巻52 慶長11年正月~12月

投稿日 : 2016.07.27


慶長11年(1606)

正月第52.jpg

元旦 秀忠が家康と会い、新年の挨拶をした。 諸将も参賀し、儀式も例年通り行われた。

5日 五郎太丸と長福丸が正5位下に叙され、それぞれ右兵衛督義利と常陸介頼宣となった。(義利は後に義直となった)

19日 江戸城の建設が、池田右衛門督利隆(後の武蔵守)、弟の藤松利継(後の左衛門督)、福島左衛門太夫正則、加藤肥後守清正、加藤左馬助嘉明、黒田筑前守長政、細川内記忠利、京極若狭守忠高、同丹波守高知、浅野但馬守長政、松平土佐守忠義、有馬玄蕃頭豊氏、鍋島信濃守勝茂、森 右近太夫忠政、寺澤志摩守廣高に命じられた。

今日、京都の三十三間堂の縁で、諸公の家来の内、強弓で鳴らした者たちが通し矢をした。尾陽侯忠吉の家来で、朝間平兵衛は51本の矢を射通した。これはこれまでの最高だった。(この人は石堂竹林房如成の一番弟子という)

20日 筑後の国主、田中兵部少輔吉政の嫡男、主膳(20歳)は、最近気がふれて家来53人に怪我を負わせ、今日も幼い家来を殺したので、殺された。

25日 秀忠の執事の青山播磨守忠成(最初は常陸介)と内藤修理亮清成が、家康の鷹狩り場でカスミ網を張っていた。家康が鷹狩りの時にそれを見つけて調査し、非常に怒った。それで秀忠は2人を首にした。

〇この頃、奥平大膳太夫家昌の江戸屋敷の庭に生首が置かれていた。また、宇都宮の居城の旗竿の上に鳩が12個卵を産んで孵って、すでに羽が生えていて飛んだという。

〇彦坂小兵部直通の監理する土地の住民から訴えが起きて、直通の仕置が法に反し、しかも租税を着服していた。そこで彼の息子とともに禁固刑に処された。

2月大

8日 江戸の桜田の仙臺少将政宗の館を家康が訪れ、長光の刀など数品を江戸滞在料として与え、近江の蒲生と野洲郡の一部の1万石を与えた、彼の子の若狭守忠宗には大原眞守の刀を与えた。その後で家康は諸公の館を訪問したそうである。

10日 江戸城の建設の為に、諸侯が江戸へ集まり、家来を伊豆に送って石材を運ばせた。船の総数は3千隻だった。1隻には百人持ちの石を2個を(値段は白銀20枚相当)積んだ。1個の値段は白銀20枚、栗石の値段は高価で1坪あたり黄金3両だった。

関東の諸侯の内、去年秀忠が上京する際の伴をした者は、石運びは免除され、そうでなかった者には、石高1千石あたり人夫1人を出させた。

19日 秀忠は伊達政宗の館へ訪れ、浅野弾正少弼長政と加藤左馬助嘉明が食事を共にした。

25日 那須資宗左京太夫が従5位下となった。(修理太夫資時の子)

〇今月、上野の宇都宮の山の上に旗雲が現れた。

3月小 

朔日 江戸城の建設が始まった。 本城は元の設計通りで、二の丸と三の丸は藤堂和泉守の設計によって郭を広くし、石垣の高さは12~13間、全長は700間余りという。佐久間正實がこの建設を仕切った。

3日 家康は京都へ出発する予定だったが、ひどい雨で延期した。

4日 雹が降って雷が鳴った。

15日 家康が江戸を発った。宿泊地は神奈川、藤澤、小田原、三島、清水だったという。

20日 駿府へ到着した。家康は、長らく内藤豊前守信成が城主だったこの城を自分の隠居場とするために、4日ほど滞在して城の内外を見て回った。

25日 田中城へ着いた。

26日 中泉の宿へ入った。(これ以降の宿はいつも通りである)

