巻60 慶長16年11月~慶長17年5月

投稿日 : 2016.09.08


慶長16年(1611)

11月大第60.jpg

5日 家康は先月から今日まで、戸田や忍等で狩をした。

6日 秀忠は鴻巣で放鷹をした。

8日 家康は今日も忍の村で狩をした。伊達政宗が仙臺から江戸務めに赴く途中、夜に家康に面会し、黄鷹10居と馬10匹を献じた。家康は引き続き毎日放鷹をした。

9日 家康は忍城へ観智国師を招いて、上野新田の庄に、先祖の義重からの菩提寺を建立するための土地を探すために、土井大炊頭利勝と成瀬隼人正正成とともに新田へ派遣した。

11日 忍の辺りで、家康は自分で眞鶴と黒鶴を捕えた。秀忠は毎日使いを送って家康の機嫌を伺い、今日も肴三種を献上した。南部信濃守利直は、在所から家康に会いに来て茶を献じた。家康はそれを飲んで、残りを利直に与えた。紹都検校(*千都検校?)が平家を語ったという。

12日 駿府より知らせが届き、遠江参議が10日から疱瘡を発病した。そこで家康はすぐに駿府へ戻ることにした。

13日 家康は忍から川越に向った。秀忠は、6日から今も鴻巣で放鷹をしていたが、家康に会って本多、永井らの家来5,6人と後藤光次に、黄金、美服あるいは馬を与えた。

今晩新田から、観智国師や土井と成瀬が戻ってきて、大炊頭義重と左中将義貞の遺跡を探ると、年寄りの農夫が「世良田の近所の金山城の麓に古い屋敷の跡があり、そこが新田遺跡だ」といった。利勝は人夫に丘の上を掘らせてみると、古い瓦や石仏が出て来たと報告した。家康は非常に喜んで、その場所に寺を建てるように命じたという。寺を建立した後は、義重山大光院として寺領を授け、住職を決めた。僧には定紫衣を与えるという天皇の勅許があり、義重への贈官の絵図が、その寺に残っている。

(*『当代記』では10月の最後に、家康は、江戸で徳川の先祖の位牌のある場所を尋ねさせた。世良田の近所にその寺の跡があるという年寄りの百姓の話を聴いて、使いを遣って証拠を探させた。そこを掘ると石仏が出た。江戸の増長寺の今国師に寺を建させたとある)

家康は廣忠のために、新たに三河の能見山の松應寺を建立して、田を寄付した。住職には定紫衣を贈り、贈官の絵図をこの寺にも納めた。(廣忠の死後、火葬を行った場所である)

〇しばらく前、家康は先祖の系譜を知るために、福山月齋と足利学校寒松鐵輿などに新田界隈を調査させると、義貞の子孫の世良田徳川の一族は、足利尊氏将軍の時代に上野から奥州か信州へ落ち延びて、恐らく自害したので当時のことを知る文献がなかった。しかし、上野の金山に、最近まで新田治部大輔という人が城に住んでいて、庶民は新田の親分と尊敬していた。ところがこの新田は直系ではなかった。

新田の一族の田中、大島、岩松の3人は、義貞に恨みがあって、比叡山から後醍醐天皇方へついて尊氏に降伏し、それぞれ上野に領地をもらった。なかでも岩松治部大輔直国は、尊氏の二男、関東の御所基氏へ功労があって、新田の金山の地をもらい、代々その地の長となって、金井新左衛門と名乗った。岩松治部大輔入道天用は、永享の頃、賊臣の上杉禅秀に一族が殺されて、彼の家は衰退した。

その後、天文の頃、武蔵の小野氏の子孫、雅楽助國繁が浪人として金山に来て、岩松氏によく仕え、やがて家来から鎮代となって、家中がすべて彼につき、新田と名乗っている主君の治部大輔を追い出して、金山の城を乗っ取り、由良信繁を名乗って、その子の成繁までの2代は隆盛し、天正18年までこの城に住んでいた。しかし秀吉に領土を減らされ、3代目の新六郎高久は、しばらく常陸の牛久に5千石をもらった。

