巻80 元和元年5月5日~6日
投稿日 : 2016.11.21
元和元年(1615)
5月小
5日 家康と秀忠は、それぞれ二条城と伏見城から出撃した
家康は、賄頭の松下浄慶に今度の戦いは一挙に勝負をつけるので、糧米は5升、干物の鯛1匹、鰹節、味噌、漬物と食器を長持1箱で済ませるように持ってくるように命じた。また、総勢の為には、3日分の食料をあとから輸送隊に運ばせる様に命じた。
昼前に河内の交野郡星田村の長、平井三郎左衛門の家に着いた。秀忠がすぐに会いに来た。そこへ先鋒の藤堂和泉守が高安郡千塚の陣所から来て、家康と秀忠たちの作戦会議に合流し、佐渡守、大炊頭、安藤対馬守らと、密かに作戦を相談して千塚へ戻った。
2陣の井伊掃部頭は、讃良郡須奈から3里の邑の南方松原村に陣を張り、近辺の家を破壊して小屋を造った。
秀忠は須奈村の庄官、八郎太夫の家を宿舎とした。その他の軍は全て野営である。
この日の夜は風雨が強く、警護を厳重に行った。大和から河内へ出る闇峠(*暗峠、生駒山の南)の警護は、朽木河内守利網が命じられた。
〇豊前の国主、細川越中守忠興は、冬の陣では家康が島津を疑っていたので、国に留め島津の動向を伺わせた。今年は子供の、内記忠利を国に留めて、忠興は軍船に少人数の馬廻りと共に、兵庫の湊へ着き、その兵卒を兵庫に置いたまま、鉄砲の長3人と近習21騎ばかりで枚方に赴き、そこで少し休憩の後、亡くなった妻の復讐として、秀頼を仕留めようと間道を密かに進んで、参戦することを家康に連絡した。家康は喜んで、少人数だから本多佐渡守の隊に合流するように命じた。
〇大和路の田尻越えの先鋒、水野日向守は、部下を二手に分け、一方は堀丹後守直寄を一陣とし、神保長三郎相茂、桑山黨、多賀左近常長、村越三十郎、別所孫次郎友治たちだった。もう一方は松倉豊後守重正を一陣として、本多左京政武(本多と書くのは間違い。後の左京亮)、秋山右近光匡、藤堂将監高久、山岡主計頭景以、奥田三郎右衛門忠一、丹羽式部少輔氏澄であった。二つの隊は日替わりで先陣を務めることになっていた。
今日は日向守が先陣で、堀が備え番だった。しかし、松倉の組が早く法隆寺を発って河内の国分へ向かうと、堀に連絡してきたので丹後守は怒って、「自分は今日魁の番だ、彼等より先に行く道はないか」と郷人を呼んで道を尋ねたところ、「亀箇瀬越えがあるが、昔守屋大臣が、この道を経て河内へ行ったが敗北したので、後に上宮太子が、戦では馬や人夫といえどもこの道は通るな、との戒めの為に、首のない亀が彫られた石碑が立っていて、ここは首落ちの里とも呼ばれている。また、藤井越えもある。ここは藤や蔓が道にはびこって通れない」と答えた。
丹後守は「千年の昔からの禁断の道だとしても、自分は戦場で死ぬことを嫌いはしない。戒めに逆らってもあの道を行って良いだろう。守屋は勝ち目がなくて死んだのだろう。自分は勝つので死なない。もし自分が負けて死ねば、後世にこの道は通るなという手本になる。近道を避けて遠回りによって、彼らに後れを取ってはならん」と彼は、軽率の指し物に刃のついた鍬を付けて目印としていたので、その鍬で道を拓かせ、たちまち河内の安宿郡国分へ着いた。その結果松倉黨は、しばらく後で国分に到着して丹後守の勇気ある決断を褒め称えたという。
〇大和組に続いて、本多美濃守の伊勢組には、菅沼左近将監定芳、稲葉淡路守通紀、古田兵部少将信勝、分部左京亮政壽、織田小法師信重(後の民部少輔)、3陣の松平下総守の美濃組には、遠藤但馬守慶利、徳永左馬助昌重、遠山久兵衛も続いて、田尻越えを経て進軍した。午後の始めには魁の将の水野日向守勝成が、河内の国分に到着、和泉衆も午後には全員が着陣した。
