巻67 慶長19年10月9日~13日
投稿日 : 2016.10.07
慶長19年(1614)
10月小
9日 最上駿河守は、家督を継いだ礼として駿府を訪れ、太刀1本(正恒作)馬(鞍付)、白銀500枚、綿500把、蝋燭千本を献上した。さらに亡父出羽守義光の遺物の黄金千両と脇差国俊作を捧げ、本多正純が家康に見せた。家康は「今回の戦いでは、秀忠はお前に留守番役を命じたので早く江戸へ帰って、警護に励むように」と命じられたので、彼は江戸へ向った。
〇この日、8人で持つ鉄の盾2千枚を、京都で調達するように伊奈半十郎(後の筑後守の息子)に命じた。 彼はすぐに駿府を発って、京都へ向かった。
備中若櫻の城主の山崎左馬助允家盛が、享年48歳で死去した。源太左衛門片家の子である。
10日 江戸城の土木工事に従事していたが、今回休暇もらって駿府へ向かった浅野、鍋島、山内、稲葉彦六郎典通、遠藤但馬守常慶、毛利伊勢守長高などは、藤川の舟橋が渋滞して駅馬が足らないので、原と吉原の駅で足止めを食ったが、今日ようやく駿府へ着き、最上らと同様に、家康の指示を受けてそれぞれ自分の国に戻った。
〇下野の宇都宮城主、奥平大膳太夫家昌が享年38歳で死去した。
〇土岐左京太夫頼藝の子、次郎頼次が伏見で70歳にて死去した。
〇泉南の商家は秀頼に火薬10斤を献じ、印章を受けて、放火や乱暴を遁れようとした。
〇ある話では、遠州高天神の士の曽根孫大夫長一は、関が原以後元々の領地の遠州城東郡朝比奈村に住んで数年たったが、今度呼ばれて500石を加えられ、大阪へ従軍するように命じられた。長一は久世、坂部、渥美、福岡、両丹羽とともに、横須賀家の7人の豪傑と呼ばれた人たちである。
〇今月上旬、関ヶ原で石田方に付いて滅ぼされた武将たちや、その子弟、家来などや、駿府や江戸で罪を被って浪人となった連中が、今度大阪が兵を挙げるという話を聞いて、そろって大阪に集まった。
大谷大学吉胤(刑部の長男)、木下山城守植継(同二男)、村瀬宗仁(長束大蔵の子)、平塚左助(因幡の子)、南條中務忠成(中務光明らの子)、眞田左衛門佐幸村(安房の次男)、木村彌一右衛門秀望(伊勢守秀俊の子)、石川掃部頼明、石川肥後守数矩、木曽千次郎義春、(千次郎義就の子)、毛利河内守長教(二代目)、織田左門頼長入道雲生寺(有楽の二男)、赤松孫三郎(伊豆守良祐の子)、仙石豊前入道宗也(越前守秀政の子)、長岡與五郎有閭(越中守の庶子)、長岡監物眞安(細川の浪人)、福島伊勢守、弟の兵部正鎮(左衛門太夫の甥)、後藤又兵衛政次(黒田の浪人)、金森掃部可憲(出雲守の庶子)、若原右京、同勘太夫(池田の浪人)、上條又八(織田の浪人)、小倉竹右衛門行陰(蒲生の浪人)、大場土佐(石田浪人)、本多掃部正清(浮田の浪人)、同南部左門(南部信濃守の浪人)山川帯刀賢信、北川次郎兵衛直時、松田図書秀長、同、利助、同次郎兵衛秀冬(各々伊達の浪人)、明石掃部全登、同丹後全登、同丹後全延、同八兵衛(浮田の浪人)、鹽川清右衛門、同清兵衛、同信濃(紀州の畠山の浪人)、岡部大学則網、井上五郎右衛門頼次、布施武蔵帯刀、里見美作、結城権佐、岡村善左衛門、小笠原権之丞(以上は旗本の浪人)、桑原庄太夫(和泉の土地の士)、和泉の浪人では箸尾宮内行春、窪庄太郎左衛門、片岡彌太郎、坂上清兵衛、狭川左馬助、紀州の根來寺の僧徒では、智徳院、輪蔵院、更に、近江の甲賀の浪人などが続々と集まった。
このことは畿内や隣国に知れ渡っていたので、伏見の城代の松平定勝と京尹の板倉勝重は、淀や葛葉に新しい関所を設けて通行人を取り調べた。また、京都では商売人に触れを出して「伍々の員数にて組を定め(*?)」在京の浪人を取り調べて、大阪へ行くことを制止した。
