巻86 元和元年5月10日~28日

投稿日 : 2016.12.14


元和元年(1615)

5月小第86.jpg 

10日 豪雨 秀忠は二条城へ訪れて家康に会った。大小名も従った。家康は「皆が戦いで活躍したおかげで、天下が統一できた」と褒めた。

越前少将忠直は伏見の館で休んでいたので遅刻した。家康は上の檀から一畳半ほど左に座らせられた。弟の出羽守直政は子供なので左側3尺という近い場所に座らせた。家康は皆に向かって「越前の少将は7日の戦いで非常な活躍をした。また孫の出羽守も幼くしての初陣にもかかわらず2人を生け捕った」と褒めた。一同恐れ入って頭を下げた。

末席にいた松平伊予守忠昌が「ここに参っている」と大声で叫ぶと、家康は「大勢だったのでわからなかった。今回の戦いでの背後からの敵を下し援軍として活躍したのは素晴らしかった」と述べた。

家康と秀忠はもう一度忠直を呼んで、「お前の父の中納言秀孝も孝行で忠義だった、お前は大阪城を乗っ取ったので、誰よりも大きな手柄を上げた。したがって感謝状を授けるべきであるが、身内なのでそれはいらないだろう。子々孫々裏切ることのないように。恩賞は追って授けるが、とりあえず初花の茶入れをプレゼントしよう」といい、秀忠が茶入れを忠直へ手渡し、「お前のおかげでこのように早く天下が取れた。褒美として貞宗の脇差を与える」と自ら忠直へ与えた。

家康は「お前の父の秀康は、かねがね各地の優秀な武将を集めていたので、今回の戦いで目覚ましい功績をあげた。今後も家来たちを大切にせよ」と述べた。

家康は本多飛騨守成重と荻田主馬を呼んで、それぞれに茶壺を贈り、主馬には今の取り高1万石の外に与力1万石分を付けた。また、本多伊豆守富正など彼らの貢献を大いに褒めた。(越前家の臣の家傳に書かれている)

〇伝えられているところでは、忠直は伏見へ帰って家中の者を集め、もらった陶器や脇差を見せて「追って家康から恩賞の土地が授けられるはずである。だからそれまでに各人の手柄を吟味しておいて、その時応分の恩賞与えるので、足軽まで詳細を報告するように」と述べた。

しかし、彼にはすでに参議の位は与えられたが、領地の追加の連絡はいつまでたっても来なかった。忠直は生まれつき短気で激しい気質の人だったので、憤慨して気が狂い、罪もない家来に危害を及ぼしたり、非常に残忍な振る舞いが過ぎたりして、そのまま放置できなくなった。そこで秀忠は元和9年の春、忠直を豊後の萩原へ左遷し、越前の50万石は親戚の伊予守忠昌与えて後継ぎとし、また大野の5万石を出羽守直政に、勝山の5千石を大和守直基に与えた。

丸岡の城主の本多飛騨守は再び徳川家に戻り、忠直の妻は秀忠の娘なので1万石をもらって江戸に住んだ。その子の仙千代丸は家康の孫なので、越後高田の24万石を与えられ、後の越後3位中将光長となった。

参議の忠直入道一伯は、8年間蟄居した後に豊後で死去した。(配所の費用として与えられた2万石は中将光長に与えられたという)

〇尼筒崎(*尼崎)と西宮を守っていた池田宮内少輔忠雄、讃岐の太守、生駒正俊、紀州の太守、浅野但馬守長晟が上京し二条城を訪れた。家康は中でも長晟の家来の上田主水正、亀田大隅、田子介左衛門、安井喜内、岸九兵衛を呼んで、和泉の樫ノ井の戦いでの活躍を褒めた。

〇関ヶ原で捕えられた筑紫上野介義冬入道夢庵の子の主水は、7日の戦いでは細川越中守の隊に属して手柄を上げたと報告され、夢庵は今日家康に謁見を許された。(寛永3年主水は3千石をもらって御家人となった)

