巻46 慶長5年正月~7月 関ヶ原の戦

投稿日 : 2016.06.29


慶長5年(1600)

この年の出来事は、『武徳安民記』に詳しく記した。ここでは関ヶ原の戦いの概略と、書き洩らした事項及び、この合戦に関係のない些細な出来事を記す。

正月小第46.jpg

朔日 家康は、大阪城の二の丸で越年して、本城の秀頼に参賀で訪れ、諸臣にも行かせた。

2日 夕方に恒例の謡曲の事始を催した。

阿部彌一郎信勝が享年49歳で死去した。この人の父、大蔵定吉は、徳川の長臣ではあったが、嫡子の彌七郎が清康(*家康の祖父)を暗殺したので、諸臣の疑心を避けて、駿河の阿部に蟄居した。

後に定吉も信勝も復帰し、禄をもらった。信勝に息子、信盛がいたので、家康は彼の家来を選んで、幼い信盛を養育して成長を待つように命じ、信盛に遺領を与えることを保証した。(この秋の会津の戦いでは、信盛は本多正信の部下となり、後に摂津守となった)

21日 北条勘十郎が享年21歳で死去した。この人は相模守氏政の庶子で、11歳の時に北条氏が滅んだので豊臣秀次に仕え、5年後から家康に仕えた。

〇今月 家康は前田利家の質として、老母の芳春院と老臣など4人の妻子を、東武蔵へ送るように命じていたが、北陸からの長旅の上、寒さが厳しいので、暖かくなるまで待つように命じた。

細川玄旨は、息子の忠興と孫の忠隆とともに大阪に勤務し、忠興の庶子の光丸忠利(後の越中守)は武蔵へ質として送られた。

2月大

7日 大阪で家康の庶子で、前に平岩主計頭親吉の嗣子としていた、仙千代が6歳で早世した。法号は高岳院。

〇この日、秀忠の家来、松平十三郎玄成の馬の尾で、鼠が子を産んだ(*山陽外史擬製『日本楽府』の「鼠巣馬尾」との関係不明)。

8日 北条美濃守氏規が享年56歳で死去した。(一睡院)この人は氏康の大勢の息子の内でも特に優秀な武将で、その子の氏盛が家禄を継いだ。

〇石田三成は諸州の大小名を誘い、秀頼と淀殿の許しを得て、家康を滅ぼそうと企てた。

三成は、以前からの彼の家来で、茶道に名の知れた渡邊宗庵を諸国へ派遣して、根回しをさせていたが、噂が立つのを嫌った三成は、昨年わざと宗庵に法を破らせ、死刑にしようとした。三成の老臣がなんとかその罪をぬぐって、逃がした。

宗庵ははるばる奥州へ赴き、三成が密かに用意していた諸大名の印章の捺された書面を、景勝に見せた。景勝は偽の印章とは知らないので、三成に賛同する者の数が多いのに驚き、三成の計画に加わる契約に捺印して、宗庵にその意向を伝えた。しかし、その時ちょうど三成の使者が来て、「宗庵は罪人なので近寄るな」とあからさまに咎めたので、景勝は事情を悟って、わざと彼を追い出した。

宗庵は、次に常陸へ行って佐竹に会い、また加賀の小松の丹羽長重や越前の北の庄の青木紀伊守一規を訪れて、「今度東国で景勝が謀反を起こすと、家康が東へ向かうので、その時は佐竹と景勝が示しあって、北陸では丹羽と青木が立ち上がり、畿内では石田、増田、長束が蜂起して、天下をひっくり返そう」という三成の計画を伝えて、佐和山へ帰った。しかし、石田は(*偽装でありながら本気のように)宗庵の罪を尚激しく咎めたので、宗庵は「せっかく努力して来たのだから、早く許して元に戻してくれ」と願い出た。三成はその様子を憐れむという形をとって、宗庵を家来に復帰させ、実は諸侯が、自分の味方に付いていることを彼から聴いて喜んだ。

景勝は、家康の咎めを受けた逆賊となるように謀った。そのため上野の塩原と下野の鹿沼で一揆を起こしたという。

(*因みに、)景勝の居城黒川は、元来蘆名氏が代々守っていた城だったが、天正18年以来蒲生氏郷が住んでいた。文禄元年から若松城と名前が変わったが、湿地なので香刺見(*?)に城を移すために、奥州と佐渡の人夫12万人を動員し、小国但馬、甘糟備後清長、山田善右衛門、清水権右衛門を現場監督として新しい砦を築いた。(6月10日に完成したという)その後、ここは上杉が支配した。

