三河の「一向一揆」

投稿日 : 2021.05.26


永禄6年(1563)9月、

  元康改め、家康となる。

彼は満20歳です。ここで「元」から「家」となった理由を高敦は記していませんが、「元」は今川義元からもらった字ですから、これは名実ともに今川から独立したことの宣言でしょう。

高敦は続く10月から勃発したいわゆる三河の一向一揆の内情を詳しく記しています。次の地図はこの紛争で関係した主な寺や地名です。ここでは一揆の背景、発端と結末に限って高敦の話を辿ってみます。
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碧海郡上野の城主の酒井将監忠尚は、徳川の家来にもかかわらず密かに今川氏眞に通じて病気と偽って出仕せず、その上、三河の一向宗の信徒を使って家康に反抗して滅ぼそうとした。家康は碧海郡佐々木の辺りに砦を築いて、菅沼藤十郎定顕((後の越後守で、大番頭を務めた))に守らせようと、佐崎の郷の一向宗の上宮寺などへ兵糧を貸すように命令した。上宮寺や、同郡の野寺の郷の本證寺、幡豆郡鍼崎の郷の勝満寺(*勝鬘寺)は院家で、三河の一向宗の三大本山である。

つまり、その頃、家康勢と一向宗徒との間に直接の紛争があったわけではなく、義元亡き今川衆と岡崎衆の戦闘の途上だった。ところがその頃は酒井将監が家康の命令だと偽って(*寺から)糧米を借りながら返さなかったので僧侶たちが怒っていた時だった。その関係でこんどは家康の命令には従わなかった。菅沼は怒って上宮寺が干していた籾を奪って砦に運び入れた。これで僧侶たちは怒って国内の寺に連絡し対応を協議した。三河ではこの三つの寺は親鸞聖人が開山してから以来いつも守護不入の(*徴税が免除され、役人が立ち入れない場所だったので、)菅沼の行動は許しがたいので懲らしめよう、と三寺の僧たちは地下人を集めて菅沼の家に乗り込み、下僕を殴り、出てきた家来を追い払って籾の俵を奪い返した。

ここでこれらの寺が、米という資金を諸勢力に貸す機能を持っていたことが推測され、諸勢力が寺から借りた米、すなわち資金を踏み倒す相手には、寺側は返済を要求して武力で奪い返しにきたわけでしょう。これは、そもそも寺とはどういう組織だったのか、その実態を改めて考えさせられる話です。ところが家康はここで判断を誤った模様です。

家康は酒井に事情を調査させて僧の責任者を処罰した。これで僧侶の怒りが爆発して家康に敵対し、三つの寺を城にして門徒を集め、三河に残っていた今川方とも通じながら一揆を起こした。その結果、この騒ぎで家康陣営には深刻な亀裂が生じた。

高敦は次のように記しています。

徳川の歴代の家臣たちには門徒も多く、死後の成仏を説かれて身を棄てようという人もいた。または、親戚に誘われて門徒になったり、この騒ぎに乗じて手柄を上げて領地を奪おうとしたり、この機会に親の敵をとろうと思って昨日までは家康の近臣でありながら明日は敵になったりするものもあった。また、今日は門徒と戦っていたものが、明日は門徒に加担したりして国内が分裂し、煙が空を霞めたり、勝鬨が聞こえたりするようになった。

戦場は寺だけにとどまらず三河の各所で勃発した。

酒井将監忠尚(上野城主)、松平監物家次(桜井城主)、同七郎昌久(大草の住人)、同三蔵直勝(佐崎の郷主)、吉良左衛門佐義昭(東條城主)、荒川甲斐守義虎(荒川城主)は、それぞれの地で徳川に敵対した。