長曾我部宮内少輔盛親入道祐夢は、関ケ原以後領地の土佐を没収されて浪人となり、15年間京都の二条辺りに住んでいた。板倉は、特に彼をマークして、彼の友人に命じて彼の家の捜査を毎日行った。祐夢は密かに大野と通じていたので、この際戦功をあげて禄を得ようと、浅野但馬守に約束があると偽って紀州へ行こうとし、友人を欺いて伊賀守が許可する手紙を書かせた。これは家康の許可を得たのと同じなので、彼はそれを使って大阪城へ行った。秀頼は非常に喜んで、四国のすべてを与えるという証文を与え、関係の諸侯を招集すると、すぐに100騎ばかりが集まった。
豊前小倉の城主、森壱岐守勝信とその子の豊前守勝永は、家康が顧盻浅からず(*非常に憎らしいと思っていた)、関が原では石田方に着いたので、戦後領地を没収されたが、それでも千石の扶持をもらって、父子共に土佐で蟄居していた。壱岐守は死去したが、豊前守は土佐で茶道を好み、悠々と余生を送っていた。しかし、その家来の宮田甚三郎を時々京都や難波に行かせて茶道具を買って、時には従弟の大野修理亮の許にも行かせて、その時には必ず秀頼の安否も伺わせていた。
この9月下旬、大野から秀頼が兵を挙げるとの知らせを受けて、豊前守は、武士ではあるが時風の吹き方や指揮者の能力を計って、失地奪回を志して「家康方につき、前の罪を詫びて領土を獲得する」と国主の松平土佐守忠義を欺き、暇をもらって土佐から出港しようとした。
その時、宮田甚三郎を呼んで、「自分が大阪に船をつけ秀頼方に付けば、長男の式部、次男の藤兵衛は、山内家が殺しに来るので、自分は何とかして式部を助けたい」と囁いた。宮田は承知して、夜陰に紛れて陸に戻り、乳父の小原文右衛門と相談した上、苦労して式部を船に移した。勝永は喜んで順風に乗って大阪に着いた。しかし、尼崎で建部三十郎正長の番船によって森の運搬船などが拘留された。
勝永は、その前に大阪城内へ入って、水軍の樋口淡路守を誘って、共に尼崎に出向いて放火して帰った。その時、宮田甚三郎は尼崎方の首を一つ取ったという。宮田は名前を甚之丞と改めた。彼も大野兄弟の従弟である。
矢野和泉守正倫は、去年中村伯耆守忠一が病死した時に妾が妊娠していたが、本妻は秀忠の養女だったので、遠慮して報告せず、実子がないことにして家が断絶した。しかし、その後家来たちが主人には落胤があるといって訴えたが、受け入れてもらえなかった。今度の乱を機会に、正倫はその子に家を継がせようとして大阪方につき、騎兵50人を預かった。
大友家に滅ぼされ薩摩に住んで病死した菊池肥後守宗家の孤児の肥後武重13歳が、家来の倉光勘解由を連れて秀頼の家来になり、大阪で秀吉が貯め込んだ千枚の銅はもちろん、城中の金熨斗付の座席も壊して、小川七郎右衛門を奉行として43銭目ずつの竹流金を作らせ、これで兵員を募集した。そうすると畿内や近国の農民や商人のなかで勇気のある者が、手柄を目当てに雲霞のように集まり、瞬く間に56万人にもなった。しかし、秀頼の家来たちのような志をもった者は誰もいなかったという。
〇ある話によれば、浪人1騎あたり竹流金2枚を与え、大名や浪人には屋敷を提供し、その身内には妻子を町の店に養わせて米を支給した。しかし、浪人には全て人質を取った。籠城の士は8千700余り、雑兵と合わせて52万人だったという。
〇今度の家康の出陣に際して、家康は駿府の城の守り役を決めた。本城には水戸萬千代(22歳、後の中納言)、二と三の丸は三宅越後守康信、同惣右衛門康盛に護らせ、沼津には長野九左衛門が入った。
伊豆の走水、相模の三浦、三崎は、東海の重要な港なので、走水は水軍の向井兵庫忠安、三崎は水軍の小笠原安芸信盛(21歳)と同新九郎廣信に護らせた。
