巻62 慶長18年正月~12月
投稿日 : 2016.09.22
慶長18年(1613)
正月
朔日 駿府では強風が吹いた。年頭の行事は恒例の通りにとり行われた。秀忠の名代の酒井左衛門尉家次が、年頭の挨拶に訪れた。(去年から駿府に住まわされている、南海や西海の大小名が年頭の挨拶に訪れた。
2日 強風が続いた。秀頼の使者、逸見甲斐守時之が、駿府へ年頭の挨拶に訪れた。今夕、江戸城では謡い始めが行われた。着座は、左は越後少将忠輝、松平安房守忠吉、西郷出羽守正員、松平丹波守康長、右は最上駿河守家親、小笠原兵部大輔秀政、松平外記忠實、牧野駿河守忠成だったという。
8日 石川長門守康通は、父の日向守家成に先立って亡くなり、その子の弾正は故あって蟄居して、家督を継げなかった。外祖父の大久保相模守忠隣は、弾正の妹を育てて山口伊豆守重信に嫁がせた。しかし、重信の父の修理亮重政は、この縁談を無断で進めたので罰せられ、今日山口の領地を秀忠に没収された。彼らは江戸の入間川辺りに蟄居していたが、「忠隣の推挙で家臣となったので、罪が許されると勘違いして縁談を進めた」と陳謝したが受け入れられなかった。
9日 伊達政宗が駿府に参勤した。
10日 大久保相模守は、歎願状を提出して、上述の婚姻について以前にすこしかかわったが、事前に許しを得なかったことを詫びたが、秀忠は応じなかった。
14日 駿府の後藤光次の許へ、古田織部正の使者という者が来て、黄金の借用を申し出た。しかしこれは盗賊の謀だと察して、奉行所へ届けた。彦坂光政はすぐに同心に逮捕するように指示したが、盗賊の仲間が駆けて来て、同心に斬りかかり、同心3人が殺され7人が怪我をした。盗賊側も深傷を負って死亡した。彼らの宿が、歩卒頭の柴山左近の組の屋敷だったので、その家長は殺され、左近は改易された。
15日 大久保相模守は、嫡男加賀守が去年死去したので悲しみの余り、何も仕事ができなくなった、という話に秀忠は疑いを抱いて、取り調べを命じた。そのため相模守は秀忠を恨んで病気だといって、二男の右京亮教隆や三男主膳正幸勝とともに今日新年の挨拶には行かなかった。もともと彼らは、本多佐渡守父子と不和だったので、殿中で諍いが起きるのではないかと、一族はひやひやして見守ったが、教隆と幸勝は翌日から出仕した。
29日 播州から飛脚が駿府へ来て、24日深夜、池田輝政が中風になって、話が出来なくなったという知らせが届いた。家康は非常に驚いて、大番士の黒川八左衛門を使いとして病状を問わせ、鳥犀圓(*滋養強壮剤)を贈った。しかし、明け方に手紙が届いて、25日午後に参議従3位源朝臣輝政は死亡したという。家康はすぐに山岡五郎作景友に、香典として白銀100枚を姫路へ届けさせた。
〇ある話では、輝政は日ごろから家康に尽くすために、もし大阪が謀反を起こすようなことがあれば、家康や秀忠が動く前に、自分の兵を出そうと考えていた。そこで寵臣の若原右京や中村主殿に命じて、諸国の浪人たちから強そうな者を100人ほど選んで、米や金銀を与えて援助した。また彼は「大きな国に封じられた者は、石高によらず、特権に甘んじることなく、ただ健康な一般人として、天下の家臣であるべきだ」と、浪費や女遊びを禁じ、わずか2,3万石取り並みの暮らしぶりだったという。
2月小
2日 大阪の秀頼の居城、三の丸の多門でボヤがあった。
〇池田輝政の病気の知らせが江戸に届いたので、すぐに子の武蔵守利隆を家康の許可をもらって播州へ帰らせた。吉岡左近将監は長光の刀を利隆に与えた。
5日 輝政の訃報が江戸に届き、秀忠は土井大炊頭を駿府へ行かせて、家康の考えを尋ねさせた。
20日 江戸の町の司、青山播磨守忠成が享年63歳で死去した。この人は喜太夫義門の子である。
21日 黒田右衛門佐が秀忠の前で元服した。称号と諱、利刀をもらって松平忠之となった。
25日 加藤藤松は、秀忠から諱を与えられ、忠廣となって従5位下肥後守となった。