〇今月、徳川の功臣阿部兵衛忠政の子の善太夫重眞は、父の忠政が徳川から離れた時期に蒲生氏郷について、九戸修理政賢の居城を攻め、その時、火の矢を城内へ射こみ弓の名人の腕前を示した。その後蒲生が家臣数100人を連れて会津を退くときには、重眞は彼らを追撃して、首領を射殺した。もともと弓の名手として徳川の代々の家来だったので、禄をもらって家康の近臣となり、後に四郎兵衛となった。重眞の弟の正之は、秀忠の書院番の士になったという。(後の四郎五郎)

〇この春、家康は、榊原七郎右衛門清成を館林から呼んで、駿河の久能城を護らせて1千石を与えた。彼は三郎信康の補佐をしていたが、彼が自殺したときに禄を辞退し、弟の大輔康政の家に蟄居していた。(この城は慶長6年に大久保彌一郎忠政が代々軽率を付けて護らせていた)

4月大

7日 家康は伏見城へ着いた。

11日 江戸城の天守の建設を伊達政宗が切望したので、2層目を建設することになり、設計図が政宗の家来の村出羽守に渡された。

24日 赤井刑部少輔幸家が死去した。(子の藤右エ門幸長は前に信州上田で戦死した)

28日 家康は京都へ向かい、参内してからすぐに伏見城へ行き滞在した。

29日 武経七書の出版がなされ、今日から世に出回った。

伏見の城の石垣を1万石以下の家来に築かせた、一万石以上は江戸城の建設に関わっているからである。

京都の萬年山相国寺の山門が完成した。これは備前の金吾黄門秀秋の遺産の2万石が倉庫にあって、池田輝政がそれを借り、以後幕府の要請があれば寺に寄進することになっていた。それでこの山門ができたわけである。

5月小

朔日 久能の警護の榊原七郎右衛門清政が享年61歳で死去した。この人は内記清久の(後の経久)の父である。彼の後任に清久を充てた。

5日 暴風雨のために、江戸の品川沖で江戸城の建設工事用の石を運ぶ船が壊れて沈没した。特に加藤左馬助の船46隻、黒田筑前守の船30隻、鍋島信濃守の船20隻が沈没した。

6日 徳川家の家来の上野の館林の城主、榊原式部大輔源康政が疔腫を患った。秀忠は容体を案じて、酒井右兵衛太夫忠世と土井大炊頭利勝を館林へ行かせ、良医の今大路玄朔と玄鑑に治療させた。康政はこの腫物が重くて死ぬことを察して、家中へ政務のマニュアルを子の遠江守康勝に譲り、日常は平然として変わらなかった。

7日 秀忠の次男が誕生した。母は大獣公に準じて、世話係として内藤仁兵衛忠政、天野傳兵衛、大河内金七郎、加藤新太郎を付けた。(すぐに金七郎が亡くなり、林右衛門が継いだ)、稚児小姓には永井主膳、秋田三平、橋本吉平が就いた。(後に伊奈牛之助、佐野三四郎が加わった)成長した後の彼は、駿河と甲州の太守権大納言忠長である。

14日 早朝 館林で榊原康政が享年59歳で死去した。法諱は見向。家来の南甚之助が殉死した。 秀忠は阿部備中守正次を館林へ派遣し弔問した。

この日の昼に、家康の妾の西郷の方が死去した。蓮葉院日浄と号した。彼女は今川義元の家来で、三河西郷の城主、縫殿長助長持の孫の藤太郎長照の娘である。(彼女は池田輝政の妻の良正院を生んだ)

