三河守 家康 (凄腕のマネージャー)

投稿日 : 2021.05.26


家康は自分のポジションが次第に固まって余裕が出てくると、自分や自分の家の格を気にするようになってきたようです。当時の公家が大納言とか中納言とかという職名を気にするのは、公務員が配置転換ごとに出世するのを期待するようなものですが、武家がなんたらの守とか、従何位とかいう位を持つことは当時ほとんど実質的な意味を持たない飾りにもかかわらず、ステータスシンボルとしてどうしても必要なものだったようです。

信長は勝手に上総守とか上総介とか自称していたそうですが、これを正式に使うには朝廷の許可がいったようです。そのためにはコネや金が要ったようで、ある武将が従何位とか、なんたらの守とかを天皇に任じてほしいと願い出ると、禁裏は「いくら出せば何々にしてあげよう」と定価表を示すような野暮なことはせず、なかなか巧妙な手順を踏んで手数料を取っていたようです。なにせこの手数料は彼等の残された数少ない生活の糧であり、そのアイテムは願い出を認可する証明書である女房奉書の発行です。これをタイムリーに発行して大量の資金を調達していたようです。

言継のような禁裏の財布に絡んでいる人たちは、平素から叙位の欲しそうな武家に目星をつけておいて、絶妙なタイミングで、例えば「前の天皇の命日が近づいているので法要をしたいのだが、費用が・・・で、もし、資金を賄ってもらえば、天皇は大変お喜びになるのだが・・・」というように先方に伝えます。しかし、直接ではなく、天皇の代理として禁裏のお局さんが言継のような人に「そこでお前はなになに様にその旨をよろしゅう伝えるように」という主旨の、ひらがなで書かれた公文書(女房奉書)、つまり指令を出し、彼はその旨の手紙を書いてその奉書とともに幕府の将軍の名義でターゲットとする武将や関係者に送るというなかなか、持って回った手順とることになっていたようです。

一方、武将としては、女房奉書さえもらえば位はあとからついてくるので、応分の金を禁裏へ収めるというか、支払う。そうすれば、再びお局さんは「天皇はお喜びだったので、お前はだれそれにその旨を伝え、よくよく礼を伝えよ」という奉書が例えば言継宛てに発行される。そうしてその処理をするのが言継の仕事だったようです。そして、この最終段階を取り持つにいたる初期の段取りとして、いくらで手を打って、何時入金できるかの話を相手と交渉してまとめるわけです。しかも、先方からの返事が遅れると、催促の為に都から出張して直談判もする。そうして、めでたく話がまとまって入金が終わると、お局さんの指令に従って先方に謝辞を表す。これまでが彼のミッションであり、それによる応分の報酬を受けとるわけです。そうするとその内、「何々に任ずる」という天皇の正式の許可書が先方へ届けられました。『言継卿記』にはいろいろな例が詳しく記されています。言継は奉書そのものの内容のチェックもお局さんの為にしていたようなので、そのメモはなかなか確かです。ただ、『言継卿記』を読んでいると、このように順調に任官のプロセスが始まる前にも、かなりのコネとなかなかの袖の下が必要だったことが推測できます。これが賄賂なのか、手数料なのかは微妙です。

永禄9年12月、高敦は

29日 家康は従5位三河守に任じられた。

と記していますが、その経緯には触れていません。

『言継卿記』には、この年の2月頃から頻繁に誓願寺という寺の名前が異常に多く登場します。この寺は現在中京区新京極にありますが、当時は上京の小川(*現在の上京区元誓願寺通小川西入ル)にあったそうで、もともとこの寺は飛鳥時代には奈良にあり鎌倉時代にその場所へ移されたそうです。この寺は言継の時代にも歓楽街にあったようで、女官などもよく出入りし、言継もよく出かけて用が済めばこの寺の和尚と一杯やったりしていました。