國繁の自筆の2枚の短冊に、小野國繁と書かれているのを寒松が手に入れた。一方、永正の頃に、金山の城主、新田治郎大輔尚純入道静嘉も和歌が好きで、書き残した文章に、岩松の盛衰が大体書かれているのも、月齋が探してきて家康に献じた。

家康も、月齋に岩松を訪ねさせると、岩松明純はすぐに駿府へ来て、應永の頃に、持国入道天用から父の治部大輔宗純までの6,7代の家系図を献じた。しかし、その最初の人はよくわからなかったので、古河の足利御所へもって行って古文書と引き合わせて詳しく吟味すると、この家は新田の直系ではなく、岩松直国の家に紛れ込んで理由もなく、何代も住んでいた者であることがわかり、彼は登用されなかった。(『昭代実録』、『慶長日記』に書かれている)

14日 家康は武蔵の府中へ着いた。秀忠は江戸城へ戻った。

15日 駿府から施薬院と輿庵法印宗哲が、頼宣の疱瘡がようやくよくなってきたことを急いで知らにきた。そこで家康はゆっくり旅行をして、放鷹をしようと稲毛に行った。

16日 神奈川に着いた。秀忠が来て家康に会った。秀忠は神奈川の金蔵寺に2,3日滞在したという。今晩米澤黄門景勝が神奈川の家康を訪れ、綿500把、蝋燭500本、糟毛の馬を献上した。

17日 大風が吹いて、家康は神奈川に滞在した。 夕方金蔵寺から秀忠は家康に会って歓談し、本多佐渡守も同席した。

18日 藤澤に着いた。秀忠は江戸へ帰った。増上寺国師の弟子、玄恵が家康に会い、本堂の屋根葺き替え代白銀千両をもらった。鎌倉の荘厳院も会いに来て、頼朝、頼家、実朝と北条の諸規定を解説した。また、保元から歴應までの政治を記した『保歴聞記』を持っているのを見せるように命じられた。秋田侍従義宣が蝋燭を千本献上し、家康に会った。

19日 相模の中原に着き、夜に荘厳院が『保歴聞記』を献じた。家康はすぐにこれを読んで、鎌倉の史跡について質問した。

20日 小田原の城へ入った。城主の大久保忠隣は喪中で会わなかった。

21日 三島の宿に着いた。

22日 今泉善徳寺へ着いた。伏見から急ぎの知らせが来て、17日の未明に伏見の町中から火が出て、島津、亀井、古田、田中、稲葉、森などの大名屋敷が10軒あまりと、民家千軒あまりが焼失したという。

今日小田原で千軒、伊豆の下田村と駿河の田子の里も焼失した。皆盗賊による放火ということで、早速取り調べるように命じた。

23日 駿府へ帰った。早速頼宣の元へ行き、疱瘡が日を追ってよくなっていることを喜んだ。

今回、関東へ出て放鷹し、帰途にも毎日放鷹をして獲物を沢山獲った。秀忠は毎日家康の安否を尋ね、今日も土井利勝を使いとして派遣し、頼宣の疱瘡の様子などを丁寧に尋ねさせたので、家康は喜んだ。 諸国の主たちも頼宣の疱瘡の話を聴いて、使節を送っていたという。

28日 明の高官が秀忠を訪問した。今後日本のどの港にも中国の船が着くときには、いつでも肥前の長崎で貿易を行えるようにすることを、谷川藤廣へ公式に指示した。

29日 京都の大商人の角倉與一玄之が家康を訪れ、父の了意が淀の鳥羽から三条大橋まで水路を拓き船を通わせ、御所建設の材木の運送が便利になったこと、また、大仏殿の屋根に瓦が葺かれたことを報告した。