4月小

朔日 「上杉景勝が謀反を起こした」という連絡を受けた家康は、相国寺の塔頭豊光寺承兌という長老に命じて、景勝の元老の直江山城守兼續へ手紙を送った。(豊光寺は秀吉の創建した寺で、豊臣の一字をもらって寺の名前にした。承兌和尚は特別待遇を受けた僧である)

7日 阿部伊予守正勝が享年66歳で死去した。幼い頃より家康の傍で仕えた人で、遺跡5千石は嫡子の善九郎正次(後の備中守)に与え、書院頭を命じられた。安藤五左衛門重信が従5位下、対馬守になった。奥平清匡が従5位下、下総守となった。後の松平下総守忠明はこの人である。

5月大

3日 直江の返事が大阪に着いた。そこには家康を軽蔑するような文言が書かれていたので、景勝の反逆が本当であると家康は知った。

20日 利長の母と長臣の人質が、加賀を発って江戸に赴いた。利長の家来の村井豊後守長瀬と山崎安房守が道中を警護した。

6月小

6日 家康の養女が黒田甲斐守長政へ輿入れした。この人は家康の外姪で、保科弾正忠正の娘である。

〇この日、前田利長の人質が、江戸に到着した。

11日 家康は上杉景勝を征伐するために、会津へ出兵する作戦を協議した。それによれば、白川(*河)口からは家康と秀忠、仙道口からは佐竹義宣、信夫口からは伊達政宗、米澤口からは最上義光、津川口からは前田利長、先鋒は堀久太郎秀治とするというものだったという。

家康は渡邊半蔵守綱に南蛮張の甲冑と軽率50人を与え、更に50人を加えた。白川口から攻める秀忠の先鋒の鉄砲隊長を、服部半蔵正成とし、各100人を率いるように命じた。

16日 家康は大阪城の西の丸を発ち、伏見の城まで進んだ。

17日 家康は伏見に滞在した。そして伏見の城は鳥居元忠、松平家忠、内藤家長、松平近正に守らせた。

18日 早朝、大津城へ到着した。京極参議高次が昼食を献じたので、家康は吉光の刀を与えた。また、家来の佐々木加賀、龍崎図書、山田大炊助、山田越中守好政、赤尾伊豆守、安養寺三郎左衛門入道聞齋、友岡新兵衛、黒田伊予守に面会して美服を与えた。

浅美藤右衛門が出迎えた。家康は「お前は志津ヶ嶽で活躍した浅美か」と尋ねた。高次は浅美について詳しく説明した。家康は「高次はいい家来を選んで集めている。頼もしい」と述べた。高次の家来たちは感激した。(*因みに)高次の妻は浅井備前守長政の娘(*初)で、秀忠の妻(*江)の姉である。高次の妹は秀吉の妾(*竜子)で伏見の松丸殿といわれた人である。

さて、家康の知り合いの宇治の茶の師匠、上林竹庵が家康に面会した。彼は「家康が東を攻めている間に何かが起きたらどうするのか」と尋ねた。家康は「鳥居元忠に対応させる」と答えた。

家康は大津から6里離れた石部に到着し、その辺りの5千石の領地で租税使の吉川半兵衛宗春の家に泊った。長束正家が訪れ家康を訪れ自分の城、水口で明日の朝朝食を用意したいと申し出た。家康は了解して国光の脇差を正家に与えた。

その時、近江の領地の租税使の篠山理兵衛がやってきて、「水口では饗応の用意が盛んで、家の修理も夥しいものがある。色々な噂も流れているので危険である」と話した。家康は彼の密意を了解した。そして、いつもは侍女を5人から10人連れているが、今回は取り止めて奥に移らせ、侍女1人(於夏という秋元長八郎の妹(*おば?)である)と少人数の近臣および吉川半兵衛と土屋宗左衛門だけを連れ、篠山理兵衛を道案内として、深夜に石部を出て間道を経て関地蔵の方へ赴いた。

19日 渡邊半蔵守綱は水口へ向い「急用があるので、そちらへは行けなくなった」という家康の連絡を伝えた。正家は驚いたふりをして家康に会いに行こうとしたが、守綱は「家康は昨夜石部を発った。自分は石部に泊って、朝に出て来たので今頃は家康はずっと遠方だろう」と述べた。

