巻87 元和元年6月2日~7月7日

投稿日 : 2016.12.22


元和元年(1615)

6月小第87.jpg 

2日 安藤対馬守重信と後藤庄三郎光次は、大阪城の倉庫の焼け跡から純金1万8千60枚、白銀2万4千枚を見つけ出し家康に提出した。(*『駿府記』では金2万8千60枚、銀2万4千枚)

4日 秀忠は咳が激しくて、諸医者が診察に来た。

5日 島津陸奥守家久は兵庫に着岸して、今日二条城を訪れ、白銀5千両と綾10巻を献上し、天下統一を祝した。(*『駿府記』では銀500枚、綾50巻)

7日 秀忠の病気が快復したと、土井大炊頭利勝が二条城へ報告に来た。

8日 江戸城の留守番役の最上駿河守家親からの急ぎの報が届き、朔日、江戸が大地震に見舞われたと伝えた。(*慶長江戸地震:慶長20年6月1日)、江戸直下地震M6.5程度)

松下下総守忠明は、伊勢の亀山5万石から大阪城へ移って10万石をもらった。

11日 京都の郊外の木幡で、古田織部正重然(または重能)が切腹させられた。検視の鳥居土佐守成次と内藤右衛門政重は、遺骸を大徳寺玉林菴に納めた。

14日 浅野紀伊守の領内、熊野あたりの一揆の首謀者が逮捕された。

15日 家康が参内した。白銀千両、綿200束を進呈した。女御へは白銀500両、綿500束を贈った。長橋の局には白銀200両、綿30把を贈った。同日、仙洞御所へも訪問し、女院へ白銀500両、綿100束を献じた。(*『駿府記』では、銀の数量が一桁ほど少ないのは、金の大判換算のためか?)

18日 京都の鳥部山の豊国社は、豊臣家の鎮護の為の社である。これを破壊すべきかと、本多佐渡守が家康に尋ねた。家康は「神号を廃して、遺骨は方廣寺の大仏の傍に葬り、社は自然に放置せよ。その件は知恵者や門跡で相談するように」と命じた。

19日 安藤治右衛門正次は、先月7日に深傷を負って結局死亡した。父の治右衛門定次は、関ヶ原で戦死した。2人とも戦死したことは気の毒な事である。

20日 秀忠は二条城と訪れ、古田織部正の持っていた勢高という陶器の銘品を家康に献じた。

28日 秀忠は二条城へ行き、池田宮内少輔忠雄(24歳)を淡路から移し、兄の左衛門督忠継の遺跡として、備前一円の28万6千石余りを与えた。また、忠雄の家来の給料として、備中浅口郡の内の3万5千石を与えた。

彼の弟、松千代輝澄(後の石見守)には、播州完栗郡佐用郡で6万8千石を、同じく弟の岩松輝貞(後の右京大夫)には赤穂郡で3万5千石、同じく古七郎輝興(後の右近太夫)に佐用郡の龍野で2万5千石を与えられた。(この3人分12万8千石は亡くなった母の良照院の厨料の地である)

29日 大友宗麟が秀吉に献上した短刀,薬研藤四郎吉光は、長さ1尺9寸5分(骨食ともいわれる)である。大阪城が落城した後、河内の郷民がこれを手に入れて本阿弥彌又三郎に見せた。本阿弥はこれを買い取って、後に家康に献じたが、家康はすぐに又三郎に与えた。しかし、その短刀を秀忠は黄金500両、白銀千枚で本阿弥から買い取った。(*『駿府記』での価格は大判換算か?)

この刀は畠山尾張守政長が持っていたもので、最後の時に切腹しようとして腹に突きさしたが切れなかった。政長は鉛の刀のように切れないと怒って、傍に捨てると、薬研(*薬を粉にする道具)に当たりずばりと切り裂いた。そこでこの刀は部類の名刀となった。

閏6月小

3日 備前の国の小豆島は、長崎との海上交通の要地である。そこで長崎と堺の政所の長谷川左兵衛藤廣が管理するように命じられた。

〇滝州(*広東)の船が、紀州の港に着いた。浅野但馬守が検査官を送ると、船の中に砂糖が大量に積まれていた。家康に伝えると、すぐに船主が望むのならと、すぐに交易を許可させた。

