高尾信福と源朝臣直義よる木活字版の序文(2024-11更新)
投稿日 : 2023.08.05
筆者の所蔵する木活字版には、3人の序文が記されています。
まず冒頭には、天明6年(1786)正月に記したという高尾信福による序文と同年夏に記された源朝臣直義の序文があります。そして続いて原本にある元文5年(1740)9月に記された太宰純の序文が続いて印刷されています。ここでは木活字版にある前の二人の序文を示します。
〇高尾信福の序文
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活版武德編年集成序
世美氏之編年之作勉吴哉
國初七十乂五年之
神蹟條貫不紊昭昭乎如示諸斯若世以寫本行泯淆亥
豕置而不問也其齟齬姓氏或差池歲月甚至脫數何則
殆不可讀焉友人田丸不屈憂之憾之因刻活字也自立
志之始寢食俱忘夜以繼日勵精所致其功漸成尙且質
咨四方搜索數本參互考訂可謂動而勞也但其職之不
閑而耑心於此遂成此事豈可不嘉尚之
今春既印拾餘本就余需之序余謝日信福不敏素不嫺文辭奚以能之
况職劇務煩何遑讓他予其外求而可不屈曰兪知子之必辭也
而總角之舊莫厚乎子知我之故亦莫如乎子苟
將有所為則不謀之子而其就求之爲且今所乞唯得誌
區區之志而貽之將來足焉耳假令世之文人句琢字彫
於我何益其友愛之言無所措辭乃忘蕪陋強綴數語應
其需也云呼不屈氏之爲世美氏之忠臣而實有小補于
國家哉夫 天明六年丙午春正月
御膳高尾信福謹識
概略
徳川の世の初期75年余りの編年史
世美氏の労作
この書物では歴史が年代を追って整合性を持って明確に記述されていて神業のようである。
しかし、時がたって繰り返し写本が造られるうちに、人名や称号の間違い年月の欠落などによって、記録が不正確になっている。にもかかわらず誰も気にせず放置されてきた結果、読むに堪えないものになっている。
自分の友人の田丸がその状況を憂慮して、活字本を作る決意をした。彼は寝食を忘れ昼夜を分かたず精力的に取り組み、次第にその努力が実を結んだ。彼は分散している写本を調査し、内容を比較検討して誤りを糺したのだ。これは大変骨の折れることである。
この春すでに10部ほど刷ったところで、田丸は自分に序文を求めた。自分は文章がうまくないし、とても忙しく他の事まで手が回らないと断った。
しかし、それでも彼は「昔から気心が分かり合った仲じゃないか。君がなにか必要なときには頼まれなくても私がやる。今頼んでいるのは、一言書いてほしいというだけだ。その詞を残したいんだよ。世の文人の美辞麗句なんて私には何の意味もないよ」と。
彼の心のこもった言葉に返す言葉もなく、結局稚拙ながら数行を綴って応じた。しかし、思えば、自分は世美氏のために小さな貢献をしたことになった。
天明6年春、正月 御膳監 高尾信福 記す
〇源 直義の序文
テキスト
武德編年集成序
凡創業垂綂之大非解六合之紛安億兆之生而何也夫
積功成績之久非躬嘗屯坎壽垂百歲而何也若我
神祖方蒙昧之時任水火之仁承命于天興廢繼絶克残
棄殺海內風靡岳牧臣服未肯釋甲夙夜乾乾於是乎徳
光被四表威武鎭六合矣上天之親有德載祀三百德河
蕩蕩瑞松繁茂抑起于天文成于元和也厥履歴之永勲
勞之久假有史之左右焉亦恐東壁移野西園易地况野
史百家之釆結未甞無脫漏也斯編也木村高敦先唱田
丸直職後和而後乃今創垂之大積成之功條理得序金
石和暢使後死者抃舞於千歲之下矣余苟辱於
神祖之嫡綂列於
宗室之末屬而深欽慕厥神武御神州昭昭乎東方如日
之斯揚而庶幾讀此編者慄慄危懼終世弗失墜厥武德
也日感二子者之忠誠矣如夫一二有論則太宰純盡矣
吾復何言 天明丙午夏 源朝臣直義
概略
武德編年集成序
家康が天下を目指してその目的を達成し、全国を安定させて統治して数多くの人の命を守れたのは何故か。
また、それを幾多の困難を乗り越えて百年以上も続けられたのは何故か。偶然ではないはずである。
それは、家康が幼いときに天明を受け、水火を制する仁愛の心で物事のよし悪しを判断して、絶望的な状況を排除し全国各地を支配しながら民衆を服従させる戦いを昼夜を分かたず懸命に続けてあきらめなかったからだろう。
その結果、彼の考えが全国に広がり、その武徳が天下を治め、世の中を安定させた。徳川は徳をもって祭祀を続け神仏の庇護を得た結果、天文から天和へと徳川はとうとうと流れ、緑は豊かに繁った。彼の業績と勲功は長く記憶され、その努力は語り継がれ歴史に刻まれる。
しかし、私はそれが長く語り継がれることは難しいのではと危惧している。東壁が崩れたり、西園も変わたりするように、多くの書物も書かれるにしたがって必ず欠落する部分が生じるものだ。この原本は木村高敦が編纂したものであるが、田丸直職が多くの写本を校定した結果、初めてこの活版が整備され、百年後にも人々に讃えられる様にできた。
徳川の末裔でなくとも先祖を恥じないものであれば、家康の武徳を深く敬い、日本を守って東から上る太陽のように輝き続けられるように生涯をかけて徳を守り続けてほしいと自分は望んでいる。
自分は高敦と直職両氏の家康に対する忠誠に敬意を表する。
それについては太宰純が十分に述べているので、自分にそれ以上を述べる言葉はない。
天明6年(1786年)夏 源朝臣直義
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