巻84 元和元年5月7日

投稿日 : 2016.12.09


元和元年(1615)

5月小第84.jpg

7日 大阪城の北方に位置する天満は、仙石豊前入道宗也や大場土佐、武光式部、幾田茂庵、浅香庄七など3千余りが一団となって守り、合せて備前島までの抑えとなった。

石川主殿頭忠総、京極若狭守忠高、同丹後守高知が野口堤へ行くと、至る所で堤がきられた跡があった。忠総は石川半左衛門にこの渡り場を越えるよう指示させた。すると京極は「後ろに渡り場がある場所で、陣を構えるのはどうか」と渋った。

忠総は怒って「渡り場が前にあって敵と戦えないではないか」と何度も申し送ったが、京極は引き下がらなかった。そこで忠総は自分で渡りを越えて、若い士たちに足軽を進軍させながら、京極を無理についてこさせた。そこで京極もここを越えて堤に柵を設け、堤の上に兵を配した。主殿頭は堤の下の田の中に陣を張った。

斥候が駆け戻ってきて、「ここから1里半ほどの備前島から大勢の敵が攻めてきている」と連絡した。

忠総の家来の中黒彌兵衛は、「備前島の中原町から出て来た敵が強力だと、京極勢は少ないので負かされてしまう。だから自分たちが彼らの後に続いて堤の上に陣を張れば、きっと友崩れになって追い討ちされるので口惜しい。このままここに留まって京極が負かされたら横から攻め込んで敵を突き崩そう。石川勢は少ないのに、大敵を相手に戦って憤死したと後世に伝わるのは不本意だ」といった。

前島大太郎と大河内金三郎は尤もだと同意して、大太郎は本陣へ駆けて行ってそのことを伝えた。忠総の伯父の大久保権左衛門忠為は堤の上に構えていたが、中黒は駆けて行って伝えると忠為もその考えに同意して元の畑へ降りた。

そこへ予想通り大勢の敵が堤の上へ攻め込んでいっぱいになった。京極方は柵を設けていたので戦えなかったが、そこへ主殿頭は隊列を整え、京極勢を差し置いて敵を突き崩し、備前島の片原町まで進んで旗を立てた。そのころ両京極も敵を追撃した。

〇東方の岡山の前線では、大野修理亮の組が、又西茶磨山の前線では、眞田の部下の部隊が敗退した。ちょうどその時、秀頼は急に大野治長と速見時之を戦場から城へ呼び返えした。それで2人が城へ帰っていく様子を見て、まだ負けてはいない後攻めの部隊では何のことかわからず、これは城中に裏切り者が出て大野と速見が呼び戻されたのだろうと口々に噂した。

また、一昨年家康が追放した秀頼の鷹匠頭の佐々木孫助は、かまわず秀頼に仕えていたが、この戦いでは再び徳川へ通じて大阪城に放火しようとしていた。しかし、大野と速見が城へ帰ってくるのを見て、「城方は負けた」と怒鳴って預かっていた軽率を棄てて逃亡した。

すると小長谷筋の大野修理亮の部隊なども崩れてしまった。それで森豊前守の敗残兵や7組、また秀頼の旗本の寄合勢も、今日が最後だと決心して奮戦を続けた。当地は城へ向かって坂になった土地だから、寄せ手は下手になり、敵を上に見ての戦いなので劣勢に陥った。

秀忠の本陣まで敵が迫ってきた。秀忠は白い旗を揚げて身内の部隊を励ました。花畑番頭の水野監物忠元、井上主計頭正就、板倉周防守重宗、成瀬豊後守正武の番士や松平五左衛門正吉、石丸権六郎定次、土屋左門知用(後の忠兵衛)、山崎権八郎、岡部庄九郎秀綱、稲垣藤七郎重大、彦坂平六郎重定、高田庄右衛門、中山内記信吉、安藤與八郎や、その他近臣の小西長門守、永井傳十郎直清、喜多見半三郎重恒、八木勘十郎宗直、藁科孫九郎などが手柄を上げた。そのため必死で攻撃した敵軍も敗退した。

