巻49 慶長7年正月~12月
投稿日 : 2016.07.10
慶長7年(1602)
正月大
元日 秀忠は、江戸城本丸から二の丸を訪れ、家康に新年の挨拶をした。諸臣は両者に謁見した。
2日 謡い始めを催した。
土方勘兵衛雄久が従5位下河内守となった。
6日 家康が従1位になった。秀忠は従2位となり、家康から関東の20万石が与えられ、近習や外様、小禄の士に分配した。
16日 小野源右衛門高盛が初めて家康に謁見した。この人は江戸豊後守高継の孫で、左馬助高盛の子である。(江戸城と同じ名前なので、小野と改名した)
19日 家康は、江戸を発って、伊勢路から京都へ赴いた。以前から彼は諸侯に江戸城へ来なくてよいと断っていたが、加賀の利家が21日ごろにとにかく来るというので、その前にわざと江戸を出発したのだという。
利家は、家康が発った後に江戸に来て秀忠に謁見し、黄金100枚白銀千枚、美服を100着、正宗の脇差を献じた。彼は秀忠にもてなされた後、帰国したが、秀忠はその時黄金100枚、駿馬と鍋藤四郎の脇差を、彼に与えた。(*黄金は実質的には返したことになる)
26日 安藤彌十郎正次が使節として越前へ赴いた。
〇今月、古河御所庶流の、宮原勘五郎源義照が死去した。彼には子供がなく、弟の義久が家督を継いで、勘五郎となった。(彼の妻は武田勝頼の娘である)
松平左馬允忠頼は、武蔵の松山と美濃の金山の2万5千石から転じて、遠州濱松の5万石になった。
2月小
朔日 近江の佐和山の城主、従4位下侍従兼兵部大輔藤原朝臣直政が死去した。(享年42歳)彼は徳川家の重要な家臣だったので、家康も秀忠も彼の死を惜しんだ。遺領は子の右近太夫直勝に与えられた。
去年直政は、城を彦根に移転するように命じられ、すでに工事が始まっていたが、直勝が家督を継ぎ、その作業を続行するように命じられ、毎日建設工事が続けられて、ようやく鐘の丸の一部が完成し、彼はそこへ移って3年住んだという。
(7日、家康の息子仙千代が6歳で早世した。彼は去年から平岩主計頭の嗣子となっていた)
〇元和元年の秋、掃部頭直高の代になって、美濃、尾張、加賀、伊勢、越前、飛騨、若狭の7州の人夫を動員して、城の建設がすべて終わった。
9日 東奥州の伊達政宗の願いが入れられ、磐井郡の仙臺城が完成し政宗は移った。家康からは黄金千両、秀忠からは鷹が捕えた雁が、酒井八兵衛の手で竣工祝いとして贈られた。
政宗は、鈴木和泉守宮崎玄蕃に使節をもてなさせた。(石川大和昭光と亘理美濃守重宗が、食事に同席した)
14日 家康は伏見城へ着いた。前田利長も京都へ向かった。
18日 家康は、蒲生秀行の家臣の梅原彌左衛門が住んでいる二本松の西の城に、本山豊前安政を入れ、1万石を与えるように秀行に命じた。彼は新参だが、加藤清兵衛といって清正の家で数々の功績を上げて来たからである。
3月大
7日 伏見城で、家康の子の長福丸が誕生した。母は従3位源持氏の後胤の、蔭山長門守氏廣の長女である。彼女の父は安房の勝浦の柾木左近入道環齋という。長福丸は後の紀伊大納言頼宣である。
この日、安芸侍従正則が従4位下、右少将となった。
14日 家康は大阪城の西の丸から、本城の秀頼に会い白銀と太刀を贈った。
15日 家康は伏見城へ戻った。
〇今月水野清十郎忠清を秀忠の家来とした。書院頭と奏者役を兼任し、従5位下隼人正になった。
〇今春、家康は三河の岡崎の能見山松應寺を建立し、50石を与えた。(この地は廣忠を火葬した場所である)
4月小
6日 秀忠は、久志本右京亮を武蔵の柄間へ派遣した。これは内藤四郎左衛門正成の病気見舞いである。
11日 島津義久入道龍伯の所領を保証した。