土本俊和氏の『家から家屋敷へ:戦国・織豊期京都上京における誓願寺門前の川の上の家』という論文[1] では、門前の川の上に家が建っているという状況が詳しく論じられています。この論文を読むと、この京の町家には、はや水洗トイレが完備していたのかと思ってしまいます。この川の水量や流れの速さにもよりますが、水中へ落下する糞尿をどのような生物たちが待ち受けていたのかとか、下流でこの水が田畑に肥しになっていたのかなどを研究した公家や僧の日記でも見つかれば読んでみたいものだと思いました。話が脱線したので元に戻せば、この論文によれば、そもそもこの寺院の建物は相当前に火事で燃えてしまい、寺は三福寺とか円福寺の支配下にあったそうです。しかし、後年朝廷の力添えを受けてその地に再建を果たし、その門前に繁華街が形成されたそうです。

『言継卿記』によれば、誓願寺の長老の泰翁(慶岳)という人がよく言継に面会して、その要件の中には円福寺の訴えに対して朝廷の援護を求めるようなものもあり、禁裏の財政担当大臣のような言継がその仲立ちをして寺から謝礼を受け取ったり辞退したりしています。つまり、この寺は朝廷に非常に近い、いわばお抱えの寺となっていたようで、言継がこの寺と関わる部分の多くは金にまつわるので、どうやらこの寺は宗教施設というよりは朝廷の用立てを引き受けていた金融機関のように見えます。

内藤佐登子氏によれば、この誓願寺長老泰翁(慶岳)は岡崎の生まれで[2]、岡﨑に出来た誓願寺[3]の他に岡崎の大林寺という松平家の菩提寺に関係していたようです。上に出てくる総持寺も岡﨑や池鯉鮒にもある寺でいずれも松平家や水野家に関わりの深そうな寺でする。内藤氏によれば、上で述べた誓願寺と円福寺の争いは誓願寺が勝訴したそうで、言継などの仲立ちによって朝廷の力を借りて勝てたのでしょう。どのような争いかは筆者にはわからりませんが、恐らく宗教論争ではなく、領地の所有権や檀家にかかわる利権争いだったのではないかと想像できます。誓願寺側はこの勝訴に手を貸した禁裏への謝礼か、長橋の局に200疋(200万円ほどか)を払い、その中の100疋は長橋と言継で山分けし、使いの者は10疋もらっているので、禁裏は90疋を受け取ったことになります。

翌年の2月には、再び誓願寺が『言継卿記』にたびたび登場します。これは家康が松平家の菩提寺を一段と庇護して三河の足元を固めるために、京都の誓願寺の長老を呼び寄せたらしいことに関連しています。

永禄9年2月の条には次の様に記されています。

4日 誓願寺の長老が来た。8日か9日に三河へ向かうそうで、暇乞いに来たのだそうだ。 6日 誓願寺へ行ったが、長老は近衛殿に出立の挨拶に行った。自分は松平和泉守への手紙を託した。8日 誓願寺へ使いを送ると、今朝早く三河へ発ったという。長老、慶源、誓忍、慶安らだそうだ。

家康の招きに応じて泰翁一行が三河の誓願寺へ移ったことがわかります。最初の高敦の記述にあるように、このためには言継が仲介して当時最高の実力者だったという近衛家の口利きがものをいったのでしょう。というのは、言継は余技として調剤の技術を持っていて、近衛家のために日頃から調剤をして近づきになっていたからだと想像できます。

そして、5月、

2日 (三河の)誓願寺の納所(経理係の)慶源が三河から昨夕帰京した。西堂玄易も同行した。長老は書状と布を一端、長橋局にも同じ、萬里右大丞にも書状と一端を届けた。慶源から自分への田舎紙一束を西堂が持ってきたので、一献を勧めた。

3日 長橋局に会い、三河の総持寺住職の件を内々に披露して、内々に勅許をえた。

4日 長橋の局に昨日の住職の件の仔細を報告した。 同日、誓願寺から綸旨の礼として、勸修寺(*山科にある)で60疋を渡し、自分が10疋もらうことを約束した。この件では家康が奔走した。長老はなかなか元気である。

