巻54 慶長13年正月~9月

投稿日 : 2016.08.05


慶長13年(1608)

正月 大第54.jpg

元旦 日蝕があった。

(*当日は新暦1608年2月13日に当たり、南半球では皆既日食があったが、日本で見える日蝕は見当たらない。『当代記」では、日蝕は4月朔日とあり新暦5月14日に当たるが、この日にも該当する日蝕はない。https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEcat5/SE1601-1700.html)

江戸城では諸将が登城して、新年の行事が例年通り行われた。しかし、駿河城では去年の冬に本丸が火災にあったので、家康は、二の丸にある本多上野介の家で、秀忠の名代の酒井左衛門家次などの年賀の挨拶を受けているので、恒例の行事はおそらく省略されたと思われる。

4日 駿河の本城や湟、館の再建が急がれるので、熊野や木曽などの山から巨木を切り出させ、伊豆の山には関東の人夫を行かせて、伐採させた。安藤対馬守重信が江戸からも材木を運んで、用立てることを家康に申し出た。

朝鮮の通信使の道中の世話のために動員された人々は、今回の駿河での仕事は免除されるはずだったが、火災が起きたので、例外として彼らも働くことになった。

13日 雨が降らなかった。去年の冬から80日ほどの間、駿河では雨がなく、干ばつとなった。その他の地方も雪が降っただけで、雨はなかった。

15日 横須賀から久世三四郎廣宣、坂部三十郎廣勝、渥美源五郎勝吉、筧助太夫正重らが立ち退いた。これは大須賀国丸の後見人の大須賀五郎兵衛を憎んだためである。

26日 武蔵の岩槻城主、高力河内守清長が享年79歳で死去した。三河の三奉行の1人で功労者である。

2月小

3日 三河時代からの功臣の太田善太夫吉勝が死去した。この人は天文17年三河で戦死した善太夫吉房の嫡男で、関ヶ原の時に信州の上田の7本槍の1人の善太夫吉正の父である。(吉正は大獣公まで徳川家に仕え、寛永15年3月に死去した)

14日 駿府の本城が上棟した。

(*余談になるが、『当代記』にはこの頃の記事として、「この春、小人島の者だといって、京都で見世物小屋を建て、入場料を取って人に見せた。日本人なら5,6歳の子供位の背丈だった」とある)

18日 秀忠が、江戸の仙石越前守の館を訪れた。

27日 大阪で秀頼が疱瘡に罹ったので、西国の諸侯が忍んで見舞いに来た。福島左衛門太夫正則は大阪へ駆けつけ、日夜寝室で看病したので容体が回復し、今日秀頼は酒湯を浴びた。

〇今月、江戸から、青山図書介重成が使いとして駿府へ来た。

家康は、この夏には秀忠を駿河城へ呼びたいので、それまでに工事を終わらせるように、諸士へ指示した。

水野対馬守重英に、1万石を与えて長福に付けた。中山左助信吉にも5千石を与えて、鶴千代に付けた。(後の備前守)

〇大久保石見守長安を佐渡へ行かせて、金鉱の調査をさせた。採掘場と海の深さが等しいので、水が湧き出て金掘りも手の付けようがなかった。

〇南部の金山を見つけて金掘り(*山師)たちもそちらへ移ったが、最初は砂金が多く出たが、やがて尽きてしまった。松前にも金山があり、金掘りが駆けつけたが、松前志摩守慶廣の城に米がなく、人夫が押し寄せると食糧難になるので、採掘が禁止された。聖武天皇以来、奥州では金が産出されたという。