家康は昼頃関地蔵へ着いた。(石部から10里ほどある。正家が追ってきて家康に会ったという話もある)

20日 四日市場に着き、夜に三河の佐久島へ渡った。岡崎の城主田中兵部少輔吉政が宿を設けて饗応した。家康は行平の刀を与えた。

21日 吉田城に着いた。城主の池田輝政が世話に奔走した。

22日 白須賀の宿で泊った。

23日 濱松城では取堀尾帯刀吉晴が用意した昼食を取り、中泉で泊った。

24日 島田の宿で泊った。

25日 駿河の城では、城主の中村式部少輔一氏が昼食を用意することになっていたが、病気で会津へは同行できないと連絡があった。家康は彼を疑って、「全軍は鞠子より先へ進んではいけない」という命令を出し、多くの家来たちには「秀忠を守るように」と指示して駿河へ入った。

持舩村越茂助直吉を駿河へ呼んで、一氏の容体を尋ねさせた。直吉は帰ってきて、「一氏が大病を患っているのは間違いないが、彼がしきりに家康に来てほしいと望んでいる」と報告した。そこで、家康は二の丸の横田内膳村詮という長臣の家に入った。一氏は輿に乗って家康に会った。家康は彼の病気の重さに驚いて、彼の手を取って、これほどの病気だとは気が付かなかったと涙を流し、息子の一學に言葉をかけて、長光の刀を与えた。その夜は清見寺で泊った。

26日 一氏の弟の彦左衛門一榮が、沼津の城へ携帯食料を持ってきた。家康はすぐに信国の刀を与えた。

この日、江戸から本多正信と大久保忠隣などが迎いに来た。今夜は三島の宿で泊ったという。

27日 箱根峠を越えて小田原城へ入った。城主の大久保相模守忠隣が世話に奔走した。

28日 藤沢に泊った。

〇ある話では、関西から兵糧を積んだ船が、下田と三崎に来ているという。多くの俵が積まれているので、これが味方の船か裏切り者の船かを調べるために、明日から家康は、江の島や鶴岡八幡へ観光を名目に視察に赴いた。

29日 江の島と鶴岡八幡へ参詣して宿泊した。

晦日 鎌倉5山の禅寺を見まわった。

7月大

朔日 金澤の絶景を遊覧した。龍源寺に泊った。

2日 神奈川の駅に到着し、ここへ江戸から秀忠が迎えに来て、一緒に江戸へ帰った。昼過ぎに家康は江戸城へ帰った。

一昨年以来、伏見や大坂では、豊臣の家臣による陰謀によって、危急存亡の時があったが、彼らの企みが家康によって破綻させられ、多くの諸侯が家康の下に集まった。今度の上杉を攻めるについても、行く先々で結局家康が支配するに違いない、と江戸では楽観していたという。

7日 家康は江戸城の二の丸で、江戸詰めの大名小名をもてなした。

10日 石三成は居城の佐和山で、増田、長束、徳善院らと謀議し、秀頼の命令だとして、家康の非を理由として出兵して滅ぼそうと諸国に連絡した。

秀忠は、佐野天徳寺了伯の近臣の、佐藤図書助吉久の子、傳左衛門延吉を御家人にした。

12日 家康の出撃を追って、江戸へ向かうために急いで大阪に入港した軍隊を、大阪の奉行が全て留めた。五奉行が出した回し文に応じた多数の諸将は、今日から伏見を攻撃する協議を始めた。

13日 豊臣の大小名の内、江戸へ着いたものは、順次上野の宇都宮へ進軍して、15日まで続いた。

14日 家康が大阪城の二の丸を任した佐野肥後政信は、3人の妾を伏見城に預けていたが、彼は彼女たちを大和路へ避難させ、伏見城に残った者は皆覚悟を決めた。西の丸には毛利輝元が入って占領し、反乱軍の総督となった。

