巻48 慶長5年10月~慶長6年12月

投稿日 : 2016.07.04


慶長5年(1600)

10月大第48.jpg

朔日 クーデターの頭目、石田、小西、安国寺は、洛中を引き回されてから、六条河原で処刑され、首をさらされた。長束兄弟と福原の首もさらされた。

3日 毛利輝元の領土の安芸、備後、出雲、隠岐、石見と備中は取り上げられ、周防と長門だけを与えられた。

9日 鍋島信濃守の罪は許され、領地は以前のまま認められた。

17日 前田利家の大阪の館に、榊原康政が家康の使いとして訪れ、彼には加賀の能美と江沼の2郡および能登一円が与えられた。能登は、彼の弟の孫四郎利政が石田方に付いたために、没収された地である。

この時期に秀吉方だった大小名たちの行動が吟味され、闕国闕地(*今回の罪人から没収された国や領地)を配分する相談がなされた。

18日 丹波と福知山の城主、小野木縫殿助重勝が投降して、処刑された。

〇この日、奥州で南部信濃守が、花巻城から岩崎に出撃して、敵城を攻撃して20日あまりになったが、次第に雪が激しくなり、兵や馬が難渋したので、森岡(*盛岡)へ駐屯した。

19日 秀忠が京都から大阪へ着いて、二の丸に住んだ。

27日 家康が病気になり、諸臣は城を訪れて具合を伺った。

28日 家康の息子の五郎丸が誕生した。母は志水氏の娘という。後の尾陽侯大納言直郷がこの人である。

29日 家康が快復したので、諸臣は参賀した。

〇この日、加藤清正と黒田如水の働きによって、九州全体が平定された。

〇足利将軍義昭の家来だった和田伊賀守惟政の子、傳右衛門惟長は、石田方の小野木縫殿重勝の家来として丹波にいた。家康は山岡道阿彌に彼を呼び出させ、御家人とした。これは天正10年に、家康が伊賀越えで困ったときに、近江から出て来て協力したためである。彼には近江の甲賀、郡和田村の590石を与えた。

〇日下部兵右衛門定好は、畿内と近江浅井郡の公領7万石の租税を取り、常に伏見城に住んでいた。後に彼は従5位下大隅守となり、元和元年以降は大阪に移り住んだ。

〇家康は井伊直政を呼んで、今回の天下分け目の戦いにおいて特に先鋒として勝利を得たので、この国の元勲として石田の居城だった近江の佐和山を与え、従4位下に叙した。(侍従相当である)

佐和山は京都を守る位置にはあるが、要害としては不十分なので、家康は彦根の金亀山へ城を移転するように命じ、翌年の初秋に設計して工事に取り掛かった。この地は琵琶湖に面した優れた要害である。家康としては後に西国や中国の質子をここに移す目論見をもっていた。福島、加藤、浅野などはこれを察して、駿河や江戸を訪れる途中の休憩所として彦根城下に屋敷を作りたいと思って苦労していたが、まもなく直政が死去し、この計画は取りやめとなったという。

