巻71 慶長19年11月20日~26日
投稿日 : 2016.10.22
慶長19年(1614)
11月大
20日 畿内は大雪。摂津(*大阪の戦場)では雪は降らなかった。
21日 家康の命によって村田権右衛門は、笠の上に編み笠をつけて矢玉を防ぎながら前線の現場に乗り込んで、大阪城内へ入り和平を交渉した。(村田は、元は尾張の士である)
秀忠の命によって、本多美濃守は部下とともに平野から天王寺の辺りへ陣を移し、住吉の本陣の前方を守るために駐屯した。
池田利隆は新家居村の敵を破った。
〇夜になって、住吉の本陣を訪れた者がいた。守衛がその人を捕えて尋問すると、「藤堂高和泉守の陣所へ行こうとして道を間違い、うろうろしていた」と答えた。しかし、藤堂の陣所は天王寺なので怪しいと、なお取り調べてみると、大阪城から出て来たもので、秀頼の手紙を懐に持っていた。
『重而申入候 今度貴所以調儀 両御所其表ヘ引出候事令満悦候 此上者 東勢ト申合
不日ニ後切被任候 於事成者如 約束封大国 其上 望次第恩賞可被行之者也
秀頼
藤堂和泉守殿』
この使者がいうには、「藤堂や浅野など秀吉に恩を受けた大名たちは、密かに大阪城に通じていて、中には酒や肴を贈り、衣服も送っている」という。家康はこれが嘘の情報だと察して、すぐに高虎を呼び、この手紙を見せて、「お前は自分のために尽くしてくれている。大阪城の大野らが、お前との信頼関係を断ち切り、自分を弱らせようと謀っているに違いない。自分が、どうしてそんな小者の計略にかかったりするものか。以前お前は、自分に京都からすぐに出陣してならない。摂津へお前が行って、敵の様子を探って報告するので、その様子を見てから出陣するようにと進言してくれた。しかし、自分は構わずに出陣した。敵はこのことを知らないで、この手紙を作ってこの男を送り込んで来たに違いない」と述べ、その男の手足の指を斬り落とし、額に「秀頼」と入れ墨を施して、城へ送り返し「2度と妙なことをするな」と命じた。
高虎は非常に感謝して、その男をよく調べたところ、「元は和泉の土地の住民で、家が貧しく子供や孫が多いので大阪城で働いていた」といった。更に尋問すると、「大野治長の云いつけによって、仮に城外で死んでも、子孫は厚く待遇するという確約をしてもらったので、この密書を竹田栄翁からもらって、城を出て来た」と説明した。
高虎が更に追及すると「自分は大野主馬の従士の吉川瀬兵衛だ」と白状した。高虎はこのことを家康に報告し、手足の指を斬り落とし、額に入れ墨を施し、小旗に大野の鉈(*なた)の紋を書いて背中に付け、戸板に載せて城外に捨て置いた。すると城兵がすぐ出て来て、城内へ運び込んだ。それからというもの、家来の中で城内と通じるものは誰も出なかった。
〇この日、城兵の鹽江甚助は、使いの者に手紙を託して、池田武蔵守へ届けさせ、「諸大名で江戸での土木工事をさんざんやらされて、嫌がっている者が城へは何人も来ている。利隆もはやく考えを変えてくれれば、備前の美作を追加しよう。もしOKなら自分が城から密かに出て、その言葉を聴く」と連絡した。
利隆は使いを捕えて、手紙と共に家康に献上した。家康はすぐに使いに拷問にかけ、内通者を聴き出した。
一方、秀頼は、篠原又右衛門を呼んで「お前は浪人を集めて池田宮内少将忠雄の領地の淡路へ渡り、由良の城を抜け。そして由良と岩屋の湊に番船を置いて、四国や九州からの物資の運搬を遮れ」と命令した。篠原は淡路の者なので、すぐに仲間を集めると、浪人たちはすぐに50隻ほどの船を集めて淡路へ行こうとした。ところが大野修理亮は、「まだ戦いが始まらないうちに妙なことをするな、そこで負ければ見方が弱いことが明らかになるので、決して淡路へ渡ってはならない」と止めた。しかし、皆は応じなかった。修理亮は怒って「船があるから勝手な戦いをするのだ」と船を燃やしてしまった。