〇飛騨の国主、金森出雲守可重が享年58歳で死去した。この人は子供の頃は長谷長蔵という美男子だったので、法印が愛して家督まで与えた。

4日 蜂須賀阿波守至鎮の冬の陣での活躍によって、彼の婿の池田忠雄の領地の淡路の一円を、秀忠が領地として加えた。さっそく至鎮は二条城へ行って家康に面会すると、家康は「冬の陣で命を投げ出して活躍したので、幕府から恩賞があるだろうと」述べた。

〇本多出雲守忠朝は先月の7月に戦死し、実子がなかったので、遺領は甥の甲斐守政朝に与えられた。そして忠朝の娘を妻とするように命じられた。

6日 秀忠は南禅寺の塔中金地院を訪れ、末寺の河内八尾の眞観寺へ社領を寄付し、午後に伏見城へ戻った。

〇秀忠は、飛鳥井雅庸の父子の蹴鞠を見物した。

9日 尾張の義直が暑さに参って昨夜から倒れていると、成瀬隼人正正成と興庵法印が報告した。家康は六花湯を使うようにというので、法印が調合して服用させると、すぐに効果があったという。

〇金地院傳長老は『本朝文粋』を献じた。ただし、第1巻は欠けていたという。

〇島津陸奥守家久は、火薬袋と唐竹の火縄銃を献上した。片桐主膳正貞隆は加羅を捧げた

〇信州松本の山で初めて銀と鉛が産出した。そこで松平右衛門太夫正綱と伊丹喜之介康勝(後の播磨守)が調査して、採掘するように命じられた。

〇織田有楽が家康に面会したときの事、家康は、大阪城が落ちた時、文琳肩衡の銘陶器が多数紛失したが、それがどうなったかを尋ねた。

〇古田織部正は、茶道を好んで大徳寺の春屋国師と深く親交して崇拝していた。彼の所蔵品を没収したとき、春屋の墨簡が多かった。家康は春屋を馬鹿にして、国師の号を認めなかった。

〇勝浦法院は、鎮信の遺物として刀1本と白銀2千両を献上した。

10日 本多美濃守は同甲斐守を連れて家康を訪れ、家康が同出雲守の跡式を甲斐守に継がせたことの礼をした。

11日 秀忠は青山伯耆守忠俊を検使として、伏見で青山石見守清長を殺した。彼はもともと福島正則の部下の尾張の祖父江五郎衛門定翰入道法斎だったが、関ヶ原以来御家人となって、名前を変えるために還俗し、今度の戦では大阪方へ密かに内通していたためだという。

12日 青山石見が殺されたことが、今日、伊丹康勝が家康に報告した。

〇使番の溝口外記常吉と嫡子の半左衛門常恒と、二男の新蔵(後の市左衛門)が改易された。その理由は南部信濃守利直の小姓として仕えた南部左門重科が重犯罪を起こして逃亡し、京都に潜んでいるという噂によって、討手として利直が南部久左衛門という士を京都へ行かせた。

しかし、大阪方が兵を挙げたので、左門は忍んで秀頼方についた。京都では証人のいない旅人は留まれないという新しい決まりの為に、久左衛門は溝口外記に助けを求めた。

外記は証人となって南部利直の家の者だという証明書を、板倉伊賀守に出した。その結果、久左衛門は所司代の免許をもらって京都に住んでいた。

この人が奥陽の強い武将だということを秀頼の家来が聞いて、左門に命じて禄をつけて招いた。久左衛門は欲に駆られて誘いに乗り、大阪では左門について秀頼に面会し、隊長となった。

このことを知って信濃守は、左門を今まで以上に非常に憎んだ。大阪城が陥落した後、久左衛門は丹波に逃げ更に伊勢に行ったが、そこで日向半兵衛に捕まり牢獄に入れられた。

家康はすぐに久左衛門を信濃守に渡した。信濃守は喜んで受け取り、左門も受け取って重い刑に処したいと申し出た。しかし、この左門は落城の時には堀内主水と相談して、秀頼の妻(*千姫)の伴として岡山へ移し、手柄を認められて、先に家康から500石をもらっていたと利直が述べたので、禄ははく奪されたが、刑に処さないように利直に命じ、利直は了承した。そういうことで、左門は家康から黄金100枚をもらって、追放され紀州に隠れた。

一方、溝口外記は、久左衛門の証人となったことで逃げられず、運が悪い人である。というのも、この戦の前、自分の持っていたいい馬を秀頼に売り飛ばしたのは有名で、秀吉の家来だったので疑われて給料の2千石を没収された。嫡子の半左衛門常恒は秀頼に仕えて、今度の戦でも活躍して300石を褒美でもらった。しかし、父がこんな間違いを起こしたので、連座によって改易させられた。