〇『井伊家傳』には以上のように書かれている。『安民記』では井伊は、来年2月に佐和山城をもらったと書いた。これは『武徳大成』によったものである。

11月大

12日 長曾我部盛親が大阪に来て謝罪したが、家康は許さず、彼は土佐から追い出された。

16日 秀忠は大阪から伏見を訪れた。

家康は春日大社に、社領として近江の添上郡に2万千19石5斗あまりの保証を与え、一乗院門主興福寺社務所に与えた。

18日 秀忠が参内した。

内青山忠成が従5位下常陸介に任じられた。

28日 石田方だった斎村左兵衛廣秀が、因幡の取鳥(*鳥取)で処刑された。彼の家は近衛院が源三位頼政に与えた「獅子王の剣」を所蔵していた。

頼政の後胤の美濃の土岐左京太夫頼藝の子の次郎頼次入道見松と左馬助頼勝が、今度初めて家康の謁見した。その際家康はその剣を頼勝に与えた。頼勝は長くそれを家宝とした。

12月小

12日 第2皇子の政仁親王が天皇になった。母は近衛信尹の娘である。第2皇子は天皇のお気に入りで、最初から皇太子になるはずだったが、菊亭右大臣晴秀が徳善院玄以と相談の上、秀吉に報告して第1皇子の良仁親王(母は中山大納言親総の娘)を皇太子とした。しかしこの案はもともと天皇の意向に合わず、ある日、天皇は近臣に家康へ密かに意見を聴かせた。

家康は「子供のことは父親が一番よく知っているものだ。自分には息子が多いので、後継ぎを誰にするかが自分の最も頭を悩ましたところである。第1皇子か第2皇子かは、天皇自身で決めるべきである。政仁親王の母は貴いので尚更である」と奏上すると、天皇はその意見に賛成して、このような決定をしたという。

15日 大久保新十郎忠常(相模守忠隣の子)が従5位下加賀守に、土屋平三郎忠直(武田の家来、惣藏政恒の子)も従5位下民部少輔になった。

〇越前を三河守秀康朝臣に、尾張を下野守忠吉朝臣に与えた。諸家や浪客は禄は、二の次でこぞって彼らの家来になろうと集まった。

秀吉の家来だった金吾秀秋、最上義光、福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤清正、黒田長政、田中吉政、堀尾吉晴、加藤嘉明、藤堂高虎、中村忠一、山内一豊、京極高次、同高知、寺澤廣高、富田知信、有馬豊氏、池田長吉、仙石忠政、古田重政、森法印、徳永法印、一柳直盛、稲葉通成、亀井茲矩、福島正頼、西尾光教、分部政壽、山崎家盛、市橋長勝など、今度の戦いで家康についた諸将を吟味して、恩賞の加減がされたが、このことは『安民記』に詳しく記したので、ここでは省略する。

神保長三郎相茂は、関が原で首を9個取った、その中には自分で取った首もあり、千石を加えられた。

〇信州の諏訪(*大社)の神領千500石、又、戸隠へ、千石が与えられた。

〇この冬、木曽の士の山村甚兵衛良勝は、5千700石、千村平右衛門良重には4千400石、馬場半左衛門昌次へは1600石、石原図書には800石、千村助左衛門には700石、同次郎右衛門には600石、三尾将監には500石、山村八郎左衛門には800石、原藤六郎には200石がそれぞれ美濃で与えられた。また、山村良勝は木曽山の検断を命じられた。

〇イギリスの船が肥前の長崎に入港した。船には大砲が備えられ、鎧は腰より上までだった。家康は諸将に見せた。

〇織田の庶流の拓殖三四郎正時と蜷川新右衛門親長入道道標、飯田源四郎宅次、岩手佐五右衛門一信(甲州のの士で能登道盛の子)が、禄をもらって家康に仕えた。

〇土方鍋丸(勘兵衛雄久の子)が秀忠と懇意になった。この人は後の掃部頭雄利である。

〇前田黄門の長臣の横山山城守長知の二男、左門長清が、5千俵をもらい後に書院番となった。

〇和泉の浪人、新陰流剣術者の柳生但馬守宗矩も、御家人となった。この人の先祖は和泉の春日の神官である。中葉孫四郎家宗という人は無双の驍十射術(*?)の達人で、細川武蔵守高国に仕えたが、高国が滅びてからは和泉の柳生に住んで、70歳で伊賀の国士と闘って死んだ。その孫か姪の美濃守家厳は、三好長慶に仕え、天正12年に89歳で死去した。

