巻91 元和2年6月7日~9月13日

投稿日 : 2017.02.06


元和2年(1616)

6月大第91.jpg

7日 老臣 本多佐渡守正信が享年79歳で死去した。この人は実戦での活躍は少なかったが、智謀に優れ非常に賢い素晴らしい家臣だった。(法諱は善徳)

10日 越後の忠輝の長臣、花井主水義雄と目付役の安西右馬允が争いを起こし、秀忠が両者を呼んで直々に裁定に応じた。

この主水の父の三九郎は家康の近習で、忠輝の義理の父の姉に嫁ぎ、やがて忠輝の家来となった。この人は口先だけで誠実さに欠ける人で、大久保長安と懇意だった。

忠輝の母(*茶阿の局)が親戚であることを幸いとして、家康の家来になることを願い、ようやく許されてそれからは次第に出世し、ある時から遠江と改めて元老にまでなった。彼の息子の主水義雄も最初は駿府で働いていたが、やがて忠輝の家来とされた。父の遠江は間もなく亡くなり、主水が後を継いだ。

一方安西右馬允は、忠輝の歩卒として採用されたが、忠輝の意向で、目付役として300石をもらっていた。

花井と安西がもめ事を起こしたのは、去年の夏、森山の駅で秀忠の3人の家来を越後の兵が軽率に殺してしまったことが、冬になって家康の耳に入り、驚いて下手人を出す様に、何度も催促したことからである。

事の発端は、山田将監の組の士と石谷縫殿介の家来の鳥見役、また富永大学の組の歩卒の3人が起こしたことである。しかし、実際は大勢の斬り合いになったので、主犯を決めかねている間に、その3人が逃げてしまった。こうなれば越後の老臣が江戸へ呼ばれて取り調べを受けるのは当然である。そのとき罪は越後の長臣が被ることになるだろう。

安西右馬允は、文右衛門の時代から越後の長臣や奉行たちの不正を知っていたので、老臣たちは「彼を生かせておくと、あとで面倒が起きるだろう。そもそも彼は秀忠の許しもなく職に就いた者だから、彼がこの事件の当事者だとして始末してから、江戸へ申し開こう」と企み、2人の刺客を決めた。

しかし、このことを安西が漏れ聞いて仰天して怒り、こうなれば花井主水の仔細をありのまま幕府へ報告して、特に忠輝が大阪の陣で戦に遅れた理由を暴こうと、越後から江戸へ密かに向かい、安西右馬允の自身の責任の申し開きをしたいと申し出た。そういう訳で秀忠は花井と対決させたわけである。

安西は次のように述べた。「自分の主人の忠輝は、去年5月5日に奈良に着いたとき、般若坂と法隆寺の間で伊達政宗の使節が茜の胴着を着て駆けつけ、伊達隊と越後隊の間隔が3里離れているので、すぐに進軍するようにと山田隼人に連絡した。隼人は早速越後の先発隊の花井主水に告げた。しかし、主水は臆病で敵を恐れていたので、忠輝へ伝えるのが遅れた。これは彼が主人を欺いた第1の事である。

次にその夜、国分から政宗の伝言が届いた。それは大阪軍が攻めてきているので進軍して戦うようにと、軍監達が政宗の先発隊の片倉へ命じ、政宗自身も国分へ行こうとしているので、早く合流して戦うようにというものだった。これを花井主水は山田将監に連絡したが、忠輝は寝ていたので起きてから伝えようとして時を逸してしまった。これを聞いた忠輝はすぐに出て戦えと、先発隊の大将の松平大隅守、山田隼人、松平出羽守清直、同筑後守信直が順に進軍しようとした。

ところが花井主水が来て、去年の冬の陣の時に使節として大阪へ行き眞田丸を攻めたが、その態度が臆病だったという噂が江戸で立ち、憤慨しつつも我慢したこともあって、今回は挽回したいと忠輝に頼んで間道を通って、先の4隊の進軍の先廻りをして忠輝の雇った溝口と村上という大将の隊に混じって、大急ぎで進軍し、ようやく忠輝は国分へ着いた。しかし、戦いはすでに終わっていた。これは彼が主人を欺いた第2の事である。