ところが彼は今となって後悔して、忠雄と老臣に偽の手紙を送って「淡路の士はおおむね秀頼に通じている、忠雄も早く秀頼につくように」と申し送った。忠雄は、修理亮の6人の使いを捕えて、その手紙と合わせて住吉の陣所へ提出した。福島備後守正勝も秀頼の手紙数通を秀忠に見せた。
両京極の陣の今里は、城の濠に近いので2カ所に砦を築き、新庄主殿直好はその二の曲輪、松平伊豆守信吉は本丸を守るように命じられた。
22日 家康は茶磨山(*茶臼山)へ行き、この山を本陣にするために測量を行った。山頂は狭いので、近臣の他の者のいる場所がなく、護衛は一心寺で駐屯するように命じられた。そして、艮(*うしとら、北東)の麓の柵門の内、番所西向きは6畳、外番所東向き12畳、玄関3間x5間で床をつけ。寝所は頂上に造り、南北12畳の他3間に1間のひさしがあり、5尺のたるきで支えるように。西の麓には4畳半の茶室、南の麓には2間四方の納戸、東向きに2間四方の浴室建てるように。また東の麓には20畳の部屋を作って近臣の席とせよ。北の麓には台所を設け、総台所は乾(*南東)の空堀の外側に造り、その南には後の備えの陣営とするようにと、大工の棟梁の中井大和守に命じた。戦後勝山と呼ばれたのはこの山のことである。
老臣と井伊、藤堂、本多美濃守、松平下総守などが訪れ、家康が茶磨山へ移った後の陣の場所を決めた。左の方は義直、右側は頼宣とし、本多正純と永井直勝の組の安藤、成瀬が左右に備えるように。大番頭の3組は前の備えに、秀忠は岡山を本陣とするように。(今までは加賀利常の陣だった)、左の備えは大番頭の高木主水正正次、右の備えは同阿部備中守正次、後ろ備えは書院番頭の水野隼人正忠清、青山伯耆守忠俊とするようにということだった。
諸侯は次々に家康に会った。住吉へ帰る時は、秀忠の献じた馬で城へ向かった。家康は敵陣に向って馬がいなないたので、藤堂高虎は非常な吉兆だと述べた。
家康は喜んだあまり「地一返駆二返乗せ玉フ」(辺りを駆け回る?)大名たちは跪いて眺めた。家康は「若い頃は戦場で馬の上から鉄砲を撃ち、矢も発して敵を防ぎ、普段は鷹をひじにのせて一日中走り回ったものだ。歳をとると普通に乗るのも簡単ではないな」と述べた。藤堂高虎は「いやいや今なお、なかなか盛んでお元気だ」と褒めた。家康は住吉へ戻った。
〇仙臺の少将政宗は1万5千余りの兵と共に木津と今宮の間に着陣した。攻め口15町に火砲の兵を千人配置した。(弓を持った者はいなかった)
〇『慶長日記』によれば、秀忠が大阪に着陣した後、江戸から荷馬140匹に白銀を負わせて来させたという。
〇長崎から長谷川左兵衛藤廣と間宮権左衛門伊治が帰ってきた。
24日 上杉中納言景勝は河内路から進軍して、高畠に陣を張った。更にここから信畿野(*鴫野)堤を経て中間村に駐屯し、大阪城の艮にある猫間川際まで進軍した。しかし、城郭は高く、寄せ手が陣から出入りするのが上からよく見通せる上、この辺りは堀が二重なので、上下の狭間から筋違いに火砲を浴びせられるだけでなく、弾薬庫のある艮の方まで城門から鱗のように土嚢を積んで、そこから替わり交代に足軽を出して火砲を撃つので、玉が雨のように飛んできて、ほとんど避けがたい状況となり、寄せ手は負傷者が続出した。しかし、上杉家の独特の攻め方によって、ついに城壁まで迫った。宮城丹後守豊盛は備前島で弾に当たって負傷した。家康は朝比奈源六郎正重にその苦労を訪ねさせ、榊原遠江守康勝とその部下を派遣して、城の東北の大和川あたりの稲田村へ陣を移す様に命じた。