〇家康は阿部左馬介正吉を呼んで、「7日の戦いで味方が崩れたとき、踏みとどまって目まぐるしい手柄を上げた。お前は天正18年の小田原城攻めでは大須賀の隊にいて、酒匂川では伏兵として大手柄を上げたので、今回は2度目である。お前の弟の阿部河内守は、17歳の時は北条家の伊豆の鷹巣城の城主が退却した時に手柄をあげて数か所傷を負った。天正の末からは戦いが少なくなった。特に関ケ原以降は天下が統一されて戦いがなくなったので、その昔、昼夜戦いを繰り返していた時代に生涯に20回とか30回とか戦いで活躍するときよりも、今の戦いで活躍する方がかえって名誉あることである」といって褒めたという。

11日 正午ごろ秀忠は二条城を訪問して夕方ごろ帰還した。

〇この日、長宗我部宮内少輔盛親入道祐夢が家来の中内宗右衛門と八幡山の麓の橋本あたりに隠れていたのを、蜂須賀阿波入道蓬庵の使者の長坂三郎左衛門が見つけて捕えて伏見城へ連れてきた。

彼等は伏見城の玄関で茶をふるまってもらった。そこには掃部頭の安藤対馬守と土井大炊頭が同席した。祐夢は木綿の袷で縄をかけられ永井彌右衛門が持っていた。ここで彼は戦いでの行動を尋問された。

彼は「6日の夜に決戦をして勝負を付けようと思ったが、赤の軍団が堤の上で横から攻めてくる様子だったので、こちらの隊は対応できず敗北した」と述べた。掃部頭は「その赤の軍団は(*井伊)直孝だった」と述べた。秀忠は格子の中で前に2,3人の家来を立たせ後ろに隠れて盛親の様子を見ていたが、「彼は自分がいるのを察しているらしい。こちらばかり見ている」と述べたという。

一方、中内宗右衛門は、これまでよく主人に仕えたと蜂須賀(*阿波)の家来とされた。

〇高力摂津守忠房、山田十太夫重利、高木筑後守政次は、和泉の大小名達に大阪の陣の落人を探し出すように命じられた。

伊木七郎右衛門達雄と眞野豊後守頼包は、佐田まで逃げて蘆の原の中に隠れていたが、互いに刺し違えて死んだ。

〇筒井主殿助定慶は、郡山へ逃亡した汚名をぬぐえず、和泉の福住にて享年28歳で自殺した。

〇『渡邊家傳』によれば、渡邊内蔵介は代々摂津の士で父は民部少輔といった。大阪城が陥落した時、二男と三男を刺し殺して乳母に嫡男を連れてくるように命じた。

しかし、彼女は賢い人で嫡男に白帷子(*かたびら)に着替えさせると、その場を退き、渋紙に包んで縄で櫓から降ろして逃がせ、その子を町のなかの便所に隠した。

その後、そこから逃げ出すところを関東勢に捕えられ、いろいろと尋問されたが、渡邊の隊の水谷清兵衛という人の妻が「この子は自分の子に間違いない」といった。この子はまだ6歳だったが凛々しかったのでひどく詰問されたが、結局内蔵介の子であることを白状しなかった。

その結果2両払えば釈放するということになり、乳母はすぐに故郷の渡邊に行って、在りのままを百姓に話した。流石に地元民も憐れんで2両を出してくれた。そこで彼女はその子を取り返して京都へ行き、南禅寺の喝食(*かつしき:修行僧へ食事を告げる係)にした。

彼が18歳になったとき、細川越中守や一柳土佐守などの縁者が彼を還俗させ、素心尼(前田了心の母)に頼んで、何年もかかって甲府の網重へ仕えたいと志願した結果、ようやく許され、渡邊権兵衛となって500石を取るようになって軽率頭となった。

父の内蔵介は、大野治長と、秀頼の身の安全を謀るように策を練ろうとして、時期を待つために近江へ逃げていたが、秀頼が自殺したと聞いてすぐに立ったままで切腹した。大阪城内で自殺したというのは間違いであるという。

12日 京極若狭守忠高は、秀頼の8歳になる娘を伏見へ差し出した。母親は成田五兵衛助近の娘という。すぐに天樹院(*千姫)が養育して成長後は尼にして、鎌倉の松が岡の東慶寺の住職として天秀大和尚となった。彼女の乳母の夫の三宅善兵衛は、大阪城が落城した時に戦死し、乳母は小出大和守吉英に預けられた。(当時国松は8歳、娘は7歳だったという)