今日、永田彌左衛門久勝入道宗祐が死去した。(享年86歳)、彼は元佐久間右衛門尉信盛の勇士である。現役では信長に仕え、その後信雄の家来となり、信雄が没落してからは、江戸へ出て髪を剃り、その子彌左衛門重直を秀忠に仕えさせた。

晦日 伊達政宗が初めて鱈を家康に献じた。

後藤庄三郎が、家康に「先日(*10月28日、新暦12月2日。M8.1、慶長三陸地震)政宗の領内で大津波があり、5千人が溺れ死んだ。これが起きる前、政宗は家来2人に命じて、漁師とともに海に出て魚を獲らせた。しかし、漁師は天気が怪しいので何かが起きるといったが、一人はそれを聴き入れたが、もう一人は政宗の命は破れないとして、漁師7人と船に乗って10町ほど漕ぎ出した。

するといきなり海面が大きく変化して、山のような風波が船を襲って流し、乗っている者は気を失ってしまった。しかしずっとあとになって波が収まった時には、漁師の住んでいる家の近くの山の上の、千貫松という辺りまで流されていた。すぐに船を木に繋いだが、波が引いてみると船は松の梢にあって、漁師は木から降りて麓の里へ行くと、家は流されて一軒もなく、先ほど船に乗らなかった政宗の家来も、行方知らずとなっていた。

家康は、船に乗り込んだ家来が政宗の命令を守ったので助かったのだといったという。政宗も彼を褒めたという。同じ日、南部や津軽にも大津波がきて、同様なことが起きた。男女3千人が波に流された。(『駿府政事録』に書かれている)(*『当代記』に記述なし)

〇甲州の衛護の柴田七九郎康長と、組衆や与力が抗争する事件があった。康長に問題があったので改易され、上野の足利に蟄居させられた。組衆の松平小作、加藤久米之助など大御番2人(後で土岐山城守の組となって、徒同心もそれに続いた)、与力の水原内匠、花村忠兵衛、内川七左衛門、山田六右衛門、内田小太夫は、甲府の定番に加えられた。康長は非常に強い士だった七九郎の子だから、結局は許されて復帰した。後に筑後守となった人である。

12月大

朔日 尾陽侯の家来、平岩主計頭親吉の病気が重いので、秀忠は阿部四郎五郎正之に容体を尋ねさせた。

5日 阿部正之は昼夜兼行で、名古屋から江戸へ来て平岩の病状を報告した。秀忠は往復昼夜で10日という早さだったので、非常に感心した。

8日 阿部正之を駿府へ行かせて、家康に親吉の病状を報告させた。

11日 正之が江戸へ戻った。

13日 政宗の二男、伊達虎菊(13歳)が秀忠の前で元服し、諱をもらって正5位下、松平美作守忠宗を名乗った。(後に越前守となり、陸奥守に改めた)

14日 家康は数寄屋にて日野唯心、織田有楽、山名禅高に茶をたてた。お茶入楢柴、薄茶入朱衣、掛物虚堂墨跡、花生古銅という。花は家康が生けて、有楽に茶を献じさせた。黄金3千両を与えた。

15日 島津龍伯の遺物、長光の刀と左文字の脇差が家康に献じられた。

明の皇帝が、去年虜にした琉球王の帰国を許せば従来通り琉球との貿易をしたいと要請したので、島津家は中山王を帰国させた。その謝礼として琉球人が江戸へ来て、いろいろな品物を家康に献上した。

富士山の麓の本門寺佛法を弟子に伝えた日蓮の真筆2幅を、後藤庄三郎が家康に見せた。そこには釈迦の50年の仏法(*説法、法華経)日蓮の弟子日興(*白蓮)阿闍梨と記されていた。これを見ると、日蓮は昔の考えを棄てていないことは明らかである。後學の者が原典をよく知らなくて、わずか42年で真理にこだわって他教を棄てるのは、日蓮の考えとは違うと家康は判断を下した。(駿府政事録に書かれている)