25日 家康は松平主殿頭忠利を呼んで、摂津の茨田郡仁和寺堤を築くように命じた。また伊奈筑後守正次を奉行として、諸侯の太夫に蘆や茨を切り払わせ、敵が切った春日井堤を改築して、諸軍の行動を円滑にするように命じた。
池田越前守重影を呼んで、今度の尼崎での戦功を褒めた。
〇上杉黄門景勝の向った京橋の艮の青屋口から1町半ばかり先の、信幾野堤には、敵方が応急の柵を3カ所設けていたが、堤の上なので狭く、大勢を配置することは出来ず、砲卒の隊長2人が少人数に守らせていた。この方面に来ていた軍監の近藤石見守秀用と本多三彌正重は、このことを気にしていなかったので、安藤治右衛門正次と伊藤右馬允正世、屋代越中勝永はある考えをもって、今夕(*住吉から出て)信幾野を巡視していた。
伊藤は「ここの柵は雑で、兵の数も少ないので、今自分たちの手勢で討ち破ってしまおう。もし青屋口から敵が大勢出て来ても、上杉勢が必ずバックアップしてくれるので危険はない」といった。屋代も心の中ではもっともだと血が騒いだが、嫡子の甚三郎忠正(後の越中守)を連れて来なかったので、今夜は延期して、明日の朝に攻め初陣を飾らせようと考え、「今日はもう暗いし、明日にしよう」といった。
安藤は「自分たちで柵は破れるといっても、こちらは小勢だし、ここを完全に取り仕切るのは難しい。やはり上の意見を聴いてからやらないか」といった。伊藤正世は怒りだして「俺は坂東武者だ、関八州の士は戦場では、どんな強敵も必ず戦いたいものだ、ましてこんな柵など自分1人でも抜けるわ」と怒鳴った。
正次は「自分の国の三河の士は、目先の勝をむさぼるのでなく、手柄を上げることを肝に銘じている。だから敵に城へ向かう時はよく観察して、自分たちの後援部隊が来て、長く持ちこたえられる場合には躊躇なく、相手を落すために身の危険を顧みたりしない。しかし、この柵のようなものは、今晩破ることが難しくなくても、夜中に城から大勢で出てくれば、きっと持ちこたえられない。そのように労して功がないような戦いは、やりたくないな」と答えた。伊藤は黙ってしまい3人はそろって帰った。
先日上杉の斥候が、城を攻める場所を調査した時に、秀頼は天守から見ていて、後藤又兵衛基次に、「急いで行って連中を追い払え」と指示した。後藤はすぐに青屋口の櫓に登ってよく様子を見た上、彼らは斥候で陣を張りに来たのではないとして、兵を出さなかった。実際、景勝の斥候は、大和川の岸の藤堂高虎の家の跡を対抗する城にするのがよいと判断して、すぐに帰っていった。
そうして安藤、屋代、伊藤は住吉に帰り、信幾野(*鴫野)堤の敵方の柵の様子や、景勝の陣所から北の信幾野川を隔てて、佐竹が向かう今福の堤にも3重の柵を設けて少人数でまもっていると、家康に報告した。
家康は、明日の早朝に信幾野と今福それぞれに、上杉と佐竹の軍勢を向かわせて討ち破るように命じた。そこで、景勝には使い番の佐久間河内守政實と小栗又一忠政に行かせて、直江山城守兼續へ家康の指令を伝えた。直江は「一昨日は後援として到着して、長旅の疲れが残っている。しばらく兵と馬を休ませてから敵の柵を破りたい」と述べた。佐久間は「謙信の着陣しすぐに決戦に挑む家伝を自分は知っている。お前の考えには承服できない」といった。そこで彼は明朝攻め滅ぼすことを承知し、佐竹の方も、渋江内膳の命令を受けて「明日の朝必ず今福の柵を抜く」といった。
今夕、後藤又兵衛は、天満宮に参るために櫓から周りを見ると、東北の寄せ手は先発隊と後方部隊にわかれて攻めてくる様子だった。彼は「明日はこの口からくるなあ」といった。その夜、景勝は作戦会議をして、明日の1陣は須田大炊介長義、2陣は安田上総介順易と決めた。
26日 曙に上杉景勝は軍隊を信幾野堤へ向かわせ、佐竹義宣は今福の堤へ進軍した。榊原遠江康勝の組と本多出雲守忠朝の組、堀尾山城守忠晴などは、大和川の上に備えを配置し、その他、四方から寄せ手は城へ迫った。