15日 奥州の白河で、秀忠の魁として榊原康政、下野の国士、那須、福原、大関、太田原、千本、岡本、伊王野、蘆野など450騎が、そろって太田原に陣を布いた。

〇ある話によれば、佐竹義宣は、岩瀬清次郎を家康に派遣し「自分は兵を会津へ向かわせるべきだが、景勝の謀反の根拠が不確かで、彼の他にも天下を取りたいものがいるはずである。彼らは秀頼の敵ということになる。義宣も国家のために一肌脱ぎたいので、いたずらに会津へ出陣することはできない」と伝えた。しかし、「義宣は、内々に石田や上杉と同盟して、家康が白川へ出て来た時に乗じて、江戸を攻めるつもりらしい」という世間の噂があるので、下館の城主水谷伊勢守の援兵として、甥の皆川山城守を入れていた。しかし、義宣から、景勝を援護するために奥州の赤舘へ兵を送ったという知らせが届いたので、水谷と皆川は、榊原康政の先発隊に加わって上野の鍋掛(*黒磯あたり)に駐屯した。康政は隊長として何10回も戦いながら、1度も負けたことのない武将で、天正に家康が2度奥州へ出兵した時の先例に従って、白河口の先鋒に抜擢された。そのため、結城や蒲生は、白川や会津に近い領地を持っているにもかかわらず、家康は1陣に榊原、2陣に結城と蒲生を当てた。

〇この日、大阪の奉行は、伏見の城を明け渡すように使いを送った。家康の城兵は拒否した。

17日 奉行らは、細川忠興の大阪の館にいる妻子に対して、城へ出頭するように命令した。妻は義を守って2人の息子とともに自害した。

〇ある話では、細川幽斎の妹で、若狭の武田大膳太夫元信の後室の宮川は、70歳ほどで忠興の館に住んでいた。忠興の妻は宮川に向って、「あなたは奴隷に扮して、どこでもいいから逃げなさい」といったが、宮川はどうしたらいいかわからなかった。また、嫡子の與一郎忠隆の妻子は前田利長の妹で、隣の浮田秀家の妻と姉妹だったので、彼らには「塀にはしごをかけて、浮田の家に逃げるように」といいくるめた。

結局宮川も忠隆の妻も事情を理解し、云われたように隣家へ逃げた。そうして局(於志毛)には「自分の最後を忠興に伝えよ」と、蓑を頭にかぶせて下女を装わせ、家が火に包まれた時に逃げ出すように、いい聞かせたという。

〇別の話では、黒田甲斐守長政の大阪の館には、家来の栗山四郎右衛門利安、母里太兵衛知信、宮崎助七、斎藤甚右衛門が留守番役で、如水(*黒田官兵衛)と長政(*如水の息子)の妻が住んでいた。

三奉行がクーデターを起こしたとき、以前から付き合いのあった天満の材木屋小左衛門(納屋)という情が厚く勇気のある人が、自分の家へ、如水の妻の照福院と長政の妻の2人に、侍女2人、太兵衛助七を付けて密かに連れ出し、町が戦場になることに備えて、寝室の床に穴をあけて、縁の下の土を掘り、畳を敷いて2人を隠す用意をした。

奉行たちの命令で、秀頼の兵隊6~700人が黒田の家を取り囲み、「2人の妻はいるか、留守は誰がしているかと尋ねた。更に使いをよこして、「皆がいるだろうが、本人かどうかがわからないので中を調べる」と述べた。

栗山四郎右衛門は、「大名の妻を、男が取り調べるのは納得できない」と答えた。奉行たちはこのいい分を認めて、長政の留守番役の手が出せない女に調べさせると連絡してきた。そして子供の頃に如水の妻を見たという老女と、長政の妻を12歳の時に見たという女を連れて来た。栗山は2人の夫人に似た侍女を2人奥座敷に座らせ、他の侍女と話をする様子を、調べに来た女たちに3間ほど離れて見させた。おかげで調べに来た女たちは「2人に疑はなかった」と、帰って奉行に報告したので奉行たちは疑いを解いた。

そこで材木屋は、如水と長政の妻たちを豊前の中津へ逃げさそうとしたが、三奉行たちは木津と転法の川の三股に、46隻の早船を係留し、100余人の兵を置いて、船の往来を監視していたのでうまく逃げだせなかった。しかし、細川の妻が自殺して、館が燃えるのを見て番兵が驚いて小舟に移り、土佐堀から陸へ揚がった。その隙に母里太兵衛の家来の岩田又右衛門が、番袋(*衣類などを入れる袋)を担ぎ、宮崎助七は化粧箱を持ち、2人の夫人は歩いて福島の堤を16町ほど下り、夫人たちを襲う者が来るのに備えて、母里は14人の兵を連れて5~6町離れて随行した。

