巻92 元和2年9月15日~12月26日
投稿日 : 2017.02.10
元和2年(1616)
9月小
15日 大猷公(この時はまだ竹千代)の家来として、酒井備後守忠利、青山伯耆守忠俊、内藤若狭守清次をあてた。また富士牧(*巻)狩十番切座席の務めを兼ねさせ、書院番と花畑番から61人を選んで4組にして付け、伴頭を1人ずつ付かせた。1番の伴頭は松平清三郎(後自殺して稲垣藤七郎が後任となった)、2番は戸塚作右衛門(病死して中根傳三郎が後任となった)、3番は松平友之介、4番は鵜殿新三郎だったという。
酒井五郎助(後因幡守)、内藤久五郎、渡邊兵九郎(後吉左衛門)、早川五郎兵衛。本多山三郎(後四郎兵衛)、坪内久太郎、遠山久四郎(後清右衛門)、浅羽孫三郎、成瀬長四郎(後母兵衛)、柴山甚太郎、菅沼宗次郎(後次郎右衛門)、三枝新九郎、稲垣藤七郎(後若狭守)、小澤権之丞、鯰江甚右衛門(後姓宮城氏、越前守)、神尾内記(後備前守)、市岡太左衛門、渥美九郎兵衛(後九兵衛)、菅沼作十郎、三枝宗四郎(後土佐守)、伊勢作十郎、井上清兵衛(後筑後守)、植村権兵衛、秋山十右衛門(後修理亮)、安藤傳十郎、高田藤五郎(後庄右衛門)、永田四郎三郎、倉橋三五郎(後長右衛門)、玉蟲助太夫、門奈傳八郎(後助右衛門)、加藤勘右衛門、土屋左門(忠兵衛)、伊達庄兵衛、牧太兵衛(後助右衛門)、水野傳蔵、戸田数馬(後宗右衛門)、中野吉兵衛、多田三吉(後所左衛門)、小川惣三郎、戸田藤五郎(後備前守)、田村介太郎、保々長兵衛(後石見守)、戸田又久、宮崎左馬介(後備前守)、山角藤兵衛、松平采女(後五左衛門)河田助兵衛、佐野右衛門入(後外記)、大久保右衛門入、曽我彌五八、大野平兵衛、梶川小十郎(後平左衛門)、菅谷左衛門、渡邊忠四郎、河村善七郎、中根傳七郎(後大隅守)、朝比奈彌一郎
以上、番頭なし伴頭とともに、合わせて61人だった。(富士牧狩、曽我十番切の江座敷に勤務して護った)
19日 松井與兵衛宗直が享年79歳で死去した。
28日 三河時代からの家来の小栗又一忠政が享年62歳で死去した。
29日 老臣は掟を告知した。(喧嘩や口論などが起きた場合の規則)
〇山田清太夫重次、門奈左衛門宗勝が伏見の町の司となった。(元和7年からは、この2人は駿府の町の司となった)
10月大
3日 煙草禁止令。煙草を畑で生産する者は牢に入れる。その土地の代官は罰金5貫文を徴収する。村の惣百姓は罰金1人当たり100文を徴収する。
道路と橋は補修せよ。もし怠ると代官は罰金5貫文を収めるように布告せよ、と秀忠が命じた。
6日 清水平左衛門正親が死去した。嗣子の恒豊が家督を継いで又平左衛門を名乗り、後年大御番組頭となった。この恒豊の祖父の山名右衛門佐堯熈は、秀頼に仕え2千石を領して、大阪城落城以後は子の與五郎堯政と共に一族は禅高の許で蟄居していた。(恒豊は堯政の子である。清水は一族でその家を相続した)
15日 上総介忠輝から没収された地が諸将に宛がわれた。
越後高田城10万石 酒井左衛門尉家次(元は上州高崎7万石)
同長岡城 8万石 堀丹後守直寄(元は信州飯山4万石)
同長嶺 5万石 牧野駿河守忠成(元は上野 天明)
同三條城 4万3千石 市橋下総守長勝(元は伯耆矢橋3万5千石、元和3年8月に三條へ移動ともいう)
同刈羽 1万石 稲垣平左衛門重辰(後摂津守)
信州松代城12万石 松平伊予守忠昌
同飯山城 3万石 佐久間備前守安政
