巻90 元和2年正月元旦~5月晦日 家康死去

投稿日 : 2016.12.29


元和2年(1616)

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元日 駿河と江戸城では、恒例のように儀式が執り行われた。この春から初めて諸臣は、官位に応じた烏帽子狩衣、大紋を着用、無冠の御家人は烏帽子と素袍で登城した。

福釜の松平筑後守康親の長男、右京16歳が、家康から諱をもらい従5位下讃岐守康盛となった。(後の筑後守)

この日、江戸城で上州舘林の城主、榊原康勝の後継者の国丸が12歳で諱をもらい、外祖父の大須賀康高に与えた松平の称号を受け従5位下、式部大輔忠次となった。(忠次は後年、従4位下侍従となった。その子の刑部大輔政房からは、本姓の榊原へ戻った)

2日 江戸城では、夜に恒例の謡いの会が催された。左の席には松平安房守信吉、松平甲斐守忠良、牧野駿河守忠成、右には小笠原右近太夫忠政、松平丹波守康長、松平外記忠實、設楽甚三郎貞代が恒例に従って着席した。

19日 池田宮内少輔忠雄(このときは松平)が従4位下侍従になった。藤堂高次も従5位下大学頭となった。彼は和泉守高虎の子である。

21日 家康のひいきにしていた呉服屋の茶屋四郎次郎道晴が京都から駿河に来て家康に会った。家康は彼に京や大坂の事情を尋ねた。道晴は「異常はなく、商人は商売を離れて酒席や茶の会に精を出している。新鮮な鯛を柏の油で韮炒めにするとうまい」などと歓談した。(*鯛のてんぷらか、炒め物か?)

家康は榊原内記清久が久能浜でとれた鯛を献じると、さっそく料理人にそのように調理させ賞味した。その後田中の城へ出かけ、近辺で放鷹をしたが、夕方田中の城へ戻ったところで腹痛に襲われた。医者の片山興庵法印を呼んだが、留守で来られず、萬病園という薬を飲み、落合小平太道次を江戸へ行かせて病状を伝えた。しばらくして興庵が田中に来たが叱られた。

22日 夜中に落合小平太は江戸へ着いて城へ登った。秀忠は急いで病状を尋ね、彼が40里、なかでも箱根山、馬入、酒匂などの激しい川を越えて、半日で来たことを褒めて黄金と時服を与えた。

24日 家康の病状が少し回復したので、田中から駿府の城へ戻った。夜中に落合道次が江戸からもどった。(この時も12時間以内に帰ってきた)秀忠の使いの酒井備後守忠利が、江戸を発って駿河へ向かった。

2月大

朔日 秀忠は江戸を発って昼夜兼行で駿河へ向かった。

2日 夕方秀忠が駿河城へ着き、直ちに家康に対面した。家康は「70歳も過ぎて急に病気になったので会えないと思っていたが、急いできてくれるとは」というと、秀忠は思い余って涙して退席した。それからというものは、家康の病状を思い悩んで寝る時間や食事の時間も惜しんで対策を話し合ったという。大小名は招集されはしなかったが、この件を聞きつけて国に留まるわけにもいかず、徐々に駿河に集まって病状を案じた。

3日 阿部四郎五郎正之と朝比奈源六郎正重が秀忠に会って、加藤忠廣家の事情、九州の諸侯の事情の状況を報告した。これは忠廣が子供なので、去年の春から肥後の監使いとして当地へ派遣され、一昨日駿府へ帰ってきたからである。

14日 松平伊予守忠昌の賓客の宇津宮三郎左衛門朝末は、家康と秀忠に挨拶するように命じられていたが、去年の夏以来腫物を患って、今も治らないので駿河へ来られなかった。そこで見舞いとして黄金100両と米千俵が贈られた。

