数学者の怒り? 建部賢明

投稿日 : 2021.05.26


『江源武鑑』や『浅井日記』は沢田源内(1619-1688)という偽書の常習犯による書物であることが、歴史の専門家たちの定説となっています。その理由は、「佐々木六角高頼という実在の観音寺城主が没した後、長男が早世したので二男の六角定頼が後を継ぎ、彼に続く義賢(承禎)- 義弼(義治)の系統が宗家である」というのが史実にもかかわらず「氏綱という長男があとを継ぎ、その息子の義實に続く義秀―義卿―氏郷という系統が宗家であるとし、本来の宗家を傍系と見做して観音寺城の近隣の箕作城の城主たちである」という作り話であること、更に「著者の源内が氏郷本人であると詐称している」ことが挙げられています。それに対して佐々木哲 は定説を否定して、氏綱に続く宗家が実在し、源内も実は郷重という実在の人物で氏郷とは別人であると主張しています。

『江源武鑑』の本文に先立つ「江陽之日記家伝書録」という部分には、「永原大炊頭實高の日記、後藤但馬守頼秀と息子喜三郎の日記、目方多摂津守網清、浅井土佐守長冬家の日記をまとめて、元和7年(1621)8月22日に『江源武鑑』とした」と書かれています。

同書の元和9年(1623)5月5日の条には「龍武が3歳で元服した」、そして同7月9日の条には「前江陽管領少将・義郷入道が47歳で死去した」とあり、これが本文の最終の条となっています。また、元和7年(1621)7月9日の条には、「龍武(後の氏郷)が誕生した。義郷45歳の子」とあります。

ここですぐ気付くことは、定説のいうように「源内が氏郷本人だと詐称している」とすると、元服した年にこの書物をまとめたことになってしまう。本当に源内は氏郷本人だと詐称しているのでしょうか?

少なくともこの定説が定まってきた経緯を知りたいものだと思い、関係史料を読んでみることにしました。

偽書説を支持している資料としてよく引用されるものに、谷 春散人による『沢田源内偽撰書由来』 があります。これは美術史編纂用紙という原稿用紙に書かれたものを束ねた小冊子で、著者の谷が関係史料を基に論評をまとめ、明治37年(1904)5月12日付けで発表したというものです。

彼は、『大系図』、『江源武鑑』、『足利治亂記』、『浅井日記』、『和論語』、『異本関原軍記』、『異本勢州軍記』は源内の書いたものだと断定して、その他、これらに影響を受けた12の書物を列挙しています。

彼は『江源武鑑』に対して特に痛烈な批判をしています。そしてこの書物の影響を受けたと思える後年の多くの書物やそれらの著者に対して、偽書を引用した非を咎めています。ただ、彼は『江源武鑑』に記されている歴史事象の推移の矛盾を自分の分析によって批判しているのではなく、飯田忠彦(1799-1860)による『大日本野史』  などで述べられている既存の根拠の上に立って、米の計量升の誤謬、誤字、架空の城の在処、暦の不備などを新たな根拠として付け加えて偽書の根拠に加えています。

彼はそれにとどまらず、随所に源内の浅学、愚昧さを揶揄するような感情的感想を付け加えています。こうなると、この書物は一見学術的な著作の形態をとってはいますが、実は別の意図を持って書かれたもので、谷が源内に対してもさることながら、谷と同じ時代に生きた別の人物によほど特別の個人的感情を抱いていたのではないかというような印象を持ちました。

谷氏が源内の観音寺城主の系図の詐称の根拠として引用している史料の他に、同様な偽書説を記している史料があります。これは建部賢明(1661-1716)による『大系図評判遮中抄』です。

この人は有名な和算の学者で知られる数学者、関孝和の弟子だそうで、彼の弟の賢弘(1664-1739)も、将軍吉宗のお抱えの数学者で、彼は円周率の精度のよい計算法などを編み出しました。関孝和とこの2人の共著による『大成算経』がよく知られています。『大系図評判遮中抄』は佐々木哲氏のブログに全文が掲載されています 。

建部賢明の源内に対する批判も非常に激烈で、「自分は源内を誅殺してやりたい。(*彼の没年から)30年ほど後に生まれたが悔しい」というように、なかなか穏やかではありません。この数学者にして、これほどまでに源内を恨むには相当の理由があったはずです。彼は徳川吉宗のお抱え学者であった弟の賢弘の兄として、恐らく個人的に看過できない深刻な事情、例えば自分たちの顔に泥を塗られるような記述箇所を見つけたのかもしれません。

いったい『江源武鑑』に、どんな彼に関係する出来事が書かれていたのでしょう?