〇大阪方の落ち武者で、元は奥州生まれの山川帯刀賢信と北川次郎兵衛宜時が、雄徳山瀧本坊に隠れているという噂があり、秋元但馬守泰朝が追手を送った。しかし両人はすでに逃げた後だったので瀧本坊と弟子の式部を捕えて戻ってきた。

〇奈良の興福寺で筒井紀伊守慶之が享年25歳で自殺した。これは昨日この人は兄の主殿助定慶が自殺したという知らせを知って、兄と郡山へ逃げようと約束していたのに兄が死んだので汚名を消せないと思ったからである。このために(*筒井)順慶の子孫は断絶した。

13日 秀忠は二条城を訪れた。西国の諸将の中川や寺澤などが大阪へ船で着いたが、戦いが終わったと聞いて悔しがりながら京都へ登り、家康が天下を治めた祝賀をした。

〇佐竹家説によれば、義宣は大軍を率いて大阪へ向かおうと北陸路から兵を進めていると、越後で大阪が落ちたニュースを知ったという。同様に、南部信濃守利直も騎兵140、雑兵5千400あまりで大阪に向かっていると途中で、大阪城落城のニュースを聞いたという。

〇ある話として、伊達政宗が今回の戦いに参加するために東海道を進んでいた頃、相模の中原で放鷹をしたという。ところがその地は家康の放鷹のための場所で、前から大岡傳左衛門が番をしていた。彼は政宗に槍を掲げて「家康の放鷹場を知らないのか?自分は家康に謝る道がない、自分の首をはねて家康に見せて、自分が弱虫でなかったことを配生きさせてくれ」と怒って怒鳴った。政宗は弱ってしまって「家康へはどのようにも申し訳をして、お前の落ち度ではないことを伝える」といって家康に詫びた。家康は微笑んで「大岡は木訥な奴だ、安祥の譜代で代々勇敢な士だ。お前も見習え」といったので、政宗は頭を下げて大岡を大いに褒めたという。

〇『小幡家記』によれば、今年の春、妙心寺の爾長老が、家康が小幡をスパイとして大阪に潜入させた訳を大野主馬にばらしたために、家康は非常に恨んでいて、彼を捕まえて(長老の弟子)佐蔵王も糾弾させようと話を決めた。

しかし、(*小幡)景徳は、佐蔵王はすでに四月に病死したことを聞いていて長老を信用していたので、このことを板倉勝重に告げ「武田信玄は美濃の希菴和尚を殺害したその年から、歯槽膿漏を患うようになり翌年に死んだ。織田信長は、甲州の快川国師などを焼き殺してから100日もたたず殺された。もう佐蔵王は死んでいるのだから、爾長老の命は救うべきではないか」といった。板倉は景憲が、戦いの世に生きて慈愛深く、家康の冥福を願っている気持ちに感心して、家康へは「爾長老も佐蔵王もすでに死んでいる」と報告した。家康は「彼等を捕えて磔に出来なくて実に悔しい」と述べた。

14日 大小名が大阪の亡命者を探し回って捕え600人ほどの首を提出した。大阪の町の司、水原石見が2條辺りに隠れて住んでいるという報告があったので、藤堂高虎が討手を出した。水原は激しく抵抗して3人の兵を殺して自殺し、彼の首は二条城の門外に晒された。

伊東丹後守長實は、次男の吉三郎が関ケ原以来家康に仕えていたものの、大阪の陣では大阪方に通じていると囁かれていた。

大阪城が陥落した時、森権左衛門ら2,3人をつれて高野山へ向かった。また彼は岩佐左近正壽や赤座内膳直規といった秀頼の家来2,3人と京都へ行き、木下右京の子の妙心寺の海山和尚のもとで検視を呼んで自殺するために各人が署名をして執事に渡した。

家康はその話を聞いて、「前に石田方について浪人になり、去年からの秀頼の募集に応じて大阪城へ集まった者については罪を追求すべきではない。大阪の諸士は秀頼に忠義を尽くしたので、これは家来としては当然の職務だった。自分は彼等の罪を問ったりはしない。