3月小

3日 駿河城に瓦を葺いた。家康の席のある部屋の上は、白鑞(*錫92%、銅2%、アンチモン6%の合金)が張られた。

11日 (『玉露叢』には13日、『家忠日記』には10日)の朝、家康は駿府の二の丸から、本城の新しい館へ移った。

伊達越前守政宗に松平の称号と常陸の筑波、信太郡の1万石を与えた。これは江戸に住む滞在費という。また、陸奥守に改めるように命じた。

〇今月、松平三左衛門輝政の次男、池田藤松丸(10歳)が秀忠の前で元服した。松平の称号と諱の一字をもらって忠継となり、従4位下侍従兼左衛門督となった。弟の勝五郎(7歳)も称号と諱をもらって、従5位下宮内少輔忠雄となった。彼の兄の右衛門督利隆は2人の弟を連れて秀忠の前に出て、称号と刀(長光)と脇差(国光)をもらい、武蔵守の名前を譲られた。(後日帰国の暇をもらったとき、馬2匹、大鷹と白銀、美服をもらった。そして鵜殿兵庫介重長の案内で、相模の鎌倉の旧跡を巡り、駿府を訪れて家康に挨拶するように、命じられた。利隆は松平武蔵守となった)

〇 この春から夏の間に、和泉の多武嶺の大職冠(*藤原)鎌足の廟の前に生えていた5~6間の高さの松の老木が、わけもなく裂けて、松脂が流れ出た。また、楼市というところで、大職冠の像が壊れたという噂が流れた。土地の人の話では、これまでに7回壊れることがあり、その時はいつも朝廷に凶事が起きると、伝えられてきたという。

そこで僧たちは怪しんで、僧の中でも清純な僧を選んで像の前に行かせ、戸張で囲んで像を撫でると、やはり皮が裂けて膿が流れ出し異様な香りを発した。早速京都へ行ってこれを天皇に報告した。

公家たちは非常に驚いて、いろいろ調べた結果、御所の奴婢の内部告発として、「烏丸参議左大辨光廣、花山院少将忠長、徳大寺少将實久、飛鳥井少将雅賢、大炊御門侍従頼国、難波少将宗勝、松本少将宗澄、猪熊侍従教利などのイケメンたちが、広橋の局(大納言兼藤の娘)、唐橋の局(中院大納言道村の妹)などの官女5人を伴って、京都を遊びまわり、密かに乱交パーティーをしていた」という。

そこで所司代の板倉伊賀守に命じて詳しく調査させた。多武に凶相が出ているのは、まずいことが起きる前触れだが、広橋と唐橋は天皇がことのほか寵愛している上臈たちだから、これが明るみに出ると天皇の逆鱗に触れるので、この件は熟慮の上、天皇の耳に入れるのは差し控えられた。そうして吉田左兵衛督卜部兼次は、当時神官のトップだったから、天皇の使いとして和泉に派遣された。舊例(古来のしきたり)で深夜のことである。

大和と河内の方々から人々が多武嶺に集まった。しかし、兼次が廟の前で天皇の宣命(*のりと)をあげようとした時に、人々はなんとなく怯え慄き、兼次も2里ほど退散した。この話が天皇の耳に入ると、兼次は交代させられ、歴代文官の総元締めという由緒ある家だということで、五条少将菅原の為適が派遣された。

彼が廟の前で宣命を読み上げると、霊像の破裂が治り、膿が出るのが止まった。そこで為適は徳が高いとされ、一階をもらった。家康も駿府からそれを褒めて、手紙を送った。

先の面々は、所司代に出頭して罪を糾弾された。猪熊侍従は逃亡したが、全国に指名手配された。

4月大

〇福島刑部少輔正之の後妻が、安芸から江戸へ来た。以前正之は父によって殺されたからである。彼女は実は家康の父違いの弟の松平因幡守康元の娘で、秀忠の養女であるが、今度康元の居城の上総の関宿へ出戻ったわけである。

5月小  

朔日 三河の大崎の舟手役、中島輿五郎重好が享年42歳で死去した。この人は板倉伊賀守勝重の異父の兄という。

14日 信州衆の日向玄東斎(本姓は新津)が死去した。この人は武田勝頼が死んだ後、甲斐の積翠寺に住んでいた。その子の半兵衛正成(最初は傳三郎)を家康に仕えさせた。

以前に徳川家を離れて頭を丸めた小幡勘兵衛景憲は、関が原で井伊直政の組に入って功績を上げた。今日彼は近江の愛知川で狩を楽しんだが、そこで喧嘩になった。景憲は御子神典膳忠明の門人で剣術に優れていた。彼は刀を抜いた6人と棒を持った7人を相手にして、1人で斬り払い8人に怪我をさせた。残りの5人は逃亡した。