その頃、皆川老圃斎が忠輝を訪れ、眞田は今戦列を立て直している最中なので、ぜひ今戦うのがいいのではと強く勧めた。忠輝は政宗に相談すると、「仙臺の先陣は今朝から後藤と戦ってけが人も多く、いま戦いを始めても兵が非常に疲れている。特に日も暮れかかっているので夜戦は危険だ」といった。

皆川は主水に向って、「幸いなことに水野日向の大和の組が敵の後を追って戦おうとしているので、これに加勢するのがよい。この敵は撤退中だから襲えばすぐに勝てる」と諭した。しかし、主水は、政宗が戦わないという理由で承知しなかった。そして皆川が来たことを忠輝に伝えなかった。これは彼の主人を欺いた第3の事である。

翌日の7日、出陣の前に、主水は忠輝の前に来て、佐野修理の陣から浪客を引き取ってほしいとして手紙を使いの者が持ってくると報告した。忠輝は「この場に及んで何をせよというのか」といったが、主水はなんだかんだと話して時間を費やした結果、大阪城が落城してから着陣するという次第となった。これは4番目の罪である。

この失態を償うために、彼は政宗の催促を忠輝に告げなかったことだけを家康に告げたので、山田は改易されてしまった。これは彼の第5の罪である。

自分はかねてから花井らが私腹を増やしているのをよく知っているので、花井らは自分を憎んでいて、森山の駅での事件の犯人に自分を仕立てるのに好都合だと、自分に討手を送ろうとしている。自分は忠輝の為に命を棄てる役柄ではあるが、仮に自分が殺されても、結局彼らによって忠輝が滅びてしまうに違いないのが情けないのである。そこで逃げて来て訴えを起こしたのだ」と述べた。

しかし、花井は口がはるかに上手く、こと細かに申し開いたので、どちらの言い分が正しいかを決めるのが難しかった。安西は「主水は、三九郎が家康と懇意だったので、その方面の意向を知り味方になる人も多いだろうから、自然その言い分も尤もに思われるだろうが、自分は田舎の士に過ぎないので、江戸の事はよくわからない。そこで尾籠なことを訴えたくても、秀忠の前では話せない」といった。

秀忠は「何が正しいかを決めるときに遠慮することは無い。もう一度審議するときには、尾籠な話をしてもよい。ありのままに話せ」と述べて、両者は退席した。

12日 秀忠はもう一度花井と安西を呼んで言い分を聴いた。

右馬允は「この度上総介は、4人の元老、中でも主水の企みで功もないのに、6千石を増やしてもらった。しかし、彼らはそれぞれ士を1人も持たず、家の足軽を4つに山分けして自分たちの軍役として使うというのは、自分勝手も甚だしいと思う。また、以前佐野修理から忠輝へ育てるようにと送られた馬を、花井主水は忠輝に何度も頼んで受け取り、自分で乗ったうえ、新治清三郎という馭者に高額で売りつけた。この馬はやがて素晴らしい俊足の馬に成長したが、忠輝はその馬のことを知らないで、京都の本国寺で見て黄金7枚で買い、越後へ連れ帰るとき、加賀の太守の願いに応じてこの馬を譲った。

また、越後家へいつも来る呉服屋から、主水は夥しく錦の類を取り寄せて金を払わず、その上催促されるのを嫌って、大文字屋という呉服屋へ越後家の用立てをすると決めて、大文字屋から金6,700両を借りて、催促して来た呉服屋へ支払ったというのは、国中で知らない人はいない。よく調べてほしい」

さらに、「主水は淫行が激しく、ひどい話なので、ここで話せないほどだが、許しを得て話したい。実は、忠輝の身の回りの女のうち、中居となった女は密かに馬廻りの士の子をみごもった。これを隠しておいて長い休みをもらった後に、彼の妻になった。主水はそれを聴いてこの士を自殺させた。一方、自分も茶阿の局の小姓女﨟のお熊という女と密通して、子を産ませ、信州須坂の租税使に彼女を預けている」ということを述べたので、主水は忽ち降参した。