自分が大野と渡邊を憎むのは、秀頼が徳川に叛逆するように仕向けたからであるので、その他の者の罪を問うつもりはない。何処へでも出て行って良い」といった。各人は喜んで各地へ散らばった。山口休菴もその1人だったので、この話を後々まで伝え続けたという。

〇譜代の諸臣が家康に面会しているとき、「三河で本多中務大輔の家来だった桜井庄之助勝次は、優れた武将だったが彼が死だと聞いて自分は涙したが、その子は本多家を出て7~8年になるが行方が分からない、何処へ行ったか?」と尋ねた。本多美濃守は「2代目の庄之助勝成は自分の方で軍使をしていたが、豪放で逃げ出して、今は田中筑後守の所にいる」と答えた。家康は、「逃げ出したといって、あの勝成の子を他国に置いたままにするのはどうか、早く呼び戻すように」と命じた。

〇古田織部正重然(または重能)は牢獄に入れられた。彼は茶道で世に知られていた人であり、秀忠の師範として嫡子の山城守を江戸に住まわせ、二男の左近は今回の戦いに呼び出されて、青山伯耆守忠俊の部隊にいて今月7日に戦死した。

しかし、父の織部正は下心を抱いて、薩摩から来ていた連歌師の如玄を使って秀頼の命令を島津陸奥守家久に連絡させた。更に、重然の甥の左介が浪人として大阪城へ籠城し、去年の冬の戦いの最中に重然は矢文を送って徳川の作戦を城へ漏らし、先月下旬の京都放火の首謀者も、如玄と織部正の茶道の法師、宗僖だった。そこで藤堂高虎が三条堀川の彼の自宅へ兵を出して逮捕し、持っていた俊成と定家の掛け軸と一山一休、南浦春屋などの書、その他陶器の珍品などを点検して没収した。

〇ある話では、織部正は殺害される寸前だったが、取り調べの必要があって刑の執行を延ばした方がよいという奉書が老臣から板倉伊賀守に送られた。その奉書は糊で封がされていた。伊賀守は「このような急用の場合は糊で封をする必要はない。開けている間に織部正の刑が執行されてしまったらどうしようもなくなって遺憾だ」といったので、これを聞いたものはホッとした。

15日 長曾我部宮内少輔入道は、二条城の外に縛り置かれた。これを見た者は「彼の父親の土佐守元親は一條(*兼定)を追放し乗っ取ったし、この盛親は身内の津野孫次郎を理由もなく殺害した。この積年の罪によって天誅がくだされたのだ」と爪はじきした。彼は今日、京都の街を引き回されてから六条河原で首を晒された。その他にも72人の捕虜が斬られ、粟田口の東寺あたりで首が晒された。

〇この日、新宮若狭行朝を、和泉の二見の領主の松倉豊後守の番所で山本権兵衛義安が見つけ、大野半之助の許へ駈け込んで来た。半之助はすぐ駆けつけて捕え伏見へ送った。

この人は関ヶ原での捕虜の堀内安房守氏善の長男で、去年新宮や熊野辺りで一揆を起こして大阪城へ籠った。彼の罪は重いと、浅野但馬守に裁かせようとしたが、今度の戦いで彼の弟の堀内主水氏久が秀頼の妻(*千姫)を城から脱出させたことに免じて、行朝は許された。

〇伝承によれば、行朝の先祖の若狭氏眞は、白川天皇の命で紀州牟婁(*むろ)郡(*田辺、白浜辺り)の押領使(*おうりょうし、治安維持係)となり、代々熊野に住んでいた。その後主人の主水氏忠が亡き後、南朝について近衛の左府の徑忠の庶子の中氏徑長を養子として、館の四方に湟をめぐらせて住んでいたので、堀内殿と呼ばれた。