12日 臨江齋紹巴法橋が享年79歳で死去した。彼は奈良の周晃門人連歌の宗匠である。
13日 内藤正成が享年78歳で死去した。強い武将で弓術の達人として有名だった。家康と秀忠は彼の死を惜しんだ。志村善兵衛資良も享年42歳で死去した。
28日 家康は伏見から京都の二条の館へ移った。
5月小
朔日 家康が参内した。大澤侍従兼兵部大輔基宿が従4位下になった。侍従であることは変わらなかった。
2日 家康は女院御所へ出かけ、金春太夫の猿楽が催された。
3日 萬年山相国寺を訪れた。塔頭の豊光寺承兊長老は、家康に非常に厚遇された僧である。
4日 家康は伏見城へ戻った。
8日 佐竹義宣は家康を裏切らないといったが、家康は「形勢次第で兵を出して相手を敵とみなすは常識であり、勝敗は時の運だから、それをどうと咎めるべきではない。ただ、佐竹は相手かまわず、ただ強い方に付いて自分の家を守る料簡だから、自分は景勝以上に、佐竹が嫌いだ」といった。
家康は義宣を伏見城へ呼んで、常盤の所領53万石を没収し、出羽の秋田と戸澤の地20万石あまりを与えると命じた。義宣は文句なく受け入れた。家康は本国へ使いを送って、修理太夫義重と家臣たちにもその旨を通告した。義重の次男、岩城但馬守宣隆も奥州岩城の12万石を没収されて、出羽の亀田に2万石をもらった。
〇岩城城を駒木根右近と那須衆が受け取り護った。
〇ある話では、家康は「勇士が仲間に目をかけるという点で、佐竹義宣が石田三成を自分の隊にまぎれ込ませて匿って、大阪から伏見まで撤退させたことは手本になる。実に頼もしい」と述べたという。もしこの話が事実なら、義宣という武将は、石田の朋友とはいえ、関ヶ原の戦いではどちらに付くとも態度を決めなかった。これは家康の見立てとは違っていたのだろうか?
〇『榊原家傳』によれば、榊原康政は、秀忠から水戸城で20万石を受けるよう家康が内々に知らせた。しかし、彼は今回、関が原へ遅れて参戦できず、役に立たなかったので恩賞には当たらないと固辞した。
文禄4年、関白秀次が、養父の秀吉に謀反を起こしたという報告を受けて、家康が大急ぎで京都へ赴くことを、7月14日の午後に康政は館林の居城で知り、その夜には支度を済まして、翌未明には出撃し、昼夜を分かたず進軍して相模の平塚に行き最初に家康を待ち、その夜には箱根に進むという早業をこなしたのは、ただただ舘林が江戸に近かったからである。
その点水戸は、江戸から30里もありおよそ3日はかかる。だから、もし水戸へ移れば、このように迅速に家康に貢献できない。したがって、「このまま館林に居たいので、沢山の加恩があったとしても水戸には行きたくない」と断って館林に帰った。本多佐渡守が鴻巣の宿まで追いかけて諫めても、どうしても応じなかった。
6月小
朔日 伏見城の建設が再開された。2条の館が城内へ移設された。
11日 家康は天皇に奏聞した。勅使の観修寺右大辨光豊と廣橋右中辨総光、家康からは、本多上野介と大窪石見守長安が奈良の東大寺を訪れ宝庫(*正倉院)の鍵を両辨が開き、黄熱香(蘭奢待)を持ち出した。香見の柳原右少将業光と中坊左近秀祐が警護し、幕下の歩卒が10人で監視した。秀祐は筒井伊賀守定次の老臣であるが、家康に見込まれて今年和泉の芳野郡に領地をもらった。
14日 佐竹義宣が水戸城を引き払って、出羽へ赴いた。
28日 肥前の長崎から飛脚が江戸へ来て、先月の下旬に貿易船が入港し蛮夷が、千200の献上品を江戸へ送るという。生きた虎一匹、象を一頭、孔雀2羽という。ただし、虎は長崎に留め置いたという。
7月大
朔日 美濃の加納城の築城が始まった。