16日 久留島右衛門佐越智康親が死去した。(享年31歳)その子の道春は6歳で遺跡を継いだ。

この頃、植村土佐守泰忠入道法印が行年73歳で死去した。最初は三河の鳳来寺の別当の安養院である。味方が原の戦いの時からの家康に仕えた。

21日 家康は田中へ狩に出た。

堺の政所職の2人の内の、成瀬隼人正正成は駿河に在勤し、駿府の政務を仕切っていて、米津清右衛門正勝が1人で堺に務めていたが、駿府へ戻り家康に会った。

秀忠が、金森出雲守の霞が関の館を訪れた。

24日 平林藤三郎正次が享年26歳で死去した。この人は藤助正廣の子である。正次の子の次郎右衛門正好が禄を受け継いだ。

〇この年、諸国の徳川領の年貢は江戸に運び、倉庫に納めるように、又美濃と伊勢の公田と近江の12万石は、駿府へ収めるように命じた。

〇大久保仙丸(8歳、後の加賀守忠任)が初めて家康と秀忠に面会し、亡父加賀守忠常の遺領2万石をもらった。この人は相模守忠隣の孫で、その2万石は父忠常の住居費だった。

〇一尾小兵衛通春が、近江の蒲生郡の千石をもらった。

〇但馬の豊岡の城主、杉原伯耆守長房は、ある理由によって常陸の新張郡小栗庄の5千石を追加された。(ある話では、彼は去年に質を江戸へ早く献上したからだという)

〇寺澤次郎が従5位下式部少輔となった。

〇安藤治左衛門正次が、暫定的に営作諸事を仕切ることになった。阿部四郎五郎が使番となり、大久保新八郎康村が大番頭となった。

〇今川左馬助源範以の長男、徳英(母は吉良左兵衛義安の娘である)が初めて秀忠に面会した。

〇美濃部助三郎茂次が死去した。この人は慶長6年初めて近江の田賀に領地を300石をもらい、水口の城を守っていた。そして大阪方面で何か怪しいことがあれば報告するように命じられ、駿府に年に一度勤務した。ところがその子の権之助茂正は、父の禄を奪って近江の水口に住んでいたが、元和元年秋から申し出て江戸城で勤務した。

〇拓殖平右衛門正俊が駿府で死去した。正俊の祖父は、尾張の春日井郡楽田の城主、織田弾正左衛門信定の子の興四郎行正が、享年31歳で天正5年病死し、嫡子の兵右衛門正俊は没落した。彼が14歳の時には、水野下野守信元の家来だったが、信長の命で織田を名乗らず、拓殖と名乗った。慶長5年に家康について上野に来て、長く御家人を務めた。

〇安藤対馬守重信は、秀忠の命を受けて、来年中国と九州の諸侯の人夫を集めて、江戸の運河を掘らせ、船が自由に出入りできるようにせよと催促された。

〇上野の壬生の城主、日根野正高吉に1万石を加えた。

天皇109代、後水尾天皇(諱 政仁)

慶長17年(1612)

正月大 

元日 家康は、白水干の装束で南殿に出て、駿府に来ている譜代や外様の大小名、旗本の侍たちを謁見した。刀持は高力河内守正長が務めた。秀忠の使いの本多出雲守忠朝、竹千代の使いの神尾五兵衛守世、国丸忠長の召使の林左近太夫、越後少将忠輝の使者が太刀や馬代を献じるために訪れた。

2日 秀頼の使節の薄田隼人正兼相が来て、馬代金100両を献じた。

今夜江戸城では、秀忠の謡い初めが恒例のように催された。着座は次の通りだった。左は最上駿河守家親、小笠原信濃守忠備、牧野駿河守忠成、松平外記忠實、右は松平安房守忠吉、松平丹波守康長、西郷出羽守正員という。

4日 秀忠の使者の土井大炊頭が、家康を訪れ、年頭の謝礼として太刀と馬代を献じた。家康は黄金千両を与えた。

〇この日、尾張の犬山城主、平岩主計頭弓削親吉が、名古屋城の二の丸で死去した。(この人は徳川家の創建時からの功臣であり、先月晦日に死去した。正月を避けて4日の死亡として、7日目に家康に連絡した)