その子の但馬守宗厳は、松永久秀につき戦功があって感謝状をもらったが、病気になって柳生の庄で住んでいた。彼は新陰流剣術の達人だった。

彼の長男の新次郎厳勝は、筒井順慶について、後に五郎左衛門となり、諸国を武者修行して5年後に伯耆の飯山城で戦死した。二男又右衛門宗矩もまた、その剣術で世に鳴らし、この人は6月に小山へ家康の伴をし、その時から御家人になって、従5位下但馬守にまでなった。正保3年に享年75歳で死去した。

〇下野守忠吉朝臣の武蔵の忍城を、高木九助廣正と石野新左衛門廣光が護るように命じられた。

廣光は元菅沼小大膳定利の優秀な家来であった。長篠の戦いで活躍したので、その場で直臣にされ、ただちに小大膳の部下となった。今回小大膳の家来の中から特に優秀な廣光を、筆頭に忍城を護る役が選ばれた。

廣光は慶長18年に忍城で死去し、その子の新蔵廣次が後を継いで城を護ったが、元和7年9月6日に忍城で死去した。

〇界津(*堺)の大商、今井宗薫は、関が原へ家康に伴った。以前から家康が非常に懇意にしていた人だから、摂津の住吉郡で300石を加えられて全部で千100石取りとなった.

〇宇治の上林竹菴が伏見で戦死した。彼の三男又一郎は、高野山の中性院に隠れていたが、家康は彼を呼び出して200石を与え、更に200石増やして、宇治の近郊で1万3千石の税を取らしめた。彼は改名して又兵衛となった。

〇上林越前政重は、丹波に領地を持ち山城の生まれである。三河の岡崎を旅行中に家康に仕え、土呂の郷司となった。彼は味方が原、長久手の戦いで軍功があり、岡崎の町司にされた。天正13年に宇治に戻されて、茶を司るという名目で、聚楽や大阪城の仔細、関西の大小名の行動、彼らの家内の状況を調べて、急ぎの手紙で駿府へ報告するように命じられた。そこで彼は髪を切って竹菴と号した。彼の長男は林藤五郎忠政の家を継いで、藤四郎吉正と名乗り、大坂夏の陣では松平越中守定綱の組で戦死した。二男は林伊賀定正と号して、越前黄門秀康の家来である。黄門が亡くなった後、嫡男の羽林次将忠直の時に同僚と諍いを起こして、改易された。

〇黒田甲斐守長政に筑前を与えられ、すぐに越前守となった。彼は石田が秘蔵していた宗菴肩衠の陶器を探し出して、家康に献じた。

〇関ヶ原の戦い後、藤田能登守信吉は、京都の大徳寺の塔頭に住んで、秋元越中富朝や阿部伊予守正勝を呼び寄せて、上野の西が谷に1万3千石もらい、家康の家来に入れられ、妻にも2千石を与えられた。

〇榊原内記清久は17歳で上野の館林から伏見へ赴いて、紹介なしに家康に謁見し一日中家康の咫尺(*近く)で尽くして厚遇された。

〇この年漢又刺亞(*バッカニーア?)人とオランダ人が1人ずつ和泉の堺に船で来た。漢又刺亞は航海術に優れ、海戦が強く、優秀な武器を製造し、その猛勇で諸国から恐れてられていたイギリスの海賊である。和亂国はオランダのことである。また紅毛ともいう。

〇この年、家康は足利学校の僧、三要長老に命じて、『孔子家禄』、『武経七書』、『貞観政要』を出版させた。

慶長6年(1601)