そして向かう先の片山の地理を調べるために、勝成は大将たちを引き連れ、目付2人、中山勘解由昭守、河瀬左助重治と共に片山へ着いた。2陣の本多美濃守は、「大和組は片山に駐屯して、忠政は国分に陣取るようにと申し送った。また、監軍の村瀬と堀丹後守、別所孫次郎も、そこに陣を敷いてよい」と述べた。
勝成はよく考えてから、「大阪勢は平野から藤井寺を経て、戦場の地形が良ければ誉田の八幡に来る。この高見から攻めてくれば、山の足掛かりがないとしばらくも持ちこたえることができない。今夜は国分に陣を敷こう。ここは前に田や川があり、足場がいいので、これを美濃守へも連絡せよ」と述べた。監軍の中山も勝成の考えは理屈に合っていると認めて、そう決めたので、それぞれは国分に着陣した。そうして美濃守と松平下総守も国分に陣を敷き、伊達家の魁隊の片倉もここに陣を取り仕切り、政宗も夜中には国分へ着陣した。
しかし、此の前線の総大将の越後少将忠輝は、生まれつき軟弱な武将で、今度の戦いでは頑張るだろうと皆は思ってみていたが今一つ元気がなく、今宵もやっと奈良に着いた状態だった。そこで般若坂と法隆寺の間まで政宗の使いが出かけて、伊達隊の最後尾と越後勢の先頭は3里離れているので、早く間を詰めるように連絡した。この伝言を山田隼人が花井主水義雄に伝えたが、この人も弱虫で、進軍が遅れて間隔は5里に広がった。その後も夜中に政宗からは、忠輝に早く着陣するように催促したが、総大将もサボりで軟弱だったのだろうか、花井も敢えて進軍するのを抑えたので、この日は歟和泉の西の京で泊ってしまったという。
〇大阪城では後藤又兵衛が、「何時も会議で、城から10万の兵を天王寺の近くの野原に出して一挙に勝敗を決しようという話が出るが、これは非常にまずい。大敵を平地で迎え撃ってどうして勝てるのか。家康が大和路を発ったという話だから、軍隊が山に残っている頃に一気に攻めると、多分勝利を得られるだろう。これは敵を不意打ちにするからだ」と以前から勧めていたが、後藤が自分の手柄を上げたいからだとして、大野らは承知しなかった。
今日5日 家康と秀忠が京都と伏見から出陣したことを、スパイが聴いてきたので、後藤は議論していても埒があかないと、一隊を連れて大阪城を出た。これは夜中に国分を襲うためだったが、途中で道に迷い、国分の1里半南の古市に着いた。そして部下を励ましながら「ここには前に川があり誉田の社もあるし、神の庇護もあるから、ここに駐屯して軍の態勢を整えて、兵や馬を休ませよう」といった。そこへ大阪から薄田隼人正や渡邊内蔵助があとから着陣した。
一方勝重は片山に駐屯していたが、自分たちは間違いなく後藤にすぐに負かされるはずなので、後藤の軍団が松明の光が煌々と藤井寺まで続くのが見えるので、深夜に水野日向守が砲卒の長の黒川三郎左衛門を掘丹後守の許へ送って「敵はきっと夜討ちをかけてくるだろう、今夜は鎧を脱がずに馬に鞍をのせ、砲卒に張り番を立たせて、油断のないように」と連絡した。
堀は「日向は経験豊富な武将だが、その言葉は未熟だ。どうして夜討ちをかける敵が松明を灯して攻めてくるのか?」と独り言をいった。すると勝成の別の使者が来て「最初に見えた松明は皆消えた。これは夜討ちを止めたのだろう」といった。丹波守は「敵がうっかりして松明を灯して来たが、賢い部下がいて消させたのだろう。これは油断できない」と馬の鞍を絞めて、敵の来襲に備えた。
大阪城では助太刀の武将たちが会って、後藤を援護しなければと、道明寺筋に大野修理亮の組の眞田や明石などを殿として、八尾と若江筋へは木村長門守の組の長曽我部の一隊を向かわせた。これらの3隊が大阪を出発する深夜に、井伊家や味方の譜代のスパイたちが急いで戻ってきて、敵が大和口を抑えるために後藤らが出て来ていると報告した。