常恒は小野忠明父子に剣術の刺し技を伝授され、その奥義を極めたので、後に呼び戻されて700石をもらって舟手役となった。後には家光に剣術を見せたという。(半左衛門は流浪中、高敦の実の曽祖父の家に蟄居していた)二男の新蔵も剣術の達人で、兄が剣術を将軍に見せた時には、相手役を務めた。その後清陽(*家光の三男、綱重)に仕えて市左衛門と改めた。

14日 家康は袴を脱いで、山科侍従言緒の用意した黒絹の着物を着て、譜代の近臣たちに面会した。

16日 秀忠は二条城へ行き家康に面会した。家康は、秀忠に武家の古實の書について教授した。

今度の戦の功労によって、井伊掃部は従4位下侍従となった。

17日 冷泉前中納言為満は、『大比叡歌合』一冊を家康に献じた。

この日、伏見城では、5月7日の天王寺の戦線での敗北に関与した者を一人ずつ呼び出され詳しく尋問された。榊原左衛門職直と前田十三郎は、戦場で言葉を交わした人の証人となって、それぞれ皆が申し開いたが怯弱の汚名を被った。

水野隼人正忠清と青山伯耆守忠俊は、手柄をしゃべり過ぎて暫く閉門(外出禁止)に処された。(後に赦されて恩賞をもらった)

菅沼主殿定吉も自慢が過ぎて(*家康)の気分害した。

青山忠俊の組の中根傳七郎正成は、大久保四郎左衛門忠成が馬を入れた(*戦闘に出た)のを見て正成も続いて馬を入れたが、互いに手柄を譲り合った。今村傳四郎正長も同じ組で馬を入れ2度手柄を上げたことなどが詳しく吟味された。

〇秀忠の娘は、慶長8年に秀頼の妻として輿入れした時、娘付だった江原與右衛門と秀頼が新たに付けた渡邊筑後守は、恩賞をもらって御家人となった。渡邊は二位局の弟で、最初は速水庄兵衛と言っていた者である。(領地3千石をもらった)

〇高臺院の身内から取った養子の木下左京秀規(肥後守家定五男)も恩賞を受け、あとで領地をもらった。

〇この頃、諸大名は順に戦功を吟味された。本多出雲守の隊が初期に敗北を喫したので、監軍の須賀摂津守勝政は改易された。

本多の組の浅野采女正長次と秋田城之助實季が言い合いになって喧嘩になりそうになった時に、松下石見守長継が中に入って静めた。

本多出雲守は討ち死にしたので、兄の美濃守が家来の戦功を吟味した。

小鹿主馬と大原、久保田、柳田、山本に感謝状が贈られた。

旗本の浪人榊原嘉兵衛も感謝状をもらってもよかったが、一度キリスト教徒になってすぐ浄土宗に改宗し去年改易されたので、感謝状をもらえなかった。諸家で手柄のあった者が多く感謝状をもらった。

〇ある話によれば、榊原遠江守康勝は5月下旬に病死した。そこで、家康は、家臣の村上、原田、中根、近藤を呼び出し、6日の岩田の戦場で木村主計と決戦した後に、康勝が先鋒の藤堂と井伊が、敵の長曽我部や木村長門守との交戦で長引いているときに救援しなかったことについて詮議した。

康勝は家康の旗本の出だが、何とかして榊原家を離れて実家に戻りたいと考えていた。最近妾に平十郎という子がいることを隠していた。今回木村長門と井伊家が激闘をしているときに、榊原の組が井伊家を救援するべき時だったので、何とか榊原家としてはここで手柄を上げようと考えた。しかし、康勝と監軍の藤田能登守信吉が厳重に参戦を止めた。そこで翌7日には榊原の老臣たちや家来たちも皆が憤慨し、康勝と藤田の命令を無視して参戦した。そのとき、元老の伊藤忠兵衛は戦死した。

伊藤宮内などが、そのとき奮戦した様子を報告したので、信吉が呼び出されてその時の経緯を糺された。

藤田は「遠江守は康政の子で、若いけれど優秀な武将である。彼は井伊家を救援しようとした。しかし、自分は馬で駆けよって少し様子を見てから後で戦いに勝つのがいいと、詳しくその理由を説明した。そうこうしている間に木村重成が敗れ、康勝が参戦する機会がなくなった。これは全て自分の経験不足によるもので、決して康勝の責任ではない」と本多正純と永井直勝に報告したので、これがようやく家康にも届いた。そこで家康はもう一度信吉を呼んで、藤田と榊原の元の家来たちとで見解を糺させた。