敵の崩れに乗じて、内藤主税廣信、石川勘介信房、曽我彌五郎宗祐、同喜太郎右祐、鯰江甚右衛門和甫(後の宮城氏と改め、越前守)、小栗庄次郎政信、戸田小平太(後の藤右衛門)、野々山新兵衛頼兼、宮崎左馬介時重、大橋兵右衛門親次、使い番の豊島主膳信満、間宮権左衛門伊治、伊藤右馬允政世、加々爪甚十郎直澄、竹千代の使いの岡部七之介永綱などが、手柄をあげた。

しかし、今回の戦が終わると天下が泰平になってしまうので、いつになったら戦いで手柄があげられるだろうかと諸将たちは焦って、むやみに敵を追撃したので、秀忠の傍には井上主計頭正就、三枝宗四郎守俊(後の土佐守)、牧野又十郎正成(後の清兵衛)、三宅藤五郎、安藤金介、石谷重蔵貞清など、すでに手柄を上げて戻ってきた者は数十騎だけになった。

そもそも応仁以来長い戦国の世が続き、天正18年に北条氏が滅び、翌年は奥州の一揆が潰されて天下が統一され20年余りになったが、その間、三河や遠州の徳川に仕えた武将たちの多くは今は亡くなり、16年前の関ケ原の戦いで秀忠は信州の上田城へ向かったが、その時は7本槍のメンバーなど少数の部隊だけだった。またその後15年間は戦がなく、朝鮮へは御家人は出て行かなかったので戦いの場数を踏んだものはいなかった。そのため平時では諸州からの武将が来て仕えてくれているので、御家人はその昔と質が違ってしまっていた。

そのため岡山の前線では大軍が凌ぎ合っている様子に驚いて、裏切ったりする者もいて、負け戦の状態に陥った。秀忠は怒って、その状態に耐えきれず、鎗を手に自分で馬を進め、軍奉行の安藤対馬守重信が家忠の縦横傍について指令を発したが、馬に鞭を打って本陣へ帰ってしまい、敵はもう負けている。今の状態は味方が崩れているだけだ、と馬を止めた。

加藤左馬介嘉明や黒田筑前守らは、少人数ながら駆け戻り秀忠の身辺を護衛した。丹羽五郎左衛門長重は少人数で敵と交戦して、伯父の九兵衛らが戦死したが、敵が敗北したので本陣へもどって護衛に加わった。

旗本奉行の三枝土佐昌吉は、敗北して崩れる味方の中から、徳川の旗を揚げて敵前へ割って出ると、大阪の猛者たちも右往左往して分散したので、秀忠は岡山へ軍を進めた。

〇家康の旗本奉行の穂坂金右衛門は、武田の穴山梅雪の家来で、庄田小左衛門は丹波の赤井悪右衛門直正の家来である。しかし、水澤に着けず遠回りして進軍したので、秀忠がどこにいるかが分らなくなった。官馬の使(*馬係)の諏訪部宗右衛門定吉は関東の名高い武将で、旗を揚げに行くようにと命じられたので、早速行って旗を立てた。

〇大久保忠教の手記によれば、彦左衛門と若林和泉直則が、天王寺の前線に家康が進軍するようにといわれたが、旗本奉行の穂坂と庄田は同意せず、最初の規則にこだわって住吉へ進めようとした。しかし、すでに旗本は天王寺の前線へ向かっていたので、馬印が見えなくて塚の上に登った。しかし家康の場所が確認できなかった。

そのとき家康と秀忠の槍奉行から使いが来て、茶磨山の左へ来るようにとの指令を伝達したが穂坂と庄田はやはり同意せず、やはりウロウロして、ようやくの事、家康の馬印を見つけた。しかしその時はすでに戦いが終わって、敵を追撃をしているときだった。しかし、彼らは田の中に旗を立てた。槍奉行は先へ行こうとすると、穂坂が怒って「この旗より先に出るな」と進軍を阻もうとした。彦左衛門は「戦う前に旗を立てて敵が出てくるものか。槍を前に出さずして、何を先に出して戦おうというのか」といったという。旗本奉行はいう言葉がなかったという。