〇伝承では、これ以降寛永2年まで、毎年米千俵と黄金100両が贈られた。彼は翌年の正月22日の朝に亡くなった。孤児の左近はわずか2歳で越前家の陪臣となった。

29日 水野善兵衛宗勝が享年65歳で死去した。

〇京尹の板倉勝重から急ぎの連絡が来て、家康の病気が悪化する前に太政大臣を与えるのがよいという話を、密書で西三条廣橋が伝えて来たと伝えた。執事がすぐに秀忠に伝えた。

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4日 佐久間民部少輔勝次(大膳亮安次の子)が享年28歳で江戸にて死去した。

5日 家康の病状が悪化した。家康は茶阿の局(*忠輝の母)を呼んで、「上総介忠輝は優れた武将なので大坂の陣では諸将以上の活躍を期待したが、戦いに遅刻し戦わなかったのは実にけしからん」と叱責した。彼女は恥じ入って、すぐに越後へその旨を伝えた。

15日 松平石見守重綱は、大阪の陣での功績に対して5千石を追加され、領地が2万石となった。(元和8年常陸の小張から上野の烏山の城をもらった)

17日 御所で儀式があり、家康が太政大臣に昇進した。日野権大納言弘資と廣橋頭辨實勝が取り仕切った。

25日 家康は松平外記忠實を床の傍へ呼んで「お前は密かに中仙道から山城の伏見へ行って、城を援護せよ」と命じた。そこで彼はすぐに伏見へ行って、元和4年まで勤務した。

26日 水戸候の家臣の中山左助信吉が、従5位下備前守になった。

27日 家康は駿河城で天皇の命で太政大臣を命じられた。諸臣は直垂を着た。秀忠をはじめ親戚諸侯、譜代の臣がすべて参加した。

〇この日、(28日という説もある)家康は片山興庵法印を呼んで薬を調合させ、本多上野守が煎じて飲んだがすべて吐いてしまった。秀忠には前から命に係わるので薬を飲ませないようにと家康は命じていたが、秀忠が心配しているのを聴いて孝行心を止められず、やもなく飲んだが、やはり納得できないとこれ以上の養生を拒み、寝床にも妻子を呼ばず近寄れなかった。寵臣の本多佐渡守は江戸にいたが、老衰で駿河へ来ることは出来なかった。

〇ある話では、秀忠は輿庵法印宗哲に家康の養生について相談した時、法印は「正月21日に夜に痰が詰まって危機があったが、薬を飲んで24日には楽になり、田中から駿河へ戻った。その後腸内に塊があって時々痛んだ。これは寸白蟲(*回虫など寄生虫)だろうと萬病園を飲んだ。自分は萬病園が猛毒なので蓄積すると取れないので体に支障が出ると止めたが拒否された。その後秀忠は近臣を呼んで「この丸薬を数日服用したが効果がないので飲まないように」と家康にいうようにと命じたが、皆が躊躇していた。そこで秀忠は、家康にもう一度止めるように興庵から家康に進言させたが、家康は応じず、興庵は信州の諏訪へ流されてしまった。(元和4年4月14日、秀忠は興庵が家康を心配して行ったことだったことを憐れん、で諏訪から呼び戻して領地を与えた)

29日 勅使の廣橋、西西條や内務の内記などが、饗応を受けた。秀忠は上段の東の面に座り、両傳奏は中段の南面に座り、尾張の参議中将義直、遠江参議中将頼宣、水戸少将頼房は北側に控えた。献杯は、最初が秀忠、次には尾張候、廣橋兼勝、遠州候、西三条、水戸候、2回目は秀忠、遠州候、西三條、水戸候、廣橋、尾張候、3回目は秀忠、頼房朝臣、兼勝、義直、實條、頼宣だった。

秀忠の給仕は細川大内記忠利、井伊掃部頭直孝、酒井下総守忠政、鳥居井讃岐守だった。両傳奏、御三家への配膳は西尾丹後守忠永、佐々木兵部少輔義定、朽木民部少輔植綱、一尾淡路守通春、三好備中守、一色左兵衛範勝だった。永井右近太夫は家康へ「自分1人は無冠位ながら侍従や諸太夫と一緒に配膳するのはどうかと」尋ねた。すると家康は「一色は足利将軍家の流れの家柄である。諸太夫といないのは却って不釣り合いである、今無冠でもその役にあればそのままでよい」と命じた。そこで彼は烏帽子素袍で役を務めた。