正月大 

元旦 家康は昨年の暮れから(大阪城の西の丸にて)病気のために臥せっていた。諸侯が見舞に訪れた。

秀忠は二の丸から本丸の秀頼に会って、新年の挨拶をした。大阪在住の諸侯も本城へ参賀に訪れた。

15日 家康の具合がよくなったので、本城へ赴き秀頼に面会した。諸侯諸士は西の丸へ集まって、新年を祝った。家康は烏帽子直垂姿で応対した。

26日 渡邊六左衛門有綱が享年58歳で死去し、六郎左衛門達綱が嫡子で優れた武将である。

2月小

3日 秀忠は大阪城下の池田三左衛門輝政の館を訪れた。これは去年18日に家康からもらった飛騨肩衡の陶器で茶会をするためである。

6日 譜代の諸将20名が関東の領地を替えて、石高を増やされたが、三河、遠州、駿河の昔の領地を復活させて喜ばせることはあえてしなかった。

渡邊半蔵は勇敢な武将なので、遠州榛原郡と近江の坂田郡で2千石を持つように命じられた。

〇今月 秀忠の嫡男、長丸が誕生した。母は浅井備前守長政の娘(*江)である。しかし、翌年9月25日に早世した。秋徳院殿羨嶺容心大童子と号して、武蔵の芝増上寺の源興院に葬られた。

3月大

19日 丹羽勘介氏次が享年52歳で死去した。

22日 松平輿十郎忠清が享年35歳で死去した。この人は三木の松平蔵人信孝の孫で、九郎右衛門重忠の子である。忠清は父の重忠いらい大番頭を務めていた。

23日 伏見城の建設が終わった。家康は大阪城の西の丸から移転した。

去年、石田方についていて、長門の赤間関に落ち延びていた小早川侍従秀包(藤四郎)が35歳で死去した。

24日 秀忠は大阪城の二の丸から、伏見の新居へ移った。

27日 秀忠が京都へ行った。権中納言豊臣秀頼が権大納言になった。

28日 秀忠は権中納言から従1位になり、権大納言になった。

結城少将秀康が主参議となり、下野守忠吉主従が4位下侍従になった。後に薩摩守となった人である。

29日 秀忠が参内した。

〇この春は関東で疫病が流行して多くの人が死んだ。

4月小

4日 奥州で、南部信濃守利直が、4千70余りの兵を率いて、先月17日から今日まで、和賀忠親の居城岩崎を攻撃した。大崎から伊達政宗の家来白石右衛門宗玄が援軍を送り、鈴木将監重信が岩崎城の西南の夏油川路から城中に入ろうとした。

南部方の大興寺右衛門と乙部長蔵は、80余りの兵でそれを遮り、半時ほど苦戦したが、結局鈴木将監は大徳寺の家来の宮森五郎吉のために殺され、残った兵も少なく城へ逃げ込んだ。白石右衛門宗玄も小平まで来たが、先発隊が敗れ、城へ入れなかった連中も崩れて逃げるところを、南部は勝ちに乗って旗本も進軍し追撃した。これを見て白石は谷地小屋まで撤退した。

10日 秀忠は伏見を発って江戸へ向かった。佐竹義宣は、武蔵の品川の駅で秀忠を待ち受け、領地がほしいと歎願したが許してもらえず、家康に罪滅ぼしをするために京都へ行くことを考えた。

〇ある話では、義宣は今月15日に伏見へ着いて、家康に許しを請うたという。

19日 奥州の岩崎の寄せ手は井櫓を立てて、城内で糧米が切れて非常に弱っているのを見守った。

20日 岩崎の寄せ手は、西風を利用して火矢をうち込んだので、火災が起きた城内では防ぎようもなく、480ほどの兵は大方戦死し、城は陥落した。

一揆を起こした和賀忠親は、1人の修験者と六原を経て大森へ逃げると、南部利直は彼らを追って大崎へ兵を送りこんだ。その時、家康の鷹匠の大屋小右衛門吉正が、松前に鷹を求めて来ていて、しきりに利直を諭して軍を戻させた。

〇今月、山城の山崎辺りの別所村で、樋口石見守知秀が死去した。この人は萬松陰義晴が将軍の時にも、その辺りに住んでいて、信長や秀吉に可愛がられた。彼の子の甚七郎知直はまだ幼く、一族が相談して秀吉からもらった摂津の天川村の700石と樋口肩衝(別名、山の井)を家康に献じ、領地として別所村135石をほしいと、片桐市正且元と大久保十兵衛長安に申し込んだ。家康はそれを聴いて、後日彼らの希望を入れた。