氏眞から11代の牟婁郡新宮の城主、堀内安房守は、石田で栄え滅びた。男子が4人いて、1人は左馬佐氏弘(新宮若狭行(*氏)朝となった)、2人目は右衛門兵衛氏満、3人目は主水氏久、4人目は主膳氏時といった。去年の冬、氏朝と氏満は300程の兵を率いて、藤堂高虎の住吉の陣の向こうを張って勢いよく大阪城へ向かい籠城した。氏満は堀内大和と名乗った。しかし、弟の氏久は以前から本多正純と諮って城へ籠り、千姫を助け出した。そこで兄2人も優秀な武将だとして行朝は藤堂高虎が引き取り、2千石を与え、主膳氏時は遠江参議頼宣の家来となった。

16日 堀内主水氏久は、下総臼井領内に500石をもらって大番士となった。

17日 山川帯刀は、本能寺、北川次郎兵衛は知恩院に行って罪を償った。瀧本坊が彼らに対して家康の許しが得られるように誓願した。すると家康は瀧本坊の要請を認めた。本多正純は北川は誰に預けたらよいかと家康に問うと、家康は「義をもって寺へ入った者は逃げることはないので、そのまま両方の寺に留めるように」として、両寺に菓子を正純に届けさせた。

19日 秀忠が二条城へ来て家康に会った。家康が近日中に駿府へ帰るからである。しかし、8月ごろまで京都に滞在して政務に携わるように秀忠は家康に頼んだ。家康は了解した。

20日 佐久間大膳亮勝之(最初は守政)の家来が、竹田榮翁を討ち取って首を献じた。

浅野但馬守の領地の紀州怡上(*いと)郡(拾茶抄には伊都郡とある)で、眞田左衛門佐の妻子が逮捕され家康に献じられた。彼等は去年の冬に秀頼から眞田に与えた国俊の脇差と黄金57枚を献じた。幸村の妻は故大谷刑部少輔吉隆の娘である。

〇『宇都宮家説』によれば、家康が越前忠直の舎弟松平伊予守忠昌の家来とした宇都宮治部左衛門朝末は、今回の戦にも忠昌に従って大阪へ向かったが、腫物によって戦場へは行けなかった。秀忠からの見舞いとして米千俵、白銀300枚、時服5着を今日もらい、4,5日後に家康からも黄金50枚、時服と軟膏をもらったが、腫物は治らず結局2人には面会できなかった。

〇大野(修理亮治長)の近臣、米村権右衛門は5月7日の夜、食糧倉庫から使いとして茶磨山に行ったが捕えられた。彼は後に大阪の金銀財宝の仔細を尋問されたとき「知らない」と答えた。

そこで奉行は拷問すると迫ったが、米村は下げていた顔を上げて「それが奉行のいう言葉とは思えんな。自分は卑賎の出だが治長が憐れんで士にした。修理は大阪では司馬の役として豊臣家の行く先をのみ考え、金銀財宝のことなど考えたことは無い。自分もまた戦いに専念して他のことなど考えたことは無い。そして城方が負けて主人が殺された。今(*大阪の)金銀財宝などどうでもよい。もし戦いに勝っていれば、秀忠や家康の銘剣利刀もこちらの寶となっているようなものだ。去年の戦いの初めから自分は金銀財宝もゴミだと思って来た。勿論、士たるものは在るものを在ると述べることを拒まないが、知らないことは舌が裂けても言えないのだ。拷問するとは何事か」と怒鳴った。

家康はその話を聞いて、「實に素晴らしい士だ。助けるように」と命じた。そして結局彼は浅野因幡守長治の家来となった。米村は質素に暮らし、武器を手入れして常に戦いに備え、主人の修理亮の娘を養って一生を終えたという。

21日 細川越中守は、京都郊外の稲荷山へ家来を派遣して、長岡式部有侶(最初は與五郎)を殺し、首を献じた。この人は越中守の二男だが、父と仲が悪く今度の戦では大阪城に籠ったからである。

御家人、三河の上野間金三郎重成(後の金右衛門)は、片桐市正の組の小林太兵衛元長を誘い、伏見から二条へ行くのだといって大仏の前の茶店で餅を食べている大野道犬を捕えて殺して献上したので、家康は感激した。そしてそのことを雅楽頭と大炊頭に奉書を出し、道犬の刀を金三郎へ、脇差を太兵衛に与えた。

