巻64 慶長19年3月~7月

投稿日 : 2016.09.29


慶長19年(1614)

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15日 越後の高田城の建設が、今日から始まった。

〇堀丹後守直寄の弟、伊賀守利重は当時書院番を務めていた。大久保相模守忠隣の媒酌によって、本多豊後守康重の婿となったが誤って幕府に無許可だったので、罪を被り、所領の8千石を没収された。

忠隣の庶子の右京亮教隆と主膳幸信は、武蔵の川越へ流された。(元和3年に配所が移動され教隆は津軽へ、幸信は南部へ左遷された。同5年に父(*忠隣)が病死したので両人は呼び戻され大番頭となった)

この頃、大阪から織田有楽と大野修理が書状をもって加賀の前田利長を訪れ、「秀頼が成長して武将の器もできたので、利長は早く大阪へ行って補佐するように。糧米は大阪の倉庫に7万石あり、福島左衛門太夫は3万石を持っている。又商人の倉にも豊富にある。後は利長の覚悟だけである。秀頼に黄金千枚を貸して、戦いの準備をすべきだ」と勧めた。しかし、利長は応じず、息子の利常がこの書状を駿府へ渡した。家康は近年秀頼が国内の大きな神社や仏閣を再興して、金銀を大量に貯めているので困らないはずだと述べた。家康は以前から大阪は必ず戦いを起こすだろうと案じていたが、この時から豊臣に対する対抗策を実際に考え始めた。

〇板倉勝重の家来の恩田金右衛門は、仲間10人と罪を犯したので、京都と伏見を引き回されて刑死した。

〇佐野修理太夫正綱父子は国替えを命じられて、信州の松本へ赴いたが、途中で溝口外記常吉から松本へ流された理由を伝えられた。

26日 転任した勅使が、年頭の挨拶を兼ねて家康を訪問したが、家康はその中の四辻(一二作藪)宰相季継を呼んで、箏を演奏させ、怜人に千秋楽清海波陵王を舞わせて鑑賞した。

27日 家康の娘の池田参議輝政の後室が、駿府を訪れた。先に息子の左衛門督忠継が備前に封じられ、幼い間は長兄の武蔵守利隆に政務をまかせるように輝政が訴えていたが、利隆は腹違いなので母親が疑って、今後は忠継に政務を任せるように家康に要請した。家康はそれを許した。

〇古今和歌集の奥義を伝えるために、冷泉黄門為満が駿府を訪れた。家康は今夕林道春に和歌集3巻の概要を尋ね、道春はそれに答えた。それは為満の話と一致したので後日為満は、家康に講釈し翌月まで続いた。

29日 江戸の使い土井利勝が駿府を訪れ、家康に会った。

〇今月家康は筒井伊賀守を配流したが、家が断絶するのはいけないと、弟の藤五郎定慶と藤六郎慶之を呼んで、2人に和泉の福住1万石を与え、筒井家の浪人36人に各200石を与えて与力とし、郡山の城を護らせた。藤五郎は主殿助に、藤六郎は紀伊守となった。

4月大

2日 太陽の色が銅のようになった。(*『当代記』では、朝日が赤くて輝きがなく、夕日もそうだった。今日から5日までこれが続いた、とある)

〇西川如見によれば、太陽は赤く赤土のように見えるというのは、漢晋随唐宋書によく書かれている。『日本後記』には桓武天皇の時に太陽が赤くなって輝かないことがあったことが書かれている。このように太陽の色が変化するのは、中部水涇の気(*水蒸気)が太陽の下に漂って遮っているのを透かして見るからである。春が来て朝とか夕方に見えるときは、太陽の色は大概紅色である。これは地上の涇霧とか、山にかかる霞が濃いのを透かして見るからで、太陽が大きく色が赤くなる。これらの現象は全て涇気(*水蒸気)によるものだという。

3日 朝日の色が再び銅のように見えた。

三河の高力の郷主、高力河内守長次が享年23歳で死去した。この人は土佐守正長の三男である。

4日 間宮新左衛門直元と田邉十郎左衛門が、佐渡から江戸城へ来て白銀千貫目を貢いだ。

5日 『羣(*群)書治要』、『貞観政要』、『続日本記』、『延喜式』から公式の制法にふさわしい部分を調べて提出するように、五山の僧侶に命じた。

駿府の浜辺に珍しい魚が揚った。形は亀のようで首が大きく犬の様で、背が黒くてほとんど亀の甲羅そっくりで三俣の尾を持ち、更に大きなひれがあった。重くて20数人で運んだという。