また、板倉伊賀守、は密かに大阪城内の樋口淡路守に付けていたスパイも戻ってきて、敵は道明寺の方へ出ている」と報告した。家康は「もう戦に勝ったぞ」と皆を激励した。
後藤のスパイが誤って国分へ出て関東勢は少ないと報告したので、又兵衛は自分だけが手柄を上げようと、大野修理亮の組が来るのを待たずに夜中に兵を発して、片山へ攻め込み、砲卒を配して夜明けを待った。
6日 大和組の第一陣の松倉豊後守重正、本田左京政武、奥田三郎左衛門忠一は、明け方から片山の傍の小川の前に陣を張っていたが、夜が明けると片山の上から後藤方の火砲5,60挺が砲撃して来た。
そこで味方はすぐに片山へ攻め込もうとした。松倉豊後守は場数を踏んだ武将で、田を越えて山に張り付き、玉筋を避けて進軍した。奥田三郎右衛門は名うての浪人の才伊豆入道道二(*仁?)、岡本加助、御子田四郎兵衛、阿波猪兵衛(鳴渡之助)などを連れて、最初に攻め登ろうとしたが、その時桑山右近が駆けつけて「少し待って後続の旗頭の水野勝成が来るのを待て」と止めた。しかし浪人たちは承知せず片山に攻め込み、最初に岡本加助が撃たれて死亡、続いて、奥田、兼道二四郎兵衛、猪兵衛もまっしぐらに進んで命を落とした。松倉は奮戦して山本権兵衛は一番首を取った。(*松倉)重正の弟の十左衛門重能は勇敢にたたかったが、両目を負傷した。
本田左京(16歳)は自分から敵に戦いを挑み、家来の本田外記、桑原勘兵衛、一色主殿、曽我作兵衛、牧村又右衛門、三田村市兵衛、近澤伊兵衛、寺田勝左衛門、吉田十兵衛、竹内猪右衛門、小橋加兵衛、前田清十郎、堀口作兵衛、牛島六右衛門が、敵と槍で対戦した。後藤勢の薄田隼人正兼相と渡邊内蔵助糺は去年の冬の戦いでは負けて恥をかいたので、今回は命を顧みずに戦ったので、徳川軍はついに敗北した。
家康の従軍の中根左源太可古は、家康の勘気を受けていて、今は松倉に仕え天野半之助と名前を変えていたが、殿を務めて数回敵と交戦した。
大和組の隊長、堀丹後守直寄は、先鋒が右往左往しているのを見て突撃し、自分で戦いに挑んだが、その時松倉豊後守も反撃して、前後から敵に攻めかかって首30を取った。しかし、豊後守は味方から離れたので、従者の岡才三郎と2騎だけで敵の中で奮戦した。そこを山本権兵衛と天野半之助が駆けつけて彼らを救った。本田左京の家来の丹羽太左衛門が首を取った。桑山をはじめとして、大和衆はそれぞれ奮戦していると、敵は高い場所から激しく撃ってきた。水野日向守勝成は先鋒の大和衆が敗北するのを見て、態勢を崩して片山の下で渡邊組などと3度交戦した。
丹羽式部少輔氏澄は、わずか1万石を領していたが、士80人ほどで片山に攻め込もうとしたが、先鋒の大和組が敗北したのを見て、表通りを避けて道明寺の北の方へ撤退した。そしてわずか7,8挺の鉄砲を発して敵と交戦し、よく戦況を見届け、勝成と戦っている敵に横やりを入れた。また、後藤又兵衛が激しく戦っているときにも、式部少輔は指令を出して、急に勝どきを上げると敵は驚いてこのために敗退した。
日向守は勝に乗って敵を追撃したが、道明寺を過ぎると左右が深い田で、石の小さな橋で先鋒の本田左京の隊が乗り込んできて、粟尾角兵衛は沼に落ちて命を落とした。
先頭に勝成、2番に監軍の中山勘解由昭守、3番に水野美濃守勝重(勝成の嫡子)、4番は監軍村瀬左馬助好治が順に馬を進めた。4人は馬を降りて立って槍で対戦し敵を追い返した。この時、本田左京の従士の丹羽太右衛門が戦死した。玉手主水、不破五左衛門、森将監、三田村瀬兵衛、細木甚七、杉四郎右衛門、西村六右衛門は踏みとどまって、首を取った。水野勝成の家来の杉野数馬、竹本廣助、松田金兵衛などが手柄を上げたが、物頭以下の者が多数死傷した。