朝から昼を挟んで酒宴は諸候まで至り、秀忠の盃を受けた。囃子が三番あり、高砂(観世太夫)、呉服(同三十郎)、是界(観世太夫)だったという。秀忠は両傳奏に美服30着、黄金50枚ずつを贈った。外記官務までに白銀と時服を与えた。

伊達政宗は、7日に仙台を発って今日三島に着き、駿府に詰めて病状を伺いたいと老臣へ使いを送った。

4月小 

朔日 家康は堀丹後守直寄を寝所へ呼んで、大阪の陣での功労を褒め、「自分が死んだ後に国が乱れた場合には、藤堂を秀忠の一陣とし、井伊を二陣として、お前はその間で横を守って敵を撃て、怠らないように」と厳命した。直寄は頭を下げて退席した。

2日 執事の秘密の指令で伊達政宗は、駿府の感應寺に行き、今日駿府城へ登った。家康は傍へ呼んで、遠来の見舞いを労って、あらかじめ用意していた形見の清拙の墨蹟を与えた。政宗は受け取って涙して退出した。

3日 勅使が駿河を発った。

書院番頭の水野隼人正忠清は、大阪の陣での功労によって父から受け継いだ三河の刈谷の城2万石をもらった。(元は7千石だった)

〇『東武実録』によれば、家康の病状が悪いので、諸国の大小名が皆駿河へ集まってきた。越後少将忠輝は、その時も上州藤岡の斎藤佐次右衛門という人の家で蟄居していたが、勘気を受けて立場が悪かったが、三島の蒲原まで来て、密かに何度も家康の病状を本多上野守に尋ねた。秀忠も内々に彼の意を汲んで、自由にせよと指示したので、忠輝は喜んで三島の駅まで忍んでいって滞在したという。

4日 夜に家康は、床の傍へ石川主殿頭忠総を呼んで、「自分はお前に世話になったことは忘れない。その昔、お前の外祖父で養父である日向守家成が亡くなって後、お前の実の父の大久保相模守は家成の孫の弾正に家成の家督を継がせたがり、お前を石川の家督を継ぐことを何度も辞退した。しかし、自分は考えるところがあってお前に家督を継がせた。これからも秀忠によく仕えてくれ」と遺言された。彼の叔父の大久保権右衛門忠為も、その時呼ばれて、これまでの活躍褒め、「忠継の領地美濃の大垣で新田を開発するときは秀忠に断るように。この新田に村を加えて忠為には1万石を与える。これを忘れず今後も秀忠に仕えるように」と命じられた。2人は感涙にむせんで退席した。

5日 松倉豊後守重政、桑山左衛門佐一晴、市橋下総守長勝を呼んで、夏の陣での活躍を褒め領地に5千石ずつを加えた。

別所次郎友治はある事情で西国に流浪していたが、夏の陣で手柄を上げたので許され、彼も呼ばれて、2千500石を与えられた。

植村孫七郎には、領地に大和の十市郡の中の500石を加えた。

7日 家康の娘の蒲生秀行の後室が浅野但馬守長晟に嫁いだ。これは家康の病状が毎日悪化しているので婚礼を急ぐように命じられたからである。

最近家康の病は扁鵲(*へんせき:漢の名医)でも治せないような状況だった。家康は秀忠に「天下を治めるということは、袴を着けていてはできないものだ。従わない諸侯が出てくれば自分の足で戦いに出て、仮に相手が親戚であろうとすぐに征服しなければならない。弱そうに見える敵も侮ってはならない」と諭した。