26日 越後の国主、従4位下侍従兼左衛門督、藤原秀治が享年31歳で死去した。彼の子の久太郎はわずか11歳で家督を継いだ。後の越後守忠俊である。

〇この頃、伏見の松丸の加番の松平若狭守正吉は、好色の罪で領地を没収された。彼は伏見城で討ち死にした、大給の子孫の五左衛門近正の次男である。

6月大

4日 駿府城の建設を来月朔日から始めることにしていたが、来年の正月まで延期するように命じた。

10日 江戸城の建設の班が決められ、城はおおむね完成した。福島正則の班の分担分はほぼ完成したので、休暇が与えられ、江戸を発った。まだ作業が残っている人たちも人夫は残して帰国の許しが出たが、一万石の諸士には100人持ちの巨石を2個ずつ差し出す様に命じた。

加藤清正は石100,200、50,30個を諸将にそれぞれ提出させたので家康は歓んだ。

今回の建設作業中に、福島左衛門太夫正則の家を脱走した奴隷が、池田輝政の家で使われていた。それを福島の下僕が見つけて咎め、直ちに池田の屋敷へ乗り込んで、台所の前で取り押さえた。そこへ池田の軽率が出て来て、狼藉者として福島の下僕を捕まえた。

左衛門太夫がこれを聞いて、江戸城を建設中に騒ぎを起こすことは禁じられており、それを破った者は一族が罰せられることになっていたので、これに違反した奴隷はもちろん、下僕も死刑に処した。しかし、輝政の奴隷の方には、決して罰してはならないと申し送った。正則は短気で理不尽な性格だったが、今回は穏便だったと評判になった。

20日 福島正則は江戸から帰国し、今日伏見に着いた。彼は乱暴にも昨年安芸の厳島へ毛利元就が寄付した神領3千石を没収したが、嫡男の刑部大輔正之が乱暴なのは天罰だとして、50人扶ちを寄付した。更に彼は鳥居を建設したが、神社の祭礼の時に、代官の山本小兵衛が狂って死亡した。その他いろいろ奇怪な出来事が続いて、安芸と備後の人々は恐怖を覚えたという。

24日 津田長門守信成(2万石)、織田左門頼長(有楽の子)、稲葉甲斐守通廣(兵庫頭重通の三男)、天野周防守雄光、寺澤半左衛門、園田平六などは、京都郊外の愛宕山に参詣して帰りのこと、彫り物師の後藤長乗の妻が加茂辺りを散歩していると、彼らが彼女の輿の戸を開いて狼藉をしようとした。長乗の年老いた伯父の後藤光乗が一緒にいて、彼らを咎め「この輿の中は後藤長乗の妻である。お前たちに見覚えがあるぞ。お前たちに似合わない狼藉だ」と怒鳴ると、各人は赤面して退いたという。

7月大

8日 尾陽忠吉の寵臣の、小笠原監物忠重の推薦で雇った者を忠吉が改易した。忠重は忠吉を恨み、禄を棄てて逃げ出した。この人は和泉守貞朝の孫の和泉守吉次の子で、男色で愛されて厚遇されていたという。

15日 内藤仁兵衛忠政が享年75歳で死去した。

27日 家康は伏見から京都へ行き、二条城へ滞在したという。

〇今月、仙洞御所の造営を、越前黄門秀康が仕切った。

〇近江の坂田郡長濱の城を改修するために、内藤豊前守信成を来年駿府から派遣するということで、城の建設工事は近江や美濃の大名と飛騨の国主、金森法印に命じた。長濱は越後から難波への要路に当たるので、ここを信成に護らせ、北越の諸侯たちが秀頼に通じることを案じたためだという。

〇後藤長乗は、この春、京都の加茂で寄合衆が不法を働いたと訴えた。家康は彼らが出頭して申し開くように命じた。彼らには弁解の余地がなかった。そこで津田長門守信成、天野周防守雄光、稲葉甲斐守通廣、寺澤半左衛門、園田平六は、領地を没収され、織田左門頼長は有楽の家督を継いではならないことになった。