6日 霰が降って、まるで厳冬のようであった。

7日 夜中に林道春が『論語』の為政の編を講義した。

8日 江戸城の徑始(*斜面)の石垣の根石を置き始めた。

13日 五山の僧侶が、幕府の基本法制すべき項目を上の4つの書物から抽出して献上した。

19日 家康の体調がいささか悪かった。

21日 勅使の両郷、外記官務などが江戸から帰路に就いた。そして再び駿府を訪れ、家康のもてなしを受け密談を行った。その内容は、一つは江戸の姫(諱興千)を女御に推挙するように。第二は大御所太政大臣の准三后に命じるようということだったという。

家康は姫の女御にすることは了承したが、大相国准后の件は固辞した。

家康は秘府(*朝廷の文書)や諸家の家傳の写しを提出させ、公家の法制を吟味させて聴いた上で、改正するように命じた。

延壽院道三玄朔が幕府に出仕した。

22日 池田備後守知政が領地を没収された。これは最近駿府の家康の侍女が、金銀を蓄え、裏で所諸侯に貸してその利子を取っていた。彼は数年間その金を取り次ぎさせるために、巫女を備後守の寝所へ出入りさせていた。それで知政も数回その金を借りて返すときは、毎回皮袋に入れて封をして巫女に渡すと、巫女は封を開けて中を改め受け取っていた。

ある日、巫女は封印された袋を受け取って、毎度のことなので中を改めず、後で開けてみると、中身は石だった。巫女は驚いて備後守の秘書に申し出ると、全然相手にしてくれなかった。そこで巫女は家康に申し出て取り調べとなった。

巫女は備後守の秘書に向って、「お前は自分を使って主人の妻を犯した」と述べると、彼はすぐに降参した。家康は、知政の淫らな夜の生活と悪事を働き、石を黄金にすり替えて巫女をもてあそんだことを怒り、備後守父子を有馬玄番頭豊氏の領内の丹波の福知山へ配流させた。この豊後守は荒木村重の一族の故久左衛門の息子だということである。(*『当代記』では、彼の借金は銀千貫におよび、到底すぐに返せないほどだったという)
23日 牧野伊予守成重(最初は傳蔵、59歳)が江戸で死亡した。遺領の内の2千石は三男傳蔵成純、千石は四男織部成常に与えられた。嫡男の将監成信と二男、宇右衛門成俊は、池田家に属し播州に住んでいたからである。

26日 下総の古河城の城主、小笠原左衛門佐信之が45歳で死去した。この子の伊勢次郎政信が家督を継いで左衛門佐を名乗った。

28日 秀忠の使いの安藤対馬守重信が、駿府城へ登った。

5月小

8日 秀忠の名代の酒井雅楽頭忠世が吉日に家康に面会し、右府へ転任の祝いとして秀忠の贈った太刀(長光作)と駿馬(黒馬)白銀3千枚を献じた。しかし、白銀は300枚を受け取り、それ以外は返却した。忠世の献じたのは太刀、馬代、ろうそく500本という。家康は忠世にさっそく暇を与え、長光の刀を与えた。

秀忠の外姪(蒲生宰相秀行の娘)を養女と準じて、加藤肥後守忠廣に嫁ぐように命じた。忠廣は謝礼として家来の加藤右馬允正方を使いとして、白銀と時服を家康に献じた。

大阪から秀頼の代官として片桐市正且元が家康を訪れ、京都の大仏殿が完成して鐘がまもなく鋳終えるので、この秋の中頃に開眼供養をすると連絡した。また、且元は糒(*ほしいい)1箱、幸瀧白炭3箱を献じて拝謁すると家康はしばらく歓談した。(*『当代記』では20日)

〇ある話では、片桐市正且元が呼び出され、家康は「この頃は世の中が平和で産業が発展して、みんなが楽しく暮らしているのに、秀頼は秀忠の娘(*千姫)婿なのに兵を募って、戦いを起こそうとしていると聞くが、どういうことなのだ」と尋ねた。且元は「実に無茶な妄想である。大野修理亮を呼んで糺されるのがよい」答えた。これは4月11日のことである。そこで家康は大野を呼んで「秀頼の謀反の趣が明らかになった」と述べたというのは、たぶん間違いだろう。

10日 蒲生下野守忠郷の長臣の岡半兵衛重政は、忠郷の母の命に背いて外池信濃守良重とともに家を去った。このことを家康は聞いてすぐに、蒲生五郎兵衛郷春に津川の城を、先に浪人になった蒲生源左衛門郷成を呼び寄せて、三春の城4万5千石を授けて政に就くように命じた。

