木村高敦の墓碑(太宰純)(2024-11更新)
投稿日 : 2023.08.05
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故内給事毅齋木村君墓碑
君諱高敦字世美號毅齋武州豐島人也本姓根岸氏親
父營繕官暫軒翁諱直利之第三子也親母一色氏以延
寶八年庚申十二月二日生君元祿十五年壬午太衛騎
郎木村翁義久無子乞君爲嗣因以其妹妻之寳永四年
丁亥木村翁歿君嗣爲後享保四年巳亥為大衛騎郎九
年甲辰為新椼騎十八年癸丑擢爲 世子宫大官奉
職克敬寬保元年辛酉遷為。 世子宮內給事命六品君
先世未有位六品者君乃如是人以為寵君親父暫軒翁
好紀載因稍稍纂 神袓事實君童齕齔亦好之及長讀其
父書始覺世之記載者多雜俗說殆失其實慨然志於編
纂暫曹軒翁嘗着四戰紀聞三卷四戰謂姉川三方原長篠
長湫四處之役 神祖之大事也君從加訂正又纂武德
安民記三十一卷錄關原之役 神祖受命之事又記
神祖時人美言偉行著武家闊談二十七卷又更博訪旁
搜得 神祖一世之事實而著武德新年集成九十三卷
書成而進之於 朝賜時衣二領以賞之時辛酉夏也尋
又進四戰紀聞皆副 上意云君 又博綜藝最善劍
騎馬自諸郎 朝士以下從學者無慮數百人然君之所
好在犯載雖直宿官曹必以書策紙筆自隨事小暇且
抄且筆其退食在私家夜獨坐一室篝燈烱烱事於撰著
倦則以一睡而覺則興復執筆家人莫知其臥起云其精
苦如此為內舲事葳餘壬戌秋忽寢疾不起冬十一月一
日丙辰終於家年六十三無子前乞養浅香氏子以爲嗣
名高章亦習擊劍騎馬對熟自君為內官而後命高章代
巳教授門人君臨終調高章曰吾受親母之恩殊深願從
其枢於地下吾死葬於其塋側故葬於芝浦原泉岳寺親
母一色氏全側太宰純前以君請序編年集成於是高章
使人致書見狀先君子遺命以乞墓銘 純旣受君知愛
不敗揮其請遂爲之銘銘日
喝呼世美 生于羽林 孤兒孽子 克操厥心
出爲人後 保祿守祀 奉公無私 居家亦理
紀載是好 文史自娛 國初之事 大小必書
成卷成帙 藏于秘府 龍門如作 其將有取
嗚呼世美 材官之傑 博綜衆技 武術最绝
乃如之人 埋骨山原 不朽惟業 終榮其門
信陽太宰純
内容の概略
故 内給事 毅齋 木村君 墓碑
君の名は高敦、字は世美、号は毅齋であり、武州豊島(江戸)の人である。元々は根岸氏の出身で、父は暫軒翁、名は直利、その第三子である。母方は一色氏で、延寶八年(1680)十二月二日に生まれた。
元禄十五(1702)年、壬午の年に太衛騎郎(大番組士)の木村翁義久に息子が無かったため君を養子として迎え、その妹を妻にした。寳永四年の丁亥、木村翁の死去によって君が後を継いだ。享保四年(1719)には大衛騎郎(大番組士)となり、享保九年(1724)には新椶騎士(新番組士)となり、享保十八年(1733)には江戸城西丸に登り、寛保元年(1741)には西丸内給事に任命されて六品に昇進した。君の先祖には六品(従六位)の位の人がいなかったので重んじられた。
君の父、暫軒翁は歴史を好み、徳川家康の歴史を少しずつ編纂し始めた。君も幼い頃から家康に興味を持っていて、成長するにつれて父の著書を読むようになると、世の中に流布している家康の事績の記録には多くの俗説が混じっていて、実際の事実が失われていることに気づき、事実に基づいた家康の一代記を編纂したいと強く思うようになった。
暫軒翁は『四戦紀聞』3巻を残しており、君はこれを校訂し、さらに『武徳安民記』三十一巻を編纂し、関ヶ原の戦いや、家康が命を受けた事績を記録した。また、家康の時代の人々の美言や偉行を述べた『武家闊談』二十七巻も編纂し、さらに博覧して家康の生涯の事実を集めた『武徳編年集成』九十三巻を記し、将軍吉宗に献上した。その際、衣服二領を賜わった。寛保元年(1741)の夏、君はまた『四戦紀聞』を将軍吉宗の命によって献上した。
君は学問を広く学び、剣術や馬術に優れ、多くの幕府の士や学者たちが君の門弟となった。君が好んだことは文筆であり、常にノートを持ち歩き、暇があれば手を動かしていた。仕事を終えると、私宅で夜一人篝火の下で著作に取り組み、疲れれば一眠りし、目が覚めればまた筆を取るという具合で、家人はその寝起きを知らなかった。
壬戌(1742)の秋、突然病に伏せ、回復することなく、冬の十一月一日、丙辰に六十三歳で自宅で亡くなった。
息子がいなかったため、養子として浅香氏の子を迎え入れ、高章と名づけて剣術や馬術を学ばせ、君が引退した後には自分に代わって高章に門弟を教えさせた。
君は臨終の際、高章に「私は母親には非常に世話になったので、死後もその側に葬られたい」と述べた。それで君は芝浦原の泉岳寺の母方一色氏の墓の側に埋葬された。高章は君の遺志を受けて太宰純に武徳編年集成の序文を依頼し、合わせて墓銘を依頼した。純はかねてから君への想いを決して失なっていなかったので、その依頼に応じて銘を記した。
『ああ世美、武家に生まれ、孤高の人であった。私心を律し、他者のために出仕し、世のために尽くし、家庭においても理を重んじ、文史を好み自ら楽しんだ。家康の時代の事柄を大小問わずもれなく記録した長い歴史書を執筆して幕府に献上した、この書物が世に受け入れられれば、将来必ず名著になるはずだ。ああ、世美よ。君は傑出した役人であり、多くの才能に恵まれていた。中でも武術は最も卓越していた。このような君は、山原に埋められても(*亡き後も)その業績は不朽であり、家門を栄えさせるだろう』
信陽(信州)にて太宰純記す
筆者注:一色家についてはこちら。
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