大島雲八、阿部右京、矢部七郎、野間猪之助、浮田才壽も連座によって改易された。(天野はその子の佐左衛門雄得が書院番に就いていたので、家が断絶することはなかった。周防守は慶長14年に蟄居先で死去した。

〇菅沼志摩守定仍の持っていた伊勢の長島城を、秀忠は家来の定芳に与えた。彼は定仍の末の弟である。定仍の弟の主膳定也は結局江戸には来なかったので、末の弟が兄の遺跡を継いだ。定成はそれを不服として世を捨てたが、近江坂本で間もなく亡くなった。

〇太田安房守資武入道武菴の子の新六郎重政の嫡男、采女資宗が7歳で家康に謁見した。後の備中守である。(寵妾の於勝の養子である)

8月小

11日 家康が参内した。内右兵衛督義直と常陸介頼宣が従4位下叙され、左近衛権少将になった。

16日 春日大社のメンテナンス料として、米2万俵を一乗院門主に寄付した。

27日 家康は二条の館から伏見城へ戻った。

〇この春から京都の大商人、角倉貝順玄之(素菴と号し書家)とその子輿市郎玄徳(厳昭と号した)は水運に長けていたので、丹羽から京都の世喜の邑、嵯峨野まで船を通すために運河を掘らせ、今月完成した。近郊は非常に便利になった。玄之の父は吉田輿七郎光由入道了以と号し、3代にわたって貿易に詳しく非常に利益を得ていた。

〇西尾隠岐守吉次が享年77歳で死去した。彼は酒井河内守重忠の三男主水忠永を嗣子としたが、実子が生まれたので別れて御家人となり、藤兵衛利氏と名を改め千900石をもらった。

〇四国と中国地方に大風が吹いて、田園が損害を被った。

9月大

朔日 島津少将忠恒が松平の諱をもらい、家久となった。(後年権中納言に昇進した)

7日 三河の成道山大樹寺には、徳川家の先祖の墓があるので、勅願所に準じて暹誉上人へ綸旨(*天皇からの文書)が贈られた。慶長11年9月7日 頭左中辯藤原ー大樹寺.jpg

21日 家康は江戸へ向かうために伏見を発った。伏見城には秀康がしばらく滞在した。

〇『保田家傳』によれば、家康は今回は、水口の宿で保田甚兵衛則宗を御家人にし、領地3千石を与えた。

23日 江戸城の本丸が完成し、秀忠が移った。親戚の鶴千代(24歳、後の頼房)には常陸の河内郡氏下妻5万石を与え、また、藤堂和泉守高虎には江戸城の修復の設計を仕切ったことを労って、備中の2万石を与えた。

10月小

朔日 家康は白須賀の宿で滞在した。これは長雨の為である。

和泉の葛下郡新庄の領主、桑山修理亮重晴入道治部法印宗榮が享年83歳で死去した。

6日 家康は駿河に到着した。この城を河野へ移設する段取りを決めた。

11月大

4日 家康は江戸城へ戻った。

6日 伊勢の桑名城下が大火事になった。

青山播磨守忠成と内藤修理亮清成は、以前家康の狩場でカスミ網をかけて鳥を取っただけでなく、謝罪しなかったので秀忠は怒って重い罪を科すべきと本多佐渡守正信が家康に進言した。阿茶局や侍女が家康に嘆願して、ようやく彼らは許され、家康は秀忠に2人を罰しないように命じた。秀忠は歓んで2人の罪を許した。しかし、それまでのように親しく接した様子はない。

このところいろいろ議論した結果として、駿府の城を河野へ移設することは中止して、城を南北へ拡張して増築することになった。

11日 秀忠の前で越後の国主、堀久太郎が元服した。従4位下侍従となった。松平の名前をもらって松平越後守忠俊となった。この人は堀 左衛門督秀政の孫で左衛門督秀知の子である。

