巻51 慶長10年正月~12月

投稿日 : 2016.07.27


慶長10年(1605)

正月大第51.jpg

元旦 江戸城で、秀忠は二の丸を訪れ、家康に新年の挨拶をした。諸将は新年の挨拶のために、本丸へ集まった。

3日 秀忠は、京都で7箇条の法令を布告することになった。東海道の大河には、すべて船の橋が設置された。

5日 若狭の京極忠高が従5位下侍従となった。(高次の子である)

9日 家康は江戸を発って、京都へ赴いた。

〇中旬 家康は駿河に着いた。痲症(*天然痘)でしばらくここに滞在した。

2月小

5日 家康は京都へ向かって、今日駿府の城を発った。

18日 秀忠は今日江戸を発つ予定だったが、雨で遅れた。

19日 家康は伏見城へ到着した。

この頃、宗対馬守侍従義智が、朝鮮の使いの僧松雲と孫文彧を連れて、伏見城で家康に拝謁し、貢物を贈った。

家康は義智に「自分は政権を秀忠へ譲ろうとしているので、朝鮮の使節を連れて、改めて江戸へ行ってほしい」と述べ、肥前の田代の2千石を加えた上、朝鮮の僧 玄蘓に紫衣を許可して帰すとともに、「使節の要望していた捕虜は、朝鮮へ返すが、近く秀忠が京都へ来るので、松雲と文彧などを少し京都で滞在させて、秀忠一行の大勢で豪華な姿を見せるように」と京兆尹(*京都の長官)に命じた。

21日 秀忠の上洛に随行する先発隊のとして、上野の館林城主、榊原式部大輔康政の組の佐野修理大夫正網(下野佐野城主)、仙石越前守秀久(信濃小諸城主)、石川玄蕃康長(信濃松本城主)が今日江戸を発った。

鎌倉右大将家(*源頼朝)が幕府を開いたときに、京都へ登った時の先発隊となった畠山重忠に因んで、今回家康はこの役を、康政に命じた。

2番が伊達越前守政宗、

3番が堀左衛門督秀治と溝口伯耆守宜勝(越後柴田城主)。

4番は甲斐府中の城主、平岩主計頭親吉の組の小笠原信濃守長備(信濃飯田城主)、諏訪因幡守頼永(信濃高島城主)、保科肥後守正光(信濃高遠城主)、鳥居土佐守成次(甲斐谷村城主)、

5番は上杉弾正大弼景勝、

6番は蒲生飛騨守秀行、

7番は上総小瀧城主本多出雲守忠朝の組の真田伊豆守信幸(信濃松城城主)、北条左衛門太夫氏勝(相模甘網)、松下右兵衛尉重綱(常陸小張)、

8番は大久保加賀守忠當(小田原城主相模守の嫡子)の組の高力左近忠房(武蔵岩槻)、皆川志摩守隆庸(信濃飯山)、本多大岳學助正吉(江戸崎)、

9番は武蔵川越城主、酒井右兵衛太夫忠世の組の水野市正近勝、鍋島和泉守、田中隼人正、市橋小兵衛、浅野采女正長次(常陸真壁)、同内膳。

以上の9組は、毎日1組が1区間を旅行して、近江の大津で秀忠の到着を待ち、それから順番を守りつつ、京都へ向かう予定である。信州と甲州の一族は、木曽路から大津へ行くという。