このため花井は罪を負って獄舎に入れられた。安西は忠輝の無実を申し開こうとしたことを評価されたのちに退席した。

〇この日、山城の伏見の役所で日下部兵右衛門定好が死去した。

13日 播磨の国主、従4位下行侍従兼武蔵守源朝臣利隆が享年33歳で江戸にて死去した。この人は池田参議輝政の長男で、母は中川清秀の娘である。秀忠は大炊頭と雅楽頭に香典として白銀100枚を届けさせた。また遺領は嫡子の新太郎に与えた。

〇伝えられるところでは、新太郎は元和3年9歳で、播州の領地31万石から因幡と伯耆に移り、その時祖父の輝政が亡くなって分家した叔父3人は、播州に残り、それぞれ赤穂、龍野、完栗の城主となった。新太郎は幼い時から賢くて学問好きで英才だと知られていた。元和9年元服して、大獣公から諱をもらって光政となり、正5位下侍従となった。寛永8年には従4位下になり、右少将となり、同9年には山陽の要地の備前全土と備中を授けられた。その時、備前の領主、池田庄五郎(後の松平相模守光仲)は因幡と伯耆へ移動させられた。

29日 摂津の高槻の城主、内藤紀伊守信政は伏見の城代となった。
使い番の阿部五郎正之に、徒士同心と弓の兵50人をつけて、弓卒の頭には高木九兵衛光正を間宮左衛門信盛の後任とし、砲術の同心50人の隊長となった。その後、歩卒30人を安倍彌一郎に配属された。

〇この月、諸将の軍役が定められた。

1) 500石   鉄砲1挺、槍2,3本
2) 1000石  鉄砲2挺、槍5本、弓1張、騎士1人
3) 2000石  鉄砲3挺、槍5本、弓2張、騎士3人
4) 3000石  鉄砲5挺、槍15本、弓3張、騎士4人、旗1本
5) 4000石  鉄砲6挺、槍20本、弓4張、騎士5人、旗2本
6) 5000石  鉄砲10挺、槍25本、弓5張、騎士7人、旗2本
7) 1万石    鉄砲20挺、槍50本、弓10張、騎士14人、旗3本

7月小

2日 上総介忠輝は江戸の浅草の別邸から三碌山増上寺へ入り、観智国師の許に行く許しをを秀忠に求め、了承されたことが土井大炊頭と酒井雅楽頭から連絡された。そこで忠輝は増上寺へ赴き蟄居した。

5日 秀忠の使いとして近藤石見守秀用と神尾刑部少輔守世が増上寺の塔頭の上総介忠輝の宿を訪れ、家康の遺命で越後の国と信州川中島を没収するので、伊勢の朝熊で隠居するように命じた。

その時、忠輝は「自分はその通りにするが、遠い伊勢まで行くことは無い、死なせてくれ」と述べた。両使いは、それを秀忠に伝えた。秀忠は「決して忠輝を殺してならない。家康は忠輝を懲らしめるため配流するので、すぐに朝熊へ行くように」と諭した。

忠輝は素直にこれに応じ、家康からもらった相国寺の茶入れ、信国作波の利刀は非常に重要な宝なので、幕府に納めてくれと頼んだ。しかし、これは家康からどんなことがあっても肌身離さず持つようにと言われていたので、結局大炊頭利勝に預けたという。

秀忠は忠輝の居城、越後の高田の本丸には、在番の酒井左衛門家次、二の丸は牧野駿河守忠成、堀丹後守直寄、三の丸には眞田伊豆守信幸、仙石兵部少輔好俊が引き取り守るように、忠輝の家来の野見の松平大隅守重勝の居城、三条は保科肥後守正光が守るように、山田隼人の居城長岡は諏訪出雲守頼隣が守るように、長澤の松平筑後守信勝の居城糸魚川は、溝口伯耆守宣成が守るように、また越後の内政は酒井家次が取り仕切り、使い番の佐久間河内守政實、山代宮内少輔忠久、山田十太夫重利、山本新五左衛門正成、横田甚右衛門尹松、村瀬左馬助重治を監使とした。