22日 秀頼の幼い息子国松丸が捕虜となった。そもそも7日の落城の時に常光院付の寡婦と子供、および田中六左衛門が国松丸を連れて煙に紛れて城を脱出したが、河内の枚方の妻木雅楽頭の番所で押しとどめられ六左衛門は逃亡し、硎屋の寡婦は妻木の手に取り押さえられた。13歳の子供は青山伯耆守が捕えて、国松丸は河内の手によって伏見へ連れて来られた。

しかし、腹痛によって材木屋太郎兵衛に預かられた。寡婦の子供は青山の所で国松丸のことをばらした。この様子は忠俊から家康に伝えられたので、板倉伊賀守が捜査して、年齢が見合っているのでこの子を伏見の材木屋から国松丸を連れて所司代へ連れて来た。

板倉も先日若狭の硎屋のことも、、この子供が白状して町の中に置いていたので、すぐに国松丸に会わせたところ、この子は国松丸に取りついて泣いたので、ついに国松丸が秀頼の息子であることが判明した。

23日 秀忠は二条城へ行き、家康に今回の戦で諸家が取った首帳を献上した。その数は1万4千530余りで、その内徳川の旗本の士が得た首は295だったという。それぞれの組の手柄は依怙屭負(*えこひいき)なしに一隊ごとに整理して精査するように老臣に命じさせた。第一の功労者として越前の長臣の本多伊豆守富正と水野日向守が争ったが、大阪城の一番乗りは越前家に決まり、日向守は2番目に旗を立てたということに決した。

〇この日秀頼の幼い息子の国松丸は、六条河原で殺され、その遺体は三条の請願寺の塔中の福正院に送られて漏世院雲山智四と号した。彼の傳臣の田中六左衛門は若狭から来て京尹に訴えて殉死した。国松を育てた寡婦と小童、硎屋、材木屋などは皆許された。

24日 大阪城の倉庫で焼失した金や銀を捜索するように後藤庄三郎は命じられた。

27日 館林の城主、榊原遠江守康勝は、日ごろから患っている風毒腫を押して出陣したが、鞍馬の磬控(*けいきょう、馬場?)で苦痛が激しくなり、今日36歳で京都、北野の陣で死去した。

〇和泉の堺の港は、永禄のころから戦禍を免れ富裕な商家が豪邸を建て、神社や仏閣も華麗を極めていた。しかし今回一気に灰燼に帰した。これは大野道犬の仕業である。そこで彼を罰するように豪商が訴えた。そこで長谷川左兵衛藤廣に道犬を預け、堺に連れて行って殺させた。

〇増田右衛門尉長盛は、関ヶ原の後武蔵の岩付(*槻)に流され、その子の兵太夫盛次は尾陽侯義直に仕えていたが、去年の冬の戦で城方が勝っていると聞くと喜び、寄せ手が勝っていると聞けば眉を顰めて悲しんだ。その様子を義直が耳にして、夏の陣で盛次を大阪城へ送ったが、若江の戦場で戦死した。そこで岩槻の城主の高力摂津守忠房に父の長盛を殺すように命じた。その結果今日長盛は自殺した。(享年70歳だった)

28日 秀忠は二条城へ行き、藤堂和泉守と井伊掃部頭の大坂の陣での戦功を賞し、秀吉の持っていた金の法馬(俗称千枚分銅)をそれぞれに2個ずつ与えた。

片桐市正且元は病気で苦しんでいたが、大阪城が落城してから駿府へ向かう途中で気が狂い、駿府について死去したとの連絡が届いた。(その子の出雲守が家督を継いだ)

〇池田武蔵守利隆は、家康の外孫ではなく、輝政の先妻(中川清秀の娘)が生んだ。去年神崎川を渡らず、弟の左衛門督忠継に先を越され、野田福島でも忠継を救わなかったのは全て監軍の城和泉守昌茂の為だったが、世では秀頼に内通していたという噂が姦しく、家康も疑っていて利隆の家が風前の灯となった。

そこで利隆は、伴大膳から全然そのようなことは考えたこともなく、すべて城昌茂に押しとどめられていたと陳謝した。家康は御簾の中で座って伴の話を聞いて、本人が厮養(*しよう、下っ端)の頃から登用されて騎士を預かって政を執行してきた優れた武将だから、申し開いたことによって疑いを晴らし、今後注意するようにと諭した。