26日 秀忠の乳母(岡部局正真院)が死亡した。この人は駿河の士、岡部惣兵衛の娘で、川村六右衛門の後室である。2人子供がいて、岡部主水、河村喜次郎重久といって、2人は幕下で仕えていた。武蔵の長榮山木門寺の五重塔は、正真院が建造し、現在も残っている。
3月大
朔日 和泉の岸和田城主、小出大和守吉政が享年49歳で死去した。
20日 池田の領土播州、備前、淡路は、山陽と南海の要地なので、監使として昨日東武から、安藤対馬守重信が江戸へ来て秀忠の意向を聴いた。その結果、重信は、家康の副使の村越茂助直吉と共に、今日駿府を発ったという。
〇この春、かねてから田屋式部は、詰め衆の饗場備後守に恨みがあったので、大阪城内の秀頼の寝室と蘇鉄の間の間で饗庭を殺害したので、城内は大騒ぎとなった。しばらく調査が行われてから、式部には目つぶしの刑が命じられた。
その後しばらくして、渡邊内蔵助糺が私用があって天王寺辺りに行くと、関東のヤクザの残党がうろついていて、乱闘が起きた。彼は悪党らを追い払ったが、怪我をして這いながら大阪へ帰った。同じころ、内藤新十郎玄忠なども家来を連れて牛玉の社へいったところで、ヤクザと口論になり、斬り合いになった。大阪方は怪我をして帰った。去年の渡邊と津田が、野田での藤見の際に起きた乱闘も、今日の内藤らの喧嘩も、どちらも大阪城の南西の方角で起きたので、人々はこれは秀頼衆が、この方向へ出兵して負ける兆しではないかと眉を顰めた。
4月小
4日 今日、越後の上総介忠輝が駿河へ来て、家康に白銀100枚と時服を献上した。(*『当代記』では、2日に「忠輝らが江戸と駿府を訪れたとある)
6日 本多彦次郎忠次が享年65歳で死去した。先に多病のために三河の西尾の城を養子の縫殿助康俊に譲り、引退していたという。
12日 家康は伊達政宗を数寄屋に呼んで、唯心禅高とともに茶席を設けた。(政宗にはこの18日に帰国するように命じた)
13日 秀忠の婿の加賀筑前守利之に娘が生まれたので、奥村豊後守永福に白銀100枚と美服10着を家康へ届けさせると、永福の面会が許され時服を与えられた。
この日、忍城の城衛隊長の石野新左衛門廣光が享年62歳で死去した。その子の六左衛門は、廣吉、新蔵廣の順で忍の衛士を指揮した。後に六左衛門が召されて大番頭の本多備前守紀定に属した。新蔵は生涯忍の城を護ったという。
25日 大久保石見守長安が享年69歳で死去した。中症(*脳卒中)ということになっているが実は下痱(*花柳病)の持病が治らなかったからである。遺言で遺体を金の箱に入れて駿河から甲州へ送り、僧侶を集めて盛大な葬式をするように命じた。幕府はこれを許さなかった。(*『当代記』では、同日長安は65歳で死去。急遽甲州で葬儀の準備をしたが、近年彼が代官所への年貢の支払いが悪かったので、葬儀の作業を中止させたとある)
26日 京都の所司代の板倉勝重と江戸からの使節の土井大炊頭が、駿府を訪れた。
27日 安藤と村越が播州から駿府へ戻り、国政について家康に報告したが、輝政の生前に老臣の中村主殿と若原右京が法を破っていたことを報告した。しかし、中村はすでに死去していたので、若原が改易させられた。(翌年真田の推挙で、若原は大阪城に立て籠もった。
〇今月、宗対馬守義智が駿府へ来てから、江戸へ赴いた。彼の子の彦七郎義成はまだ家康に謁見していなかったが、家康は非公式に会って、富士の鷹を2羽を与えるように老臣に伝えた。
5月大
2日 堺の庁舎の米津清右衛門正勝の下代が、摂津の芥川の住民を密かに殺したという訴えがあった。調べてみると、この下代は賄賂をいろいろ取っていたことが暴露され、その罪は米津が負って、阿波へ流された。(この人は清右衛門清勝の子である)、米津の後任には細井喜三郎勝久が命じられた。
4日 修験道の両山の訴えを家康は自分で裁き、本山方武蔵幸手の不動院を放逐した。