景勝の向う信幾野担当の軍監安藤治右衛門正次、伊藤右馬允正世、屋代越中勝永は、今朝また斥候といって出かけたが、勝永は嫡子の甚三郎忠正を呼んで「お前は何も持たず足軽も連れていない、早く用意して来い」といって帰した。しばらくして彼が来ると、越中は笑いながら冗談で馬に乗って進んだ。安藤と伊藤は歩いていたので、越中に「馬を降りんか」といった。すると勝永は「年寄りは歩けんな」と答えて、2人を先に歩かせ、後から静々と馬でついてきて堤の下まで来た。
屋代の家来1人が敵の火砲に当たった。
一の柵を守っていた大野治長の隊長井上五郎右衛門頼次は、火砲30挺を発したが、味方の兵が近くまで進むと玉が上を越えて当たらなかった。柵の左右に木戸があり、一方へ安藤と伊藤、もう一方に屋代甚三郎が向かった。治右衛門の従士の酒井左一郎が柵を破ろうとすると、井上五郎右衛門がさく越えに槍を突き出したので、左一郎は傷を負った。治右衛門は柵越しに槍を突きいれると、井上の家来がその槍を切り折った。その時甚三郎が柵を破り、乗り入れて井上の首を取った。
伊藤正世の家来の安西金兵衛は、柵の外から敵の槍を奪い取り、敵を突き伏せ、柵の中で首を取った。伊藤と屋代勝永が勇敢に戦い、勝永の家来の石川右近、市川半右衛門が首を取った。安藤は屋代に指令してすぐに引き取り6,7間馬で戻ると、上杉勢が駆けつけて二重の柵を破った。多劫豊後が活躍して、北条清右衛門、上泉主水、桜井囚獄、大股八左衛門、同彦六が戦死した。
敵の渡邊内蔵助の隊長山市左衛門などは、3の柵へ引き下がったので上杉勢は1,2、の柵を支配し、景勝の旗本は信幾野の横に備え、直江山城守は、黒金孫左衛門の火砲の兵300人を南大和川の堤を越えて蘆の原に駐屯させた。ここは戦場から非常に離れた場所なので、皆は理由がわからず非常に疑問に思った。
〇佐竹義宣の向った今福の柵は、信幾、野と小川を隔てて1町ほど離れたところにあり、敵方は備前島町口を守っていた矢野和泉正倫の家来が、騎士50人を連れて一晩中かがり火を焚いて3カ所の掘を深くし、火砲の兵卒を配置していた。
そこへ今朝、佐竹の先発隊の戸村十太夫など5,60人が堤の陰から忍び寄り、びっしりと控えていた軽率を追い払い、掘りの切れ目まで進んだ。10人の城兵が堀切の仮の橋を渡って抗戦したが、5人は戦死し、残りの5人の内の3人は負傷し、2人は柵の中へ引き下がった。佐竹の先発隊の梅津半右衛門は競って飛び込み、矢野正倫は火砲に当たり、及川南右衛門に首を取られた。その他、飯田左馬允家眞父子などはそこを動かなかったので命を落とした。佐竹方は、渋江内膳、黒澤甚兵衛、小川刑部右衛門、江尻軍兵衛、小野崎織部、荒井甚兵衛が手柄を上げ、敵を片原町まで追いやって、敵方の町口の柵と三の柵を占領して守った。木村長門守重成は今宮を守っていたが、備前島を守っていた勢力から急な救援要請が来たので、河崎和泉、上村金右衛門に根來の智徳院の砲卒50人を添えて行かせた。彼らは町口の柵を守っていた佐竹の勢力を追い立て、柵を取り返した。義宣の兵は3の柵を固めて火砲を発射した。
秀頼と家来たちは、京橋口の、櫓からこの戦いを眺めていたが、後藤又兵衛は「寄せ手が迫ってきたのでどちらの前線も負けそうだ」と報告した。