また、諸大小名の人物について秀忠に話して、「加藤左馬介嘉明は秀吉の重臣だったけれども国が三河で秀吉が生きているときも徳川についていたような人だから、今後も謀反を起こすようなことは無いだろう。非常に律儀な人なので大事にするように。しかし、もし何か徳川に対して恨みがあるようなら、それも覚悟しておくべきである」と述べた。秀忠は承知したが「左馬介は度量が狭いので間違っても謀反を起こしたりしないだろう」と述べた。家康は「それは違うぞ。例えば踊りの会を開いたとして、今様を謡う者は少数でも一番上手だから、老人でも立ち上がってと飛び跳ねるものだ。乱世では誰も強いものを選んでつくものだ、仮にその人が断っても、大衆は観ていて担ぐものだ。左馬介の度量が狭いといって油断はできない」と丁寧に言い聞かせた。

14日 (15日という説もある)家康は諸州の諸侯を呼び寄せ、「自分は齢をとり病気も重くなってもうすぐ死ぬだろう。今は秀忠が政務を執っているので、後のことは心配していない。しかし、彼の政治が間違うようなことがあれば、皆は自分で自分の国をよく治めるように。天下は誰か一人のための天下ではない。天下は皆のための天下だ。自分はどうなっても後悔をあの世までもっていけない。皆は早く国に帰って秀忠の指示を待つように。費用は渡すから各人の領地へ帰るように」と諭した。諸侯は涙を袖で拭いて退席した。かねてから諸侯は家康が亡くなると3,5年は江戸に詰めようと思っていたが、思いがけない家康の命令で、誰も謀反を起こそうと思うような気にはなれなかったという。

〇ある話では、家康は福島左衛門太夫正則を呼んで、帰国の許しと形見として陶器の銘品を与えた。正則は涙を流して悲しんだ。そのとき家康は「秀忠に讒言をする者がいて、秀忠がお前を疑ったために長期間帰国を許さなかった。でもお前に謀反心などもともとあり得ないのを自分は知っているので、今度秀忠を諭してようやく帰国できるようにした。さっそく帰国して2,3年ゆっくりと安芸で暮らし、元気になるように」と話した。正則は頭を下げて涙を流した。更に家康は「それでも秀忠に憤慨していて国に帰ってから謀反を起こしたくなれば、好きなようにしてよい」といった。左衛門は声を上げて悲しんだ。その後で、家康は「金吾はなんていっていたか?」と本多上野守に尋ねた。上野守は「自分は秀吉時代からずっと徳川に仕えて来た。あのように家康に言われて情けなかったといっていた」と答えた。家康は「その言葉を聴きたかったから、ああいったのだ」といった。それを聴いて福島は喜んで退席した。

〇家康は重ねて秀忠に「天下の政ではいささかも不正は許されぬ」と諭し、また諸候には「秀忠のやることが間違っていれば、各人自分の国をよく治めよ。ただし、もし刃向かう者が出て参勤しないときは、尾張、遠江、水戸の3家を率いて出兵して速やかに征伐せよ。ただ、その3家の主人はまだ幼いので、秀忠は自分のためだと思って、彼らを可愛がっておくように」と命じた。また、義直、頼宣、頼房に向っては「お前たちは秀忠に仕えて、諸事をサポートし、傍にいて良く助けて秀忠の命令に従い背いてはならない」と命じた。秀忠や3人は涙を流しながら退席した。

家康は成瀬隼人正正成と安藤帯刀直次を呼んで、「お前たちを義直と頼宣を補佐させたのは自分が死んだ後よく彼らをサポートして、2人が謀反を起こさないようにするためだ。もしそんなことが起きるようなら、自分はあの世からお前たちを勘当する」と命じたという。