家康は親吉の闘病中に「名古屋から犬山へ戻った方がいい」といっていたという。親吉には子供がなく、家康の庶子、仙千代を彼の嗣子としたが早世し、その後義直の准父として犬山城10万石をもらって、名古屋城で執務についていた。そして嗣子は要らないとして、城などすべてを義直に譲って、与力の士は全て成瀬正成の組に入れて、犬山の城を護っていたという。

7日 家康は駿府を発って田中へ行き、遠州、三河で数日間放鷹した。

14日 吉田に着いた。城主の松平玄蕃頭家清に銀100枚を与えた。

15日 吉良の西尾に着き、城主の本多縫殿助康俊に白銀100枚を与えた。近国の城主が拝謁した。ちょうど藤堂高虎が肥後から帰る途中で、家康に会い肥後の地図を献じた家康は、長旅の労をねぎらい、これから江戸へ行って、秀忠に肥後の様子を報告するようにと命じた。家康はこの地に鳥が多いのでゆっくり滞在した。

〇この日、関東で米澤中納言景勝、越前少将忠直、丹羽参議長重、仙臺中将政宗、立花侍従宗茂、秋田侍従義宣、最上侍従義光、安房侍従忠義、南部利貞、津軽為信らが、去年4月12日に前右府公に提出した右大将以来の法制を順守する誓約書を、秀忠へ提出した。内容は去年諸侯が提出したものと同じだった。

16日 秀忠の使者の青山図書助重成が、吉良の西尾の城へ到着した。

19日 家康は岡崎城へ入った。城主の本多豊後守康重に白銀を100枚与えた。数日滞在したが、諸公が美服、胴着などを献じた。

26日 成道山大樹寺へ詣でた。僧侶に白銀50枚を与え、先祖や徳川関係者の廟を視回って、碑文字が鵜持っているときは爪で苔を取って文字が見えるようにした。家康が先祖を辿る様子を見た者は感動した。また、新しく造った能見山松應寺の大納言廣忠の廟にも詣でて、僧侶に白銀50枚を与えた。

27日 名古屋の城を訪れ、湟や石垣、建物の建設について詳細を、成瀬隼人正正成と竹腰山城守政信に指示した。

29日 名古屋から岡崎に戻った。

〇今月 池田輝政が病気だというので家康は驚き、牧野伊予守成重と鵜殿兵庫重長を姫路へ行かせて、滞在させて病気の様子を調べて駿府へ知らせる様に命じた。秀忠も、朝倉藤十郎宣正と山岡五郎作景長、川口長三郎正武を3度姫路へ行かせたという。

〇大商人の茶屋四郎次郎晴次(幼名又四郎、晴延の子)を長崎に行かせ、外国船の入港の様子、貿易の状況などを調べさせた。彼は「糸は織物の材料で、中国や朝鮮の商人から安く買い付けることができると、京都の織物業界も盛んになり、すべての人々にとって便利であることは間違いない」と報告した。家康は此の貿易を許可し、商人の組織を作って利益を分けるようにした。今回も彼は茶屋が切に訴えたので、朱印を発行した。彼はそれによって貿易のために諸外国へ赴いた。

朱印は次のようなものである。「この船は日本国の船であることを証す。朱印は日付の上にあり。慶長17年正月」

2月小

2日 家康は岡崎を発った。

3日 遠州で狩をした。家来に5,6千の銃を持たせ、犬を6,70匹を放って猪を追わせて、火砲で猪や鹿を2,30頭を捕えたが、暴風雨になったので、猟をきりあげ濱松の城へ入った。