同長沼城 1万3千石 同大膳亮安次(後勝之)
播州明石城10万石 小笠原右近太夫忠眞(元は信州松本8万石)
日向肥田 6万石 石川主殿頭忠総(元は美濃大垣5万石)
美濃大垣城 5万石 松平甲斐守忠良(元は下総関宿4万石)
上州高崎城 5万石 松平丹波守康長(元は常陸笠間3万石)
肥前島原(改築原城)
6万石 松倉豊後守重政(元は和泉五条 4万5千石)
下総河内領、
常陸下間庄 3万石 松平越中守定網(元は下野山川1万5千石)
25日 織田辰之助信則が従5位下刑部大輔となった。この人は故上野介信包入道老犬の二男である。
26日 天海僧正は、家康の遺言があったとして、久能山の廟を上野の日光山に移すため、藤堂和泉守高虎と本多上野介正純を奉行とし、その副使として日野根織部正吉明、本多藤四郎正盛、山代宮内少輔忠久、糟谷新三郎に命じた。また手伝いとして、日光の近境の大小名は人夫を連れて山に登った。建物の配置などは天海が仕切り、来年の4月までに完成するように命じた。諸民は命令されたわけではないが、大勢が集まり、大工も大勢集まって昼夜兼行で建設を続けた。阿部四郎五郎正之は材木を陸路、水路から運ぶ作業を仕切った。
11月大
7日 佐久間河内守政實が享年56歳で死去した。
15日 恒間源兵衛資久が初めて秀忠に拝謁した。
19日 美濃の揖斐の城主、西尾豊後守光教が享年73歳で死去した。跡継がいなかったので外孫の3人に家督を配分した。
29日 織田内府信雄入道常眞の子の、勝法師信良が従5位下侍従兼兵部大輔となった。
12月小
11日 別所孫次郎友治は、新宅の風呂に初めて入るというので、伊東掃部介祐時と桑山左衛門一晴を招待して宴を催した。桑山は、その夕叔父の佐久間大膳亮勝之の娘の婚礼があるので、夕方に帰ろうとしたが、孫次郎はしきりに引き留めて、まだ婚礼までには時間があると酒を勧めたので、伊東と別所は泥酔した。一方、桑山は謹んでいたので正気だった。
別所友治は「今年は堀丹後守と松倉豊後守は、大阪の戦いの恩賞で新しい領地に移り石高も増してもらった。松倉のような弱い奴に2度も4万石を増やしてもらうのなら俺なんぞ10万石はもらっていいぞ」と怒鳴った。伊東掃部介は松倉の親友だったので、憤慨して「友治は酔ってこんな無礼な悪態をつくなど、豊後守と仲の良い自分に対して非礼だと思うが、この酒の席の狂言だから黙ってやるが、今後そのようなことをいったら許さないぞ」といった。
別所は笑って「臆病者の第一人者の松倉と友達なら、あんたも大したことは無い、類は類を呼ぶというし、お前も豊後守と同じく臆病者にちがいなかろう」といった。伊東は怒って別所の頭を扇子で打った。すると、孫三郎は9寸9分の小脇差を抜いて掃部介に切りつけた。桑山は間に入って孫三郎を制止したが、酔っていた小童が小脇差を抜いて掃部介を後ろから斬った。左衛門佐がこの小童を取り押さえようとすると、孫三郎の子の孫之丞と家人が数10人出て来て。伊東を斬り殺してしまった。
掃部介の従者が玄関から乱入しようとすると、左衛門佐は指に傷を負いながら駆けて来て、「騒ぎは終わった、伊東は無事だ。お前たちが乗り込むと、主人の命が危なくなる」と止めた。佐久間大膳亮勝之がすぐに駆けつけ左衛門佐に一部始終を聴き、奉行の家に行って報告した。この事件はすぐに秀忠に伝わり、その夜、大膳亮に使い番の野々山四郎右衛門を付けて検使いとして、別所は殺された。ただ、別所と伊東の子は追放され、桑山は蟄居させられた。伊東の一族は桑山も別所と一緒になって、伊東を斬らせたと訴えたが、嘘なので桑山は罪を免れた。掃部介は金森法印素玄の実子で伊東氏を継いでいた。