6日 先に死亡した大久保石見守長安の父は、元は金春八郎入道及蓮と同源左衛門の弟である。彼らの父の大蔵太夫は、武田信玄の猿楽師だったが、彼の子の兄弟は非常に頭が良かったので、信玄は2人を取り立てて土屋直村が苗字を与え、兄は新之丞、弟は藤十郎長安とした。天正10年に家康が甲州を抑えた時に、日下部兵右衛門定好の紹介で長安は家康に会ったが、「足利家御所の図と、細川物数奇の風呂の絵図で、兵右衛門の家に桑木風呂を作った」のを家康が見て、彼の才能に感心し、大久保相模へ藤十郎を預け、苗字を与えて幕下で出仕することを許した。
天正18年以降、彼は大久保十兵衛長安と名乗って、近江の領地の租税の取り立てを担当し、その道に詳しいので慶長5年には石見、伊豆、佐渡の金山の調査を命じられた。すると家康の徳のおかげか、各鉱山から今までの100倍の金や銀が産出するようになった。この手柄によって、彼は政に参画するようになって石見守と改め、各種の裁定にも加わった。彼の勢力は大きくなり贅沢な生活を送っていた。
例えば自分の領地へ赴くときには、美女20人、猿楽師30人を呼んで、往来の宿ではドンチャン騒ぎを尽くした。特に佐渡へ行くときには、越後に立ち寄って老臣たちを馬鹿呼ばわりして、自分のいうことは家康の言葉を思えと、政務を取り仕切った。長安の末っ子の右京は、13歳の時から上総介忠輝の近臣だったが、石見守はついには、忠輝の腹違いの姉婿の花井遠江の娘を右京に嫁がせた。遠江は先日死亡したが、小舅の花井主水義雄はまさしく忠輝の母の孫になるので、主水は大した人ではなかったが、越後の実権を握り、石見守と手を組んで、皆川や山田などの功臣を罪に落とした。このように石見守は非常にけしからん男である。
日石見守の嫡子の藤十郎、下代の田辺藤五郎などは、金山の儲けに対する税を納める様に幕府に命じられると、佐渡は、石見守の領地として与えられて来たので払う必要はないと述べた。家康は非常に怒って、「お前の領地は関東の8千石だけなので、他の場所まで唾を付けてはならない。すぐに税を納めよ」と命じた。
藤十郎は途方にくれたが、このために石見の7人の子、藤十郎外記、青山権之助(図書重坂の養子)、運十内膳右京などは、あちらこちらに蟄居させられた。(藤十郎は遠州掛川、外記は横須賀、権之助は相模の小田原)また石見守の領地の館を捜索して什器を没収するように命じられ、島田宗右衛門直時が駿府を発った。
(*『当代記』では、長安の息子たちは、父から詳しく事情を聴いてなかったと述べたが認められず、高敦の記事にあるように、それぞれ別の場所に流され、8月9日にそれぞれの場所で自害したとある。その他、高敦が記述している事項の外に、様々な金にまつわる長安の悪行が並べ立ててある。また18日の記事として、長安の遺物が調査され、金銀が5千貫あまり、また金銀細工は数知れず、茶道具や女性用の調度など多数あって、前代未聞だったとあり、一笑一笑とある)
11日 中坊宗右衛門秀政(飛騨守秀祐の子、後の左近)奈良の奉行となる。
19日 越前少将の臣、中川出雲守廣澤兵庫助重秀は、去年本多伊豆を殺そうとした今村、清水、林等に組したので配流された。本多伊豆は国政を執る認証を与えられた。また一族の本多丹下成重は越前の老臣に加えられ、今村掃部の領地、丸岡城の土地4万6千300石をもらった。この丹下は作左衛門重次の子で、故中納言家秀が秀吉の養子となって、大阪に行ったときから近臣であったが、今は駿府で勤務していた。(後に飛騨守)
6月小
6日 吉田の神龍院梵舜が、京都から来た。今日から家康が彼から神道を習うことになっていて、彼は早朝に来ることになっていた。しかし、僧侶たちが拒否したので、家康は「和泉の大道は秘密の奥儀なので、いたずらに習うようなものではない」として中止した。
江戸から安藤対馬守が駿府へ来た。(池田輝政の遺領の配分についての用事という)
7日 家康の使いで本多正純が江戸へ赴いた。
13日 正純は江戸から駿府へ戻った。