三河の本坂の関所は、松平玄番清昌、箱根山と小田原の本丸は松平将監成重、戸澤右京亮政盛、甲州の中の城は諏訪因幡守頼永、駿河の本洲の関所は渡邊因獄祐盛、信州木曽の妻児の関所は山村甚兵衛良勝、浪合の関所は千村平右衛門良重、知久伊左衛門(知久頼氏の子)、宮崎太郎左衛門安重、近江の彦根の城主井伊氏大は大軍を率いて大阪へ攻める先鋒だから、その留守番として美濃の加納の軍卒と小笠原左衛門佐政信が命じられた。
伊勢の桑名の城主本多美濃守忠政、同平八郎忠刻は、城から出て先鋒に加わった。その留守は遠山久兵衛友政が護った。近江の長濱は北國の要路なので、城主の内藤豊前守信政は難波には行かず、そのまま城を護った。
肥後天草の地はキリスト教徒が、今も潜んでいるという話があるので、日向の縣の尹の有馬左門佐康継が兵とともに守護した。
〇京尹の板倉と伏見の城衛、膳所、彦根の家々からは、スパイを大阪に入れ、様子を調べて毎日駿府へ報告した。
〇『石川家傳』によれば、主殿頭忠総は大久保相模守忠隣の二男で惣一郎といった。彼は慶長9年に15歳で秀忠の前で元服し、17歳の時から家康の近くで仕え、19歳の秋に、家康が会津へ出陣した時に、無禄ながら一隊の頭とされ、関が原でも参戦した。21歳で爵位をもらい、5千石を受け取った。28歳で祖父の石川日向守家成の家督を継ぎ、美濃の大垣の城地、5万石を相続した。ところがこの春、実の父忠隆が罪に問われたが、家康は忠総が優秀な人材だと考えて、今回は秀忠へ推挙して先鋒に加えさせた。
〇ある話では、金地院崇傳、林道春、茶屋道清(清定の子)、後藤光次次、亀屋榮仁なども従軍し、母衣や鞍や鎧が宛がわれたという。
11日 朝、家康は、狩を楽しむ装いで駿府の城を発った。
旗本奉行は庄田小左衛門安次、保坂金右衛門、
槍奉行は大久保彦左衛門忠教、若林和泉直則、
臨時の槍奉行は小宮山又七郎昌親、松田六郎左衛門定勝、小坂新助、米津梅干之助康勝、
大番頭は水野備後守分長、松平石見守康安、松平忠左衛門勝隆(後の出雲守)、
書院番頭は花畑番頭をかねて松平右衛門太夫正綱、秋元但馬守泰朝、
軽率頭は島田清左衛直時、蜂屋七兵衛貞頼、間宮左衛門信盛、山岡主計頭景以、布施孫兵衛重次、近藤登之助秀用、坪内惣兵衛定家、杉浦市右衛門正次、渡邊彌之助、光原田四郎左衛門種平、室賀源七郎、
使い番は山本五左衛門正成、初鹿野傳右衛門正備、小栗又一忠政、服部権太夫政光、島彌左衛門、間宮左衛門伊治、清水権之助正吉、原田藤左衛門、奥山治左衛門、本多藤四郎正盛、河野庄左衛門盛政、米倉丹後守昌継、眞田内蔵助だった。
これらのうち、山岡主計頭景以や間宮左衛門信盛などは使番も兼任した。
城和泉昌茂、山城宮内少輔忠久、眞田隠岐守信尹、瀧川豊前守忠任、佐久間河内守政實、横田甚右衛門尹松、鈴木久左衛門重量は臨時の目付を使い番から命じられた。
陣営奉行は佐藤駿河守、村瀬権右衛門、
歩卒頭は植村主膳正春(後の志摩守)、内藤主税廣信、松平豊前守勝政、
臨時の弾薬奉行は中根善蔵利重、
小荷駄奉行は夏目長右衛門保次だった。配下の雑兵の数は470騎という。
朝、遠江参議の頼宣が出馬した。正午ごろ、後続の部隊が駿府を発った。
家康は田中の城へ着いた。夕方に雷鳴が2,3度鳴り出陣の吉兆だといわれた。
彦坂九兵衛光正は、天竜川の舟橋ができたけれども、家康の籠が通るまで往来を遠慮すべきかどうかと家康に尋ねると、「舟橋は通行のためにあるので、どうして禁じる必要があるのか?ただ、どっとわたると壊れるので、中央の一筋を渡るように」と指示し、道すがら放鷹を楽しみ、戦のことは気にしなかった。
12日 家康は掛川の城へ着いた。(*家康の旅程は『当代記』と一致する)