信州川中島、松代の花井主水の城は、小笠原右近太夫忠政が引き受け、監使は安倍四郎五郎正之が命じられ、各黒印を受けた。元和2年7月5日条々.jpg

11日 上の面々に老臣から命令が下された。

12日 上総介忠輝は江戸を発った。家来の柾木左京、千本掃部、久世左近、長谷川権左衛門、近藤十郎左衛門、富永九兵衛、戸田采女、山田大蔵、明石志摩介、戸田角彌、河村長左衛門、浅野左内など22人、歩卒が少々が随行した。道中の警護は近藤石見守だった。

14日 忠輝は相模の小田原の宿に着いて、全員が断髪した。松平大隅守重勝は近蔵の家来だったので改易はされず、一旦越後へ行って土地の図帳などを目付に手渡し、城を開け渡して帰ってくるように命じられた。そして結局翌年下総の関宿2万6千石をもらい、後には遠州横須賀に移った。

〇この日、上州西方の領主、藤田能登守信吉は、信州贄(*にえ)川と屋護原の間の鳥居峠の麓の奈良井にて享年59歳で死去した。

この人は去年の冬に信州の諏訪の温泉に3-7日入浴したが、気腫疽に苦しみ加えて心臓病もあり夏まで床についていたが、ようやく京都へ行っていい医者にかかろうと、中山道を旅している途中で死亡した。信吉には実子の無之吉は、江藤左衛門定景を嗣子にしたいとずっと老中にまで願い出ていたが、結局領地1万2千石と妻に慶長以来もらっていた3千石をすべて没収され、家は断絶した。

15日 小野次郎右衛門忠明は、最初御子神典膳と号して関東の住人の伊藤一刀齋の剣術をただ一人伝えている人で、60程の州で武者修行して、その名は全国に知られていた。彼は大番衛に加えられ、信州上田の戦いでは、太刀打ちして先登則7本槍の1人となり、武蔵の膝折の村で命をかけて悪党どもを退治して非常に有名になった。秀忠はその術を習って奥義極めた。土井大炊頭や青山伯耆守をはじめ大勢が、彼の弟子であった。

彼は豪放な性格で、他人にはばかることなくものをいう人だった。ある日、大阪の陣の話になり、彼は「あの時、裏側の戦場で敗退した時、自分と同じ小道具奉行が逃げた」といった。中山勘解由昭守は伊藤新十郎の嫁いだ先の家なので、聴き捨てならないとそのことを新十郎に伝え、あの時敗北したのはどっちだったのか?と尋ねた。新十郎は驚いて怒り、山角又兵衛正勝、神谷與七郎清正、石川市右衛門に申し立て、このような酷い讒言を受けて放置すると仲間が皆弱虫に思われてしまうので、次郎右衛門忠明と秀忠の前で対決させるべきだと老中へ訴状を送った。

すると、もう終わったことだし、時も経っているので今更審議をすることもない。家康は常々江戸の成敗は厳密すぎるので、すこし緩くするようにと命じていて、秀忠もそれを守って来たので、この件を申し出ることは難しいともみ消そうとした。

彼らは非常に不満だった。ちょうど城へ出仕する日だった今日、何とかその訴状を秀忠に申し出て御台所で審査してほしいとして、もう一度石川市右衛門と次郎右衛門が論戦した。ただ、どちらも証拠がなく、忠明は雄弁に抗弁したので、石川の旗色が悪くなった。その時、山角又兵衛が進み出て「お互い証拠がない議論は意味がない。次郎右衛門が負けるのは証拠がある。榊原遠江守が亡くなっているが、その家来に尋ねられるのがよい」と述べたという。