〇徳川方の2陣は伊勢組の本多美濃守、3陣は美濃組の松平下総守は、今朝片山の麓に進軍して後藤勢と交戦した。そのとき去年家康の勘気を被った掘伊賀守利重父子が密かに下総守忠明の隊に加わり、魁として活躍した。忠明の家来の山田十郎兵衛が一番槍を為し、菅沼七郎右衛門は奥平金彌正巳を分捕り手柄をあげた。川北権兵衛正行は敵の後藤三彌を組討した。
徳川の4陣の伊達政宗の先発隊の片倉小十郎景綱は、、積極的に隊を進めて戦った。隊長の安藤覚左衛門正勝(治右衛門正次の弟)は兜のついた首を取った。後藤又兵衛と薄田隼人正兼相、渡邊内蔵助糺の隊は大半が死傷した。そのとき大野修理亮が1万5千の軍勢で救援に来た。
1陣は眞田左衛門佐幸村、2陣は明石掃部助全登、3陣は修理亮の旗本であった。これを見て後藤の残党は喜んだが、政宗勢に追い回されて、又兵衛は11人ほどになってしまい、自分も怪我をして片山の上にいた。そして薄田の方へ「伊達勢に猛攻撃をかけられれば、自分は死ぬだろう。兼相はもう一度戦ってほしい」と井上四郎に伝えさせた。井上は馬を駆けさせて兼相に連絡したが、その帰りに命を落とした。
渡邊内蔵助糺は、序盤戦で水野勝成に負けて脇に引き下がり、かろうじて生き延びたが、救援に来る眞田の許に使いを行かせ「自分は傷を負ってしまった。従兵も大半が撃たれ本格的に抗戦はできない。特に幸村の邪魔にならないように傍に兵を置き、横から攻めるふりをして敵の邪魔をしようと思う」と申し送った。左衛門佐はその心に打たれて、「後は幸村に任せてほしい」といった。
さて、仙臺勢が攻めて来た北野村という所は、10町ほどの平坦な丘で、道の左右は田圃である。眞田の先発隊は丘の上に駐屯した。彼等の戦法は武田流で、一手にも別の手が備わっていた。伊達家は騎馬戦が得意で、元気な武将を選びいい馬を選び、800騎の兵を整えて、戦場では馬上に火砲を一列に並べ、間髪を入れずに轡を揃えて敵陣へ駆け込むと、どんな強い敵も負けても仕方がないほどだった。
今日、その一備が12町進軍すると、眞田は先陣まで来て「ここ一番持ちこたえよ。敵が火砲を発したとき一歩でも引けば、馬のひずめで蹴散らかされて粉々にされてしまう」と檄を飛ばせば、兵たちはその指示に従ったので、馬の上から撃たれ倒されて多くの戦死者が出たが、松の林を楯として一歩も引かなかった。
政宗の騎兵たちはすぐに蹴散らかせると、突っ込んできたが眞田の兵は全く動じないのでぼやぼやしている間に弾薬が切れて来た。そこを幸村は大声で旗を振ると、それを合図に兵はまっすぐに突っ込んだ。幸村はすぐに本陣の誉田の森の東の岡に帰ったが、一人の歩卒もなく、騎兵300程に向かって馬を3度返して「ここで敵を負かせ」と指令し、片倉の山際へ一斉に隊列を揃えて突き出た。
仙臺方も隠していた火砲で対抗して、眞田の多数の兵が撃ち殺された。しかし、眞田は馬を走らせ敵を7、8町追い回して、山の方へ引き返した。その時片倉は、眞田に組み付こうと追ったが、眞田は自分から戦うことは望まず、騎馬戦は3度あったが、眞田は大阪へは向わず傍の丘陵に駆け登った。片倉は眞田がそこに奇兵を置いているのではと疑って、それ以上兵を進ませることは出来なかった。政宗の旗本は追い詰められたが、伊達河内守が救援に来た。幸村は奥州勢が動揺するのを見透かして、丘の上から一斉に騎馬を駆け下りさせると、景網の隊は崩れて北側の沼に駆け込むものが多かった。
後藤又兵衛もさんざん戦ったが、仙臺勢の中に荻野、岩村、柿和、竹川という4人の狙撃の名手がいて、その荻野又一の撃った弾が、指示を出そうと立ち上がった後藤の内冑に撃ち込まれて喉に当たり、馬から落ちた。家来たちが榎原まで抱えて退いたが、とうとう死亡した。後日、片倉小十郎景綱は「敵の猛将を火砲で殺すとは武士の本意を失するものだ」と憤慨したという。(*『駿府記』では『後藤又兵衛於道明寺辺、政宗手へ討取』とあるのみ)