福島の少し手前の小川では、船頭の梶原太郎左衛門が足の速い小舟を用意して待ち受け、彼女たちを載せて河口へ向かった。番所の頭の菅右衛門八は、母里と親しかった。彼は家来に一行を調べさせようとした。母里は「お前たちの主人は小禄だけれど、卓越した勇気ある人だ、だからもし人質を逃がそうとしていると疑うのなら、家来にさせるだろうか?、本人が出て来て調べるべきだろう」と述べた。

右衛門八は「さては黒田の夫人たちを逃がすので、わざと自分に調べさせたいのだ」と察し、すぐに船に乗り移り、もっともらしく調べて無事に通過させた。ちょうど順風で5~6日ほどで、29日に中津に着いた。大阪の屋敷には、究竟(*屈強、または覚悟を決めた)四宮市兵衛を残して、栗山も陸路で播磨へ行き、飾磨から船で中津へ渡った。

19日 秀忠は、奥州へ出陣するため江戸城を発った。前後の兵は6万9千300余りだったという。その夜は鳩ケ谷に駐屯した。

この夜、三河の池鯉鮒の宿で、兇徒の刺客の加々井彌八郎が、水野和泉守忠重を暗殺した。

20日 叛徒の大軍が、伏見城と丹羽の田辺城を攻撃した。

21日 家康は奥州へ向うため江戸城を発ち、鳩ケ谷に泊った。

22日 家康は岩槻城へ着いた。秀忠は上野の宇都宮に着いた。

23日 家康は古河城へ着いた。

24日 家康が小山の城へ着いた。これから宇都宮までの行程は9里あまりで、敵の城の白河へは15里ほどである。しかし、関西でクーデターが起きたという急ぎの知らせが届いたので、家康は宇都宮の百澤、氏家、喜連、川邉辺りへ進んでいた味方の諸将を呼び返し、特に福島正則には次のように手紙で伝えた。

『早速出陣していただきご苦労である。上方で騒動が起きたので、進軍は中止しこちらへ戻ってほしい。仔細は黒田甲斐と徳法印が説明するので、ここには書かないがよろしく』慶長5年7月24日 家康ー清州侍従・福島正則.jpg

〇ある話では、今日家康は、譜代の諸将を集めて意見を聴いた。本多正信は「関西へ出兵してはならない」と述べた。これは箱根の要害を憑(*たのむ:あてにする)からである。

井伊直政は身を挺して、「今天下は無政府状態のような状況で乱れている。この時にこそ天下を取らなくては、今まで何をしてきたというのだろう。ここでぼやぼやと東国に留まるというのなら、直政は今後一切あなたには会わない」と怒鳴って、宿に帰ってしまった。家康も直政の気合いに押されて、結城秀康朝臣に直政を呼び戻させた。直政はすぐに戻ってきて、「畿内を攻めるのであれば、関西の大小名の意見を聴くべきだ」と進言した。

〇『村上家伝』によれば、信州の村上中務大輔植清(法名覚意)とその子の左京太夫は(*足利)持氏に仕えていたが、彼が自害した(*永享の乱で将軍義教の命で、上杉憲實に攻められ1439年に自害した)後、国を逃れ持清(*持氏?)の子、信濃守成清は、古河の御所成氏朝臣に仕えた。その後、小弓御所義明について、上総の久留利城を守っていた。しかし、北条氏康に攻められて自殺した。

その時、城には遠州信勝寺の僧が客としていたが、成清の2人の息子を匿って城外へ逃げた。2人は成人して、嫡子の左衛門信清は浅野長政や井伊直政に世話になっていた。彼はかねがね家康に仕えたいと望んできた。彼はこの頃、家康の命で里見安房守への密使として働いた。(弟が里見に家にいたからである)家康は信清が帰って来てから行光の刀を与えて、彼の働きを認めて御家人とした。

〇ある話では、水谷蟠龍齋の使者の関豊前が、小山へ来て家康に盃を受けた。

25日 家康が宇都宮まで進んだとき、関西の大小名などは、命令によって小山の宿に集まった。家康は彼らの意見を聴くと、全てが家康に付くことを約束した。そこで早速作戦会議をして、家康は関西へ行くことを決定した。結城秀康は宇都宮に留まって、景勝の抑えとした。もし景勝が攻めてきて古河栗橋から船で江戸に向うことがあれば、後ろから攻めるように命じられた。そして、宇都宮の城主、蒲生藤三郎秀行などを加えた。

