『武徳編年集成』太宰純(春台)の序文(2024-11更新)

投稿日 : 2024.11.06


太宰純(春台)序文.jpg

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武德編年集成 序

古者國必有史掌記事史所書爲春秋春秋謂之正史又
有內外傳焉至若稗官野史小說之流雖不足道然征史
之所逍而拾之所畧而詳之及廣異聞者博士家有取焉
若夫開國之顧守交之君中興之主有盛德大業而正史
所不能盡者操觚之七必詳錄之以示後人於是有外記
實(一作家)錄之作抑亦春秋之亞也室町李世海內
大亂豪傑崛起于各處紛爭驰逐織田氏豐臣氏更覆其
鹿不久(一有而字)失之獨 德川氏累世積 德于 
三河迨于 神祖受命代豐臣氏包御内創業垂統以開萬
世之基盛德大丵篾以尚焉惜也(一無惜也二字)
國初草昧 君臣苟樂於治安未及史官無以尤德業於
後世時獨尾敬公親撰 神祖年譜其後自宗室諸疾及 
朝上大大下至無名野 人著錄 膺卵時事者無慮百家
或詳或累要之傳說之異多出於好事之所為者云木村
世美自其先君子好紀載多所撰著世美少讀化耆繼其
志述其中於是取煞家所紀 神袓事而比之集其入成
其有未詳者則徵者四 方文獻必得其實而後已始于
天文壬寅 神祖生之年訖于元和丙辰 神祖姐之年所
紀七十五年爲書几九 十三卷名曰武德編年集成真 
神祖實錄也非前所謂 稗官野史之属也純先尾州人仕
織田氏神祖三方原 之役高祖王父平手汎秀以騎将自
尾道援與峽人戰血死焉與後織田氏亡曾大父舉家播
遷他邪到于全無立錐之地雖然草萊遺民生長老死于
平世百有餘年豈不 蒙 國恩哉今讀是書也見吾先人
亦幸以死事得書名於簡秉感喜交至 世美因求題言
辭不獲命廼書此以爲序世美名高敦世美其字也今見
爲大官元文五年庚申秋九月丁亥來都後學本姓平手
氏中務大輔政秀五世孫

信陽太宰純謹序

内容の概要

武德編年集成 序

昔から国には必ず歴史を記録する史官がいて、史書として「春秋」があります。「春秋」は正史と呼ばれ、さらに「内外伝」もあります。そのほかにも、雑多な記録や野史(*民間で編纂された歴史書)、小説の類があり、これらは重要視されないものですが、正史で見逃された事実や、あまり詳しく述べられない事柄があれば、歴史家たちは必ずこのような形で記録しているものです。

国を拓いた君主や、国を中興させた人物の大きな徳や業績が、正史にすべてが記載されていない場合には、必ず詳細がそれらの中で記録され後世に明らかになります。このようにして外記や実録が生まれますが、これらはまた春秋の一部といえます。

室町時代には国内が大きく乱れ、各地に豪傑が現れ、織田氏や豊臣氏が興亡しました。一方、彼らとは別に徳川氏は世代を超えて三河において徳を積んでいました。家康は豊臣氏の後を継いでこの国の内政を受け持ち、万世(*長い江戸時代)の基礎を築く大きな業績を残しました。

当初は草創期なので、世を治めることに奔走していたために史官がなく、後世に家康の事績を残すことはできませんでした。やがて尾敬公(*徳川 義直)が自ら家康の年譜を作成しました。その後、宗室や様々な疾患、また無名の民の事柄も記録され、時事に寄与した人物の伝説も多く出てきました。

木村世美は、父親の記した歴史書を好み自らも学んで、その志を継いで家康の事績をまとめて集成しよう考え、詳細が不明なものはいろいろな文献を集めて事実を探り、この歴史書を完成させました。

これは、天文の壬寅年の家康の誕生に始まり、元和の丙辰年の死去までの七十五年間の家康の記録で、全九十三巻あって『武徳編年』と名づけられました。この歴史書は稗官や野史とは異なるもので、家康の真の実録です。

自分の先祖は尾張の織田氏に仕官し、三方原の戦いにおいては騎将として家康を救援して武田軍と戦い、戦死しました。その後、織田氏が滅びたために祖父の家族は他の土地へと移住しましたが、百年以上の間、平和な世の中で老いて死んでいきました。多分、国の恩を受けていたのではないでしょうか。

今、この書を通じて先祖のことを知り、彼らが死をもって名を残したことに感謝し喜びを感じています。世美には題や言葉を求めたのですがかなわなかったので、私が序文を書きました。世美は名高く品格のある人物でした。

今、私は高官として元文五年(庚申)秋九月、丁亥の日に江戸に来ました。私の本姓は平手氏で、中務大輔政秀の五世の孫です。

信陽(信州)の太宰が記す

訳者注:太宰 純(春台)についてはこちら