15日 家康は都筑久太夫を呼んで、「三池の刀で長らく斬っていない。彦坂九兵衛光正から罪人を受け取ってこの刀のキレ味を報告せよ」と命じた。そこで彼はその刀を受け取って、次の間に下がった。すると家康はまた呼び戻して「死罪の決まったものを選んで斬るように」と命じた。久太夫は早速犯罪人を光正から受けとって斬り殺し、その刀を家康へ渡して「実に良い刀とはこの刀というべきだ。手で持っていても感じず、スパッと切り下せる」と報告した。家康は上機嫌で、刀を2,3度振ってから「この刀を子孫代々守として崇めるように」と鞘に納めた。この刀は刃渡りが2尺2寸半で、「莫耶之剣摸之中屋妙傳所」と刻まれ、黒鮫赤銅鶏の目貫(*ピン)のもので、後々まで久能の社に納められている。

16日 家康は病床に秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌、松平右衛門太夫正綱、榊原内記清久を呼んで、昼夜咫尺(*しせき:そばにつく)してくれたことに礼をいった。また、内記には「この頃自分は天台宗に帰依して、天海僧正と懇意になって深く山王の神道を慕っている。そこで自分の霊が神になれるように、駿河の宇度郡久能の山は清らかな場所なので自分の遺骸を治めるように。

あの山は険しくて武田信玄の領地だった5州の内の、5カ所の重要な城の一つだったので、いつもそこが本丸のようなものだと考えて来た。

関東は徳川の関係者の領地が多いので反乱は起き難い。しかし、西の国は外様ばかりだから何が起きるかはわからない。だから、廟は西向きにするように。またここには領地800石に2千石を加えて祭主として、毎年3千石を寄進し、その他に200石を与えて僧侶4人に毎日お勤めをかかさないようにさせよ」という重要な遺言を聴かせた。

17日 太政大臣、従1位、前征夷大将軍、右近衛大将、浄和弉學院別当、源氏長者家康が75歳で死去した。(遺言は「秀忠は常に武を忘れるな」だったという)

秀忠や関係者旗本の諸将などすべての人々が悲しんだのはいうまでもない。夜に棺を久能山に送った。本多上野介正純、土井大炊頭利勝、松平右衛門太夫正綱、秋元但馬守泰朝、板倉内膳正重昌、榊原内記清久(後照久)、尾張の義直の名代の成瀬隼人正正成、遠江頼宣の名代の安藤帯刀直次、水戸の頼房の名代の中山備前守信吉などが伴って、久能山に棺を納めた。

〇世間に伝わる話では、家康の馬の舎人の井出八郎右衛門は、若者の時から家康に仕え何回かの戦では家康の馬の轡を握ってきたといういい役柄をもらって来たので、今回あの世へも伴をしたいと舎人の頭の柳助九郎に申し出たが、返事を待たずに早速自殺したという。

25日 秀忠は久能山の葬儀場へ詣でた。帰りに麓の榊原内記の自宅へ寄って、内記は食事を献じた。土井大炊頭利勝、永井信濃守尚政が同席した。秀忠は「家康は沢山家来がいる中で、自分が後継者に選ばれたので、今後は自分と疎遠にならないように」といったという。

今後の家康の廟の運営など諸事は天海と内記が相談して仕切った。

〇『榊原家傳』によれば、内記清久は、家康との縁が深いので神領3千石を支配し、祭祀を司ったが、元和3年8月28日に伊豆北条に旅行中、昼寝をしていると大権現の宣託を受けて清久から照久となった。同4年5月13日に従5位下大内記となり、6月24日には従4位下、同8年4月には榊原は清和源氏のつながり故今後は源氏を名乗るようにと命じられた。同年6月12日に参内して天皇に面会し、正保4年8月7日に享年62歳で死去した。

照久には娘が1人と5人の息子がいた。長女は一色右馬介範視に嫁いだ(これ高敦の実の母方の祖母である)、嫡男は越中守照久、二男は左馬介久重、三男は大膳久政、四男は左京久近、五男孫十郎久道という。