本多佐渡守は「ありがたい言葉だから、早速退席して利隆に告げるように」といった。大膳は頭を下げていたが頭を上げて、「以後慎めとおっしゃるとはまるでまだ利隆に誤りがあったように取れる。先の戦いでは忠義を尽くそうとしたのに、お目付けが制止させたのだから、運が悪かったのだ。だから今後何も慎む理由はない」と本多に抗弁した。

この顔つきに何の陰りもなく堂々としていた。家康は顔を和らがせて「もう利隆に間違いがなかったことは、自分のいった言葉で決まっている。これ以上疑う必要はない」といったので、大膳は頭を下げて退席した。正信など皆は大膳の人格を褒めたという。

〇肥後の国主、加藤忠廣(清正の嫡子)は幼かったため、元老の加藤美作守と外甥の玉目丹波は大阪方へ通じ、あらかじめ用意していた大船2隻に、冬の陣では密かに糧米を秀頼に差し入れていたが忠廣は知らなかった。

秀頼は乳母の子、齋藤采女を肥後に送っていろいろ相談した。肥後からは密かに横江清四郎を大阪城内へ使節として送った。このことは発覚しなかった。

しかし、今年、肥後には目付の阿部四郎五郎正之と朝比奈源六正重がいたが、「加藤美作が本多庄助の手紙を受け取って忠廣が大阪へ出帆した後に熊本の城を乗っ取って謀反を起こす」という話を四郎五郎が耳にした。そこで忠廣の家来の久我棒庵を招いて「島津家久が大阪に向かうために出帆した後に、忠廣が肥後を出発すれば加藤美作は必ず謀反を実行するので、その時には熊本を留守にしないように。また美作を筑後の境南の関屋の城へ移し、妻子を熊本に質として取り、下川亦左衛門に預けるように。もし美作が応じなかった場合は、自分と源六は忠廣の継母(水野忠重の娘)を連れて本丸へ移り、美作もそこに置いて城代を別の人にするように。美作が刃向かえば正之が彼を殺す」とのべた。

棒庵は了解して、美作を関屋の城へ移し妻子を質とした。正之の命令に従って背く者はいなかった。正之と正重は翌年の春まで肥後にいて、国中で問題が起きないように治めた。

〇『東部実録』によれば、元和4年8月、忠廣の家来の加藤右馬允、下川亦左衛門、並川志摩、森本義太夫、庄林隼人、加藤輿左衛門、加藤平左衛門、中村将監、齋藤伊豆は、久我棒庵を頭として、加藤美作やその子の丹後、加藤壽林、中川周防、和田備中、玉目丹波の罪を訴えた。7日と8日に酒井雅楽頭の館へ執事奉行たちや阿部四郎五郎や朝比奈源六郎が集まり、この件を取り調べて家康に報告した。

10日には江戸城で、忠廣と家来たち、双方32人に家康の前で言い分を戦わせた。儒者の閑齋永喜が訴状を読み終わると、互いが何度も論戦した。一方の加藤右馬允らは「玉目丹波は新しく大船を建造し、最初は運送用としていたが、戦時中は兵船として秀頼を助けようとした。また、大阪から斎藤采女を肥後に来させ情報を通わせた。また横江清四郎が大阪へ行って帰国した時、「大阪の戦いでは徳川軍は形勢不利になって、京都と伏見へ籠城している。家康も秀忠も間もなく死ぬだろう」といったので、丹羽が喜んだが、周囲の者は不審に思った」とのべた。奉公人はその旨を丹波父子に詰問すると2人は答えられなかった。

この話は阿部四郎五郎が前に報告した通りだったので、加藤右馬允の方が正しいと決まり。11日に横江清四郎、橋本掃部助、同作太夫はともに死刑、その他加藤美作関係は全て各所へ配流された。また加藤右馬允が肥後の国を治めるように命じられた。

忠廣は子供だったので罪は問われなかった。肥後へは山田十郎太夫重利と渡邊図書宗網を行かせ、美作の関係者を糺してから、家康の許可を得てすべての賊臣を死刑や流罪にしたという。

武徳編年集成 巻86 終(2017.6.24.)