秀忠はすぐに榊原の家来を呼び寄せると、使い番の寺島斧之丞が出て来て、「猪の指し物で黒馬に乗った騎士が遠江の陣へ乗り込んで来た。そこで咎めると旗本の諸道具奉行だと答えた」という。そうなるとその人は次郎右衛門である。どうしてかというと、忠明の子の又助忠方(後には次郎右衛門を名乗る)は,大阪に出陣する前に、非常に素晴らしい大きな馬を買った。5月6日の夜、父に見せると「このような馬は気性が荒くて乗ると御せないままに深入りして命を落とすものだ」といって、忠明は日ごろ乗り慣れた馬を又助に与え、沛艾(*はいがい)の馬(*あばれうま)に乗り換えて、7日の戦場へ出かけた。するとやはり何度も飛び出したのを土井大炊頭もかねがね知っていたというので、利勝が証人となった。

しかし、山角又兵衛は尚も申し開こうとすると、秀忠は席を立った。山角はしきりになんとか話してもう少し勝敗を聴かせてほしいと述べた。しかし結局、双方は閉門となり、中でも石川市右衛門は改易となった。

〇『慶長日記』には上のように書かれている。『昭代実録』には、最初老臣に訴えたけれども無視され、彼らは怒って秀忠が神田橋を通る時に訴状を提示すると、秀忠は直接裁定を下して双方は閉門となった。元和9年7月15日に赦されたという。

〇この頃、天海僧正は、京都へ登るについて幕府の歩卒1隊が道中の警備にあたった。僧正は上京して家康に神号を天皇から与えるように内々に打診すると、すぐに天皇の許可がおりたという密命が下り、さっそく所司代に連絡して江戸へ知らせたという。

久能山の廟、拝殿、楼門、花表などを、駿河参議中将頼宣が建設の段取りをした。

20日 忠輝は伊勢の朝熊へ到着し、金剛證寺に蟄居した。この寺は魚や肉を食べることが禁じられている場所なので、近藤石見守は江戸へ帰り申し出て、結局忠輝は麓の妙高菴に移された。

〇高敦が調べたところによれば、翌年の4月から九鬼長門守守隆に命じて、妙高菴を厳重に警護させ、翌年3月5日には九鬼と関東の監使の中山勘解由に道中を警護させて忠輝は飛騨へ配流された。その後時を経て忠輝は、信州の諏訪へ移され、天和3年(*1683)7月3日に92歳で死去した。

27日 花井主水は、常陸の笠間へ流された。安西右馬允は家来でもないのに忠輝の危機を避けようとして訴えたことが評価され、越後の以前の領地をもらい、御家人となった。

〇この月、酒井備後守忠利は、武蔵の7千石を、本多三彌正重は下総の相馬に領地をもらった。

〇横山甚左衛門正次が初めて秀忠に面会した。

〇年貢米はこの秋から3斗7升を1俵と定め、欠米(*かんまい)にも1升を加えて納入するように、また銭による納税は100文あたり3文の手数料を取り、公領も私領にも適応するように元老から催促した。

8月大

12日 大番頭の水野備後守分長に近江の2千石を加え、合せて1万2千石となった。

20日 イギリスの商船が長崎に入港したので、交易規則を下した。元和2年8月20日 長崎.jpg(規則の概略は、交易は平戸に限ること、積み荷の目録を提出すること、押し売りや狼藉を禁止すること、病死者の荷物を管理すること、船内の商人に対する刑罰は船主に従って自国の法律に任せるなどである)

〇この日 会津の監使が江戸へ帰還した。(そのほかの諸国の巡察使も順に帰還した)