父の知秀は、散楽の太鼓が趣味で、友直も続いてこれを修行し、二条や江戸や伏見を訪れたときには演奏して、家康などが観た。彼の孫の久左衛門秀徳の時代になって、彼も自然にこの芸の道に入った。彼は休暇をもらった時には、領地の別所村に帰って南部へ住むことはなかったという。

5月小

4日 足利右兵衛督源頼純が死去した。

11日 前田猿千代利光(23歳)が家康の前で元服した。松平の称号を与えられ、従4位下、筑前守となった。この人は後の小松中納言利常である。

21日 家康は豊国社へ1万石の寄付をした。高野山にも寺領の印章を与えた。また宗門5箇条の法令を定めた。

(*概要は、金剛峯寺に対して、総額1万1千石を許可する。内訳は、紀州伊多郡、賀多郡に7千500石、碩学衆に対して1千石、青岩寺寺領として1千石などである)慶長6年5月21日 高野山.jpg

〇この日、結城参議秀康は伏見から大津に出て、越前へ入った。道中の近江の中の河内という所で、三男が生まれた。幼名は河内丸、改名して国松丸である。後の出雲少将兼出羽守直政である。

25日 西郷孫九郎忠員が享年20歳で死去した。子供がなかったので、弟の正員が家を継いだ。彼は後に若狭守となった。

6月大

朔日 天正10年に軍功があり御家人となった、信州先方の平林藤介正廣が享年43歳で死去した。

12日 家康は上杉景勝を許したという。

14日 遠州濱松の城主、松平内膳正家が享年25歳で死去した。母は家康の妹の多劫殿という。

〇ある話では、家廣は放逸な人で、長臣の堀勘兵衛を自分で切り殺した。家康が怒ったので、密かに自殺したが病死したことになった。子供がなく、弟の左馬助忠頼が濱松城5万5千石をもらった。

〇同日、今川伊予守氏詮(義元の甥)が享年56歳で死去した。

15日 大番組頭の朝比奈権左衛門泰成が死去した。この人は最初、彌太郎といって、今川氏眞が没落したのちに軍功を認められた武将である。

25日 彦坂小刑部直過が家康の咎めを受けた。(3公領の郡代の一員である)

〇この年、近江の膳所崎に新城を築いた。藤堂高虎が造り、竣工後は戸田左門一西に与えた。

この人は戸田権右衛門氏輝の孫で、吉兵衛氏光の子である。永禄の頃、氏光は今川氏眞方として三河の田原城を護っていたが、家康に攻撃されて城を離れ、家康は城を本多廣孝に与えた。氏光が没落したころ、左門一西はまだ幼かったが家康に仕えていた。

本多正信は家康に「昔から愛知、不破、鈴鹿の三カ所には関所を設けて都の東の守りとして来た。現在は関所はないが、重要な場所には城を築いて適当な武将に守らせるべきだ」と進言した。家康のそれを認めた。一方大津は地の利が悪いので、城は破棄して、替わりに膳所崎に城を築いた。

7月大

15日 家康が病に罹った。

24日 上杉景勝が京都へ来た。罪を謝罪するためである。

27日 家康の病状がよくなったが、2日ほど経ってまた再発した。

8月小

3日 家康の病気が治った。

24日 景勝の領地121万8千石の内、奥州の数郡と出羽の長井の2郡、庄内の2郡、更に佐渡全域を没収され、奥州の米澤と福島の30万石を保証された。

25日(29日という説もある)蒲生藤三郎秀行には、奥州の景勝から没収した土地60万石と近江の日野の領地3万石を与えた。

〇下旬、奥州で起きた和賀一揆の棟梁、和賀主馬忠親を、伊達政宗が大森から国府へ招き、忠親の家来の蒲田宗規、筒井喜介、斎藤重蔵など6人を殺した。これは政宗が和賀を勧めて一揆を起こさせたことを、南部方が訴えたので、これに対する申し開きのためだったという。