家康は藤谷に「遠江守が戦いたいというのは当然のことだ。お前は優れた武将だから監軍にしたが、岩田の戦で康勝に攻めさせなかった理由を述べよ」といった。

信吉は「藤堂と長曽我部の戦いが終わるころ、掃部頭によって木村長門守が殺され、敵方には後続がなく長曽我部勢が劣勢となって敗北した。そこで井伊家が木村の本隊を追撃した。一方、敵陣の後ろには森の伏兵がいて、味方を引き入れて撃つ策略がありそうだった。というのは、城から遠く出て来て戦った敵は劣勢とはいえ、城へも帰れず援軍もなければ必ず森が伏兵を置いているに違いないからである。そこで康勝の軍隊でこの伏兵たちを破ろうという考えで、井伊家を救援しなかった。後で聴くと、最初は長門守宮内少輔入道が後を守ることになっていたが、各隊の隊長への連絡が徹底せず、各隊がばらばらに道明寺の前線へ出て行ったので、矢尾や若江へは行かなかったそうである。そこは自分が思ったことと違わなかった」と詳しく状況を説明した。

しかし、この日の判定は出されず、後日に延期された。そうして、その後もそのまま放置されて結局判定は出なかった。信吉は落ち込んでうつ病にかかり、冬になってますます悪化した。そこで信州諏訪の温泉で湯治しようと老臣たちも休みを乞うて、年内に善光寺に行きしばらくそこに住んだという。(藤田と榊原の家臣との対決は、駿府でこの年の冬にあったともいわれている、夏目舎人助定吉の説によっても、内容は大同小異である)

18日 井伊掃部頭直孝の大坂の陣での働きの恩賞として、近江の長濱辺り5万石を追加される保証書をもらい、あわせて下坂新作の刀をもらった。慶長20年閏6月 家康ー井伊侍従 知行目録.jpg

19日 大阪の陣の戦功によって、越前少将三河守源忠吉、加賀少将肥前守菅原利常、仙臺少将陸奥守藤原政宗がそれぞれ参議になり、藤堂和泉守高虎は従4位下になって高木貞宗の剣をもらい、領地5万石を加える保証をもらった。慶長20年閏6月 家康ー藤堂和泉守知行目録.jpg

〇この日、本多彦次郎忠利が伊勢守に、戸田左門氏鐵が采女正に、小笠原大学忠眞が大学頭に、安藤式部重長が伊勢守(後に右京進、實父は本多藤四郎正盛である)に、成瀬藤蔵之成は伊豆守に、神尾五郎兵衛守世は刑部少輔(二位の局の子)、池田治兵衛長幸は備中守になった。また、越前の元老本多丹下成重、加賀の宿老、横山山城長知、本多安房政重がそれぞれ従5位下となった。

20日 蜂須賀安房入道逢庵が京都に来て二条城へ行き、秀忠から彼の息子の阿波守至鎮が淡路を授けられた礼をした。

21日 秀忠は京都へ行って、施薬院の家で朝食をとり、黄金100両、暑衣10着を与えた。昼前には車で御所へ行き、白銀1万両を献じた。また女御には2千両と綿300束を贈った。吉良侍従義廣が太刀持ちをした。尾張、遠江、越前と仙臺の参議、井伊侍従、藤堂和泉守、酒井左衛門尉家次、本多美濃守、松平下総守、戸田采女正氏鐵、酒井雅楽頭、土井大炊頭、安藤対馬守、青山伯耆守正勝、内藤若狭守清次、井上主計頭正就、本多出雲守正勝、同大隅守忠純、酒井讃岐守忠勝、青山大蔵少輔幸成、神尾刑部少輔守世が伴となった。昼頃に御所に入り、白銀3千両、綿500束を献上し、女院へ同2千両と300束を進呈した。(*『駿府記』では「枚」単位のために、高敦の「両」は10倍になっているらしい?)