4日 浜松から中泉の宿へ行ったが、暴風雨が続いたので4,5日滞在した。

9日 中泉から掛川の城へ入った。しかし大井川の水かさが増しているとの報が入った。

10日 水練千人で井呂の瀬を経て、田中の城へ着いた。

11日 駿府へ帰還した。女院使の井家摂津守と江戸の使い神尾兵衛守世が来て出迎えた。

14日 秀忠は、安藤重信に江戸の水路の図面を家康に献じさせた。

〇少将頼房が疱瘡を患った。

〇今夕『東鑑』と『源平盛衰記』の比較を論じた。

17日 江戸から水野監物忠元に羽林の疱瘡について尋ねた。

22日ごろ 駿府にいる京尹の板倉勝重に、御所に伝わっている名器が流れて今は駿府の倉庫にあった。家康は全て自分に献じるように命じた。

23日 本多上野介の与力、岡本大八と肥前の城主有馬修理太夫義純(*以下義純は通説では晴信)が一緒に遊んでいたある時、大八は匠作を欺いて、「去る巳酉の春に、長崎で蕃線を焼払った功績で家康から領地を増やすことを上野介に命じた」といった。義純は喜んで「自分の先祖からの領地は、今は鍋島信濃守の領内にいくつかあるので、これをいただこう」と述べた。

その後大八は、「そのように家康の許可が下りて、朱印の草案が出来ている」と偽物の朱印を義純に見せ、そこで朱印が出るまでは執政家(*上野介)へ賄賂を贈るべきだとして、金銀や錦を取り自分も交易した。また江戸の執事への謝礼だとして白銀600枚を取った。

しかし、年月が経っても家康の朱印が得られないので義純は訝って、上野介正順に直接手紙をだして事情を問い合わせた。正純は仰天して大八を呼び尋ねると白状した。そこで正順はすぐに家康に報告すると、家康は義純を呼び出し詰問すると、偽の証文を差し出した。そこで、大八は罰として、町司の彦坂九兵衛光正に引き渡して、鞭打ちの刑をうけて牢獄に入れられた。義純も家康に叱られ(*蟄居させ)られた。

28日 伊達政宗は生駒讃岐守正俊に茶の接待を受けた。茶入れは抛頭巾であった。この茶入れは、昔、珠光が始めてこの肩衝を見て絶品であると感心して、思わず頭巾を取り去ったのでこの器の名前となったという。日野唯心が同席した。

3月大

4日 秀忠の使者、土井大炊頭利勝が家康を訪れた。(翌日暇をもらった)

9日 ようやく夜が短くなったので、近臣の夜のお相手は免除された。

10日 伊豆山般若院快雲が『続日本記』を家康に献じた。道春に読ませて述べたところは、

道古今不行故中庸不可也
道其不行矣郷以為可如対曰道可行也
中庸所云者今蓋孔子歎時君之暗而道不行而言者也
非道實不可行之謂也
六経所言此類不少非獨中庸而巳矣曰中者何封曰中難執一尺之中非一丈之中也 
一座之中非一家之中 一国之中非天下之中 者各有中得其理 者必中矣故初學之者欲知中則不知理 必不能知中矣 是以中者理而巳矣古今之格言也
曰中興権皆有善悪湯武以臣伐君此雖悪而善所謂逆取順守也
故不善不悪者中之極也
曰春意異乎此願得盡辞乎春以為中者善也
無一豪之悪物各得理事皆適義中也
善善而用之悪悪而去之亦中也
知是非分邪正又中也
湯武順天應人未嘗有毛頭私欲為天下之民除巨害豈雖悪権也
若莽操乃賊也
又逆取之順守之即譎奇権謀也
非聖人之不可共権之謂也
且欲詳之則布在方冊他人之所謂春所言以為同乎為異乎古人以邪説之先入為戎良有故哉
嗚呼千言萬語元只不過理之一字於是乎曰理理遂不差云々

13日 秀忠は江戸城を発った。(宿場は藤澤、小田原、三島、清水)