9月大、

8日 松平外記伊昌が享年42歳で死去した。この人の先祖は徳川和泉守信光の7男の彌九郎則定で、三河の五井に住んでいた。彼の子の彌九郎則忠の孫、彌九郎忠次は、廣忠の家来として三河の碧海郡の渡里城で戦死した。忠次の子の彌九郎景忠は、家康に仕え軍功が著しかった。忠次の子がこの外記伊昌である。

晦日 秀忠は江戸城へ戻った。3歳の娘は今日加賀の小松城に輿入れた。彼女は成長後には、前田黄門利常の妻として3男5女の母となった。

長男筑前守光高(後の右中将)、次男淡路守利次、三男飛騨守利治、長女は森右近太夫忠廣の妻、二女は松平安芸守光晟の妻、三女は八条智忠親王の妻、その他の娘は早世した。今回入輿の際には、青山善兵衛重成姑が世話役として同行し加賀へ着いた。

〇今月、去年伏見で戦死した近江の甲賀の士、平岡彌次郎右衛門正治の子、正友(後に彌次郎右衛門と名乗った)が、御家人となり200石をもらった。彌次右衛門の弟の島左平次は秀次に仕えていたが、秀次が自殺した後は、家康に仕えていたので、家康は彼らをよく覚えていて、正友も島彌次右衛門と呼んでいたので、平岡を島と改名した。

〇戸田十右衛門重眞が享年77歳で死去した。彼は半平重之の父で優れた武将だった。

10月大

朔日 桑山修理太夫重治入道治部郷法印宗榮が享年83歳で死去した。

12日 家康は江戸へ行くために伏見を発った。

伏見城は、米津清右衛門清勝、稲垣兵右衛門重成、(長茂の子)成瀬吉右衛門正一、日下部兵右衛門定好が護った。正一は以前から預けられていた根來の衆徒同心100名で守護し、山口勘兵衛直友は、それまで大番士として250石をもらっていたが、2千750石を加算され、且与力を36騎(5千石相当)を付けてもらって、伏見城の警護と丹波の郡代を兼任し、さらに奏者も務めたという。

松平周防守康重の長臣で岡田竹右衛門元次は、1万石をもらって伏見城を護るように命じられたが、康重を離れて家康の直臣になるのを遠慮して、固辞したという。元次は後に大和と改名した優秀な侍である。

16日 家康は美濃の加納に着いて、城を巡視した。

18日 山田十太夫重利が家康の家来に復帰した。この人は天正5年に12歳で家康の近くで務めたが、天正9年の16歳の時に濱松城内で坂作主膳と家康の前で口論となり、「明日決闘しようと」といって翌朝、濱松城の大手門外で主膳を斬り殺して遠州井谷に逃げて、井伊直政の世話になった。天正18年に直政の組に属し、小田原の篠曲輪の夜戦で活躍して傷を被った。また、彼は蒲生氏郷に仕え、九戸の乱で槍傷を負って活躍して名をあげ、再び家康の家来として復帰した。

〇伝えられるところでは、重則の父、重太夫重則は、味方が原、高天神で手柄を上げたが、この人も陣中に口論して相手を殺して逃げ出した。しかし、長久手の戦いでは首を取ったので、許され家来に復帰したという。

11月大

5日 家康は江戸城に着いた。

6日 昔、越後の上條の畠山山城守義春入道入庵の嫡子上杉源四郎義直は8歳の時に、天正13年に叔父の上杉景勝の質子として秀吉に出され、以来大阪に住んでいた。今日彼は家康に謁見した。これは入道が直江兼続と仲が悪く、その昔上杉家を出て京都に出て、去年以来家康の家来となったからである。義直はやがて左近将監となり、長門守となって法諱を一庵と号した。