家康が天王寺の近くまで来た時の事、血だらけで道端にひざまずいている士がいた。近臣に尋ねさせると、細川玄蕃の家来の加藤采女だといった。家康は「ああ、あっぱれだ」と感心した。

使い番の横田甚右衛門はただ一騎で駆けて来て、自分の馬を舎人に預けて家康の前に出ようとした。舎人が嫌がる様子を見て、家康は舎人をひどく叱った。

兼松正直は深傷を負って家来の方に寄りかかって退いた。家康はその名前を尋ねると兼松又四郎正吉の次男彌五左衛門だと述べた。家康は「父の再現だ」と褒めた。(この人は後年大目付となった下総守である)

安藤治右衛門も傷を負い、従士の平山大右衛門の方に係って、平野の陣へ戻ったが、さっそく家康は彼を呼んで、傷の様子を尋ねた。彼は頭に深傷を受けて鉢巻きをして苦痛に耐えられない様子だったが、「自分の近くにいた味方が臆病者で逃げた」と述べた。彼は12歳の時から伯父が危ないところを救って、以来何度も活躍したので、家康は彼を非常に心配して、自分で薬を与え、飲んでいた南京染付の茶碗の湯を与えた。この器は彼の子孫に長く伝えられたという。

〇家康の前や脇を固める部隊は、少しずつ前進したが、天王寺の庚申堂の前の空屋に捨てられていた掛け硯箱を本多上野介と松平右衛門太夫の軽率が奪い合い、口喧嘩になった。ところが2人の周囲は大軍が行きかい、馬のたてる砂塵で何も見えず、狭い道の周りは深田で自由に動けない状態だった。少し先で砂塵が晴れた時、喧嘩をしている味方の軽率を敵だと間違って本多上野守の鉄砲を持った軽率が撃つと、裏切り者が出たと騒ぎになって、上野介の部隊の4,500人が崩れて安西の部隊に寄りかかり、永井右近の部隊も安西の部隊に押されて大騒ぎとなった。

横田甚右衛門は敵はコンパクトに攻めてくるようだから、家康の部隊も少し横へ移動した方がよいと進言した。家康はすぐ同意してそのように指示すると、はたしてそこへ味方が崩れて来た。もしそこに家康の部隊も居たら友崩れになり、敵が紛れ込んできて、家康が狙われるかもしれなかったということで、横田の考えは理にかなっていた。

家康は先陣が崩れかかったことに怒った。後ろには栗桑の林があり、前は3尺ほどの芝の土居となっていたので、馬廻りの兵は馬から降ろして控えさせ、芝土居の上に槍を突きたて、「もし敵が来れば自分の旗を合図に一斉に立って槍を揃えて突き破れ。このような大きな戦では2万の敵がいても500や300で打ち勝つことができるものだ、槍が間に合わないときは長道具を使うばかりではない。刀で戦え」と部隊の中を馬で2度行き来して指示した。大竹郷左衛門正重、毛呂水之介、田中五介と小十人組がその場にいた。

小栗忠左衛門久次は、驑の馬(*りゅう、赤馬黒毛の尾)に乗って駆けて来て「先頭の隊が大勝利して戦いは終わった。これは敵の友崩れによる」と報告した。

一方、この頃、敵は仙波から300余りが住吉に逃げていたが、その内30騎あまりが天王寺の石の華から近道を通って逃げた。

茶磨山から岡山へ通じる道を進んでいた味方は、皆混乱して敵味方の区別がつかない状況になった。そのため、家康の先方の槍の一隊までが崩れて集まってしまった。槍奉行が必死で止めようとしたが、家康の長柄槍の部隊までが混乱して、態勢を立て直せなかった。

しかし、流石に大久保彦左衛門忠教や若林和泉直則の指揮によって,甲州の武将たちで今は武蔵の八王子の萩原や志村原、石坂、河野、窪田、中村、山本などは、虎皮の抛鞘(*なげさや)の槍をその場に立てて、歩卒頭の阿部左馬介正吉は自分の兵を固めて、家屋の裏を回って道路へ出て、味方の捨てた槍を拾わせて半月状に兵を配置し直し、自分は1騎で小塚の上に凛として構えると、踏みとどまって戦う兵は正吉に名を名乗り、後での己の手柄のための証とした。