18日 北条美濃守氏盛が享年32歳で死去した。この人は伊豆の韮山の城主だった美濃守氏規の子である。

〇今月、伊賀の国主、筒井伊賀守定次は、家康に疑われ駿府へ出頭した。その訳は次の通りである。

彼の功臣の中坊飛騨守秀祐は、家康の意向で直臣並みに扱われ、そのころ奈良の訴えごとを仕切っていた。彼は大久保石見守長安と非常に懇意にしていて、和泉の幕府領の税を取り仕切っていた。石見守が駿府の自宅を、部下の代官などに建てさせているので、飛騨守も長安に媚びを売って、同様にサービスしていた。しかし、春以来体調をこわしたので、彼の子の左近時祐を伊勢の上野より呼び出して、自分の代わりに大久保の家の建設をさせようとした。筒井定次は、時祐が自分の家来なのに駿河へ出かける理由は何もないと、大いに怒って彼を留め置いた。

さて、定次は、生まれつき放蕩でみだらな人で、大阪の順慶町の家に住んで、いつも取り巻き7~8人と悪友の大野道犬らとみだらな集まりばかりに耽っていた。また、伊賀にいたときも、老臣に会うことも拒んで、いつも山野で狩を楽しみ出歩いて、仕事はさっぱりはかどらず、領内の士気や風紀が荒廃していた。飛騨守のそんな様子の一部始終を、家康に報告したので家康は定次を駿府へ出頭させて取り調べることになった。

〇今月、暴風雨が続いた。(林鐘(*6月)になっても止まなかった)

〇駿府に娼婦や遊女が多くなって、諸士の風紀が乱れ、諍いが頻発した。そこで彼女たちを放逐するように家康は命じた。

〇元の武田の家来の横地左衛門元貞(初めは兵衛)が享年52歳で死去した。

6月大

朔日 一柳監物直盛は、領地の伊勢の神戸5万石に替えて、伊予の西條に6万8千600石を与えられた。その内5千石は当時人質として、江戸にいた次男の直重に渡す様に命じられた。これは直重が関ヶ原で活躍したからである。

8日 畿内と摂津、河内が洪水に襲われ、京都の室町では、家が流され家財が喪失した。また大きな川の堤防があちらこちらで切れて田園が損害を被った。

11日 再び洪水に襲われた。

16日 朝から快晴となり、越前少将忠直の妹は、今日福居(*福井)の城を発ち江戸へ赴いた。これは毛利輝元の子、長門守秀就が当時質として江戸に居て、彼と結婚するためである。

20日 筒井定次の領地の伊賀一円と伊勢の5万石および山城の2万石が没収され、子供の宮内と藤堂和泉守高虎に預けられた。彼の家来の桃谷與太左衛門国仲も高虎に付かされ、国仲の子の輿太左衛門国之、河村輿六郎正之、松浦左内祐次は、家の決まりを破った咎で殺された。定次は信長の甥で今年47歳、子の宮内は8歳だった。家財の処置は定次に任され、どこへでも持っていくように命じられた。こうして彼の一族は全員浪人となった。中坊飛騨守秀祐は家康の直臣となった。

〇この日、丹波の八上の城主の前田主膳正利宗は、気が狂って老臣などを殺し、京都を徘徊してから江戸へ向かった。しかし、水口で住民にボカボカにされ、ひどい状態で伏見へ連れて行かれ、結局獄に入れられた。この人は徳善院玄以の子である。家康はすぐに彼の領地5万石を没収して、松平周防守康重に与えた。(康重の領地は、元は常陸の笠間城2万石)