24日 秀忠が江戸を発った。

魁には騎馬鉄砲隊7組の軽率が600人。部隊長は服部石見守正成、三枝土佐守守勝、森川金右衛門氏俊、服部仲保次、屋代越中勝永、加藤勘右衛門正次、細井金兵衛勝吉、

次に弓の4隊の軽率300人。部隊長は久永兵衛重頼、佐橋甚兵衛吉久、倉橋内匠久次、青木五右衛門、

その次は衛槍200本(處輩抛鞘)、その奉行は近藤石見秀用、都筑彌左衛門為政、

その次は召し替えの塗の輿(輿を担ぐ人は金熨斗の脇差を差す)、

次に牽引する馬50匹、

次に鉄砲が50挺(猩々の緋の袋をかけた軽率が金熨斗の脇差を差す)、弓が30張、鋏箱7個、長刀2振り(金熨斗の脇差をした者が持つ)、

次に秀忠の輿(担ぐ人は全て金熨斗の脇差をする)を歩兵が取り囲こむ。次に槍持ちが金熨斗の脇差をして5人。

次に茶道具(長谷川讃岐守正尚が取り仕切る)、次に青山図書助重長が家来を連れ、次に安藤対馬守が小姓たちを連れて続いた。

更に次には使い番、大番衛士が続き、土屋民部少輔忠直、高木主水正正次、柴田七九郎康久(2代目)、安倍彌一郎信盛、内藤新五郎正成、牧野九右衛門、内藤若狭守清次、上杉源四郎長眞、土方河内守雄次、藤堂内匠(高虎の嫡子)、溝口孫左衛門善勝、西尾隼人、須賀摂津守勝政、神谷彌五郎宗弘、秋山平左衛門正次、跡部民部良保、柴田三左衛門勝正、阿部備中守正次、山名平吉(豊国入道禅高の子)、津田傳蔵正芳(後の平左衛門)、脇坂主水安信、小山信濃守吉英、牧野傳蔵成里(後の伊予守)、真田左馬助、水野太郎作、永田三郎次郎、木造左馬助、青山常陸介忠成、水野隼人正忠、清塘伊賀守利重、水野讃岐守が続いた。

その次には、騎馬の陪臣と監使の永田善左衛門重利、更に歩卒の陪臣、奴隷とその監使の永井彌右衛門百元、その次は諸士の鉄砲と司の石川八左衛門正次、永田庄左衛門重吉、弓の部隊と司の本多百助信勝(2代目)、澤瀬兵衛正重、内藤甚五左衛門清政、槍奉行山田十太夫重利、朝倉藤十郎宣正、鋏箱なども朝倉宣正が取り仕切った。

このように、全体で火砲が千挺、弓が500張、槍が千本、長刀100本、鋏箱300が用意された。

今月の秀忠の宿は神奈川、藤澤、小田原、三島だった。(大雨のために三島には3日滞在した)

3月大

2日 秀忠は蒲原の宿に到着した。今後の宿泊は、駿府、藤枝、掛川、濱松(ここに1日滞在)、吉田、岡崎、清州(ここで1日滞在)、大垣、彦根(激しい雨で1日滞在)、永原だった。

17日 膳所の城に到着して、後続の一行を3日間待った。

21日 伏見の城へ到着した。粟田口から前後の隊列の化粧を整え、順番に堂々と京都の街へ入って伏見へ赴いた。

一行の後ろの固めは、1番が上野高崎の城主、酒井宮内大輔家次の組の牧野駿河守忠政、(上野大胡)、内藤左馬助政長(上野佐貫)、小笠原左衛門佐正信、

2番が信濃川中島城主、松平上総介忠輝朝臣、

3番が常陸土浦城主松平安房守信吉の組の松平甲斐守忠吉(下総関宿城主)、松平丹波守康長(下総古河城主)、松平周防守康重(常陸笠間城主)、

4番は最上出羽守義光、

5番は出羽秋田城主佐竹右京大夫義宣、

6番は陸奥盛岡城主南部信濃守利直、

7番は同じく岩城城主鳥居左京亮忠政、

以上が1組ごとに江戸を発って、先月29日に先発隊の榊原康政が京都へ着いて、それから17日間にかけて一行が移動し、宿場は大繁盛して前代未聞だったという。

29日 秀忠は伏見城から参内した。これは去年の冬に右近衛大将になった挨拶のためで、その後すぐに二条城へ入って宿とした。

〇ある話では、加賀黄門利長は、嫡子の犬千代を連れて京都へ来て、家康と秀忠に面会した。犬千代は家康に黄金30枚、加賀の絹300反、時服30着を献上した。秀忠には黄金50枚、加賀の絹300反を捧げた。2人からは犬千代に刀と脇差を与えた。犬千代は京都に滞在した。