高敦は戦場となった寺のリストとそこへ籠城した武将たちの名簿も記している。そして、

僧侶たちは檀家に短冊を配って、「法敵退治の軍、進む足は往生極楽、退く足は無限地獄」と書かせてプラカードとして意思統一を図った。

9月、家康と一揆衆との戦闘が始まった。ここで家康が信長に援軍を求めたことも記されている。

このように徳川内部の争いが起きる中、織田信長は美濃の斉藤道三を攻めるために今年は何度も美濃へ出陣していた。そのため「家康を救援することはできない」と援軍の派遣を断った。徳川は存亡の危機に直面していた。(以下略)」

11日 酒井雅楽助正親は西尾の城から野寺の郷の本證寺に立て籠もる一揆衆および荒川甲斐守と交戦した。(中略)酒井左衛門尉忠次は上野の城に向かって砦を築き、上野の城主酒井将監と一揆衆を分断したという。

一向一揆衆と家康勢の戦闘は翌年におよび、高敦はその戦況を詳しく記した後に、この一揆が終息する経緯を記しています。

永禄七年(1564)、
元旦、一向一揆が三河で勃興しているので岡崎城での正月の新年の儀式は省略された。
3日 昨年の十二月から家康は碧海郡佐崎の上宮寺の一揆衆を攻めるために地形を調査し、砦を築いてきた。(中略) 碧海郡刈屋の水野下野守信元が新年の挨拶のために岡崎を訪れ、家康と一揆打倒について話し合った。(以下略)。

家康軍と一揆勢との互角の戦いが越年した2月のこと、

3日 家康は水野下野守信元に援軍を依頼した。

それが功を奏して紛争はやがて終結へ向かいます。

元々多くの一向衆徒たちは家康の家来だったが、彼らは妄りに死後のことに溺れるあまり家康に敵対した。しかし物事の分別によってそれを後悔するようになった。(以下略)」

28日 家康は上和田の浄聚院に出向き、今後諸氏は宗門を棄てて家康の家来となるという誓約書を僧侶たちに書かせた。渡邊などが先導し、石川日向守家成が高洲の口から土呂善秀寺へ乗り込むと一揆衆は慌てふためいたが、家成が大声で、「水野下野がお前たちを思って家康に何度も嘆願したので、家康は厳罰を下さず、寛容にも一揆の罪を許してくれたのだぞ」と伝えると、一同武器を棄てて飛び上がって大喜びし家康に服従した。

家康は上宮寺、勝満寺、本證寺には、寺を破壊するので僧侶は改宗して立ち退くように命令した。(中略)その後、妨げになる多数の寺は破壊し、騒ぎを起こした僧たちは追放したのち、これら三つの寺だけは(双方の交渉によって)元のように建て直し学僧だけを住まわせた。これ以来、一向宗は改心して家康のために働いた。

この一揆については、『家康研究の最前線』の中の安藤 弥氏による、『「三河一向一揆」は、家康にとって何であったか』から最近の専門家たちの議論を窺うことができます。それによれば、この戦闘の開始が永禄6年の秋で、『松平記』の5年とするのが間違いであること、戦闘の起きた直接の原因、起きた場所が上宮寺でなく本證寺であったことや終息の経緯については、高敦の記述とほぼ一致しており、日付などについても高敦の記述の精度は高そうに思えます。

結局、高敦の記述も、現在の学者たちの見解も、この事件は、家康が織田と同盟を結んだことに端を発していて、松平一族の中の今川派が一向宗と連携して起こしたもので、家康は水野信元の支援を受けて戦いに勝利しました。これによって家康は三河の一向宗組織の解体と支配に成功し、岡崎勢が三河支配を確立させた大きな意味を持ったということです。また、安藤 弥氏は、

この事件についての同時代的史料が少ないので、詳しい史実を明らかにするためには、家康家臣団や三河の人たちが、それぞれに自らの歩みや地域の歴史を振り返りながら書き残した“物語”(歴史叙述)を、あらためて深く読み込むことが重要である、

と指摘しています。高敦によるこの歴史書もその重要性を示唆しています。なお、ここで元康がこの騒ぎを治めるに際して、水野信元の助けが決定的だったということは興味深い話です。