秀頼は、「お前たちも駆けつけて敵を追撃するように」と指示した。そこで大野治長は兵を連れて信幾野に向かった。7組の頭たちは天満の砦を修理して川を渡った。木村の家来の大井何右衛門と高松内匠は、火砲の卒を連れて、10人ほどで今福の戦場へ来た。また続いて長門守も合流した。そこで佐竹勢は3の柵を放棄し、2の柵を守ったので、敵味方それぞれ一重の柵から火砲を発した。木村の従士の柳名右衛門は小舟を堤の北へ漕ぎ入れて、横合いから火砲を発した。木村重成は今年23歳でタイミングよく3の柵の木戸を開けて、2の柵の口を破った。彼の与力の松浦彌左衛門と堀田勝嘉の従士の浅野清兵衛が、最初に乗り込んで首を取った。続いて高松内匠と大野半次郎、小川仁左衛門が槍を合せ、重成は自分から槍で交戦した。後藤又兵衛は入れ替わって戦おうと、使いを送ったところ、重成は「今戦っている場所で他人と交代すると、兵が乱れて敵にやられてしまう。お前は戦場をよく知っているだろう。初陣の重成と交代するとは実に情けがない」と返事した。後藤は「敵は関からかわるがわる途切れずに攻めてくればどうしようもなくなるだろう、堤の曲がったところにいる敵を追い払って、柵を奪回せよ」と重ねて述べて、川船を持ってこさせ、鉄の盾を並べ軽率を乗せて深田へ回し、火砲を横向きに撃たせた。佐竹勢は慌て、木村勢は勝に乗って堤の上を進軍し柵を破った。佐久間蔵人は一番槍を合せてすぐに戦死した。その他の若松市郎兵衛、日下次郎右衛門、小川介左衛門、大野半次郎、斎藤嘉左衛門、大塚勘左衛門、高松内匠、長屋平太夫が槍で交戦した。
佐竹の武将の渋江内膳は、今朝の戦いで傷を被ったが、従兵の6騎とともに味方を鼓舞奮戦し、火砲に当たって馬から落ち、敵の寺本八左衛門に首を取られた。その他、佐竹の武将の白上嘉左衛門、小野崎源左衛門、高垣兵右衛門、小田部五郎左衛門などが戦死した。
〇信幾野(*鴫野)の戦場では、上杉の先鋒の須田大炊介長義の隊長、石坂は、火砲を100挺で2の柵で守っていると、渡邊内蔵助組の木村主計宗明と竹田榮翁などが争って攻めて来た。今福からは後藤又兵衛が撃たせた横合いからの大砲によって、須田の備えが慌てた。7組の頭も渡邊らの跡について攻めて来たので、城方の先発隊も競って出て来て、寄せ手を激しく攻撃した。それで石塚新左衛門やその組の軽率20人が逃げられず、命を落とした。須田の備えは崩れて、市川左衛門、関十郎兵衛、鍼生市之助、原庄兵衛、駒澤輿五郎が戦死した。
島津玄蕃允も沼に突き落とされたが、起き上がって奮戦した。松本助兵衛、北村茂助は後殿して首を取った。景勝の2陣の安田上総介は、守備を横向きにして固めた。須田の敗残兵は、景勝の本陣へなだれ込もうとすると、本陣の前備の杉原常陸介は火砲の兵を3段に備えて、金の鎌の馬印を揚げると、須田の敗残兵は左右に分かれた。そこへ杉原隊が火砲を浴びせ、安田勢が筋違いに集まって勝に乗じて、追ってくる敵を突き崩した。竹田兵庫、同大助、岡村土之助、小早川左兵衛などの城兵を討ち取った。森市兵衛、湯川治兵衛、山邊八右衛門、幡枝勘解由、米村嘉右衛門、平山藤兵衛、茨木五左衛門、安宅木源八など、城方の武将たちは踏みとどまって苦戦したが、体勢を立て直すことは出来ず、右府秀頼の薙刀の師匠の穴澤主殿介盛秀が引き返して抗戦した。
上杉方の坂田采女が飛び出すと、穴澤はすぐに出て来たので、坂田が槍を奪って穴澤の首を取った。彼の薙刀は直江兼續の家来の折下外記が分捕った。須田大炊介は最初戦で負けているとき、家来の5人と敵の中に紛れていた。しかし、自分で太刀打ちして傷を被りながら首を2個取った。家来も皆が首を取って帰った。その時、狭い堤の上での戦いで、敵が入れ代わり立ち代わり、大勢が出て追ってきた。景勝は急に遠方から参戦したので、人数も少なく兵が皆疲れていた。左軍の堀尾山城守忠晴の後軍の丹羽長重が救援に向かおうとしたが、景勝の規律が非常に厳格で、1人も一緒に戦うことはしなかった。