4月大 

5日 秀忠は金森法印素玄の宅を訪問し、夜になって千利休の門人の古田織部正重の許へ立ち寄って茶を楽しんだ。

7日 家康は天皇から征夷大将軍の職を辞任することの了承を得た。それは家康が今月朔日に申し出たためである。(これ以後は2大御所と呼ばれた)

8日 家康は伏見から二条城へ行った。

10日 家康が参内した。

12日 豊臣秀頼が右大臣となった。

15日 家康は二条城から伏見城へ帰った。

16日 勅使の廣橋権大納言兼勝と烏丸権中納言光豊が二条城へ来て、天皇の命で秀忠が征夷大将軍に任命され、内大臣正2位となって淳和弉學両院別当を兼務した。また、源氏の長者となり牛車と兵杖を贈られた。

宣命使いは、西洞院少納言時直、参仕辨は小川坊城左中辨俊昌、告使は源康総、外記は中原師生、官務は小槻孝亮であった。その時の儀式は、全て慶長8年での家康の場合と同じだった。越前参議秀康が正3位、権中納言になった。尾陽侍従兼薩摩守忠吉朝臣が従3位、左中将になった。

上総介忠輝朝臣が従4位下、左少尉になった。池田右衛門督利隆が侍従になった。(後に武蔵守)京極高正が従5位下、侍従になった。

その他従5位下には、榊原康勝(遠江守に)、松平定綱(越中守に)、板倉重宗(周防守に)、同重昌(内膳正に)、高力忠房(左近太夫に)、牧野信成(内匠頭に)、永井尚政(信濃守に)、青山幸成(雅楽助、大蔵少輔に)高木正次(主水正に)、松平正朝(壱岐守に)、大久保教隆(右京亮に)、同幸信(主膳正に)がなった。これらは全て歴代の家臣の子弟である。

青山常陸介忠成が播磨守と改めた。

17日 家康は伏見城から二条城へ移った。

〇『藤堂家傳』の説によれば、和泉守高虎は、家康に対する忠誠が深く、家老の質子を家康に献上していた。彼は諸家の長臣の質人を江戸へ取るべきであると密かに進言した。家康と秀忠はもっともだと了解して、ついに慶長14年から諸侯の元老が質を出すことを制度として決めた。この制度の決定はこの頃のことと思われる。

26日 秀忠は将軍就任の祝いとして参内した。

1番 雑色12人 2行、警蹕(*けいひつ;先払い)が2人先行し、続く4人が木の棒を曳、次の2人が加金棒を曳、それに4人が続いた。

2番 調度公人朝夕(*トイレ係)、

3番 同類権阿彌の騎馬、前に薙刀、後ろに傘、

4番 左が板倉伊賀守勝重の騎馬 (前に薙刀、後ろに傘、従士歩卒が23人)
   右が青山播磨守忠成の騎馬 (同じ)、

5番 随身12人、騎馬で2行、
   左は島田彌四郎直時、青山善四郎重長、岩瀬吉左衛門氏興、榊原隼之助忠政、大久保輿次郎、高木九兵衛正次、
   右は牟禮郷右衛門勝成、成瀬清吉(後の半左衛門)正虎、内藤右左衛門正重、河口長三郎正武、森川金右衛門氏俊、榊原石見政次、