17日 午前、秀忠は駿府へ着いてすぐに、二の丸に入った。伴は本多佐渡守、大久保相模守、酒井雅楽頭、土井大炊頭、青山図書助重成、山口但馬守雅朝、水野監物忠元、井上半九郎正利(後の主計頭)、神尾五兵衛守世など、昼に本城を訪れ(剣持は大久保右京亮教隆)、すぐに家康に対面した。家康に白銀3万両、時服50着を献じた。駿府滞在中、駿府の近臣は夜中の話し相手をするよう命じられた。

18日 岡本大八は、獄中から以前有馬修理太夫義純が長崎奉行の長谷川左兵衛藤廣を殺そうと計画したと訴えた。そこで彼を獄から出して、大久保長安の宅で義純と対決させた。大八は義純の謀略をいちいち述べた。義純はそれを認めた。このことは家康に報告され、家康は怒ってすぐに石見守に命じて義純を禁錮刑に処した。

19日 秀忠は駿府の本城へ登った。

20日 秀忠は山名豊国入道禅高と将棋をさした。

〇 この日、甲州東郡辻村にて、處士の辻彌兵衛盛昌入道一楽斎が行年75歳で死去した。この人は信玄と勝頼の2代の間、山縣の部下として勇敢さが有名で、天正10年以来家康に仕えていたが、同18年家康が関東へ移ってからは、故郷の辻村に住んで甲斐の浅野長政から生活費をもらい、慶長5年からは、当地の主の鳥居土佐守の合力をもらっていたという。

21日 駿河の加護花という地で、秀忠の命で尾陽の長臣の竹腰山城守政信は、50文目弾の大砲を撃った。その時3発とも12町離れた同じ場所に当たった。

今日、岡本大六は獄から出され、駿府を引き回された後阿部川の河原で殺された。これは大六が有馬修理太夫と同様にキリスト教徒だったからである。それで長谷川左兵衛藤廣は暇をもらって長崎へ帰り、キリスト教を禁制するように命じられた。一方、所司代の板倉伊賀守も京都へ帰って、キリスト教会を全て破棄するように厳命された。

22日 秀忠はまた山名禅高と囲碁をした。

有馬修理太夫は、甲州郡内に配流された。

25日 駿府の三の丸で秀忠をもてなす猿楽が演じられた。遠山民部少輔、池田備後守、鈴木久右衛門重量が舞を舞った。

26日 家康は数寄屋で秀忠のために朝食と茶を用意し、日野唯心と京極若狭守が同席した。昼頃に秀忠は家康に面会に臨んだ。家康は抛頭巾楢柴の2つの陶器を出して、秀忠に選ばせ、抛頭巾の肩衠を使った。

太田新六郎資宗(後の備中守)を秀忠につけ、板倉周防守重宗を婿にした。

28日 秀忠は藤堂高虎の家を訪れ、尾張と遠州の両参議と会った。

〇今月、幕下の士を5人ずつに分けて、キリスト教の信者かどうかを糺した。原主水は逃亡した。榊原嘉兵衛は代々浄土宗だったが、娘が死んだ時からキリスト教徒の印を掲げると、家に禍がなくなると騙されて一時教徒になった。しかし、兄の榊原内記清久(後に照久)が非常に怒って、諫めたので改宗した。その証拠が明らかだったので、罪にならなかった。しかし、禄は取り上げられ、久能寺に蟄居した。(彼は結局許されることなく、上野の館林で亡くなり、上野の禅道寺に葬られた)小笠原松之丞も一時キリスト教徒になったが、やはり改宗した証拠があったので、解放された。(後に大阪城に立て籠もった)

