はじめに
投稿日 : 2024.10.13
この拙文は1900年(明治33年)12月25日に出版された育児書、『育児の心得』を読みやすくしたものです。
著者は1866年(慶応2年)6月生まれ、1953年(昭和28年)2月に亡くなった小児科医、長澤 亘(わたる)です。
彼は、現在の神戸大学医学部の前身である神戸医学校を卒業後、現在の東京大学医学部の前身である医科大学小児科専科を経て、1897年(明治30年)に神戸市生田区(現在は中央区)下山手通で小児科専門の医院を開業しました。
その後、1907年(明治40年)には隔離病棟を備えた小児科専門の病院を同じく下山手通に開設しました。彼はその病院内で、最新の小児医学を習得・普及させるため、京都帝国大学医学部の初代小児科教授である平井毓太郎教授を定期的に招き、医学関係者のための雑誌会を長年にわたって主宰しました。この活動を通じて、地元の小児医療や小児科学会の発展に大きく貢献したとされ、神戸大学医学部同窓会(神緑会)の前会長、前田盛博士による調査レポート(神緑会会報誌第13巻第2号、23ページ:「明治2年神戸病院建設を起点とした歴史探訪の最後として」)や、複数の同窓会関係者による研究記録が公表されています。同窓会館の玄関には、写真のような記念碑が設置されています。
彼は姫路藩の藩士として姫路城下に生まれました。彼の父は幕末期、当時の家老・高須隼人や同志とともに姫路城の無血開城を実現し、姫路城は戦禍を免れました。このことが、現在世界遺産に指定されている姫路城の姿が保たれる基礎となったといえます。
彼の父は息子に『亘』という名前を付けました。漢和辞典によれば、『亘』は『巡る』という意味を持つ漢字で、同じ意味を持つ『わたる』という漢字は『亙』だそうです。この漢字は「川に舟を浮かべて対岸へ渡る」という意味を表す象形文字だそうです。したがって、彼の父は江戸時代から明治にかけての激動の時代を乗り越えてほしいという願いを込めて、おそらく『亙』という漢字を選んだのではないかと想像できます。彼は亘に薬剤師の道を勧め、それが後に亘が医療関係の道に進むきっかけとなりました。
彼は明治から大正、昭和の戦前と戦後を通じて、ひたすら小児医療に専心し、また小児科学会の発展に貢献しました。その理由は、彼の自叙伝から明らかにされており、彼がなぜ小児医療に従事することを決意したのかを知ることができます。
1894年(明治27年)の日清戦争が始まったとき、彼はすぐに兵士として志願しようと考えたそうです。28歳のときのことです。しかし、一晩じっくり考えた結果、彼は自分が子供の病気を治すことで国に尽くすべきだと決意したといいます。この決意は彼自身との真摯な約束であり、その後、彼はその約束を生涯守り続けたと言えるでしょう。
彼は医科大学在籍中にJulius Uffelmann著『Handbuch der privaten und öffentlichen Hygiene des Kindes zum Gebrauche für Studirende, Ärzte, Sanitätsbeamte und Pädagogen』(「医学生、健康管理者、教師のための、子供の家庭および公衆における衛生ハンドブック」)を翻訳し、1894年(明治27年)に完成して出版しました。ウッヘルマンは当時ドイツのロストック大学医学部の教授でした。この本は近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/835471/144)で読むことができます。
『育児の心得』は、この書籍を基礎として、彼の臨床医としての経験を加えて書かれたものです。
この本の見開きには、次のような墨跡が掲載されています。
福島県三春町福聚寺の住職、玄侑宗久和尚によれば、これは「人を重んずる(または貴ぶ)こと、躬の如くせよ」、つまり「我が身を大切にするように、人を大切にせよ」という意味だそうです。つまり、この育児書を記すにあたって、医師としての姿勢を示したのでしょう。
この墨跡の作者は雅号「松香」から「長與專齋」とわかり、現在の日本公衆衛生協会の前身である大日本私立衛生会を創設した医師の一人です。当時、医学界や衛生行政の重鎮であり、種痘の普及に大きな功績があった人物だそうです。
この育児書が書かれたのは日露戦争の直前で、世は「富国強兵」の号令のもと、国家や家長に対して絶対服従が求められ、一般国民の基本的人権が保障されていない時代でした。女性もまた、嫁として家庭に入り、嫡子を産むこと(だけ)が国家や家のための主な使命だと考えられていた時代だったかもしれません。
亘は幼いころより儒教思想の影響のもと、忠君愛国の教育を受けてきたため、この育児書で使われる用語や表現の中には、現代にはふさわしくないものも多くあります。しかし、育児の本来の役割は政治情勢や社会環境によって変わるものではなく、医学的なアドバイスには今でも有益な部分が多くあります。したがって、ここでは育児の本質が用語や表現によって誤解されないよう、現代の言葉や考え方に読み替えながらも、できるだけ当時の空気を残すように意訳しました。
当時と比較すると、現代は科学や技術の飛躍的な進歩により、医学の知識や医療技術が格段に深まり、薬剤の種類も多様化しています。また、医療関係者の教育制度や医療制度も当時とは全く異なります。そのおかげで、平均寿命は延び、100歳を超える人々も驚くほど増加しました。
しかし一方で、経済を最重点に置く政治や産業界の影響を受けて、医学界もその影響を強く受け、小児や若者を取り巻く医療環境はむしろ悪化し、上記の視点との乖離が続いていると言えるでしょう。これを改善するためには、医療の原点に立ち返り、医療関係者のみならず、社会全体の意識改革が求められます。
現在、わが国では高齢化と少子化の影響が大きな社会問題として顕在化し、私たちの日常生活にも大きな影響を与えています。中でも少子化については、その対策として労働人口の不足といった目先の課題にとどまらず、先が見通せない未来を切り拓く人材の確保が重要であることを見据えたものであるべきです。そのための基本は、将来を担う子どもたちが健やかに育つ環境の再構築であり、それを担う親や医療関係者、教育関係者の重要性は改めて強調するまでもありません。この育児書を著した動機は、現代においても十分に通じるものがあると考えます。これこそが、筆者がこの育児書を現代文に直したいと考えた理由です。
この育児書は、今とは比較にならないほど不十分な医療環境の中で、小児医療に専念した一人の医師の熱意や意志の記録にとどまらず、時代を超えて誰もが知っておくべき最低限の育児の知恵を学べる資料としても役立つのではないでしょうか。
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