久米武兵衛は、丘陵の上に構え、榊原左衛門職直(後の飛騨守)、前田十三郎、駒井右京親直、根來右京盛重、小幡勘兵衛は能場に踏ん張って証人となった。駒木根長次郎政次は紺地に幅の捺しものに杵の紋を描き、これをさしながら小高い場所の地に伏せ、槍の穂先を構えて控えている様子は、なかなか絵になっていた。

永井右近太夫と板倉内膳正などが辺りを駆けまわって、旗本の左右を固めた。尾張参議中将義直と遠江参議中将頼宣の部隊が後ろを固めたが、その後を進む輸送隊数千の牛は、2人の隊の横を5町ほど離れて急いで前進していた。

その様子を聡明な頼宣が見て、「戦いの勝負はついてなさそうだ。輸送隊が先を急いでいるのは味方が優勢で、陣取りの為に輸送隊を呼び寄せたのだろう」といった。実際、赤幌の使いが2騎、尾張の陣へ駆け込み、大声で「敵の大軍がすぐ攻めてくる様子だ」と伝えた。そして2人は頼宣の隊へ向かって「すぐに来るように、戦闘中だ。急いで準備して参戦するように」と伝えた。この使いは喜多見長五郎と間宮左衛門信盛だったという。

少し前のこと、頼宣は少し前矢尾(*八尾)で補給して兵や馬を休ませていた。その時「先手が戦いを始めたので早く進軍せよ」と部隊に命じたが、朝比奈惣左衛門などがグダグダ議論していたおかげで出遅れたのが無念だと、ようやく旗を揚げて田や畑、沼や溝をかまわずにまっすぐに前進すると、尾張勢も負けずに進軍した。家康の先軍3隊が崩れていた時、成瀬半左衛門正虎と渡邊忠右衛門重網が駆けまわって指令を出した。遠江中将頼宣の部下にはもともとから譜代付の戦いのプロが多くいたので、この状況でも動揺することはなかった。

本多佐渡守は大声で「先陣は勝つことだけを考えよ。後陣を振り返るな。進め者ども」と呼びかけて彼の部下の甲州、武蔵の津金、信州の飯田の士たちを率いて、茶磨山に赴いた。

小長谷から大軍が迫ってきたので、家康は「あれは敵か味方か」と尋ねた。そこで歩卒頭の植村新六郎家政(後の出羽守)は「よく見てみよう」と、植村主膳家雄と密かに相談して駆けて行った。そしてある程度近づいてから引き返してきて、「あれは味方だ」と報告した。家康は怪しんで「どうしてわかるのか」と尋ねた。主膳は「家政が最初に馬を進めるときに約束したことで、もしあれが敵ならすぐに帰って家康に報告するが、その暇がなければ連絡できないかも知れない。相手が敵だと、敵に突撃して戦死するだろうからその様子を見ていてすぐに報告するように」といわれたと述べた。家康も周りの者も家政の忠義の深さに感じ入った。

先に間違って火砲を発して混乱させた本多上野介の軽率を、小十人組の石巻庄兵衛と八木下善四郎が1人ずつ捕えて来た。家康が糺したところ、これはうっかりやってしまったことが判明してすぐに許された.

茶磨山には眞田勢が少し残っていたが、本多正信の部隊が攻めてくるのを見て、すぐに山から逃げた。正信は茶磨山を支配下に置かせて、金蠅取の下に熊手のついた馬印を持たせて徒士2,3人を連れ家康を迎えるために帰ってきた。

〇大野修理亮は、戦場から城へ帰ったが、この4月に刺客に襲われて傷を負った傷口から血が流れて失神した。従者がようやく介抱して血を止め、桜門へ入って秀頼に会い、味方が敗北したことを伝えた。