16日 池田輝政の子供が呼ばれ、江戸から家康に会いに来た。亡父の輝政の遺領、播州の3郡13万石を除いて、その余りを家康は嫡男の武蔵守利隆(母は中川瀬兵衛清秀の娘)、備前1国と播州の佐用、完栗、赤穂の3郡を二男左衛門督忠継(母は家康の娘)、淡路一円は3男宮内少輔忠雄(母は忠継と同じ)に配分した。
小田大和守吉政の遺領の内、岸和田の3万石は長男の右京進吉英に与え(名前を大和守に改めた)但馬出石2万石を三男伊勢守親吉に与えた。
『公家諸法度
一、公家衆家々之学問昼夜無油断様可被相勤事
一、不寄老君若背行儀法度之輩可被謫流但依罪之軽重可定年序事
一、昼夜御番老若共無慢怠可相勤之其外威儀正敷伺候之時刻如式目参勤仕様可被仰付事
一、昼夜共為差無用所々之町小路徘徊共停止之事
一、公宴之外私二不似合勝負並於不行儀之有侍共抱置者流罪同先條事
右之條々相定所也 五摂家並傳奏於有届之者従武家可行沙汰者也
慶長十八年六月十六日 御判
板倉伊賀守トノヘ』
〇この日、臨済宗、浄土宗の大寺の住職になるには、家康の人選を受けるべきことになったという。甲州の仕置(*検地)のために島田清左衛門直時を派遣した。
19日 一尾小兵衛通春が従5位下、淡路守となった。(茶道宗匠、伊織入道徹斎の父である)
(*余談:『当代記』、19日と20日は非常に暑かった。11日もそうだった。近年の夏はこれほどの暑い日はなかったとある)
21日 板倉伊賀守が昨日暇をもらって、京都へ帰った。
松平清六という士が、鈴木平兵衛の二男を連れて品川あたりをうろついて、増上寺の厨へ行ったのを寺の僧が咎めたところ、口論になって、寺の門を閉め大勢の出入りがあって闘争し、清六は死亡した。
22日 池田輝政の後室の悲しみを慰めるために、家康は彼女を駿府へ呼んで、しばらく滞在させて饗応した。今日彼女は帰途に就いた。
26日 松平左衛門督忠継の甥、森美作守忠政が、家康の招きによって一昨日駿府を訪れた。家康は彼を近くに呼んで、忠継は若いので国政の補佐をするように命じた。そして青木肩衡の陶器を与えて、国に帰らせた。この茶入れは紀伊守一規が持っていたものという。
暹邏(*シャム)から本多三右衛門が帰国し、駿府訪れることが許された。家康はシャムのことを尋ねた。当地では多数の僧が黄色の衣を着ているという。
7月大
3日 新しく建設中の御所の建物に、柱が立てられた。(*上棟?)
9日 大久保石見守の死後、彦坂九兵衛光政は彼の配下の役人たちを牢に入れて詳しく取り調べた。すると石見守が横領していた金銀を差し出したので、10人ばかりの手代は許された。しかし、石見守の家老の戸田藤左衛門は牢に拘留され、取り調べが続けられた。その他の手代は皆斬り殺された。
武田信玄の末っ子の海野龍實は盲人だったので、天正10年に刑を遁れたが、その子は甲州一向宗の長延寺の住職となって、武田の家の幕などを所持した。長安は彼を騙して自分の言いなりにさせ、「自分が武田氏の関係者で、新羅三郎義光の子孫だ」といって、武田の菱の旗を大量に作って倉庫に貯めていた。それだけではなく倉庫で毒酒を何石も造っていたので、謀反を起こそうとしていたことが判明した。そこで龍實の子の長延寺顕了と、その子の教了はすぐに伊豆大島へ流刑となった。又、石見守の7人の息子は、配所で自害するように命じられた。石見守長安は卑しい猿楽師から成り上がり、家康の庇護をいいことに、好き放題の末に叛逆を企むまでになったが、天罰が下って一族はついに滅んだ。
17日 信州の戸隠明神領として、千石が寄付され、印章が与えられた。
21日 松平忠左衛門勝隆(後の出雲守)が、父の大隅守重勝(一作石見守康安)の後任の大番頭となった。大隅守は去年越後少将忠輝の家来とされた。
26日 伏見城の城衛として、大番頭の渡邊山城守茂と井伊掃部頭直孝の組が加番となった。
松平安房守信吉(後の伊豆守)、植村土佐守康明、一色宮内少輔直氏が京都へ向かって江戸を発ち、今日駿府で家康に謁見した。
8月小