水野日向守の従士の河村新八郎は、薄田隼人正兼相を討ち取った。本多美濃守忠政は伊勢の諸将を率いて、大野修理亮の2万余りの軍の先鋒2,3部隊を突き崩した。
菅沼織部正定芳の従士の汀三右衛門が、50騎兵の頭の井上小左衛門利定を討ち取った。
その他、大谷大學、木下山城守、増田兵太夫をはじめとして、秀頼方の部隊では多数が討死して、結局秀頼軍は敗北した。
眞田はそれでも最初の岡の上に戻って、味方を救援しようとしたが、伊達方の激しい銃撃の為に進めず、殿を務めつつ交戦なく撤退した。
政宗の本陣の左翼と右翼は参戦せず、ただ見物をしていたようだった。片倉小十郎の1組の軽率が出てきたので、眞田も引き返して抗戦し、それが何回か繰り返されて、両軍の死者が数百人出た。渡邊内蔵助糺は眞田の代わりに奮戦して、自身で敵2騎を殺して撤退した。眞田も次は渡邊と交代して抗戦し、戦死者が20人ほど出た。幸村も怪我をしたが、盛んに味方に指令を出した。小倉作左衛門(蒲生の浪人)は600の兵を率いて幸村に代わって力を尽くし抗戦した。片倉も3回の追撃で疲れ、双方は戦いを止めてそれぞれ撤退した。
大野の旗本と森豊前守は7,8町離れて藤井寺山に駐屯した。そこからはるか南の中野村の岡に眞田の旗が建つのを望み、密かに敗軍を集めたので、徳川軍も簡単には彼等をくじくことは出来なかった。
水野日向守は、政宗に使者を送って、「徳川勢が敵の逃げ口を攻撃して、平野からここまでにいる大阪勢をすべて殲滅すれば、明日は戦わずして大阪城を陥落できる。早く軽率を出せ」としきりに要請した。しかし、政宗は「今朝片倉の隊ではけが人や死者が多数出たし、眞田との3度の戦いで弾薬がなくなっているのでもう一度戦うのは無理だ」と答えた。勝成は怒って3度も使いを送って催促したが、政宗は自分で駆け出て来て断った。
勝成は「それなら大和組で大野の撤退するところを撃て。中野村から眞田勢の後を自分が追撃するので、政宗は彼等の前に軍を配置して、火砲を浴びせて攻撃すると、彼らがくる心配なしに大阪勢を殲滅できる」といった。しかし政宗は結局応じなかった。そこで勝成は本多美濃守と松平下総守の方に一緒に戦おうと誘ったが、どちらもよく地理の分からない敵地に深く攻め込むのは行き過ぎだろう」と心配して誘いに乗らなかったという。
〇今朝政宗は、大和口の総大将の婿の越後少将忠輝の許に使者を送って、「先発隊の片倉河内が国分へ進むと敵が抗戦して来た。監軍から戦いを始めよと命令されたので、忠輝軍もできるだけ早く戦うように」という書簡を届けた。山田隼人からそのことを忠輝の本陣へ連絡すると、老臣の松平大隅守重勝、同筑後守信勝、松井庄右衛門清昌が指示に従って進軍したが、花井主水義雄が臆病で、戦いを避けて脇道から先回りして、越後の1陣の溝口伯耆守などの進軍を止めたために、忠輝隊が国分へ着くのが遅れた。
その陣にいた一柳監物直盛は、しきりに撤退する大野軍を追撃しようと提案したが、篠瀬や小野などの越後の臣たちもこの提案を批判した。
しかし、慶長14年に花井の為に、無実の罪を家康に被った越後の前の元老、皆川山城守廣熈は、この頃京都の知恩院に蟄居して入道になって、老圃斎と号していた。彼は染衣の下に鎧を着て忠輝に面会し、玉蟲対馬守茂と林平之丞に向って、「敵はバラバラとはいえ大軍が目の前にいる。まだ午後も早いから急いで戦って大阪勢を下すように」といった。玉蟲は武田の城意庵の弟である。林は堀秀治の優秀な家来である。しかし、残念ながら誰も皆川の意見を入れなかった。