丹波は山陰道の要地であるが、家康は八上の城は不十分なので破棄し、近くの篠山に新しく城を築く段取りをするよう康重に命じた。

そこで康重は八上へ行って、八上の城の図と篠山の地図を駿府へ提出した。その使いをした石川善太夫昌隆は、三河以来家康には面識があった。家康が彼を呼んで土地の様子を尋ね、藤堂和泉守高虎、松平大隅守重勝、石川善太夫正次、内藤金左衛門清久、安藤治右衛門正次に命じて、丹波、丹後、播磨、美作、備前、備中、安芸、紀伊、四国から人夫を出させて、新城を建設させた。山上の城なので、石を切り開く必要があり、井戸を掘るために2年かかった。池田輝政や福島正則、加藤喜明も建設中に現場を視察して指揮を執った。完成後はすぐに篠山城と命名された。

松平周防守の前の城の笠間は、近くの下館の城主水谷伊勢守勝俊が護ることになった。

29日 京都の寺町で、谷出羽守好衡の子の何某が、蜂屋越後守直政(伯耆守孫實は丹波長秀の子*?)を斬って谷は逃亡した。

7月大

朔日 家康は伊勢の桑名城主、本多美濃守忠政、美濃の加納の城主、松平飛騨守忠次、近江の彦根城の城主、井伊右近太夫直勝に家来たちを連れて、伊賀を受け取るように催促した。(彼らは今月5日に、それぞれの領地から出発した)安藤治右衛門正次は前に新しくできた丹波の篠山城の監理を命じられたが、今回また伊賀の件も取り仕切るように命じられた。

〇筒井の家臣、松倉豊後守重正は、伊賀の簗瀬城で8千石を持っていたが、勇敢な武将で関が原で貢献したので、家康の直臣となって和泉の二見に1万石をもらった。

10日 伊勢の上野城を3将が受け取り、本丸に松平飛騨守、二と三の丸はくじ引きで井伊と本多が護った。

17日 比叡山の延暦寺は信長に焼き捨てられ、寺領は全て没収されていたが、家康は近江の滋賀に5千石を寄付した。

20日 伊奈備前守忠正の家来が尾張に来て土地を調査した。これは平岩主計頭親吉が、去年甲州から尾張へ移り、夏に犬山へ入ったが、土地の調査をせず犬山の租税の徴収をしていなかったからである。

26日 駿府の執事の指令が伊勢の上野に届き、井伊右近太夫の家来がこの城を護り、本多忠政と松平忠次は帰国することになった。

29日 飛鳥井参議雅庸が、信長と秀吉の証文を家康に提出して、加茂(*神社)の社人の松下が、みだりに蹴鞠の免許を出すと訴えた。証拠がはっきりしていたので、松下の出した免許は無効にされた。

8月大

朔日 畿内は70数年来の大洪水に見舞われた。

6日 飛鳥井雅庸へ印章が贈られた。慶長13年8月6日 家康ー飛鳥井雅庸.jpg

18日 駿河城の竣工記念が催された。

天皇からは太刀、馬代(黄金2枚)綸子10巻、皇太子からは太刀と馬代(黄金1枚)が贈られた。

秀忠は13日に駿河に向けて江戸を発ったが、暴風雨のために遅れて、今日駿河城に着いた。家康に会って太刀1本、馬、袷30着、反物10本、帷子(10枚)を贈った。家康は嬉しそうに食事を勧め、贈り物を持ってきた人々に食事をふるまった。

秀頼や公家から、また越前と越後の両家と、老臣たちが献上した品の目録は次の通りである。

国光の刀1本、黄金 10枚、右大臣秀頼
時服2着、廣橋大納言兼勝
同、観修寺大納言兼豊
助重の太刀1本、白銀100枚、越後布200反、越後少将忠輝
国安の脇差1本、白銀200枚、綿 500束、越前少将忠直
白銀100枚、藤堂和泉守高虎
黄金3枚、本多佐渡守正信
蝋燭500本、大久保相模守忠隣
同、酒井雅楽頭 忠世
同、土井大炊頭 利勝