6番 白丁 12人、

7番 諸太夫 82人が歩行した、
松平阿波守至鎮、浅野采女正長次、松平越中守定綱、榊原遠江守康勝、青山伯耆守忠俊、阿部備中守政次、佐野修理太夫正網、仙石越前守秀久、大久保右京亮教隆、青山雅楽助幸長、高力左近太夫忠房、小田信濃守吉親、石川玄蕃頭康長、真田伊豆守信幸、内藤帯刀忠興、大久保主膳正幸信、有馬玄蕃頭豊氏、加藤左馬助嘉明、九鬼長門守守隆、池田備中守長吉、佐藤駿河守賢忠、山崎左馬允家盛、中川修理太夫秀成、古田兵部少輔重勝、瀧川豊前守忠往、戸川肥後守達安、佐々信濃守、津田長門守信成、金森出雲守可重、毛利伊勢守長高、竹中伊豆守重門、三好丹後守、池田備後守知政、寺澤志摩守廣高、三好因幡守一任、富田信濃守知信、佐久間河内守信實、水野河内守清忠、渡邊筑後守、脇坂淡路守安元、藤堂佐渡守高虎、土方丹後守雄重、徳永左馬助可昌、生駒左近太夫正俊、能勢伊勢守、桑山伊賀守貞晴、本多常陸介、水野市正近勝、本多大學助正吉、脇坂主水正安次、田中隼人正、土屋民部少輔忠直、内藤若狭守清次、鍋島和泉守、新庄越前守直定、諏訪因幡守頼永、古田左近太夫重恒、柴田筑後守康久、北条左衛門太夫氏勝、溝口伊豆守宣政、永井信濃守尚政、鳥井土佐守成次、羽柴壱岐守正利(後に再度瀧川となる)、池田丹後守、堀淡路守直昇、堀伊賀守利重、森川内膳正重俊、日下部伊予守定好、土方河内守雄久、松下右兵衛尉重綱、牧野豊前守信成、水野隼人正忠清、溝口伯耆守宣勝、西尾因幡守、板倉周防守重宗、渡邊山城守、茂土居大炊頭利勝、大久保加賀守忠常、井伊掃部頭直孝、

8番 陌刀(*はくとう、長い刀)、

9番 布衣 4人 2行、
   安藤治右衛門正次、小澤瀬兵衛忠重、久永源兵衛重知、倉橋内匠久次、

10番 秀忠の車、

11番 布衣 8人 2行、
    松平勘助信房、安藤與十郎正次(後に治右衛門となる)、本多百助信勝、松平助十郎秀信、服部仲保次、服部輿十郎政信、渡邊半四郎宗綱(後に図書となる)、小栗庄次郎(後に又一となる)、

12番 牛飼い2人、牛2匹、〇(*有+帝+龍の右側を合体した漢字)8人、

13番 傘、

14番 布衣 16人 2行、
    村越内膳、神尾五兵衛守世、島田庄五郎、河村善次郎重久、久貝忠三郎忠俊、小栗甚六郎、陰山佐助、内藤久五郎成次、山口小平次重克、興津久七郎、今村彦兵衛重良、中根喜八郎正則、長谷川隠岐政尚、山岡五郎作景長、三宅半七郎重勝(大番衆)、天野左兵衛康峯、

15番 烏帽子、素袍の士 18人、。

16番 剣役 酒井宮内大輔家次、騎馬、

17番 長刀持ち 1人、笠1人、

18番 同 歩士 18人、

19番 諸太夫 16人 騎馬2行、
    左は松平安房守信吉、松平甲斐守忠良、松平周防守康重、本多伊勢守康純、皆川志摩守隆庸、鳥居左京亮忠政、平岩主計頭親吉、酒井右兵衛太夫忠世、
    右は小笠原信濃守忠備、松平丹波守康長、小笠原左衛門佐信之、本多出雲守忠朝、牧野駿河守忠成、内藤左馬助政長、大久保相模守忠隣、榊原式部大輔康政、