大野壱岐守氏治が帰ってきて、大阪城へはどうしても入れなかったという。氏治は修理亮の弟である。最近は駿府に仕えて家康側の情報を大阪へ流したかと疑われたので、一旦捕まえられた。しかしその疑いがないと判ったので、今度は使節として大阪へ行かせた。しかし、彼は秀頼や母や兄の状況を見捨てて帰って来たので、家康の期待を裏切った。
〇桑名の城主本多美濃守忠政が昨日出兵した。
亀山の城主、松平下総守忠明も美濃の加納まで進軍した。老父の奥平美作守信昌と面会し、美濃の国士を率いて出陣しようと進言した。
片桐市正の使者の青木四郎左衛門と板倉七郎が、家康に会いに来て、大阪方の兵員の募集に応じて多数が集まり、「和泉に出陣して奈良に侵入し、宇治や槙島あたりまでを放火してから、京都を占領しようと相談している」という噂がしきりに流れていることを報告した
〇堀正意の『難波戦記』によれば、浪人の柏原源左衛門は、大阪方として彼も含めて20人ほどで密かに淀の関所を通ったが、番衛の木村与三郎右衛門と河村又右衛門が八幡堤まで追いかけて、全員を討ち取って首を板倉勝重に届けた。
〇ある話では、甲陽の家来だった日向平兵衛政成が、家康の夜の話し相手を務めていた時、家康が「大阪にはどのような人たちが多く集まっているのか?」と尋ねた。政成は「豊臣に忠誠を誓ったものは居ないようで、皆、竹流金をもらって逃げ出しているようだ」と答えると、家康は非常に機嫌を損なって「何も分かっていない」と怒った。半兵衛は恥じて退席した。すると家康がもう一度彼を呼んだので慄きながら出ると、「今お前がいったのが正しかろうが、これが敵方へ知られると、彼らは浪人たちから人質を取るようになるだろう。それで敵の結束が高まると決着するのに時間がかかってしまうのを心配したので、そういったのだ」と注意したという。
13日 家康は遠州中泉に着いた。その辺りでいつものように放鷹をして、雁を5羽捕え、夕方に伴の者に食べさせた。
肥前長崎奉行の長谷川左兵衛藤廣から、「藤廣は高山右近友祥入道南坊と内藤飛騨守如安をその妻子とともに長崎の獄舎に入れ、九州のキリスト教徒を捕える策に努めていた。高山の娘は、加賀の家来の横山山城守長知の妻だったが、父も逮捕を望んだので長崎へ送還して牢獄に入れた。なぜならこの宗教の掟は、殉教をもっぱらとして死後の平安を願うからである。この話が天港国(*マニラ?)に伝わったので、その国から100人余りが長崎へ彼らを迎えに来た。藤廣は高山と内藤始め100人余りの教徒をその船に乗せて追放した。また、平戸の松浦肥前守堅信の部下を使って、長崎や高来郡有馬あたりの信者らしき者の家を捜索し、キリストの絵や彫像を所持する信者を全て逮捕し獄に入れ、それほどでもない者は、その一族を仏教に改宗させ、松浦を長崎に駐在させて警護させた」という急ぎの連絡が入った。
〇家康の近臣の黒田蔵人と安藤帯刀の家来の鷹匠が出会って口論し、蔵人は3カ所傷を負い、安藤の家来は黒田の若い衆に斬られて死んだ。
〇里見安房守忠義に領地を与えるために、長臣の柾木大膳と印東采女に対して、伯耆の倉吉の地を引き渡すよう稲垣摂津守重辰と山田五郎兵衛直時に命じた。この柾木大膳は安房守の祖父の里見佐馬頭義頼の3男で、剛力だった大膳の後継ぎである。
〇福島左衛門太夫(*正則)の使いが家康に会に来た。彼は「竹中伊豆守は(*関ケ原の戦いでは関東方に寝返って厚遇された。正則は今回秀頼が淀殿に勧められて兵を挙げたので、驚きと嘆きに耐えられず、淀殿と秀頼へ手紙を送って思いとどまらせたい。大仏殿の建設や梵鐘の件で、徳川のクレームを受けて兵を挙げようとするのは、悪魔の仕業だろうから、早く非を認めて淀殿を質として江戸へ出向いて謝ったほうが、長く生き延びる策ではないか。正則は江戸にいて幕府に従っているので、天下の流れに乗って大阪を攻めて城を落とすだろう。その時、豊臣家は永遠に滅びることが決まってしまう。よくよく考えた方がよい」という2通の書簡を書き、この使いに持たせた。本多上野守は中身をチェックした後、その使いに大阪へもっていかせた。