以上の献上品は、永井右近太夫、石川主殿頭忠総、西尾丹後守忠永、榊原伊豆守正次、遠山民部、城 和泉昌茂が披露した。

20日 正午、駿府の本城の天守の上棟大工の長の中井大和守正次が、叙爵(*従5位下)とされ、天守の棟に薄板を5色に塗って幡として、5本の弓に矢を添えて建てた。家康と秀忠は天守に登って、上棟のくい打ちの儀式を眺めた後、薄銭10貫文と白銀116枚(8袋に入れて)、太刀1本を中井大和守に与えた。

天守は全部で7層、広さは次の通りである。(7尺を1間とする)

最上層 4間x5間
屋根は唐破風 板鬼板 腰は全て白臘、懸魚 鰭逆輪釿頭は全て銀。鴻吻熨斗板 逆輪鬼板は金包(物見段がある)
2層目 5間x6間  上と同じ
3層目 6間x9間  上と同じ
4層目 8間x10間 上と同じ
5層目 9間x11間 上と同じ
6層目 12間 四方 上と同じ
7層目 12間 四方 4面に階段がある。

全て銅の瓦で、頭は金で装飾がなされて、軒瓦はすべて金張りで、各階の天井は、極彩色の絵がはめ込まれ1層から6層まですべて四方に欄干があった。

22日 秀忠が駿府に滞在している間は二の丸に留まった。長福(7歳)が猿楽を練習して家康に見せる準備をした。

25日 駿府の本城で家康は秀忠を饗応して、行平の刀を秀忠に贈った。

〇 この月、駿府の街で夜に辻斬りが出た、そこで見つけたものに賞金を出すという高札が出た。

9月大

3日  秀忠は江戸にもどるために駿府を出て、清見寺に泊まった。その寺には等持院の贈った左府尊氏(*足利尊氏)の墓があり訪れた。

8日 菅沼左近将監定芳は、濃州大柿(*大垣)に赴き、石川日向守家成が老齢なのでその家来を定芳が連れて、伊賀上野に行き、そこを警護していた井伊右近太夫と交代して守った。

10日 今日から坂東、坂西の大小名は駿河城の落成のお祝いのために城へ参詣し、白銀百枚に土産を添えて献上した。遅れてきたものは白銀2~3百枚と長持5棹に衣服を入れるか、白銀5百枚と長持10棹に衣服や寝具を入れて献上した。その後彼らは江戸へ向かって秀忠に挨拶に行った。

今月、生駒讃岐守正俊と浅野弾正小弼長政は妻子を領地から江戸へ行かせた。秀忠はその意を察して機嫌を直して江戸城の手伝いの役を許した。

内藤修理亮清成が享年54歳で死去した。

京都の妙満寺の塔頭常楽院日敬は関東へきて上総に住んで、他の宗教は無意味だと説いて、特に天台や禅宗を誹謗した。それから周りの国に行って、浅学なのに口に任せて諸宗をあざ笑いながら常陸の黒子まで行った。そこの天台宗の仙名寺の僧が宗論を持ち掛けると、日敬はすぐにその地を去ろうとした。それを日蓮宗の宗徒が止めて、ほかの宗を弁論で負かせてくれと頼んだ。日敬は家康は浄土宗を信じて増上寺の観智と血脉(*血筋)が通じているので、自分は浄土宗と議論して家康もわが宗徒にすると言って出て行った。仙名寺は彼を追いかけて議論しようとしたが、一言も対応せずに逃げ去った。そして、仙名寺と宗論して勝ったと言って、尾張に行き、再び諸宗を誹謗した。そして宗徒の下駄に阿弥陀と彫らせ、手紙を京都の西山正覚寺の澤道和尚に送り、諸宗を誹謗したので放っておけず、清州の性高院玄道に頼んで増上寺の観智和尚に訴えた(宗論は9月□日云々)。

12日 家康は尾州清州に出かけて政令を下すはずだったが、急に坂東へ向かい、途中で放鷹しながら岩槻で狩りをしているときに、今日、秀忠も岩槻に行って家康に面会したという。

18日 秀忠が江戸へ帰った。

20日 松平丹波守康長の居城の総州古河城が焼失したという。

武徳編年集成 巻54 終(2017.5.13.)