右前に長刀、歩士 12人、後ろに傘と従士 15人、

20番 侍従以上の位の次の12人が塗の輿に乗る、

米澤中納言景勝、豊浦参議秀元、若狭参議高次、仙台少将政宗、薩摩少将忠恒、安芸少将正則、川中島少将忠輝、秋田侍従義宣、最上侍従義光、越後侍従秀治、会津侍従秀行、加賀侍従利光。

天皇には白銀千枚、皇后へは同100枚、儲君(*皇子)は同100枚、女院には同200枚、その他、長橋の局以下女官に同200枚を献じた。

27日 公卿や殿上人が二条城へ集まり、将軍を宣告、祝辞を述べた。夜になって秀忠は二条城から伏見城へ帰還した。

29日 赤井五郎作忠家が享年51歳で死去した。遺領2千石は長男の豊後守忠泰に与えられた。忠泰の持つ千石は弟の六兵衛公雄に与えられた。

5月小  

朔日 諸侯は伏見城へ集まり、秀忠の将軍就任の儀式が無事済んだことを祝した。関西の大小名は白銀や時服を献じ、譜代の諸将は太刀や馬代(薄銭300匹分)を献上した。

2日 将軍就任の祝い行事として、伏見城で猿楽が催され、諸公が観劇した。観世、金春、金剛、保生が演じた。

4日 昨日に続いて昨日参加した以外の諸侯がもてなされ、観世と金春座の猿楽が催された。家康は両日、月見櫓から観劇し猿楽の出来栄えを論評した。

8日 前の岐阜の黄門秀信が享年22歳で高野山で死去した。(大善院)この人は信長の直系の孫である。

家康は、高臺院と湖月尼を通じて秀頼に京都を訪れるように勧めさせた。しかし、母の淀殿は一切許さなかった。巷では福島や加藤などが秀頼の上京を止めたというので、戦争が起きるのではないかと商家は懸念したという。

11日 秀忠の名代として少将忠輝朝臣(24歳)が大阪に赴いた。秀頼は厚くもてなした。

今回京都へ来た、加賀利光や上杉景勝など関東や東北の大小名は徐々に帰国し始めた。

13日 土佐の山内忠義の養子佐助が、家康と秀忠に謁見した。(後に豊前守忠豊といい、実は山内修理亮の子である)

家康は松平隠岐守の娘を佐助に嫁ぐように決め、山内父子に短刀を与えた。

15日 秀忠は伏見を発ったが、雨が激しく膳所の城で宿泊した。

16日 秀忠は水口の宿に着いた。

17日 亀山城に着いた。

18日 桑名城に着いた。(翌日はここに滞在した)

この日、佐橋甚兵衛が享年59歳で死去した。この人は最初亂之助といって、軍功があり、特に弓の名手で秀忠の師範だった。

20日 清州城に着いた。大雨が続きここに逗留した。辺りの川が洪水を起こしたという。

24日 快晴で清洲を出発した。

26日 尾陽の家来の甲賀左馬助は、2か月ほど前に同僚に下僕を殺させた。彼は小禄だが役付の家来が6人いた。彼らは今日、左馬助が東海郡津島へ行った帰りに待ち受けて、左馬助と若衆4人、中間1人を殺した。6人の内1人が深傷を負った。残りの5人はうまく逃げるはずだったが、手負いの1人を助けて部屋に立て籠もり、全員が自殺した。彼らはすでに妻子を殺して死を決心していたので、人々はその心意気を称えた。

この頃江戸で、秀忠の近臣の下僕が越前黄門秀康の家来の倅らといざこざを起こし、双方が多数で乱闘して2,30人が死んでしまった。

〇下旬に伊予の宇和島城主、富田信濃守知信と備中猿掛け村の浮田左京亮成正(後の坂崎対馬守)に確執があった。その理由は左京亮が狂って罪のない小姓を斬り殺した。成正の甥の浮田左門がその小姓と男色の契りを交わしていたので、左京亮を恨んで殺して信濃守の許へ逃げて来た。成正は憤慨して、富田へ手紙を送り左門を引き渡せと要求した。しかし、信濃守の妻(成正の妹)は左門を憐れんで出さず、逃げてきた理由を話した。左京亮は尚強く出せと迫ったという。