15日 井伊右京大夫直勝が、秀忠から御内書を受け取った。(*手紙、彦根城の建設状況を小澤瀬兵衛が見に行くので暑い中ではあるがよろしく、というような内容)
28日 有馬中務少輔則頼入道宮内卿法印が80歳余りで死去した。彼の隠居のための領地の摂津有馬の2万石は、その子の玄蕃頭豊氏の領地に加えられた。(全部で8万石となり、丹羽の福知山の城に住んだ)
〇伝わるところでは、長澤松平源七郎康直の母は、清康の娘である。そこで康直の娘を家康は養女として有馬豊氏に嫁がせた。本多忠勝と一位局(神尾五兵衛守世の母)が婚姻を仕切った。家康は豊氏に脇差を贈り、家来の吉田掃部へ刀を贈った。
三河の岩崎の士、伴九郎左衛門元之の子の古川新八郎元忠を、豊氏の妻に付け篠山へ移った。豊氏はその後筑後の久留米へ移されたが、その前に篠山で死亡した。
〇今月 信州の士、依田四郎左衛門信次が死亡した。彼の子の権兵衛信忠が遺領受け継ぎ、軽率も父と同様に支配し本多正信の組に属した。(後駿河忠長の家来となった)
8月小
8日 菅沼次郎右衛門忠道が死亡した。(その子の忠元が禄を受け継いで、次郎右衛門と名乗った)
9日 那須衆の千本讃岐守正親が享年75歳で死亡した。大和守通直の父である。
11日 加藤茂左衛門忠正は、関ヶ原で負傷して治らず死去した。彼は長久手や関が原で活躍した武将である。
26日 家康は、本多忠勝の家来の桜井前の庄之助勝次の嫡子、庄之助次成を侍大将にしたが、憤慨することがあって今日忠勝の居城の桑名を出た。
〇彼は今年、筑後の国主、田中吉政の許で、内緒で砲卒50人の長となった。元和元年に家康の家来として戻った。
29日 家康の母、於大の方が亡くなった。75歳だった。彼女は水野右衛門太夫忠政の娘である。江戸の小石川、無量山壽経寺に葬り1位を贈られた。伝通院殿一品太夫人光岳誉智香大姉。家康は葬供料として300石を寄付した。
〇この日、結城少将秀康が、中山道から上野の碓氷峠越えようとしたときのこと、この関所は彼の家来が交代で詰めていたが、秀康の鳥銃を抑えて「上の身分の者に対しても決まりを無視できない」と述べた。秀康は怒って「よその国の者ならそれもいいが、自分が分からないか? 無理に阻止すればすぐに斬り殺すぞ」といった。衛兵は驚いて江戸に連絡した。秀忠は「彼らは秀康を知らなかったのだ。斬り殺されずによかった」といった。秀忠は宿を掃除させて、自ら城外まで出て出迎え、秀康を懇ろにもてなしたという。
晦日 内藤右京進正成は伏見の定番を命じられ、2千石を加えてもらって全部で7千石となった。この人は四郎左衛門正成の子で、父と子が同じ名前である。
〇金吾黄門秀秋は、関が原で徳川方へ転じ備前と美作をもらった。非常に豪勢な暮らしをし、その上病気にも侵されて、元老の稲葉佐渡守正成などが愛想をつかし、家来たちの多くが彼から離れた。先月以来、秀秋の病状が非常に重くなり、備前の岡山城下で、夕方に頻りに炭を売りにきたり鮨を売りに来た者が門を開けても姿が見えなかった。また、彼は、突然大阪の館を飛び出してその日のうちに岡山の城へ戻たりもした。(*精神に異常をきたしたのだろうか)
〇秀忠の家来で、元甲陽の先方の士だった高尾惣兵衛嘉文が家康にとがめられたという。
〇多賀谷修理太夫重徑は、慶長5年7月に謀反の企てがあったが、その子の左近三徑(最初は頼資)が家康に通報したので、重徑は殺されなかったが、常陸の河内郡下妻、富田、大方など6万石の領地を没収された。左近は結城少将秀康から長臣として3万石をもらい、長く越前家に仕えたという。
〇多賀谷は中興の祖を金子祥賀という。この人は結城成朝に仕えて、上杉右京亮憲忠を討ち取り手柄をあげ、そのため家名を多賀谷と改めた。結城の長臣となって、常陸の河内郡富田の17郡を領地とした。(祥賀は最初、彦七郎政廣で後に又安芸と改めた)