眞田大助幸昌も城へ帰ってきて、父の左衛門がいろいろ話して、家来を城へ帰した後に軍が壊滅状態になり逃げる途中で、父が戦死したことを報告した。

まもなく速見甲斐守も帰り、「中途半端な戦いをしても意味がないので、一度全軍を城へ戻して防戦に努め、万策尽きれば自害した方がよい」と秀頼に進言した。秀頼はこれに従って桜の門から城の大広間の千畳敷に移り住んだという。

その頃越前勢は、関東勢が黒門筋に来ているというので「負けてはいられぬ」と天王寺の石の華から左に進んで、途中で出会った敗残兵を討ち取ろうとした。侍大将や物頭が「かかれ」という声が辺りに響き渡り、市中に妻黒(*濃い緑色)の旗が翻ると、今日の戦いで天王寺の戦場で敗れた敵の軍隊は退路を断たれ、城へ帰れなくなったので、越前勢の後に続いていた水野日向守の部隊に襲い掛かった。しかし、勝負は運次第と家康はいつもいたとはいえ、味方に対抗できる状況ではなかった。

越前勢は高麗橋まで進んだが、すでに櫓や濠が破壊されているので簡単に城へ攻め入った。吉田修理亮は天王寺町から軽率7,80人を分散させて城の中の数か所に火を放ち、秋田主馬も仙波の田中に火をつけた。

本多大膳は京橋口に進むと、従者が「我が兵は城内に火を放つと敵は耐えられず城から出てくるので、虎の口を避けて、左右に分かれて陣取った方がよい」といった。

大膳もそれに従うと、本多丹下の家来の小笠原忠兵衛が火を大野修理の陣へ放つと、予想通り森豊前と長曾我部の残兵が死に物狂いで突撃してきた。越前勢は左右から挟み撃ちして皆を討ち取り、この攻め口で最初に城内で旗を立てた。続いて水野日向守が永楽の旗を立てた。

少将忠直は、京橋口から棧竹に金罌栗の実の馬印を進め、大阪城に入った。千500の騎兵は誰も首を取られず、雑兵と奴隷が活躍して、この部隊は全部で3千652個の首を取ったという。

しかし、魁の将吉田修理亮は、その前に大満川で川向こうに敗残兵が沢山いるのを見て、川が浅いのを知っていたので数10騎兵で一斉に渡ったが、城方が下流を堰き止めたので水が深くなっていたので、すぐに全員が溺れて死んだ。人々はこれを惜しんだ。

〇加賀利常の大軍も、玉造口に着いて大野主馬の敗残兵を求めて攻め込もうとしたとき、城兵の北村五助は弾薬の箱に火をつけて門の外へ投げたので、寄せ手はこれを避けて二本松から城内へ攻め込んだという。

〇書院番頭の松平越中守定網は、足早に城門へ向かい、弟の信濃守定實は自分で首を取った。大久保左馬允忠知も平野から敵を追撃して、柵の所まで来た。大久保牛之助長重(後の甚右衛門)、川口茂兵衛宗豊、豊城織部信茂も来て、一カ所に馬を集めているところへ多数の敵が戦場から帰ってきて襲って来た。左馬允は彼等に取り合わず、「お前らは味方が分らんか」と怒鳴ると、敵はこれに騙されて囲まれずに城へ入れた。大久保四郎左衛門忠成も駆けて来て、青山伯耆守の部隊に混じっていた。

〇松下石見守重綱が一番乗りした。しかし旗持が疲れて動けなかったので、正根寺四郎という徒士が旗を持って城の中へ立てた。彼等は首を数10個取り、兵が7人戦死し、3人が負傷した。

〇本多伊勢守康紀とその子の彦次郎忠利は、千貫櫓の下へ乗り込み敵の弾丸が兜で止まった。本多縫殿介康俊も城内へ乗り込み、その子の下総守俊次は自分で手柄を上げ、康俊の部隊は首を数百以上取ったという。直参の富永源右衛門は二の丸で首を取った。

〇石川内記成堯は、日向守の家成の外孫で、実父の大久保相模守が配流されて日向も隠居料を没収され、成堯も蟄居していたが、密かに今回の戦に参戦して首を1個取って桜門まで攻め込んだが戦死した。このとき24歳だった。