18日 上野の烏山の城主、成田左衛門佐長忠が死去した。その長男、新十郎長邦は少し前に亡くなり、嫡孫として新五郎房長がいたが、まだ2歳で長忠の二男、左馬介氏宗が家督することになり、烏山領地をもらい、房長が15歳になるまで彼を助けて、執務をするように命じられた。
〇高敦の調べによると、元和8年に左馬介氏宗が早世し、ある事情からその遺領は没収された。その時新五郎房長が嘆願したが受け入れられず、結局成田家は絶えた。
26日 仙臺の参議政宗の子、越前守忠宗が侍従となった。
京極丹後守高知の長男高廣は、由緒ある家系故諱をもらって忠高と改名し、従5位下侍従となった。
〇この日、尾張の義直は、4月から一旦自領に帰国し、また駿府の久能山の家康の廟へ参詣した後、江戸へ来たが、屋敷がないので、故本多美濃守忠政の館を借りて、しばらくそこに住んだ。
駿河の頼宣は、家康が存命中に駿河と遠江に52万石をもらったので、駿河の府中を居城として、江戸に来たが、やはり屋敷がなく西丸の下の家を借りてしばらく過ごしたが、ようやく2人へ北の丸に宅地をもらったので家を建ててそこに移れた。
〇この年、北条出羽守氏重は、相模の甘縄の城から遠州久野の村をもらい、石高は元のまま保持できたという。
木下宮内少輔利房は備中賀陽郡足守の2万5千石をもらい、石高も増やされた。
〇永井信濃守尚政は、去年の夏の戦功で武蔵の菖蒲と近江滋賀郡で5千石をもらった。(元は千石)
〇前田大和守利孝は上野の七日市場の1万石をもらった。
〇久永源兵衛重頼と坂部三十郎廣勝にそれぞれ2千石が与えられた。その他、千石は水野三左衛門元網(後備後守)、700石を酒井大膳勝吉、500石を喜多見五郎左衛門勝重に加恩された。
〇使い番の兼松源兵衛正成は、尾張の義直の家来とした。その父の修理亮正吉はもともと義直に仕えていたので、正吉の家督は源兵衛が相続し、その時もらった700石は源兵衛の長男又四郎正長に譲り、正長を大猷公に仕えさせたという。
〇松平隠岐守定勝の庶子定房(後美濃守)、新庄内匠直次、柳生七郎三厳(後十兵衛)、北条新蔵氏長(本氏は九島、26歳、北条新左衛門繁廣の孤児)、土屋辰之助数正(23歳、後の但馬守)などが、子供だったが初めて秀忠に謁見した。
〇宗義成が江戸城を訪れた。亡父の義智の職を継いで対馬守を命じられ、従4位下侍従となった。
〇新庄越前守直定が奏者番となった。
〇谷出羽守衛友が御咄衆となる。
三宅惣右衛門康信(惣右衛門康貞の子)、佐久間佐兵衛勝年(大膳亮の子)、関兵部氏守頼(長門守の養子)が従5位下となった。康信は越後守になり、勝年は信濃守、氏頼は安芸守となった。
〇安倍彌一郎信盛は、書院番の組頭となり歩卒の頭を兼ねた。松平志摩守重成は歩卒の頭となり、大野小三郎長信(後豊前守)は納戸頭となった。
〇筧勘右衛門元成が享年61歳で死去した。元成は最初金平といって、長久手の戦いで活躍した。この人は、廣忠の密命によって松平三左衛門忠倫を暗殺した、平三郎重成(後勘左衛門)の嫡子である。
武徳編年集成 巻92 終(2017.6.27.)
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