彼の養子の彦四郎氏家入道祥泉の後孫の下総政徑は、河内郡下妻の関33郷を領地とし、結城を叛いて佐竹義重についた。その子の修理太夫武徑、又その子の修理太夫重徑の代には、6万石を領し、天正18年以来秀吉の直臣となったという。
榊原康政、岡野江雪齋、伊奈熊蔵忠政が下妻に来て、多賀谷から松岡の城を受け取り、4万石の地を戸澤九郎五郎正盛に与えた。府中1万石は、六郷兵庫頭政乗に授け、新治郡の内雫8千石を本堂伊勢守茂親に与えた。この人は出羽の秋田の小野寺網隆の家来だが、網綱が景勝の家来であるにもかかわらず、戸澤、六郷、本堂、仁賀保、打越、赤尾、津、などが皆最上について家康方だった。従って、今度家康は、秋田の辺りを佐竹に与えたので、各人も若干加恩を受けて常陸の地へ移された。秀忠の時に、最上家の領地が没収されたので、彼らは再び恩禄を得て出羽へ戻った。
10月大
2日 家康は伊勢路から江戸へ行くために、伏見を発った。
〇ある話では、家康は大須賀五郎左衛門康高の甥の五郎兵衛に、1万5千石を加え、全部で1万7千石として伏見の留守番を命じたという。しかし、これが事実かどうかは分らなかった。
18日 権中納言3位兼行左衛門督豊臣秀秋が享年22歳で死去した。端雲院秀巌日詮。彼は秀吉の正室の兄、木下肥後守家定の三男で、子供がないので備前と美作の領地は没収された。その長臣の平岡石見守重定を家康は直臣として、美濃の徳野、1万石を与えた。その外、須賀備後守(後の摂津守勝政)、林丹後正利、曽我又左衛門右祐、賀古豊前宗隆などが御家人となった。
〇ある話では、秀秋は亡くなる前日、諸士を集めてもてなし、大般若捨て子の壺に詰めていた茶を楽しんだ。生まれつき敏剛果勇驍な質で、病に取りつかれたが、最後まで寝込まなかったという。
11月小
3日 武田萬千代信吉は、生来虚弱で、今も役職なしだったが、常陸の水戸城の地、25万石をもらった。(元は下総の佐倉に住んでいた)
8日 松平三郎四郎定網が12歳で遠州の掛川から江戸に来た。本多正信が家康に報告すると、早速謁見を許され、家康は「寒い中をよく来た」と褒め、「本丸から来ている者はいるか?」と尋ねた。青山七右衛門が同席していたので「隠岐守定勝の三男がこっそりやって来た。彼は実力者に仕えたいといっている。秀忠が適当だからはやく禄を出してやれ」と述べ、青山に谷善阿彌をつけて本丸へ行かせた。彼らは大久保忠隣に連絡し、秀忠に謁見させた。(彼は後の越中守である)
20日 山村七郎右衛門良候入道道祐が、信州の福島で死去した。享年59歳。
21日 安藤輿十郎正次(後の清右衛門)が加賀へ使いに行かされた。(翌年の正月に帰って来た)
22日 内藤左馬助政長に1万石の加恩があり、全部で2万石となった。父の彌次右衛門家長が伏見で戦死したからである。
家康の外孫の奥平清匡は、上野の小幡の村から父の先祖からの領地三河の設楽郡作手と近江の5万石へ転じられた。この人は奥平美作守信昌の3男である。彼は後に下総守となって、松平と秀忠の諱をもらって松平忠明となった。
〇今月、高力左近太夫正長の二男、傳十郎正重が17歳で死去した。彼には先に先祖からの領地、三河の八名郡高力の村が与えられていた。正重の遺領は弟の虎之助長次がもらった。
12月
2日 大番頭の三木の松平九郎右衛門重忠が享年62歳で死去した。長男の輿十郎忠清も先日死去したので、家が断絶した。二男の九郎右衛門忠利は500石だけもらって大番頭を務めた。