永田善左衛門重利、青山善四郎重長、石川嘉右衛門重之(後入道丈山)は桜門で手柄を上げた。特に重之は、城方の佐々十左衛門と従者の首を取った。

〇渡邊図書宗網は家康の傍で命令の伝達係だったが、味方が勝ったので木町通口から城内へ川口長三郎と共に乗込んで、千貫櫓の下まで行った。城門が閉まっていたので、塀を破ろうとした。すると塀の上から槍が2本出た。寄せ手の2人も下から上へ槍を突きあげたが、敵は、今度は鉄砲を撃とうとした。そこでまた敵の面を図書は槍で突こうとしたが、塀が高くて届かずできなかった。

〇松平左近眞乗(後の縫殿頭)は、城の柵際で歩兵を討ち、三の丸で首を取ろうとすると、戸田藤五郎重宗が傷を負って帰るのを2人の敵が槍でかかってきた。そこで左近はその2人をすぐに斬り殺して首を取った。そして戸田を連れて撤退したが、岡山辺りで秀忠の馬印を見つけてそこへ駆けて行った。

青山大蔵少輔が4つの首をもってくるのをはるかに見ていた家康は、「幸成はよくやった」と前に与えた勘気を許した。それから岡山に陣を張った。

〇目付の木村源太郎元政とその子の甚九郎信光に大阪城の中の様子を探らせた。当時城内は猛火に包まれていたが、元政父子は中に入って見届けてから報告した。

〇松平和泉守乗壽は一万石以下の美濃の士を率いて、河内の枚方を守っていたが、森口から徳川の勝利を聴いて大阪へ乗り込んだ。また、河内の須奈の守衛や野洲の那須衆、和泉の岸和田城の加番の金森出雲守可重なども、同じく早々に大阪へ行って多数の敗残兵を討ち取った。

〇播磨の国主、池田武蔵守利隆は、備前や備中勢とともに尼崎に駐屯していたが、大阪城から煙が上がっているのを見て、神崎川を渡り大満で敗残兵を多数討ち取った。中でも備中の花房五郎左衛門職則は自分の手で手柄を上げたという。

〇秀頼の旗奉行の郡主馬長列は、千畳敷へ戻って床に旗を立て、「自分は城外で死のうと思ったが、この旗を敵にとられるわけにはいかないので帰ってきて返したい」といって、黄色の母衣を脱いで床に置いて秀頼に返し、長年の恩に報いるために死ぬとつぶやいて自殺した。享年71歳だった。

眞野蔵人頼包入道宗眞、中島式部少輔氏種、安威五右衛門、成田兵蔵長宗も相次いで自殺した。

山川帯刀と北川次郎兵衛は西の丸に引き取っていたが、城内は寄せ手で埋まっていて行き場が失い離散した。

堀田図書介勝嘉と野々村伊予守雅春は、南方で負かされ本丸へ戻ってきたところ、秀頼の妻が江戸から輿入れたころから仕えて来た庖厨人(*料理人)の大隅五左衛門が、兼ねて板倉伊賀守と密約通り台所に火を放った。

その煙は高櫓へ移り本丸にも移った。伊予守は二の丸の橋の上で自殺した。図書は自宅へ戻って妻子を殺してから本丸の玄関まで来たが、加賀勢が侵入していて堀田平右衛門と図書介が突き合って左右へ倒れた。

2人は起き上がって、平右衛門は図書介に名前を名乗れといった。堀田図書介だというと、右衛門は驚いて「従弟ではないか。長らく国を離れていてあったことが無かった。何とか助けよう」といったが、勝嘉は「深手を負っているので早く首をとってくれ」と頼んだ。平右衛門は泣きながら首を取った。しかし、彼も傷がもとで後日死亡したという。

石川主殿頭は、隅与五左衛門が放火した煙が本丸より上がったのを見て「これは本丸が落ちたと見た。首を取ってすぐに戻ろう、向かう敵を討って進め」と命じて、京橋口で旗を上げた。首を取ったり生け捕りにしたりした敵の数は270人ほどだったという。

武徳編年集成 巻84 終(2017.6.21.)