20日 権中納言従3位菅原朝臣利長が享年53歳で死去した。この人は加賀、能登、越中の3国を嫡子の利常に譲り、越中外山(*富山)の城に隠居していた。

〇片桐市正且元は大阪へ帰る許しを得て、駿馬と巣鷹を家康からもらい、秀頼にも巣鷹が贈られた。

21日 池田越前守重影が初めて家康に拝謁し、御家人になった。摂津の尼が崎の郡代にされた。元は本願寺の執務の下間内蔵助重政入道法僑伸之の子で、按察使と呼ばれる池田輝政の外甥なので、武家になっていたという。

26日 江戸城の建設が長雨によって遅れ、今日最初の石垣を積み、2番場所の石垣の根石を置いたという。

〇松浦肥前入道法印が重病で危篤だという連絡があり、子の肥前守隆信は江戸城での仕事を免除されて急いで関東を発って、帰国して看病にあたるように、そして法印が回復したら長崎に行って、政所の長谷川藤廣と相談して、キリスト教会を破壊するようにと、秀忠に命じられ東海道に向ったが、法印は66歳で今日21日に肥前平戸で死去した。

28日 濃尾の明智の遠山民部少輔(故宗叔入道成子)が享年80歳で死去した。

6月大

2日 『続日本記』(巻き本)の内10巻が欠落していたので、五山の僧に書写させ完成したので献上された。

4日 秀忠の使いの成瀬豊後守が家康を訪れ、無錘土圭(*振り子のない時計)を献じた。

12日 蒲生源左衛門郷成は再び会津への勤務を命じられ赴いた。しかし、須賀川の宿で死去した。これが家康に聞こえて、息子の源三郎里嘉(後の源左衛門)に3万石、次男源兵衛郷舎に1万5千石を与え、郷成とともに収監させていた関十兵衛には、西蒲生彦太夫も会津へ帰るように、外孫の蒲生下野守へ婉曲に命じた。

14日 長井右馬允信實は、播磨の配所で死去した。この人は斎藤實盛の孫で長井豊前守正實の子である。(妻子を江戸へ移した罪で減給されたという)

21日 和泉の堺は、商人が長崎へ行き来する港である。そこにキリスト教徒が住んでいるという噂があった。そこで当時のキリスト教徒の取締役として京都にいた山口但馬守と間宮権左衛門が堺に行くと、教徒が大勢いたので、国元の兵を使って潰し、有馬左衛門佐康純も日向縣城をもらったので、遺領肥前高来郡原の城から移ろうとした。しかし、奴隷が恐らくキリスト教徒だったらしく、日向へ向かうことを難儀しているという知らせが届いた。そこで、山口と間宮は、堺の異教徒を捕えて罰した後に、まず原の城へ行って教徒を殲滅した後、長崎へ行くようにという命令書を執事が2人に示した。

22日 御所で猿楽が催された。京都の商人で、建法又三郎という吉岡流の剣術師が立ったままこれを見ていた。警護の者が制止し、御所の門から追い出すと、胴着の下の脇差を隠してまた門に入って警士を斬り殺して、騒ぎが起きた。しかし、大勢が駆けつけて建法を殺し、庭に晒すと空に突然雲が沸いて雷鳴と大雨が降って、血を洗い流したという。

24日 秀忠は、江戸城で右府へ転任した祝いとして、猿楽を催した。諸侯諸士が集められてもてなされた。

29日 板倉勝重は、建法の狼藉事件を駿府へ届けた。

〇今月 播磨の後室良正院が駿府から帰国した。

〇諸州が暴風雨で、摂津、河内、濃尾の3か国で洪水があり、多くの田が荒れ地となった。(*この月の項目では、災害の仔細についてだけが『当代記』にある)

〇後藤庄三郎が家康に面会したときに、林道春は京都に学校を建てて学生を教えたいと申し出た。家康は「それはもっともだ」として適地を探す様にと命じた。その後、庄三郎に家康がいったことによれば、「道春が学校を開くのがよいか?」と尋ねた。後藤は「妙壽院惺窩を学頭にした方がよいと、道春は望んでいる」と答えた。家康はかねがね惺窩の徳を知っていたので感心した。しかし、この冬には、難波の戦いが起きて、またその翌年に家康が亡くなったので、この学校を建てることにはならなかった。

7月小

朔日 夜に冷泉為満が、古今集の講義をする催しがあった。そのとき家康は「人丸の伝はどの書物にあるのか」と尋ねた。為満は「これは秘密にて教えられない」と答えた。林道春も席に加わったので、家康は同じことを彼にも聴くと、道春は「万葉集の中に4人の人丸がでてくるが、中でも特に和歌に優れていた人は、柿本人丸(*人麻呂)である。何も秘密にするようなことではない」とのべた、冷泉は赧然と(*はずかしそうに)退席した。