3日 明の商人が花火師を連れて長崎から駿府へ来て、イギリス人とともに家康に謁見した。イギリス人は狒々緋を10間、洋弓一挺(象嵌入り)と望遠鏡(6里先が見えたという)を献上した。
(*『当代記』の4日の記事では、3日は西国で暴風で、長崎で生糸を積んだ船が13隻浸水し、代官の船3隻が沈没した。そのため京都や大坂の生糸が高騰したとある)
5日 江戸から土井大炊頭が家康を訪れた。(8日まで滞在して江戸へ帰った)
24日 紀州の太守従4位下行侍従源幸長が享年38歳で死去した。彼は若い頃より武功があり、父の浅野長政も優れた武将だったが、幸長はもっと優れた武将だった。しかし、淫行が原因で泌尿器の病が治らなかった。
26日 夕暮れ時、二の丸で家康と3人の息子は、明人の花火を観た。(*『当代記』では夜は暴風雨で、翌日朝まで続いたとある。駿河では花火ができたので、場所が違うことが分かる)
9月小
3日 片桐市正は大阪の幹部である。秀頼は彼に1万石を加えると命じたが、家康の手前断って駿府へ来た。家康はすぐに領地を与えるように命じた。
16日 かねて大久保石見守の世話になっていた、高山誕都検校(琵琶の名手で、右近友祥の兄)は、去年6月に京都から駿府へ来て、咎めを陳謝したが、特に松平右衛門太夫と後藤光次の嘆願で許された。
近習の河内梅千代が、急に盲目となったので、すぐに検校になった。世に1夜検校と呼ばれた。
17日 家康は、関東で放鷹をするために駿河を発ち、善徳寺へ着いた。
19日 鉄砲で菱食雁を2羽撃ち落とした。
20日 三島に着いて、大久保相模守が浮島原まで出迎えた。
21日 小田原城へ着いて、秀忠の代わりに本多佐渡守と加藤助右衛門が出迎えた。明日から相模で放鷹をするという。
26日 神奈川へ着いた。秀忠は江戸から出迎えに出向き、家康に会ってから江戸へ戻った。
27日 家康は江戸の西の丸へ入った。(*『当代記』と附合)
今日沼津の城主、大久保次郎右衛門忠佐が享年77歳で死去した。法号は道喜。家康に忠実だった優れた武将だった。娘が2人いて、青山伯耆守忠俊と高木主水正次に嫁いだ。
28日 秀忠は本城から西の丸を訪れた。
10月大
朔日 里見讃岐守義高(安房守忠義の伯父)は、普段の勤務が怠慢だったので改易された。
2日 家康は葛西で放鷹をした。自分で銃を撃って、鶴を1羽と菱食雁3羽、雁4羽、鴨9羽を獲った。
8日 家康と秀忠は南殿に出て、富田信濃守知治と坂崎対馬守成正(後に出羽守)の訴えを直接裁いた。この理由は次の通りである。
坂崎の甥の浮田左門は老臣だったが、去年罪を犯して逃亡し、対馬守の妹婿の富田信濃守の城へ隠れた。坂崎は怒って浮田の罪状を書いて富田に示し、速やかに出頭するように述べたが、知治は応じなかった。当時両者は伏見にいたが、坂崎は我慢できず、富田の居城、伊勢の安濃津に出かけて浮田探したが見つけられず、富田の家来1人を捕えて帰り、この件を駿府へ訴えた。
家康は「政務は秀忠に任しているので、早く江戸へ行って伝えよ」と述べた。対馬守は憤りを抑えて年を越した。しかし、浮田左門は、密かに高橋右近太夫長行の所へ行って隠れた。高橋の妻は富田の妻の妹である。だから富田の妻は哀れに思って、彼に米を300石与えて養っていた。しかし、左門に同調していた者たちが裏切って、富田の妻(浮田安心の娘)から左門へ送った手紙を盗み出し、坂崎対馬守の許に戻って罪を認めた。対馬守は証拠を得たので、駿河から江戸に赴き秀忠に訴えた。
そこで秀忠はすぐに富田を呼んで、今日の判決となった。富田信濃守知治は、自分が掟を破って浮田たちを隠したことはないと弁明したが、坂崎は懐から信濃守の妻の手紙を出して、証拠として糺すと、知治はその手紙は知らなかったと妻の仕業だとして逃れようとしたが証拠がなく、結局屈服した。その結果、信濃守と高橋長行は罪を認めた。
黄昏時になって、浅野紀伊守幸長の遺物として石堂陶器(肩衝)、吉光の脇差、古銅の花入れ(杵折の號)が家康に献じられた。
