日石田を特別待遇で寵愛していたという。

9月小

17日 秀吉は愛妾の淀殿の妹を養女とし(25歳、)秀忠の妻にした。この人は江北の浅井豊前長政の娘で、母は信長の妹である。この姫は最初は丹波少将秀勝の妻だったが、秀勝が今年早世したので再婚して、秀忠の妻となった。

10月小

9日 御家人の奥平監物貞勝入道道文が死去した。享年84歳。彼は美作守信昌の祖父である。

〇この秋、家康の庶子、仙千代が誕生した。母は清水加賀守宗清の娘である。彼は老臣の平岩主計頭親吉の家で育てられたが、早世した。また後に五郎太を親吉の子とした。

12月大 

17日 秀吉は朝鮮へ出兵した成果が芳しくないので、神功皇后の先例について松浦法印鎮信に尋ねた。

彼は「彼女は豊前の彦山で、健雷神(*たけみかつちのかみ)の豊治射法(*戦勝祈願の弓の儀式)を自分で17日間修行すると、いろいろな不思議なことが起きて、すぐに朝鮮を支配して帰国した。その時使った矢が宇都宮家に伝わっている」と話した。

秀吉は先に亡くなった豊前城の井屋形朝房の家来だった兵藤伊勢と芳賀四郎右衛門を呼んで、その件を尋ねると、その矢は先代がある理由から久我家に預けていたと答えた。しかし、朝房父子は後に秀吉が滅ぼした相手だったので、秀吉は後悔してその矢を久我家から借りてくるように手配した。

〇この年、後藤長八郎忠直が12歳で秀忠に仕えた。この人の父は薩摩の島津相模守忠幸の庶子で、長徳軒と号した僧侶である。彼は遠路下野の足利学校で学ぼうと志して、関東へ向かったが、遠州の今切の渡しで暴風に会い、船が壊れて金銀を失い、小舟を棄てて、ようやく駿河について今川氏親に助けてもらった。彼はそこで還俗して、その後は兵学や医術を仕事として、北条氏康に登用されたが、永禄年代に戦死した。彼の長男の慶辨法師は、浅草寺の梅園院に住んでいた(慶長14年78歳で死去した)、次男の島津右衛門永久は遠山氏の親戚で、江戸に住んでいた。長瀬の合戦で、氏康の目の前で敵の長尾勢と戦って戦死した。三男の左衛門、四男の隼人も、北条家の優れた武将だった。後に安房の里見に仕えた。五男の源左衛門忠正は、5歳の時に小田原から駿河へ行き、後藤少林の養子となって後藤を氏とし、その子の長八郎は御家人となった。(後に本姓の島津に戻り八郎右衛門となった)

〇奥平大膳太夫家昌(家康の外孫)が従四位下に叙された。

〇伊達政宗の嫡子、兵五郎が従五位下遠江守に任じられ、秀吉の諱の一字をもらって秀宗となった。秀宗はその後もっぱら秀頼に仕えていたが、関ヶ原の戦の後、政宗の次男の虎菊丸が家督を継いだ。越前守忠宗がこの人である。秀宗は慶長19年の冬に、家康が伊予の宇和島10万石を与え別家となった。

〇秀忠の近臣の小幡勘兵衛景憲は、故あって隠遁した。

〇近江の佐々木家の浪人、国領孫一郎一吉(孫三郎正吉の子)が御家人になった。

〇山口半左衛門重勝(初めは清勝)が享年49歳で死去した。この人は尾張の愛知郡の出身である。

〇鈴木市郎兵衛政重が享年73歳で死去した。この人は三河の足助の出身である。

武徳編年集成 巻43 終(2017.5.3.)