秀行朝臣は勇敢な武将で、自分も西へ行きたいと申し出たが、家康はあえて彼の望みを入れず大敵、景勝の進軍を止めさせた。

結城秀康は、早速居城の結城城を養父の中務大輔晴朝に守らせて、300騎で宇都宮の城に立て籠もり、景勝が攻めてくれば死に物狂いで戦うことを申し合わせた。

26日 深夜、金吾中納言秀秋の長臣の平岡石見守重定が、上野の小山に来て、秀秋は大阪にいて石田方に付いていたが、心変わりして、家康方に着くと連絡したという。

27日 眞田安房守昌幸と次男の左衛門行幸村は、会津の戦いに参加して、先日信州の上田の居城を出発したが、上州犬伏の宿から引き返し、石田方になった。嫡子の伊豆守信幸は、家康に付いていたので家康から領地の保証をもらった。

福島正則は畿内へ攻め込む先鋒なので、東国の無双の駿馬、鳥驪をもらい、これに乗って活躍するように命じられた。徳永法印にも、黄駱という大きな馬を与えた。この人の領地は正則の領地の隣にあったので、彼は正則の家来として、美濃の道案内をするように命じられた。

28日 結城少将秀康の部下の多賀谷左近頼資が密かに陣へ来て、父の修理太夫重経は領地の下妻にいて佐竹義宣に通じ、彼の援護を得て、小山の陣へ夜討ちをすることを企てていると伝えた。秀康はすぐにこのことを小山の家康へ伝えた。これは修理太夫が計画したことであるが、義宣が受け入れず、重経の使節が帰りに宇都宮に来て子供の左近にいったので、彼はすぐに秀康へ知らせたという。

〇ある話では、信州の木曽は、天正18年から秀吉の領地となって、尾張の犬山の城主、石川備前守貞清が支配し、彼の家来の原孫三郎と弟の藤左衛門などが、木曽川の要塞を守っていた。

慶長元年すでに隠居していた木曽義昌が死亡し、嫡子の千次郎が家督を継いで、下総の蘆戸の村を領地としていたが、罪を犯して所領を没収された。彼の家来の山村七郎右衛門良候入道道祐は、木曽に蟄居して、嫡子の十三郎良勝は甚兵衛と改名し、下総の佐倉に住んでいた。馬場半左衛門昌次と千村半右衛門吉重も、あちらこちらで流浪していた。彼らは家康に会いたがっていることを、石川備後守が漏れ聞いて、山村入道道祐を欺いて犬山に呼んで捕えた。

家康は、木曽は非常に険しい難所であるが、秀忠の進軍のルートなので「誰にこの地を撃ち破らせればいいか」と尋ねると、本多正信と大久保十兵衛長安らは、「大軍でこの地を攻めても、険しい地形を使って土地の者が拒む上、彼らは狩を生業としているので、鉄砲術に優れている、容易に撃破することはできないだろう。しかし、幸い前の木曽の浪人、山村や千村が馬場坂の東に住んでいるので、彼らをプロモートして、地下人を集めて木曽を服従させてはどうか」と進言した。家康はすぐに3人を呼び寄せ、密かに会った。

3人の内馬場昌次は老いて病気だったので、千村と山村に信州の塩尻の宿に行かせると、信州の松本の石川元玄蕃頭に仕えていた山村良勝の弟の八郎左衛門が駆けつけて、合流した。また、同清兵衛は甲府の浅野の許からきて、その他甲州や信州に散在していた木曽家の浪人たちが集まって、山村と千村の勢力が大きくなったので、急いで木曽を発った。

当時、石川備前守に仕えて木曽福島に住んでいた千村次郎左衛門、原図書、三尾将監などや地下人も呼応して、山村と千村は贄川(*にえがわ)の砦を抜いて、木曽を支配し、自由に木曽路を通行できるようになったという。

晦日 小山にて連署した大小名は江戸まで進軍した。

伏見の城を攻めるために石田三成が参戦した時、かねがね彼らに通じていた城内の永原の仲間が、松の丸へ火を放った。隊長の深尾清十郎元春が火を消そうとしている間に、石田勢は城内へ攻め込んだので、元春は本丸へ逃げ込み、城内の城兵は必死に抗戦した。

武徳編年集成 巻46 終(2017.5.5.)