16日 中村伯耆守忠一が早世(*慶長14年 20歳)して、後継ぎがなくなった時のこと、弓気多源七郎昌吉と久貝忠左衛門正俊が伯耆へ検使として派遣された。2人の検使と鵜殿兵庫助重長は誤って、ちょうど石見銀山へ行く途中に大久保石見守に中村家の金銀や財産を渡してしまった。そのため弓気多と久貝、および親戚の頭谷善阿彌の子も、家康の怒りに触れた。
一方、中村伯耆守の妾が男子を孕んでいるので後継ぎにしてほしいと、中村伊豆、川毛備後、掎藤半右衛門が、去年から駿府へ詰めて歎訴していた。この3人の元老は鵜殿兵庫守と結託して、伯耆守の財宝や金銀を隠し持っていた。そのことが秀忠に知れて、3人の元老と鵜殿重長の家が取り調べを受け、中村伊豆と掎藤半右衛門は追放され、川毛は内藤若狭守に預けられて取り調べを受けた。鵜殿は土井大炊頭に預けられて尋問された。
坂崎対馬守が訴えた左門は、大炊頭と安藤対馬守の家来に逮捕され、左右の親指を縛られて籠に閉じ込められたが、道中で彼はその縄を解いて坂崎の家で籠から出されるときに飛び出して、大炊頭の歩卒の刀を奪って暴れたが、藤左衛門という徒士が取り押さえて、坂崎の従士に渡した。そのため藤左衛門尉には褒美が出たという。
18日 家康は朝、西の丸から本城へ行った(100人の従者をもてなした)。夕方浅野但馬守長晟に、兄の遺領の紀州一円を与えた。彼は以前から人質として大阪にいて、秀頼の近かったので、家督を受けるのを遠慮して、弟の采女正長次を候補としようと、浅野左衛門などが願いを出していたが、家康は嫡子が混乱しないようにと、但馬守に家督を継がせた。この処置に人々は感激した。
19日 石川玄蕃頭康長は、馬鹿で家法を守れなかった。領地には新しく開拓した田が多いにもかかわらず、大久保石見守と結託して開拓した田の事は隠して幕府に従わなかったので、豊後の佐伯に流された。この人は伯耆守数正の長男である。数正は最初家康の功臣だったが、家康が秀吉と戦った時に、秀吉方に付いて信州の松本の城をもらった。(6万石)
松本は以前深志と呼ばれ、小笠原数代の領地だったが、長時のときに武田晴信と戦って滅びた。そこでこの地は20年ほど武田が占領していたが、勝頼が滅びると信長は松本を木曽義政に与え、数か月たたぬ間に信長が殺されたので、その時に長時の息子の右近太夫貞慶が松本に再び住んだ。
天正18年の秋に、彼は家康に付いて、上総の古河の城へ移り、その時から数正が松本を領したが、その子の玄蕃が身を滅ぼした。その後はまもなく小笠原貞慶の子の兵部大輔秀政が松本の6万石が与えられ、数代その領地となった。(この時、兵部大輔は、信州飯田5万石を領していたので、これで一万石が増えたわけである)
20日 家康は江戸城を発って、戸田、川越、岩槻、大宮、浦和あたりで連日放鷹をしたという。
24日 秀忠は富田信濃守知治の伊勢の阿濃津11万千600石を没収した。信濃守は奥州岩城に配流された。高橋右近太夫長行の領地、日向の縣5万石は没収され、兄の立花左近将監宗茂の領内の奥州棚倉へ行かされた。
25日 富田に連座して、秀頼の鷹匠頭佐々木淡路守行政と同孫助、同内記が改易された。大久保長安に連座して、石川肥後守数矩と同半三郎康次が改易された。両人は玄蕃頭の弟である。
26日 家康は川越の宿で、藤堂和泉守を呼んで富田の罪を告げ、兵を連れて安濃津の城を衛るように命じた。
27日 松平右衛門太夫正網が、岩附で白鳥33羽を捕えて家康に献じた。
晦日 家康は、今日から連日忍の邑で放鷹をした。
11月小
2日 秀忠は鴻巣で放鷹をした。
9日 佐野修理太夫正綱は、実兄の富田知治の流刑に伴ってしばらく蟄居していたが、すぐに許されたので、忍を訪れて家康に拝謁した。
(*『当代記』では14日は夕からずっと大雪とある以外11月の記事はない)
18日 家康は放鷹の場所で、税の役人、深津八九郎貞久の悪事を住民が訴えた。そこで家康はすぐに貞久と住民との対決をさせたところ、深津に誤りがあったので役を解いた。そして、高木九助廣正と小栗庄右衛門、遠藤豊九郎、天野彦右衛門忠俊に、八九郎の支配地を配分して、租税を集めさせた。