4日 京都の方廣寺の大仏を秀吉が建立したが、文禄の大地震で仏像も建物も崩壊した。そこで秀頼はこの寺を再建しようと今日、仏頭を鋳造した。ところが鋳造用の火が仏像の腹の中に移って燃えだし、仏像は全て燃えてしまったという。(慶長16年に仏像も建物も再建された)
12日 織田左衛門佐信高(信長の庶子)が死去した。
25日 家康は(8日か先月の26日)江戸の西の丸を発って、伏見へ赴いたが、道中で数日放鷹を楽しみ、今日伏見へ着いた。
〇この日、秀忠は上総の佐倉城の4万石を、兄弟の上総介忠輝に与えた。
〇忠輝の領地は、この他に上野の深谷1万石の長澤の松平一族の領地1万7千石がある。
28日 島津少将忠恒が伏見を訪れ、数品を家康に献上した。彼は薩摩へ逃げてきている浮田秀家父子の処刑を許す様に頼んだ。
〇今月、松平勘四郎信吉(伊豆守信一の養子)が水戸の城番だったが、9月に父と交代して江戸城を護ることになり、3千石を増やしてもらった。
〇上総の久留里の2万石は、土屋民部少輔忠直に、下総の小美川の1万石は土井甚三郎利勝に、下野の壬生の2万石を日根野織部正吉明に与えられた。彼の次男の左京亮高継にはそれに加えて、7千石を与えられた。
〇菅沼小大膳定利の養子の忠七郎忠政の実父、奥平美作守信昌が引退したので、彼の領地の美濃の大垣5万石と美濃の新田3万石と養父の前からの領地、上野の吉井2万石を合せて、10万石を忠政がもらい、家康の外孫なので松平を授けられ、従5位下摂津守とされた。
〇この年、伊藤熊太郎裕慶と阿部善九郎正次が従5位下になり、伊藤は修理太夫、阿部は備中守になった。
〇相良左兵衛佐長毎は老母を質として江戸へ送った。西国の諸侯が質を家康に献上するようになった始まりである。
〇高木清秀の子、善次郎正次(後の主水正)が2千石加恩された。青山大蔵少輔幸成も500石受け取った。
〇丹波の赤井五郎作忠家の子、五郎忠泰が2千石与えられた。
〇三宅越後守康貞の子、宗右衛門康政が14歳で仕えた。
〇阿部四郎兵衛忠政は、徳川家の家来大久保浄玄入道の孫で、左衛門次郎忠次の二男である。阿部四郎兵衛定次の養子で初めは四郎五郎といい、弓の名手で有名だったが、憤ることがあって天正年間に職を棄て、伊勢に行って蟄居していた。関ヶ原の戦いでは秀忠の隊で働こうと、一族が大久保相模の部下になり、信州の真田の城へ向かう時に病気になって、途中で付いていけなくなった。その時彼は73歳だったので、それを秀忠が聞いて長年の功臣が歳を取って弱っているのに同情して、家康に事情を説明した。家康は彼を呼んで領地を与え、以来時々彼を呼んで弓術について尋ねた。忠政も思い直して家来に復帰し、それから6年後に亡くなったという。
〇金森五郎八長近入道法印は、領地の飛騨を嫡子の左馬助可重に譲り、伏見に住んでいた。茶道を好んで、陶然と余生を送っていた。家康とも仲が良くて、よく彼を訪れて終日茶を楽しんだ。
〇松浦肥前守久信は32歳伏見で死去した。この人は式部郷法印鎮信の子である。
〇榊原摂津守忠政が死去した。(享年63歳)
〇佐々木六角民部少輔義定の長男、右近高賢が早世した。そのため次男の大膳高和(16歳)を宗子とした。後に大膳亮となった人である。
〇狩野右京光信が享年42歳で死去した。この人は故左京法印永徳の子である。光信の子の右近将監孝信に今年長男が生まれ、幼名は宰相である。彼は後に采女守信となった。素晴らしい画家で、髪を落として探幽齋と号し、晩年には宮内卿法印になった。(延宝2年10月27日73歳で江戸にて死去した)
武徳編年集成 巻49 終(2017.5.7.)
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