〇家康はこの春異種同胞の親戚、松平因幡守康元の娘を養女として、毛利参議秀元に嫁がせた。

〇このころ、大阪の秀頼詰めの衆の津田出雲守、渡邊権兵衛糺(後の内蔵助)と児小姓10人が、野田の藤花見物に行ったが終日酒を飲んで泥酔し、2,3人、また4,5人ずつ船に乗って、福島や海老江などを回り、津田の家人も野田村の家を訪れて林齋という盲人と出雲守だけが藤の傍にいた。するとそこへ薩摩の与太者6人が4尺あまりの刀鐺(*刀のさやの先)に車をつけて歩き回っていて、出雲守と口論になった。6人は刀を抜いて斬りかかった。出雲守は十文字の槍を揮って、野田の浜辺まで追い出したが、彼らはまた戻ってきて斬りかかった。それで出雲守は9カ所傷を負った。林齋は盲人だったが置いてあった割木を取って、立て続けに薩摩の連中に投げつけたので、彼らがひるんだときに渡邊らが駆けつけ、薙刀で3人は斬り殺され、残る3人は怪我をした。そのとき、出雲守の従者が家から帰ってきて、主人を籠に乗せ、宿へ帰った。しかし、出雲守は傷が治らず結局死んだという。

4月大

2日 加藤藤松12歳が、父肥後守清正の遺領を受け継げた。謝礼として江戸城へ行き、黄金100枚、美服20着、内10は袷を献じた。

鍋島勝茂は、使者が黄金500両と狒々緋30間を献じた。父の加賀守直茂も黄金100両を献じた。これは有馬修理太夫へ鍋島の所領の一部を与えるはずだったが、大八が罪を負うたのを喜んで謝礼したものである。

夜に家康と秀忠は歓談した。

9日 土屋民部少輔忠直が享年35歳で駿府で死去した。(忠直は右衛門直村の弟で、惣藏昌恒の子である。最初は惣蔵と名乗っていたが平三郎となり民部少輔に仕えていた)

10日 秀忠は駿府を発った。

14日 今川上総介宗誾が、京都から駿府へ来て家康とあって昔話をした。

19日 南光坊天海は天台の学匠として関東の修行僧を従わせるよう命じられ、武蔵の仙波喜多院に赴いた。家康は彼には寺領として300石を寄付した。安藤重信が江戸の使いとして会いに行った。

今日、佐竹常陸介源義重が享年66歳で死去した。

21日 三河の吉田の城主、松平民部大輔忠清が、享年28歳で死去した。この人は竹谷の松平玄蕃頭家清の子である。

25日 両傳奏は使いが来て、前に春日大社の木が千本折れたが、今度はまた若宮の千本が折れたのを天皇家が残念がっていることを使えた。家康は両方の社が古くなっているので、早速天皇が立て直すようにと老臣に返事させた。

26日 相国寺良内堂が『春秋左氏傳』を20冊、『済民要術』10巻を道春に渡して家康に献じた。

28日 有馬修理太夫がキリスト教徒であることが決まり、甲州の都留郡の配所で殺された。その長男左衛門佐康純は15歳から秀忠に仕え、キリスト教徒ではなく父に毒されなかった。父がすでに死罪となって子供も居場所がないところだが、4万石を与えられて、肥後の有馬に戻りキリスト教徒を糺す様に秀忠が命じた。そこで康純は幡随上人という浄土宗の學匠を連れて、しばらく後に肥後の高来郡へ行き念仏専念を勤めさせ、キリスト教徒を改めれば許し、異議を示せば殺害されると言い渡したという。

〇今月、土岐山城守定吉が大番頭となった。この人は家康のためによく戦った菅沼藤蔵定政(後土岐と改めて山城守)の嫡子である。

5月小

朔日 平岩親吉の弟の金左衛門弓削親正が死去した。子の正當が家督を継ぎ金左衛門と名乗った。(大番衛である)

3日 江戸の三緑山増上寺へ寺領千石を寄付した。

4日 (22日という説もある)江戸城の下瀧口の、越後少将の家が焼失した。

7日 有馬修理太夫が殺されたことを、本多上野介は密かに家康へ報告した。(*『当代記』の記載と一致)

8日 加賀少将利常が領地から初めて出て、白銀2万両、染衣100匹、白布100匹を献じた。

13日 蒲生秀行(飛騨守)が享年30歳で死去した。

武徳編年集成 巻60 終(2017.5.21.)