20日 越谷で放鷹をした。本多上野守が、領地の野洲の小山から会いに来た。秀忠は江戸城へ戻った。
24日 家康へ土地の住人が、代官が法を破ったと訴えた。家康は宿に戻って夜に判断し非據(*根拠がない)によって、住民の代表6人が逮捕された。家康はその後葛西の辺りで放鷹をして、特に多くの獲物を得た。
27日 鵜殿兵庫助重長は、三河の西郷の城主の鵜殿長持の知り合いで、刑部卿と名乗って戦功があり、才覚もあったので登用され、善六郎となった。長持が亡くなってからかなり経って、家康に仕え中村伯耆の室(秀忠の養女)が輿入れた時に家来とされた。しかし、今回悪事を働いたということで、拷問を受けたが罪を認めなかった。芥川の小野寺が「武人が拷問の憂き目に会うぐらいなら自害したら」と勧めると、彼が気丈な男だったのですぐに自害した。(法諱は日成という)
29日 家康は葛西から江戸城の西の丸へ戻った。
〇今月杉浦忠左衛門親俊が金銀奉行となった。家康が狩などに出かけるときは、刀や茶器などを預かったという。
〇天耶蘇宗門(切支丹ともいうという)は、最初明の隆慶萬歴のころに利瑪竇(*りまとう:マテオ・リッチ)が中国へ渡って浙江(*省)の荒れ野に住居を得て学問し、ラテン語を漢字に直して『天守實儀(*義)』、『畸人十篇』、『友論』などという書物を書いて、人々を惑わした。そのため年が経つにつれて、この邪教を信じる者が多くなった。
この話を聞いて、龐迪我(*ほうてきが:Diego de Pantoja:バントバ)というスペイン人が、キリスト教徒10人を連れて海をわたってマテオ・リッチの所へ行き、『七克書』という書物を編纂し、貧民にお金を与えたので、その勧めに応じる人々が多くなった。
日本では、天文の頃に、九州の大友義鎮入道宗麟の城下の豊後が非常に豊かで、西欧諸国の外国船が多く入港して、交易で富をほしいままにしていた。そのような船にキリスト教の宣教師が同乗して布教し、キリスト教徒になれば商売の利益を割り増したので、喜んで信者になる者も多く、その勢力は中国や畿内にも及んだ。
天正の初め、摂津の国主、荒木摂津守村重が、信長を恨むことがあって叛いたとき、近臣の高柳の城主である高山右近友祥がキリスト教徒だったので、信長はキリスト教の宣教師を送り込んで説得して、味方につけた。このため荒木の勢力は衰退した。信長はキリスト教の宣教師を好んだので、近江の安土の城下にキリスト教会の建設を許した。
キリスト教の勢力は日増し増大し、秀吉の時世から家康になってもその勢力は増大したが、ある宣教師が裏切って、「キリスト教というのは、実は布教が目的ではなくて、実は日本を亡ぼす意図がある」ということを詳しく幕府に説明した。
そのため先の壬午年(天正10年)以来厳しい切支丹禁制が全国に布告された。そして南禅寺の以心崇傳長老に命じて、仏教とキリスト教の違いを文章にして世間に流し、キリスト教徒を残らず仏教徒に改宗させ、西洋から来たキリスト教徒は全て帰国させた。
高山右近は志津箇獄(*志津ヶ岳)の戦い以降は前田利家に仕えて髪を切って南坊と名乗って、2万石を領していたが、改宗しないと述べたので、同じ家中の内藤飛騨守如安とともに、妻子などすべてが天港へ追放するように命じられた。この西洋人(邪楊子という:*ヤン・ヨーステン)は江戸城の西の丸に屋敷をもらって、厚待遇を受けたという。
12月大
朔日 仙波中院南光坊が秀忠に拝謁した。秀忠は黄金10枚を贈った。
2日 家康は、秀忠と長時間閑談し午後になった。家康は伴の者に本城で黄金や時服を贈った。
3日 秀忠は、早朝に西の丸を訪れ、家康は午前中に発って稲毛へ赴いて5日間狩をした。
6日 中原に着いて、猟を楽しんだ。12日に小田原まで行くというので、御家人は用意を整えた。
今夜中原の野で馬場八左衛門が訴状を差しだした。その中には大久保相模守の謀反の疑いが有るという訴えだった。