使い番が住吉に来て「敵の大軍が信幾野へ出た」と報告した。家康は敵が全部出て来ても3,4万だから大軍だなどとたわけたことをいうな」と怒った。今度は小栗又一が帰ってきて「敵が3千ほど信幾野へでていて、景勝は少人数で戦って疲れているので早く援軍を出すように」と敵の様子を詳しく報告した。その結果、掘尾山城守は耐えかねて堀尾河内、同修理、前田丹後の軽率200人を送った。
敵方は秀頼が指示して火砲を繰り出し、掘尾勢を負かそうとした。山城守は伊賀と甲賀の山の中で鳥や獣を獲る火砲の名手たち80人を動員して、大銃を撃たせて敵を撃破しようとした。また、離れた蘆の原の中に潜ませていた景勝方の鉄孫左衛門の300挺で、敵方の横を撃たせて多数の死傷者がでた。そんな中、秀頼の児小姓10人が戦いを見学するために出て来て、凛々しい容貌の高橋三十郎(14歳、彌次右衛門の子)と別所多門(17歳、蔵人の甥)が火砲に当たって死んだ。
家康は上杉方へも使い番を送って、「兵が疲れているだろう。堀尾山城守と交代するように」と命じた。景勝は胡床(*折りたたみいす)に腰を掛けて大阪城を睨みつけ、300名の配下の兵を指揮していたが、家康の命を受けてイラッとして、「戦いに臨んでは一寸増という諺がある。今朝から懸命に戦ってきた舞台を、他人に譲って引き取ったりするものかと景勝がいっていると家康へ伝えろ」と答え、愛用の竹の杖を振り上げて、兵たちに檄を飛ばした。なかなかの豪傑である。
〇今福の戦場の戦いでは、木村長門守が奮戦して佐竹勢の占領していた2と3の柵を奪回し、ようやく1の柵と合わせて戦える体制が戻った。堺金左衛門、三浦将監、柏原覚左衛門、山口猪兵衛などが敵と槍で一騎打ちをした。
午後になって、後藤又兵衛が突貫して柵を破ろうとしたが、堤の上は狭く木村勢が守っているので入る余地がなく、柵の南の端から後藤の兵は進んで、蘆原を越えて3の柵へ乗り込むと、重成の部下の井上輿右衛門、智徳院、波多野兵庫、大井何右衛門、牟禮彦三郎が勢いを得て、槍で敵と交戦した。佐竹方の梅津半右衛門、戸村十太夫、戸塚九郎兵衛、秋田兵庫は今朝も奮戦したが、ここでも活躍した。
信夫内蔵、大塚九郎兵衛、加藤主鈴、高屋五左衛門、清川八左衛門、吉成彌右衛門、小ヶ川勝左衛門、大和田源左衛門、高橋源太左衛門が奮戦して首を得た。一方、敵方も仙石喜四郎、山中藤太夫、赤堀五郎兵衛、堀、田中などが活躍すると、佐竹方の中村信濃、塙治部左衛門、町田小左衛門、宇佐美三十郎などが戦死した。数回交戦している内に、佐竹勢は非常に疲れてとうとう敗戦しそうになった。義宣は「今回は急な招集で、秋田は遠方だから、戦列を整えてこちらへ来る十分な時間がないままに徴兵したので、敵が有利になった。こここそが義宣の死に場所だ、者どもも自分と命を共にしよう」と怒鳴りながら川向うの榊原の助けを求めた。
信幾野の上杉の武将の杉原常陸介親憲は、古い具足の上に猿楽の装束(*半臂:はんぴ)を着て、その姿は直垂のようないでたちで、えらく目立っていた。彼は澤某を大和川の瀬に行かせ兵を率いて川を越え、敵陣の近くで駐屯して、大炮を横から撃つと城兵は非常に困った。
榊原遠江守の組は稲田村にいて、その兵たちは信幾野川の縁に駐屯していた。彼らは本陣の命に従って景勝や義宣の戦いぶりを見守っていた。しかし、佐竹が負けそうな状況を見て我慢できず、康勝の家来の川井三彌が川に飛び込んだ。敵は堀に水を入れて妨害しようとしたが、貴志角之丞は続いて川に入り槍の先を三彌のみみずらを突いて、ようやく向こう岸まで押していき岸に登った。
渡邊八郎五郎、清水久三郎、向井吉太夫、同十左衛門、日根野左衛門、佐野五右衛門、伴田外記、村上久兵衛など23人が、川を越えて攻めてくるのを見て、木村長門守は、今日の戦いはここまでにしようと白旗を揚げて兵を撤退した。平塚佐助(因幡守為廣の子)と大井何右衛門が左右に指揮しながら堤の上まで引き取った時に、火砲に当たって戦死した。