しかし、それより以前に、大野は正則の大阪の屋敷にある5万石の糧米を秀頼の軍用に使いたいという書簡を正則に送った。正則は了承して返書を送った。また正則が安芸に住んでいる元の家来の福島丹波と尾関石見へ、「自分は秀吉に側近だった。おまえたちはよく考えて自分の息子正勝(*忠勝と同じ)の将来の為を思うのであれば、自分を江戸に捨て置いて、秀頼に尽くすべきである。自分はお前たちを恨みはしない」と密かに連絡した。
広島の城内では、元の家来たちが集まって相談したとき、丹波は「今度われらが大阪方となって安芸と備後の勢力で秀頼に付くことが世間に知られると、世は五月雨的に大阪に従う者も多くなるはずだから、もし戦に勝利すれば当家の繁栄はもちろんである。一方、もし大阪が滅びたら我々も滅びる。しかし、秀吉の親戚として恩のある左金吾だから、武名は後世に残せる。一方、仮に家康に尽くしても、本意でなければ一時は厚遇されるかもしれないが、どうせ敵として疑われ続けるだろう。それぐらいなら家の運命を豊臣家と共にすべきだ」とのべた。
尾関石見は、「丹波の考えは実にもっともではあるが、目の前で正則が見殺しにされるのを見ているのは人の道として放っておけない。ここは時世をよく見て、家の存続を図るべきで、よく江戸と大阪の優劣を見届ければ、親分の資質と家来たちの結束力を比べると、秀頼は家康に及ばないのはいうまでもない。今回の挙兵は大野らが血気に走っただけで、大義のない戦いだから、天が豊臣を滅ぼす時が来たのだ。間違っても徳川に背いてはならない」と諫めた。その結果、備後などその場にいた者は皆石見の意見に従った。
かねて大野兄弟は「(*徳川は)関ケ原での成功を手本として、秀忠は福島、黒田、加藤左馬助を先鋒にするだろう。しかし彼らは秀吉の恩を忘れているはずはないので、豊臣の味方に戻るのは当然だ」と有楽に豪語していた。家康は機敏にこれを察して、この人たちを皆江戸の留守番役にしてしまったので、彼らの考えは外れ悔しがった。
〇摂津の尼崎の城主、建部三十郎政長は、秀頼の家臣になって尼崎周辺の税を仕切っていた。しかし、城下に秀頼の倉庫があったが、政長が徳川方になびいていてまだ子供で禄も少なかったので、家康は池田越前守重影を尼崎の代理とした。また、播磨の池田武蔵守利隆は宮城筑後に、又備前の池田左衛門督忠継は、南部越後にそれぞれ30人の騎士と軽率100人を添え親戚として越前を救援させ、南部には尼崎の邑の長に旅人を送り迎えさせて、大阪からのスパイを阻止した。また、2人は昼夜城下を視回っていた。
大阪からは租税を持ってくるように毎日催促されていたが、建部政長は徳川方に気兼ねして躊躇していた。大阪方はしきりに城へ来ようとしたが、城方は市中や邑から質を取って固めていたので、彼らは仕方なく引き揚げようとした。そこで政長と重影は追撃しようとした。しかし、南部越後は「敵は大軍でいろいろ企んでいる可能性があるので、危険があるときに戦って負けて城を獲られたら徳川に申し訳ない」と制止した。
堺の大商人今井宗薫は、茨木まで財産を運ぶために片桐市正に助けを求めた。市正はすぐに日比嘉左衛門と多羅尾半左衛門など200人ほどで援護しようとした。彼らは尼崎で船を調達して、堺へ渡ろうとしたが、南部と宮城は「最近、且元は秀頼を裏切ったようなものの、実は大阪の重臣である。油断してはならない」と船を貸さなかった。