相模守は穴山陸奥入道梅雪の4人の家老の1人で、前は水戸城主の萬千代に仕えていたが、その家の長臣と諍いが生まれて小田原へ流さ、れ数年間忠隣の許で蟄居していた。忠隣の年齢はすでに80歳あまりで耄碌し、彼には何も下心はなかったが、もともと勢のあった武将なので誇大妄想になっていた上に嫡男が亡くなり、その悲しみによってつい、秀忠の不満を漏らす様になった。
本多佐渡守正信父子は、かねがね忠隣と仲が悪かったので、馬場を騙して訴状を書かせ、佐渡守はしきりにうまい言葉で馬場を使って、とうとう忠隣を罪に落とし込んだ。この正信の子の正純も、いわれのない訴えによって失脚させられるに至った。
〇この日、堺の政所の細井喜三郎勝久が死去した、という連絡があった。
7日 江戸から秀忠の使者の板倉周防守佳有が、菓子などを中原へもって行き家康に献じた。
9日 野見の松平左衛門正利(最初は傳一郎)が享年53歳で死去した。この人は尾張の鷲津の棒山の戦いで戦死した、傳一郎重利の子である。
12日 家康は急に江戸へ戻るといい、正月以来上総東気車金の地に鷹を飼うように命じて、伴の者は荷物を持って返した。夜に大炊頭は密かに諸侯に秀忠の命令を伝えた。 夜半に秀忠は家康にあって密談をした。
14日 家康と秀忠は江戸城へ行き、成瀬隼人正成は使者として駿府へ赴いた。そして、東海道の大小名は毎年師走には江戸城へ来て新年の挨拶をしていたが、来年の春はする必要がないことを板倉内膳正重昌に伝えさせるために、父の京都所司代の板倉伊賀守の許へ駿府から行くように命じた。(*『当代記』では、板倉内膳正重昌は父の見舞いの為に京都へ行かされたが、これはキリスト教徒を監察させるためらしい、とある)
18日 天皇は新しく造営した内裏へ移ったという。慶長16年に即位した後、前の天皇と不和になったことを、母(近衛信輔の娘)が家康に伝え、家康は非常に頭を悩ましたという。そのことが先の天皇の耳に入り、母が漏らしたことに非常に腹を立てたという。
19日 西洋のキリスト教の宣教師が京都のあちらこちらにいた。江戸に来た大久保相模守忠隣に彼らを解散するように命じた。
今月三郎種春(24歳)が初めて家康に謁見した。(翌日、秀忠にも謁見した。後の長門守である)
24日 家康は越谷と川越辺りで放鷹をした。渡邊半十郎秀綱は尾張の義直に仕え、同六郎左衛門吉網は頼宣に仕えた。
28日 家康は江戸城へ戻った。
〇今年黒田長政が従4位下になった。
〇有馬玄蕃頭豊氏の嫡子は、秀忠の外孫に準じていたが(母は秀忠の養女であるが、実は長澤の松平上野守康忠の娘である)秀忠の前で元服した。諱をもらい衣装をもらって兵部少輔と称するように命じられた。諱は忠郷となった。
〇溝口伯耆守宣勝の子、宣直(20歳、母は堀秀政の娘)が初めて秀忠に謁見した。(日の出雲守)
〇安藤対馬守重信に、上野の鹿沼と下野の結城2万5千石が加えられ全部で3万5千石となった。
〇金森五郎八重頼(長門守)、松平又四郎重成(後志摩守)、前田孫八郎利孝(後大和守)がそれぞれ従5位下となった。ここの利孝は大納言利家の4男である。
〇島田治兵衛利政が江戸町奉行となった。寛永元年に弾正忠になって、その後は入道幽也と号した人である。
〇日向半兵衛政成に同心を50人を付けた。。
〇渡邊図書宗網が御使番となった。
〇松平半四郎重則(後の内膳正)が歩卒の頭となった。
〇大河内兵左衛門忠次(17歳)が初めて出仕した。
〇杉浦彌五左衛門重次(彌一郎親正の4男)が常陸介頼宣に仕えた。
〇岩瀬吉左衛門氏興(清介氏則の嫡子)が死去した。
〇青木加賀右衛門重貞、入道刑部郷法印、浄憲が享年86歳で死去した。この人は濃尾の久住の生まれである。土岐頼藝、斎藤利之、織田信長、秀吉に次々と仕え、やがて家康に仕えてから、法印となった。当時の民部少輔一重の父である。
武徳編年集成 巻62 終(2017.5.28.)
コメント