15日 安房の国主、里見梅鶴丸が秀忠の前で元服した。従4位下安房守となった。諱の一字をもらって忠義となった。

21日 家康は川越の村で狩をした。

浅野弾正少弼長政は隠居料として、常陸の真壁5万石と近江の愛智郡内に5千石をもらった。

28日 堀 太郎左衛門秀重が享年75歳で死去した。この人は斎藤道三入道の家来の掘り掃部助 秀澄の子で秀吉に仕えた。

12月小

2日 家康の密命によって、秀忠は古河の下妻佐竹筋を巡視するために放鷹として江戸を発った。

里見安房守忠義が侍従となった。

23日 仙台の政宗の娘が上総介忠輝へ輿入れた。瀬上丹波、鈴木茂右衛門、坂将監などが輿に付き添った。 これは慶長3年から約束されていたことである。

〇この月 細川忠興の長男内記忠利が侍従となった。

酒井與七郎忠勝が従5位下備後守となった。後の讃岐守である。

駿河と伊豆の代官の井出甚助正次が従5位下志摩守となった。

〇この年、永楽銭の流通が中止され、薄銭が流通した。

〇秀吉の妻が東山の高台寺を建立した。福島と加藤が太夫を出して協力した。

〇対馬の宗義智の使者の報告によれば、先に家康が命じた朝鮮との和平のために使者を派遣するように朝鮮側へ連絡すると、先方はこれを了承し、明が残している守護兵を帰国させた。また、日本へ派遣した使者が、日本へ到着したという。家康は喜んで対馬から来た使者に刀を与え、雞林の使者には米千石を九州で贈った。

〇松平周防守康重の家来、岡田大和丈次の子、内記元勝が御家人になった。彼は大和で最初竹右衛門と名乗っていたが、優秀な士だったので、慶長6年に1万石をもらい伏見の城番を命じられた。しかし彼は大和で仕事を長く続けたいと固辞した。家康は非常に残念に思って、内記を阿茶の局の子の神尾五兵衛守世の弟として召し抱えた。彼は後に備後守になった人である。

〇長崎奉行の小笠原一菴が死去した。その後任として長谷川左衛門藤廣が命じられた。

〇久保五郎勝周に300石が与えられた。この人は大獣公と時代に御所附として和泉守になった。

〇安藤治右衛門正次を暫定的に建設奉行とした。

〇柳生但馬守宗厳が死去した。二男の又右衛門宗規が禄を継いだ。彼は新陰流の剣道を引き継いだ後に但馬守になった。

〇林又三郎信勝が江戸に来て、秀忠に謁見を許され、以後長く駿府で働くように命じられた。彼は師匠の妙壽院惺窩に別れの挨拶をするためにいったん帰京した。その時師匠は『延平問答』一巻を信勝に与えた。これは彼の将来を思ってのことだったという。信勝は林羅山の子の道春のことである。

〇伊豆の銀山は、最初は彦坂小刑部直通が管理していたが、大久保石見守長安が調査して、銀の含有量が50%ほどもあってほとんど佐渡の銀山に匹敵することがわかった。そこで家康は彼に河合作兵衛と同心50人を付けて管理させた。

長安は天正10年(武田が滅んでからは)井伊直政に使われていたが、その後家臣にしてくれないので逃げ出して、流浪していた。やがて彼は家康から500石をもらって近臣になった。

〇大河内又次郎正勝が死去した。この人は三河の士の勘解由左衛門忠正の嫡子で、天正18年以来武蔵の多摩郡三木村に250石の領地をもっていた。

〇伊勢の松阪城主、古田兵部少輔信勝が享年47歳で死去した。この子の重恒が幼かったので、信勝の弟の大膳重治に家督を継がせたという。

〇狩野右近孝信の次男、尚信が生まれた。最初は三位と呼ばれ、後に主馬となり頭を丸めて自適齋と号した。(慶安3年45歳で死去した)、彼は兄の探幽に劣らぬ絵描きだった。

武徳編年集成 巻52 終(2017.5.10.)