〇『東部実録』に、家康が死んで7日後に、「上総介忠輝は上州藤岡へ帰ってから100日の後に江戸へ参勤するように」と秀忠は命じ、忠輝は三島から藤岡へ帰った。

〇別の話では、忠輝は駿府の臨済宗の寺に住んでいたが、秀忠の命令で25日にここを出て藤岡へ戻って民家に54日間住んだという。

27日 秀忠は駿府を発った。

29日 秀忠は江戸城へ帰った。徳川家は代々浄土宗徒なので、江戸の三緑山増上寺にも家康の廟を造った。金銀の装飾が鏤められたそびえ立つような堂である。日本の国の数を表す畳66畳の広さだという。

増上寺でも、来月中旬に大法要が行われたが、それまでに諸州宗の僧侶は18日から集まり読経を命じられた。しかし、日蓮宗の僧侶は、国葬が増上寺で執り行われると決まると文句なく命に従うべきなのに、久能山に廟があるのだからそこで法要をすべきだと訴えた。

〇今月家康の執事だった本多上野介正純へ上野の佐野の邑2万石が与え、もともとの下野宇都宮と合わせて五万7千石となり、父の佐渡守正信についていた三河の高橋の士70騎を正純の与力とし、根來200人を同心とした。この給料は合わせて1万3千石余りだったという。

〇酒井雅崔嵬楽頭忠世と土井大炊頭利勝が遅れて江戸へ戻った時、家康の命によって再び御家人とされ、桜井庄之助勝成を連れて秀忠に会わせ、父が家康の重い命令を告げると、秀忠はすぐに勝成を書院番に加え、後には使い番となった。

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4日 飯尾左馬介敏宗入道平宗庵長伯が享年78歳で加賀にて死去した。この人は隠岐守信宗の子で最初は尾張の奥田の城主だったという。(長伯の子の左馬介は長氏と改名した)

〇越後少将に罰を通告するためか、または謀反の疑いがあるのではと心配したためか、秀忠は松平半四郎重利(後の内膳正、大隅守)と近藤石見守秀用を上州藤岡の忠輝の宿舎に派遣した。その前には、「家康の100日間の喪が明けてから忠輝を江戸へ出頭させる」と連絡したが、「遅すぎるので近日中に藤岡から井戸の浅草の別墅(*べっしょ、別邸)に密かに来て命を待つように」と伝え、諸将に横川の関所を警備させ、近国から江戸へ攻め込まれるようなことがあれば、江戸への要路を守るように密命を発した。

11日 銅銭の制度を発布した。元和2年5月11日 銅銭の制令.jpg

「大かけ銭、われ銭、形なし銭、ころ銭、新悪銭、なまり銭 以外の貨幣については幕府へ収めるについて選銭は許さない。金子1分は銅銭1貫文として売買すること。もし、上の6種類の銭を使った者がいる場合は糺した上で顔に焼き印を押す。以上を定める」
元和2年5月11日

「以上の制度を早急に申し渡す。悪銭が出回って、米や大豆の売買に於いて混乱が起きているので、関係部署において米や大豆を売った代金や、相場で利得を得た場合にもこの規則を守るように。高札の案文については別紙で連絡するので領内で規則を徹底するように。なお、仔細は高室金兵衛と藤川庄次郎が説明する。よろしく」
元和2年5月11日

このような文章が本多上野介、酒井備後守、土井大炊頭、安藤対馬守、松平右衛門太夫、板倉内膳正、秋元但馬守、伊丹喜之介の連著によって大小名へ送られた。

晦日 池田出雲守長常(備中守長吉の子)が、梨子打烏帽子の形の兜と鎧を秀忠からもらった。

〇家康の生前持っていた駿河と遠州の52万石あまりは、参議頼宣(後の紀伊候南龍院)が受け継ぎ、駿府に残された財産は全て尾張の義直と分配するように命じられ、本多上野守が駿府でその作業を仕切り、金銀だけは久能の倉庫に収容したという。

家康の遺言に従って、瀧川豊前守忠往を義直の家来とした。(外孫與惣右衛門直政を養子とした。元和8年からは江戸幕府に仕えさせた)

〇大関彌平治政が享年26歳で死去した。

武徳編年集成 巻90 終 (2017.6.26.)