〇今月 蜷川新右衛門親元から数えて5代目の孫、新右衛門親堂入道道標が死去した。この人は光源院義輝将軍の時に、丹波の桐野と河内の蟠根寺の村を領地としていた。足利家が滅びた後は、土佐に住み関ヶ原の後は、幕府に仕えて500石をもらっていた。

6月大 

4日 秀忠が江戸城へ帰還した。

14日 伏見では夕立があったが、京都には降らず、先月より大干ばつが続き、摂津の毘野の池(*伊丹の昆陽池)が干上がって魚が全て死んだ。

18日 加賀黄門利長が引退した。養子の筑前守利光(後の利常)へ加賀、能登、越中が相続された。

22日 花房越前守正幸が享年82歳で死去した。(志摩守正成の父)

28日 大澤左衛門佐基胤が享年80歳で死去した。

〇この日夜半に雨が降って、干ばつが続いていたので人々は歓んだ。

7月大

5日 家康は伏見城を諸公に改修させるために、本城から西の廓へ移った。

7日 使い番の安藤治右衛門正次は、江戸から伏見城へ現場監督として着任した。

17日 杉浦彌兵衛忠綱が67歳で死去した。(彦右衛門親次の弟で北条氏政に仕えた

19日 常陸の流刑地で、前の参議大伴義統巖道宗入が死去した。この人は秀吉に領土を没収され、関ヶ原の戦いでは石田方についたので配流された。

20日 近江、美濃、尾張、伊勢が洪水に見舞われた。

21日 伏見城の工事のために、家康は二条城へ移った。

林又三郎信勝(*林羅山)が非常な英才だという話を家康が聞いて、永井直勝に呼び寄せ、ある日船橋清原秀賢兌長老(*儒家)と佶長長老を同席させた上で、家康は林に、後漢の光武帝の種糸と前漢武帝の反魂香の出所を尋ねたところ、彼はたちまち詳しく説明したので一同が驚嘆した。(『羅山文中』に書かれている)

22日 三河の矢作川に通じる運河を建設するために、三河で100石を取っている役人には、人夫2人と一般人1人を出させ、堀を掘らせた。

8月大

12日 家康は二条城から伏見へ帰った。

この頃関東では洪水が起きた。

9月小

13日 秋田東太郎實季(本姓は阿部安東)が従5位下となった。

15日 家康は忠輝、義直、頼宣を連れて伏見を発った。(宿泊地は永原、彦根、赤坂で、彦根では雨で2日滞在した)

20日 岐阜に着いた。(翌日滞在して稲葉山で狩をして猪を77頭獲った)

〇土佐の主、従4位下一豊が享年60歳で死去した。(初めは山内猪右衛門と名乗り秀吉の功臣だった)

22日 清州城に入った。(2日滞在するというので、忠吉は力士を呼んで観戦に備えた)

25日 岡崎城へ入った。(ここで4日滞在した)

10月小

朔日 家康は遠州中泉へ着き、数日間狩をした。

7日 武蔵の入間郡で、渡邊源治仲綱が79歳で死去した。この人は徳川家の功臣だったが、一向一揆の際に一揆衆に加わったので没落した。長兵衛長綱の子である。

17日 家康は駿河の田中城へ着いた。(24日間滞在した)

25日 伊勢の長嶋城主、菅沼志摩守定仍が享年30歳で死去した。父の織部正定盈も去年の8月に死去し、定仍の妻(桜井松平監物家次の娘)もすでに亡くなっていたという。

28日 家康は江戸城に着いた。

11月大

2日 初めて書院番4組を設置した。(初代は水野隼人正、青山伯耆守忠俊、内藤若狭守、松平越中守定綱)