5日 誓願寺の慶源を呼んで(総持寺の)住職の件の話を聴いた。一献進めたが彼は下戸だった。

6日 誓願寺の納所慶源が来て、住職の件の謝礼4貫200文(500万円ほどか)を渡した。すぐにそれを持っていくとすぐに勸修寺右中辨が御教書を出した。

『総持寺住持職之事所有勅請也 宣奉行国家安全寶祚長久 者天気如此 仍執達如件 永禄9年5月1日 右中辨 来天禅室』

家康からから送られていた書類は次のようなものだったそうです。

『東海道三河州碧海庄矢作郷藤原来天契収曳 総持寺住持職(一寺を管領する最高位の僧職、この寺は総持尼寺)之事、於大源門徒喜山派之内 汲蘆嶽和尚之流 従釈尊66世傳室宗芳和尚嗣法、当寺檀那 松平蔵人佐家康』(*ここでは家康は蔵人佐とある)

ここでわかることは、誓願寺は単なるお寺ではなく、上でも述べたように禁裏御用達のATMのような機能を持っていたようです。つまり、この寺は三河の誓願寺支店へ振り込まれたお金を京都の本店へ運んだり、禁裏の要望を相手に伝えたりするメッセンジャーの機能も果たしていたようです。言継がこの寺をよく訪れる本当の用はここから金を引き出したり、預けてどこかに支払ったりするためだったのではないだでしょうか?

その後、三河の誓願寺と三河の総持寺についての用件で、やり取りが後の12月にもあります。

28日 誓願寺納所慶源が近日帰京、長老の言傳、錫代(酒代)10疋が届いた。正月4日に三河へ帰る予定だという。

29日 早々に誓願寺之納所慶源がきた。今日三河へ向かうという。長老への書状を渡した。

因みにここで登場する総持寺は現在岡崎市中町にありますが、元は籠田町にあった寺で、1355年に建立された尼寺だそうです。この寺の付近に家康の正妻の築山殿と呼ばれる人が住んでいたそうですから、この寺に家康がいろいろと関わっていた可能性もあります。

一方、同じ名前の寺が池鯉鮒(知立)にもあります。この寺は850年に建立されたということですから、岡﨑の総持寺よりも相当古くからあった寺だと思われます。この寺が水野領にあったことは、桶狭間の戦いの直後、家康が岡崎へ撤退するときに池鯉鮒で水野勢に襲撃されそうだったという高敦の話からも想像できます。言継のいう、三河の誓願寺と総持寺の用件というものに、水野信元が絡んでいたかどうかは分かりませんが、後に水野信元も家康の叙位取得の活動に貢献していたことがわかります。

そして、翌日、高敦は、

29日 家康が従5位(下)三河守となった。

と記している。この一連の言継の記録がこの家康の叙位と無関係とは思えません。つまり、家康サイドは色々な名目で禁裏から誓願寺を通して要求される金を支払ってこの官位を買ったともいえます。しかし、どの程度の金額で買えたのでしょう?

筆者は、恐らく誓願寺の末寺が三河にもできて、そこへ都から長老が出向したことは、いわば誓願寺の三河支店が開店したようなもので、この方面の諸情報や金が京都の本店へもたらされ、言継などを経由して禁裏に入るチャネルが開設されたので、それに家康らが結果的に貢献したという見返りとして、この官位が与えられたという方が現実的に見えます。双方にとって好都合だったわけで比較的安価にことが決まったのではないでしょうか。


[1] 日本建築学会計画系論文集 第502号、211-218、1997年12月

[2] 内藤佐登子著 『紹巴富士見道記の世界』続群書類従完成会

[3] 岡崎市梅園町にも誓願寺があります。『日本歴史地名大系』[3]によれば、『永禄9年、徳川家康が改姓や官位についての朝廷斡旋への報いとして誓願寺51世で大林寺4世の泰翁慶岳に一寺を建てたのが起源』だそうです。ここで登場する大林寺は、やはり岡﨑にあり、松平・徳川家の菩提寺の一つで、家康の祖父の松平清康や父の廣忠の墓があるそうです。(同種の墓は岡崎の大樹寺や随念寺などにもあるそうです)