皆川は重ねて「大阪方は3万程度だと斥候がいっている。これならなんとかできる程度の相手だ。なぜなら、越後勢は1万6千であるが、ここで戦うと伊勢組や美濃組が放っておかないのですぐに加勢してくれる。大阪方は朝の合戦で疲れて死傷者も多いので、撤退したいが、追撃を躊躇しているので、ここを攻撃すると勝利はわれらの手の内にある。夕方には勝利して夜に天王寺へ向かって追撃すると、今や城が壊されているので、すぐに大手柄があげられ、忠輝の名前は天下に鳴り響く」と懸命に勧めたが、柾木と伊予の外は誰も同意せず、いつもは活発な忠輝もだまって返事をしなかったので、老圃斎は怒って耐えられず席を立った。
玉蟲と林はまとまった考えをもてない決定力のない人たちだったので、「敵は3万である。仮に一時こちらが勝利しても、夜中に敵陣深く侵入するのは危険だ。どうみても一両日で勝負がつくとは思えないので、よく情勢を見届けてから戦いに挑んで、忠輝に大手柄を上げよう」と忠輝を思いとどまらせた。その結果、意気地なしという汚名を後世に残してしまったわけである。そうして圓妙山に本陣を置き、諸将を石川河原にとどめたまま、日が過ぎてしまった。お陰で眞田幸村は自信を得て諸軍を撤退させ、自分1人が余裕をもってしんがりを務めて、大阪城へ帰ったので秀頼方は嫉妬した。
〇河内口の魁の藤堂和泉守高虎は、高安郡千塚の陣から彼の軍団を道明寺へむかって出陣させ、自分は秀忠に会うために馬を向かわせた。彼の陣の魁の将の渡邊勘兵衛吉光は、今朝の明け方に斥候に出て、大和口の水野日向守が戦いを始めたことを知って高虎に報告した。そこで高虎は彌古市郡に向って兵を進めた。
敵の木村長門重成は、若江郡若江村へ昨夜駐屯したが、行く先に敵がいないと聞いてその南の矢尾(*八尾)に向かったが、ここにも敵は来なかった。そこで若江に戻った。2陣の長曾我部宮内少輔盛親入道祐夢は、5千あまりの兵を矢尾(*八尾)の江へ南に向かって攻めてきたが、藤堂の旗頭を先頭に進軍して来たので、急遽に隊列を変えて先頭を1里ほどに広げて、久寶寺川を東向きに進んだ。ここは左右が深田だから、敵を待ち伏せやすいと大和川の堤沿いに兵を進め、堤の傍に駐屯した。
藤堂の左の1陣の藤堂仁右衛門高利、桑名彌次兵衛親氏、山岡兵部重成は、長曽我部が逃げると思って陣形を変えて兵を集めた。右の先陣の藤堂新七郎良勝、同玄蕃高治、同勘解由、田中内蔵允、友田左近右衛門、旗本の隊長などもがむしゃらに進軍するので、中筋の渡邊勘兵衛はそれを制止し、西向きに向かわせて八尾の敵と戦わせようと、しきりに使い番を送って左右の隊の進軍を止めようとした。しかし、今年に新しく戦列に加わった渡邊を、藤堂が寵愛するので憤慨していた連中だから、聴く耳を持たず両方の隊は止まらなかった。勘兵衛は驚いて、自分兵はそこに置いて西横堤へ駆けて来て、「いがみ合いを棄てて戦えというのは高虎の命令だ」といって指示したが、左右の先発隊の武将たちはいうことを聞かず、西堤で留らなかった。
北方の軍勢の玄蕃新七郎は、2筋の狭い道を通って、西郡村萱根村をめがけて川を渡り一気呵成に進軍した。南方の1隊仁右衛門宮内正も止められず、萬願寺川に沿って阿野村を目指してがむしゃらに進軍した。
長曾我部は、上の2個所の村の20町ほどの間に軍が広がって指令が届きにくく、地元の兵たちが藤堂勢に対して平蒐(*?)で戦おうとすると、(*藤堂)仁右衛門、(*桑名)彌次兵衛の進む方向に(*長曾我部)盛親が駆けて来て「起立者(*?)は斬り捨てよ」命令した。彼は藤堂勢が堤の下まで来た時、長宗我部勢は白旗を上げて一気に襲いかかり、仁右衛門や彌次右衛門をはじめとして、10騎がたちまち撃ち殺された。
武徳編年集成 巻80 終(2017.6.16.)
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