10日 秀忠は鴻巣で狩を楽しんだ。

松平備後守清宗が68歳で死去した。この人は竹谷の松平備後守清善の子で、強い武将だったがこの時はすでに隠居していた。

17日 家康は忍、川越、鴻巣で狩をした。

20日 秀忠は放鷹を終えて江戸城へ帰った。

25日 秀忠は家康の命に従って、常陸の筑波山に神領500石を寄付した。

〇今月酒井右兵衛太夫忠世へ、江戸の滞在費用として日野5千石を与えた。

〇松平輿右衛門政清が死去した。この人は最初鳥居彦右衛門元忠に属していたが、家康にプロモートされて直臣となった。遠州で領地をもらって、時々家康に会うだけだった。その子の六右衛門正重は大番頭となり、阿部備中守正次の部下となった。

〇今月から師走にわたって、信州の浅間山が噴火した。

12月小

2日 その昔、伊勢から三河に来て徳川家に功労のあった鬼半蔵と呼ばれた、服部石見守正成の嫡子の市平保俊が、永禄中に三河の高橋で戦死した。彼の子彌左衛門が家督を継いで、半蔵を襲名して石見守となった。

彼は家康の身内の松平隠岐守定勝の娘、松尾を妻として、彌兵衛式部や瀬兵衛などの子が数人いた。豪勢を極めて自分の組の伊賀衆を同心として、家来同様に扱い、逆らう者が出れば、月給を払わなかった。

そこで彼らが200人そろって奉行所へ訴え、武蔵の鮫が橋の寺院に立て籠もって、訴えを聴かなければそろって切腹するとした。幕府で検討した結果、従弟の服部中保正、大久保甚右衛門忠直、久永源兵衛重知、加藤勘右衛門正次が分担して、彼らをマネージするように命じられた。しかし、石見守は、訴えた張本人10人を幕府に申し出て、罰するように申し出た。そこで今度、首領となった4人が、その10人を殺そうとして、8人は殺され、2人は逃亡して幾重不明となった。石見守は怒って家来に捜索させると、ある日、服部の門外で逃げた者が行き来していると聞いて、駆けつけて殺した。

ところがそれは伊賀の者ではなく、伊奈備前守忠正の家来が使いで来たところを、誤って殺したことが判明した。石見守は非常に驚いて忠正に陳謝したが、白昼に見誤るはずはないとして承知せず、その上、この頃は江戸で辻斬りで奉行所から賞金を出して殺人犯を探しているときだったので、これも服部の仕業だという疑いが世間に流れて、逃げられなくなり、石見守は領地を没収され、定勝の領地に蟄居させられた。(『慶長日記』、『昭代実録』、『服部家譜』に同じ記述がある)

10日 尾張の太守、薩摩守忠吉は、10月上旬から腫物ができ、やがて気が狂って今日の深夜に危篤となったが、良薬によって昼頃に生き返った。

15日 忠吉は日々回復して、秀忠は非常に喜んだ。

〇南海の八丈島の近くの海で、一晩で島が出現した。

〇西川如見によれば、漢の時代に平地が突然盛り上がったり、島が湧き出たりする例がある。日本でも廃帝(*浄仁天皇)の代の天平寶字(757~765)年代に、薩摩の鹿児島信爾村の海中に、砂や石が自然に集まって3つの島ができた。また、景行天皇の10年のころに、近江の湖中に竹生島が湧き出た。舒明天皇3年には伊豆の海に、島が一つ突然出現した。これらには皆理由があって、大風によって海底の砂や石が流れて堆積し、それが島になるのだという。寛文に起きた津波では、和泉の堺の海中に、砂が盛りあがり恵比寿島という小島ができて、今は廻船の便利になっている。(*1664年のことで、現在の堺の戎神社の場所)しかし、一つの国になるほどの大島や、陸地に大きな山ができるようなことはないという。