〇去年片桐市正が駿府を訪れ、息子の出雲守高俊を本多上野守の婿にすることを約束したが、それ以来、大阪の家来たちが讒言をしきりにしたので、秀頼は市正を疑うようになった

山口但馬守と間宮権左衛門が、泉南のキリスト教徒を捕えるために大阪に来るという話が巷に流れ、今月21日の大仏供養として秀頼が京都へ行っている間に、市正が関東勢を大阪へ引き入れて、淀君を虜にするという噂が流れた。そこで供養を延期した方がいいと勧めるむきがあった。しかし、堺のキリスト教徒は兵を出すほどのこともなく、山口と間宮はすぐに数人を捕えて、泉南を平定したという。

14日 秀忠は土井大炊頭利勝に定家の真筆の『伊勢物語』を届けさせた。家康は道春にその奥書を読ませた。それによれば、この本は最初後土御門院(*在位1464年~1500年)が所持していたが、能登の畠山義統に贈られ、その後いろいろの人の手に渡ってから三好長慶が入手し、彼が滅んでから泉南界隈にあったものを、細川幽歳が買い求め、尾陽侯忠吉の所望によって、忠吉の許へ移り、彼が亡くなった後幕府の倉庫に納められていたという。

〇宇都宮家の説によれば、去年の春の中旬から松平伊予守忠昌の家来となった城井彌左衛門末房は、今日14日に家康に拝謁した。家康は苗字を宇都宮とし、先祖の治部大輔公綱にあやかって、貢献すれば治部大輔に任じるので、これからは治部左衛門となるように命じた。家傳の射法吉辰を伝承するようにといって、黄金300両を与えたという。

〇この頃、京都にも密かにキリスト教会があるという訴えがあり、京都の役人が厳しく調査して、十数人を捕えて牢に入れた。

(*『当代記』の6月5日の記事に、京都でキリスト教徒が蜂起した。町人からの訴えも多かったが、多くは禁制を知らないらしく、知らぬ呈で放置した。10人が牢に入れられ、妻は捕えられ美人は、又一に預けられたとの意味深長な記述もあるが、これに対応しているのだろうか?)

16日 冷泉中納言為満は、先祖の定家の直筆の『三十六歌仙』一冊をもって家康に見せた。定家の筆跡は沢山あるが、この一冊は特に優れていたという。作家一人に当たりに和歌10首全部で、360首の内、定家の選んだものを和歌2首ずつ切薄砂子紙の付箋がつけてあり、四半本唐組打交絲で綴じてあったという。

〇今日、豊臣秀頼の願主である京都の大仏殿の紫銅の洪鐘が鋳終った。高さが1丈8寸、経9尺1寸、厚さ9寸、重さ1万7千貫という。(*『当代記』では大仏の件は8月の話題となっている)

家康は大仏供養の時に、秀頼が京都へ行って取り仕切るべきなので、大阪の家来の何人かを従5位下に叙した方がよいと提案したが、どういう訳か秀頼は応じなかった。

この頃、南光坊天海が家康に、「今度の大仏開眼の導師は、仁和寺の門主だそうである。しかし、妙法院門主が供養の導師を務めたので、今回も開眼の導師を兼ねるべきである。真言の門主が開眼を行えば、出席すべきだろうか。秀吉の時の所司代の善徳寺法印玄以が真言宗なので、高野山の木食興田が秀頼に厚遇されているから、毎回真言宗を左とし、天台宗を右となる。これに準じるのは如何なものか}と訴えた。家康は「他の供養のことを云々すべきではない、聖武帝の奈良の大仏建設と源頼朝の再建の時の供養に準じればよい」と述べ、南光坊と金地院は片桐且元へ書状を送った。

東福寺清韓長老は、五山の碩学でとくに文章のうまいと世に聞こえていた。秀頼は彼に帰依して大仏殿の梵鐘の銘を書かせた。

清書は聖護院門主の興意と決まった時に、その銘の中に『国家安康』の4字があるのを、長年五山の僧侶が清韓を憎んでいて、これを機に秀頼に清韓に命じて関東討伐の文章を書かせた。また、大仏殿の棟札に、家康の建設監督であった北畠文左衛門、中村彌左衛門、正村治右衛門、清水久左衛門、植木久兵衛の名前を掲げないようにと大阪の馬鹿な家来が清韓長老に勧めた。その当時、織田老犬齋は病気で身動きが出来ず、小出播磨守吉英は亡くなり、大阪には智臣がいなかったので、大野兄弟などが利害を考えず、豊臣家の存亡も考えずに、このような無益なことをやってしまった。