栢原覚左衛門、堺金左衛門、三浦将監、三浦彦太夫は踏みとどまっていると、久瀬民部、浅井甚内、竹村左兵衛、柳原庄兵衛が救援にきて後殿すると、味方もそれほど後を追わなかったので、城兵は柵を修理し竹で補強した。
佐竹方も優秀な武将20人余りが命を落とした。この時後藤又兵衛も火砲に当たったが、「自分の傷は浅い。秀頼の運もまだ尽きない」といったという。その言葉はひんしゅくを買った。
〇信幾野では、城兵が大活躍をしたが、鉄孫左衛門は戦死した。青木民部少輔一重は四半の指し物に富士山を書いて撤退する様子は見事だった。丹羽五郎左衛門長重は何とかして先陣に加わろうとやってきて、あと4,5町まで来たが、一重はもう1町近づいたら討ち取ってやろうと望んだ。彼の家来の大屋與兵衛は、「青木は中々のつわものである。ささと撤退した方がよい」といい終わる前に、民部少輔は兵を引き揚げて、3の柵で守りに着いた。
使い番の佐久間、小栗、屋代、安藤、伊藤等は、住吉、平野に行き今回の攻め口の戦いを詳しく報告した。夜になって秀忠は、三宅半七郎を使いとして本多出雲守に「部下の真田河内守信吉、同内記信政、浅野采女正長次、仙石兵部少輔良俊、秋田城介實季、新庄主殿直好(後の越前守)、松下石見守重綱、須賀摂津守勝政を連れて今福へ行き、佐竹に代わって駐屯するように命じた。
佐竹は堤の上と町口の4重の柵を破った。その内の2つの柵は奪回され、兵が多数死傷した。上杉も3重の柵を破りながら1重を取り返されたのに腹を立て、明日は明け方からもう一度攻撃しようと用意した。
夕暮れに、三河や遠州で名の知れた久世三四郎廣宣と坂部三十郎廣勝が、佐竹と上杉の戦場を視回り、2人に「堤の上から攻撃すると狭く大勢では攻めにくいので、ここで決戦をしてはいけない。堤の左右から火砲を放って、挟み撃ちにすればどんな柵も守れない。しかし、狭い堤で、少人数で戦えばまた柵を敵に破られてしまう。とはいえ敵兵も守りにくいので、今夜中に城へ撤退する」といった。果たして敵は夜中のうちに両方の柵を放棄して、青屋口から撤退した。明け方本多出雲守は部下を率いて今福へ行き、佐竹と交代して陣を設けた。
〇信幾野と今福の戦いが25日だったと書かれている書もあるが、大いに間違っている。桑島若狭、山口休庵の手記もすべて信じてはならない。
〇伝わっている話では、今福の戦いで敵の松浦彌左衛門は、戦場から首を城へ持って帰って帳面に書いてもらおうとしたが、秀頼の書記の臼井甚右衛門はしばらく筆をとめてぼやぼやしている間に、浅野清兵衛が首を持って帰って一番首と認定された。しかし、歩いてきたので遅れたと述べたので、書記は1番浅野、2番松浦と書いてしまった。だからこの順序には疑義があり、書記は2つの首を見てから後で書いたのが実情だという。
〇この日、向井、小濵、千賀、九鬼は、敵の船と交戦した。千賀は大野修理亮の船の舳艫(*へさきと船尾)に井櫓を立てて動けなくして、船を乗っ取った。小濵は福島の遠見櫓を陥落させ、五分一という所へ行った。そこには敵船数10隻が係留されていたが、船の中から兵が皆陸へ逃げたので、味方は軍船を全て乗っ取ってしまった。九鬼長門守の兵は特に活躍した。その結果、海からの水路は、すべて味方が抑えたようなものだったが、敵は、馬喰ヶ淵、阿波座、土佐座の敵は、蘆島、五分一当たりまでは時々出て来た。そのため完全に抑えたわけではなかった。しかし、東西南北の寄せ手は、大阪城のすべての曲輪や外堀まで周囲10里あまりの間にびっしりと詰め、旗が空にたなびき、時の声や砲声が辺りに響きわたったという。
武徳編年集成 巻71 終(2017.6.8.)
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