26日 家康は忍と川越で狩を楽しんだのち、江戸城へ帰った。

夕方、伏見の有馬豊氏の家で火事が起きて、蒲生秀行、浅野長政、松平飛騨守忠昌、彦坂平助、石川主殿頭忠総、大久保石見守長安、板倉伊賀守勝重、眞田隠岐守信尹、遠山民部少輔の家および、立ち売りの店が焼失した。

〇今月、諏訪安芸守頼永の子、小太郎(後の出雲守)が、秀忠の前で元服し、諱の一字と一文字の刀、烏帽子素袍をもらって忠澄となった。

〇今年、前の天皇の供養として、御所で奈良と比叡山、園城寺の僧を集めて御八講の法会が営まれた。法会の勧請役をそれぞれが望んだ。先例に従って、学問の深い順で決めよと天皇が命じたが、比叡山は不服として欠席した。この件が家康に届いたので、家康は天皇の命じた通り、今後もそのように決めるべきと返事した。

〇皇太子の親戚の近衛信基は、非常に優れた才能に恵まれた人なので関白に任じられた。亡くなった後に三藐院殿と号した人である。諱を信輔とか信尹と改めた)

〇秀忠は、榊原式部大輔康政の娘を養女として、池田輝政の長男右衛門督(後の武蔵守)利隆へ輿入れさせたが、その決まりごとは非常に厳格だった。青山播磨守忠成が輿を利隆の長臣伊木長門に渡し、貝桶を土井大炊頭利勝に渡した。また後日もてなすときに同席する者は浅野弾正少弼と黒田筑前守だった。両加藤、蜂須賀阿波守至鎮、浅野幸長がこの饗宴を準備した。秀忠は青江の刀、左文字の脇差、馬2匹を贈った。

〇家康は江戸からある處へ出て城へ戻る時、牧野傳蔵成里は、砲卒50人の隊長で大手の門(今の100人組番所)を守っていた。当時の流行として、彼は三男五六(14歳)を座らせていた。家康は遠くからそれを見て成里を呼んで、その子供のことを尋ね、すぐに近くへ呼びよせて、「お前は齢より大きくてしっかりしている。今から秀忠に仕えるように」と命じた。また、成里を伊予守にするが、それまでは傳蔵を五六に与えるように命じた。

成里はその命を謹んで受けた。伊予守には3人の息子がいた。一男は将監成信で、その時はまだ播州にいて成り行きで池田家に世話になっていた。後に京都の東山に住んで、風車軒任他禅門と号して、非常に幽玄風雅な生活が後水尾天皇に聞こえ、落飭(*出家)後に家を訪れ面会した。二男は宇右衛門成教で、この人も輝政の許にいて仕えた、成純は三男だったが幼かったので、母について早くから関東に住み、それで嫡子となって、後年お使い番を勤めたという。

〇一柳監物直盛の一男直重(8歳)が質子として江戸へ来て、月額80人分をもらった。後の美作守を務めた人である。

〇徳山五兵衛直政が髪を剃って法眼となった。この人は五兵衛則秀入道2位法印の子である。

〇後藤庄三郎光次に命じて、金1分判を初めて鋳造した。その目方は1銭2分である。

〇『奥州四家合考』によれば、この頃に夷狄(*外人)から伝わったという煙草というものを、人々が好んで吸い、これがついに奥州まで普及したという。

〇『慶長日記』によれば、去年京都の桔梗屋道因は、イギリスの海賊が海上で南蛮の船を乗っ取って大儲けをして帰国した真似をして、京都や大坂の多数の商船を東京、暹邏(*アユタヤ)、呂宋(*ルソン島)へ向かわせたが、一艘も帰ってこなかった。嵐に会ったか、海賊にやられたかはわからない。

〇京都の萬年山相国寺の法堂の建設のために、米穀1万5千石を秀頼が寄付した。

武徳編年集成 巻51 終(2017.5.10.)