9日 家康は川越に行き、今月下旬まで忍あたりで放鷹をした。

閏11月小

2日 江戸の町の大半が焼失した。

13日 小田讃岐守氏治入道天菴が89歳で死去した。(天正18年秀吉によって、常陸の領地を取り上げられたが、娘が結城秀康に仕えていたので、その城で住んでいた。出雲少将直政は彼の外孫である)

12月大

4日 家康は岩槻で放鷹をした。

〇この年、伊達政宗の領地として、景勝の領地の奥州12郡を加えられた。天正19年に政宗は秀吉によって領地を取り上げられ、その後一揆で戦場になったが、その時もらった葛西大崎の8郡と合わせると20郡となった。それは、桃生、牡鹿、登米、磐井、元吉、気仙、服井、澤賀美、玉造、栗原、志田、遠田、刈田、柴田、亘理、名取、黒川、江刺、伊貝、宮城である。その他、宇多郡の9カ所の村と全部で60万石という。

〇家康は妙壽院惺窩を伏見城へ呼び、何日も『漢書』と東萊の『十七史』を読ませて聴いた。

〇浅野左京太夫幸長と皆川山城守廣煕が従4位下になった。

〇本多彦次郎康紀(豊後守)、松平輿次郎家清(玄蕃頭)、松平甚四郎信一(伊豆守)、松平三郎次郎定勝(隠岐守)、松平善四郎康安(石見守)、水野藤四郎重仲(対馬守の二代目)、山口平左衛門重政(修理亮)が、それぞれ従5位下に叙された。また、重政は5千石を加えられた。

〇前の室町将軍家の家来だった一色式部少輔藤長の嫡子左兵衛範勝、蒲生家の家来駒木根右近利政と溝口伯耆守秀勝の次男、孫左衛門善勝などが、御家人になり禄をもらった。(範勝は後に式部少輔になり、善勝は伊豆守になって諱の定好に改名した)

〇去年、関が原で戦死した藤堂玄蕃允高治の子、将監高久が、家康に謁見した。(慶長8年に父の遺領を継いだ)

〇秀忠の補佐役の青山常陸介忠成は、今年から関東8州の行政を司り、江戸の町司も兼ねることになった。本多正信と内藤修理亮も同じ業務を担当した。

〇内藤外記正長は歩卒の頭となった。この人は土井利勝の後任である。

〇青山善四郎重長は父の善兵衛重成の後を継いで、歩卒の頭となった。

〇大久保荒之助忠重と布施孫兵衛重次は、軽率の頭となった。

〇中島輿五郎重好は、三河の大崎の舟奉行として300石をもらった。

〇木村源七郎元正を秀忠の家来とした。この人は三右衛門吉清の二男で〇年から家康に仕えた。

〇鈴木忠兵衛重次は三河の加茂郷足助の領地500石をもらい、その地に住んで出陣時には出てくるように命じられた。

〇武田家の家来で、甲陽の巨摩郡武川の士14人は、天正18年から武蔵の男衾郡鉢形で生活費をもらっていたが、今回また甲斐にて次の領地をもらい、平岩主計頭親吉の部下になった。

折井市左衛門次昌 200石、柳澤兵部 113石、伊藤三左衛門 118石、曲淵縫殿左衛門 80石、曽根孫作 56石4斗、曽雌民部 86石、折井長次郎 92石、折井九郎三郎 80石、曽雌新蔵 110石、有泉大蔵 50石、山高宮内 75石、馬場右衛門 100石、青木輿兵衛信安 80石、青木清左衛門 20石。

以上合計1251石を樋口郷で大久保十兵衛長安は、成瀬小吉正成に渡し、その村の余った土地106石7斗8升は折井市左衛門に預け、租税を納めるように命じた。

上の人々は役職なしで、その地に住んで軍役に従事するだけである。後年平岩親吉が尾張の犬山城へ移ると、彼らは甲州の府中の城を津金衆と共に守ったという。

武徳編年集成 巻48 終(2017.5.6.)