17日 右府信長の舎弟、従3位行右近衛権中納言兼上野介平朝臣入道老犬齋が享年67歳で死去した。

18日 板倉勝重と片桐は8月2日早朝に、仁和寺門跡に大仏開眼中の席次は左に天台宗とし、鷹司殿下と公家たちの着座の仔細を提示した。

〇この日御家人の長鹽左兵衛正次が死去した。(甲陽の家来で主水正平の嫡子)

19日 伊勢と長島の城主、福島掃部頭正頼の家来は、主人を恨むことがあって、主人の不法を訴えた。しかし、家来が主人に逆らった罪で話を聞いてもらえなかったので逃亡した。正頼は、彼を追跡し駿府の大手の下馬で彼の住所を探し当てた。そして町の司の彦坂九兵衛光正の許可を得ず、家来5人を派遣して無理矢理に彼を捕まえた。

光正はそれを咎めて正頼に迫ったが、本人は屈服しなかった。光正はこの件を秀忠に報告すると、先に兄の正則がよく仕えたので穏便な処置にとどめられた。しかし、乱暴をした5人の家来は逮捕され、掃部頭は蟄居するように命じられた。

20日 越前福居(*福井)の城下で、結城左衛門督藤原晴朝が享年83歳で死去した。この人は黄門秀康の養父で、当時養孫の忠直から生活費300石をもらっていたという。

21日 飛鳥井黄門雅庸は、家康の所望によって『源氏物語』の講義をした。

26日 片桐市正から急ぎの連絡が入り、来月2日の大仏開眼供養を再度報告した。家康は梵鐘の銘と棟札を読んで、「棟札は奈良の大仏の舊挌(*?)と違う。また鐘の銘の序には「葉上の大釈迦葉中の小釈迦互為主伴」と書かれているので「秀頼が自分に代わって世を治めるべき」という意味に違いない。またその銘にも「国家安康」と自分の諱を分断して使っているのは、呪いの言葉だと感じる。供養のやりかたもよくないし、関東の検使の姓名や大工の姓名を棟札に除いている大阪の意味は理解できない」という趣旨を、本多上野介から板倉勝重に伝えさせた。

29日 板倉伊賀守は「家康がカンカンに怒っているので、来月の大仏供養は延期した方がよい」と密かに片桐へ連絡した。市正は驚いて、「鐘の銘のことについては淀君や秀頼の知らないことで、東福寺の清韓長老が書いたものであり、且元も學がなくて、内容が分らず軽率にも銘を彫ってしまった。これはひとえに馬鹿な家来の罪である。天台真言の僧徒千人を集め、大仏殿の周囲には武装兵で固めて、米600石で餅とし、柳樽を3万集める。最初は三台公卿が座り、秀頼も京都へ来ることに決めたので、大法会を延期すべきではない。まずこれを執り行ってから後に、自分は自殺して家康の怒りを償いたい」と言葉を尽くした。しかし、板倉は受け入れず、来月2日の供養を中止させた。

その結果、縁結びとして畿内近国から集まっていた緇素(*しそ、僧侶)たち数万人は空しく離散し、特に大阪の家来たちは眉を顰め、固唾をのんで帰ったという。

市正は清韓長老を呼んで尋問すると、「まったく呪いの言葉ではない」といろいろとその訳を説明し、世の碩学を集めて検問をしてほしい」と述べた。市正は家来の梅戸忠介を長老に付き添わせて、大急ぎで駿府へ行かせ、家康の執事にこの件を申し開かそうとした。

〇今月、加賀の元老、前田対馬守守長と奥村摂津守永福、本多安房守政重、永原左衛門尉が駿府を訪問した。その理由は、黄門利長の遺物として不動国行の脇差、備前三郎国宗の刀を家康に献じ、利長の隠居料、能登の16万石あまりを利常に与えてほしいと内々に打診した。家康は4人を駿府の城に呼び、加賀、能登、越中、の3か国を利常に宛がうが、3万石は利常の妻の費用とすべきで、利常は幼いあいだは家臣が結束してサポートするように命じた。4人は感激し、命令を肝に銘じて頭を下げ退席した。

〇幕府領の代官、権田小三郎が死去した。あとで調べると非常に悪事を働いていたのが発覚したので、家財を没収された。

武徳編年集成 巻64 終(2017.5.30.)