一方、織田左門頼長入道は、数100騎で中之島の外塁を視回って大通りに出たが、片桐勢が尼崎で船が得られないので神崎辺りをウロウロしていると聞いて、駆けつけて討ち取ろうとした。
市正の兵は何度か抗戦した。そして中継地の伊丹に撤退して防戦しようとした。しかし、郷人は日ごろ且元に頼っていたものの、大阪との約束を守って且元らをシャットアウトしたので、片桐勢は仕方なく遠い茨木へ引き取ろうとした。お陰であちらこちらと迂回して労力を費やし、時間が経った。その様子を郷人や一揆勢が大阪城へ伝えると、もともと大野治長は市正をひどく恨んでいたので、家来の米村六兵衛、その子の次太夫、市之丞を向かわせ、野里村の北村三右衛門の雑兵と一緒になって駆けつけて且元勢を前後から挟み撃ちにした。そしてあちらこちらで戦いがあり、牧治右衛門父子、十河、川路などが市正の兵を負かせ、米村市之亟は日比嘉左衛門の首を取った。市正の従士の多羅尾半左衛門は、ようやく建部政勝から小舟を借りて今日堺に到着した。
堺に着いてみると、芝山小兵衛定好は小禄で兵も少なく、ついさっきに政所を去って岸和田の城へ退去していた。多羅尾は非常に驚いて、今井宗薫の許へ行った。するとそこで赤座と楯島の勢に包囲された。多羅尾は勇気を奮って家に火を放ち自殺した。大阪方はその首を取って大いに喜んだ。秀頼は、その首を確かめ米村市之亟は若いにもかかわらず名を上げたと褒めて、秀吉の持ち物の金小札の鎧と黄金1枚を与えた。宗薫父子は大阪勢に殺されるところだったが、道具の目利きなので、殺されず禁錮になった。(芝山が堺を退去し、片桐の援兵が戦死したのが、この月の4日と書かれたものがあるが、これは間違いである)
〇ある話によれば、後日「尼崎の建部は、子供で微力だったのはわかるが、池田家からの援軍がどうして片桐勢を救って大阪勢を撃たなかったのだろう。池田家の兵がヘタレばかりだったのか、利隆に下心があったのだろう」などと諸人がいろいろ嘲ったり誹謗したりした。
家康は「利隆兄弟の援軍の内、南部と越後は優秀だと聞いていた。今度尼崎で日夜警護を続け、片桐の兵を中途半端に救うような馬鹿なことをしなかったのを見ると知恵もある様だ。仮に池田勢が場外へ出て戦いに勝っても、敵が少なくては自分の為にはならない。また、池田が負ければ敵は大いに意気を上げるだろう。また、大阪から小勢で片桐勢を討つように見せかけて、尼崎の城の小勢が片桐を救おうとしたときに猛勢で城を奪い取る計略もあったかもしれない。だから南部がよく考えて、小利を忍んで大利を必ず取るという考えは、自分も望んでいることだ」と南部を褒めた。
人々は芝山小兵衛定好が堺の政所を逃げ出したことを嘲ったが、家康はまた「兵が少なくては大敵を防げないじゃないか?、だから撤退するのがどうして卑怯なのか?」というと、誹謗していた輩は黙ってしまったという。
〇また、別の話として、摂津の野里の邑の長、北村三右衛門は勇気のある人で、周りの邑にも一目を置かれていた。今回里人を動員して大野治長の兵と一緒に神崎で片桐勢を粉砕した。且元は憤慨して家康に訴えたので、北村三右衛門を決断所に連れて行って取り調べを行った。しかし、三右衛門は「野里は大阪の領地内にある。片桐は大阪を裏切った敵である。彼らを撃つのは当然だろう。これを里人の罪だとはいえないのではないか」と激しく抗弁した。家康は三右衛門には正義があって勇気もある。その上辨もたつ。彼を許しておくのは隣村にも役に立つに違いない」として彼を咎めなかった。これは家康の度量の大きいところである。
武徳編年集成 巻67 終(2017.6.5.)
コメント