22日 両傳奏が二条城を訪れ挨拶をした。家康は日ごろ書き写していた『本朝文粋』を御所へ献じた。この第1巻が欠落していたのを、林道春が京都で見つけて献じたので家康は喜んだという。

島津陸奥守家久が京都で仕えていたので、父の兵庫頭入道維新が上京する許しを得た礼として、段子10巻を家康に献じた。片桐市正の遺物の刀と脇差、葉茶壺を、息子の出雲守高俊が家康に献上し、家督を継いだ礼として白銀300両を献じた。

23日 定家の筆による『古今和歌集』と俊成の娘の筆による同和歌集を、伊達政宗が家康に献上する準備として冷泉為満に見せた。政宗は家康が望めば献上することを望んだが、家康は楽しみとして取っておくようにと返却した。

〇織田上総介信兼(信長の弟)は、伊勢の領地を秀吉に没収されて、近江に2万石を持っていたが、家康はそこから丹波の柏原に3万6千石を与え、長男の民部大輔信重にも、それとは別に1万石を与えた。しかし、民部大輔が不孝者だったので、父の老犬齋信兼は、次男の辰之助信則(後の刑部大輔)に跡式を継がせるという遺言状を書いた。彼が亡くなってから民部大輔は訴状を出して、一族の分部左京允政壽と長野内臓允に託して、家康に提出した。家康は分部と長野に「老犬齋の遺言が確かにあるのだから、信重に何が言えるのか。遺領は当然辰之介に与える」と述べた。(後に民部大輔の家は断絶した)

25日 家康は、福島掃部頭から没収した和泉の宇田城を取り壊すように小堀遠江守政一(*小堀遠州)と中坊左近時祐に命じた。

26日 喜連川左左衛門督源頼氏が京都へ来て、太刀と馬代を家康に献じた。退席の際、家康は席を立って見送った。

27日 二条城で舞楽が演じられた。満歳楽、延喜楽、陵王、納曾利、太平楽、狛鉾、散手、抜頭、遷城楽だった。公家たちや大小名が観賞した。

28日 増上寺観智国師が明日江戸へ向うので、家康に挨拶に来て、彦坂小刑部直通の勘気を許すように頼んだが、家康は武家の法令に口を出せないと諭した。

29日 古田織部正の茶道の師匠、木村宗僖を車の上に磔にして、京都の街を回し粟田口で殺され晒された。彼は家康が大阪へ出陣する前に、京都を焼払おうとした張本人である。

信長が殺された京都三条の本能寺は、秀吉の代で別の場所へ移され、柳水町にあった古田の別荘を以前に宗僖に与えた。今回家康はその家を没収した。(その館はすぐに呉服師の茶屋宗右衛門に与えられた)

〇三宅越後守康利に伊勢の亀山の1万石が与えられた。彼の領地の三河擧母の7千石を渡邊半蔵重綱に与えられた。(父の忠右衛門守綱と共に尾張の家臣である)

7月大

朔日 高級公家と武家をもてなす饗応として、二条城で猿楽が催された。演題は高砂、八島舞、百萬、自然居士、祝言だったという。

(*『駿府記』には、関連した興味ある記述がある。出し物はこの他にもあって、全部で能が9番あった。しかし家康の機嫌が悪くなって、7番でまで観たという。又2日の記述では、八(*矢)島で、平家は海、源氏は陸のところで、平家者が上を指し、源氏が幕を指した場面などがけしからんと、演者の金春を叱ったそうで、役者の方は大いに迷惑したとある)

5日 家康は幸若太夫義門の鵺を鑑賞した。

6日 大阪城の天守の東北の櫓の焼け跡で、金の盆と香炉、箸壺と黄金43枚、竹流金数10枚がみつかり、松平下総守が家康に献じた。家康は「これは淀殿の持ち物だから、すぐに伏見の意見を聴くように」と命じた。早速伏見の秀忠に献上すると、すべて下総守へ与えられた。

7日 林道春に命じて、貞永建武の式目に準じて武家の制令を書かせ、本多正純が諸侯に渡して守るように指令した。

(*武家諸法度:慶長20年7月発布 全13条、ここでは国立国会図書館デジタルコレクションに公開されている『史籍雑纂. 第二』に掲載されている『駿府記』の該当部分を転載させて頂いた。f8ee7e1203b32820e28fa51baef0440d4c40885e.jpg

なお、その後、この『武家諸法度』通称元和令から5度改訂が行われた。それぞれの改定点の対照表が次のサイトにある。法律が時代を経てどのように変化していくものかを示す例として非常に興味深い。元和令の最終条項にある国の責任者の人材の選び方についての条項は、2度目の改定からは姿を消している。また、役人の賄賂受け取り禁止の項目が出てくるまでにおよそ100年かかり、すぐに消えているのも面白い。

武徳編年集成 巻87 終(2017.6.25.)