〇酒井雅楽頭忠世に上州大胡、伊勢崎の3万3千石を加えた。

〇松平豊前守勝隆と安部左馬介正吉が大番頭となる。新藤五左衛門が砲術の隊長となる。

〇横山左門輿知(後の土佐守)領地5千石をもらった。これは加賀の元老山城守長知の次男で、主人の証人として江戸に住んでいたところだった。

〇老中から関東の関所(*船着き場)の通行則を通知した。元和2年8月関東関所令.jpg

白井渡、厩橋、五科、一本木、葛和田、河殿、古河、房川渡、栗橋、関宿、七里渡、府川、神崎、小美川、松戸、市川について、

1)これらの船着き場以外の往来を禁ずる。
2)女性、怪我人、その他不審者はどの船着き場でも拘留し、江戸の許可を得ること。ただし、酒井備後守の通行手形を持つものは除く。
3)隣卿へ陸路行くものは前の渡りを渡っていること。女性、怪我人、不審者は、その渡りの役人や代官の通行手形を持つこと。
4)酒井備後守の通行手形を持つものでも、これらの渡り以外から来た女性、怪我人、不審者については一切通行させない。
5)江戸へ向かう者については検査をしない。

以上に反した者は厳罰に処す。
元和2年8月 奉行

〇家康に仕えていた家来たちが、駿河城から江戸へ移るように命じられた。彼等の宅地を与えるために田安門の下北西から清水門の辺りに流れている江戸川を、本郷台を掘り通して浅草川へ流すことを審議させた。

吉祥寺の前を掘り通して柳原筋から浅草川へ水を落とし、川の土を使って土地を造成し、神田明神を湯島の辺りへ移転させ、新川から東南に屋敷割をした。駿河からの移転先となったので、その造成地を駿河台と呼ぶことにした。

また鷹匠町、猿楽町、台所町などと造成地に命名してこれを宅地として与えた。(阿部四郎五郎正之は川中島の処理をしてから江戸へ帰り、新川の奉行として今月から勤務した)

〇ある話では、神田明神の社は大御台所が建立し、幡随院は下谷へ、本妙寺は丸山へ、その他小石川あたりの神社や仏閣は、全て遠方へ移転させられたという。

9月小

13日 秀忠の次男、国丸(後の大納言忠長)が甲斐の国に封じられた。都留郡谷村の城主、鳥居土佐守成次(彦右衛門元忠の子)が元老として仕え、(加恩があって全体で3万5千石)、朝倉筑後守宣正も成次と同列で領地を増やされ2万5千石となった。また大御番から54名が国丸の近臣となった。

松平作右衛門、本多四郎左衛門、筧十左衛門、河野四郎左衛門、細井金太夫、松平忠兵衛、戸田藤右エ門、戸田六兵衛、小林佐次兵衛、桜井市右衛門、伊丹彌五右衛門、小笠原輿左衛門、勝屋勘左衛門、朝比奈六左衛門、飯河善左衛門、鈴木権兵衛、雨宮半右衛門、米津才兵衛、高尾勘右衛門、森川半右衛門、森川善太夫、森川介右衛門、三枝清右衛門、桑島惣十郎、富永彌次右衛門、秋山太郎兵衛、飯塚半次郎、大久保茂左衛門、三宅小十郎、坂本権十郎、大井長右衛門、青木八兵衛、牛込三左衛門、逸見市之亟、平林勘次郎、江原九郎右衛門、高木彌右衛門、松平傳六郎、駒井次兵衛、大岡求馬介、加藤五郎左衛門、伊藤源兵衛、長塩七右衛門、飯室與兵衛、河合善兵衛、小林吉太夫、都筑三四郎、太田甚九郎、朝比奈吉兵衛、筒井七郎左衛門、秋山市左衛門。

武河衆(以下の者は通常は甲府の城番であるが、彼らは全て国丸の家来とされた):青木輿兵衛、山寺甚左衛門、蔦木新八郎、山高孫兵衛、米倉左太夫、米倉嘉左衛門、入戸野又兵衛、曲淵縫殿左衛門

津金衆:小尾彦左衛門、津金又十郎

七九衆:水原内匠、花村忠兵衛、内川七左衛門、山田六右衛門

以上の者は太刀目録をもって国丸に拝謁した。この武河衆は、甲州を守っている者である。武蔵の鉢形に住んでいる士も家来になるはずだったが、渋ったので免除された。ただ、山川三左衛門1人が、国丸の家来となったという。

武徳編年集成 91 終(2017.6.27.)