そこで、『江源武鑑』に登場する「建部」に関する事項を探すと、天文期に6か所、永禄期に4か所、元亀期に5カ所、天正期に4か所見つかります。

まず、天文年間の条に登場する建部氏は、年代順に建部左近信勝、建部才八郎、建部某、建部大蔵太夫清秀、建部高兼です。この中で建部才八郎は能筆とされ、また、天文20年3月22日の条にある『近江観音城武備百人一首』の中では、建部高兼という人の和歌が撰ばれています。『江州佐々木南北諸士帳』の神崎郡のリスト によれば、木流の住人の中に建部才八郎、左近将監、大蔵少輔、建部太夫の名前がみつかります。しかし、この範囲で見る限り賢明が激怒するような記述はなさそうに思えます。

となると問題がありそうな条は永禄期以降となります。永禄期は足利義昭が信長の支援を得て上洛し、実質的には信長が都を支配するころです。この時期に登場する建部氏は、建部采女正、建部源八兵衛、建部伝八兵衛尉ですが、『江州佐々木南北諸士帳』神崎郡のリストにはこれらの名前は見つかりませんでした。

この時期で最も目立つ人物は、永禄6年(1563)3月23日の条で登場する建部采女正です。

この日は「観音寺騒動」が起きた日です。この日、佐々木六角承禎の息子の義弼の命を受けて、種村彦四郎と建部采女正の2人が、有力な重臣だった後藤但馬守父子を観音寺城内で暗殺しました。(*この日について、『江源武鑑』では3月23日、『浅井日記』では10月のこととされていますが、Wikipediaでは10月1日となっています)又、『浅井日記』によれば、この事件の調査の為に選ばれたメンバーのリストに、建部源八郎秀明の名前があります。

この事件は、長年近江を支配していた佐々木氏の諸勢力の結束が急激に瓦解に向かい、やがては信長によって滅ぼされる端緒になりました。建部采女正がどのような実在の人物かは特定できないのですが、少なくともこの佐々木一族にとって極めて深刻な事態を生んだこの暗殺に、建部一族の誰かが直接関与したと書かれると、賢明もあまりうれしくはなかったことでしょう。

この事件の後しばらくして、都では将軍足利義輝が三好三人衆に殺され、彼の弟の足利義昭が信長の援護を得て室町幕府の再興を目指して上洛します。

高敦は『武徳編年集成』の永禄11(1568)年9月12日の条で、『信長は(佐々木六角)承禎の家来の吉田出雲守重高と同新助、建部源八郎秀明の立てこもっている箕作城を包囲して攻撃した。佐々木家も精鋭を揃えて守っていたので信長の先鋒の佐久間、丹羽、木下らも攻め込むのが困難だった』と述べています。

『江源武鑑』では、同年9月19日の条で『建部源八兵衛が和田山で裏切った』とあります。

また、『明智軍記』では、『この戦いで佐々木六角義弼の箕作城では建部源八兵衛らが守っていたが、信長勢の木下藤吉郎(*後の秀吉)や松平勘四郎信一らが城を急襲し、建部源八兵衛らは戦死した』とあります。

つまり、当時建部勢は六角承禎の家来として信長の上洛を阻止しようした。しかし、結局この城は信長勢に落とされ、六角承禎、義弼らは放逐される。そうして、将軍義昭と信長たちの軍団は上洛を達成する。永禄11年9月27日の条に、その時の軍団の構成が記されていますが、そのメンバーの中に建部伝八兵衛尉の名前が見えます。

次は元亀期です。この時に登場する建部氏は、建部藤蔵、建部伝吉、建部兵衛太郎、建部右近です。この時期には姉川の戦いや比叡山の焼き討ちなど、大きな事件が次々と起きました。そして次第に信長と将軍義昭の関係が悪化していくのですが、この時期の条では建部氏は観音寺城主の家来として親・信長方として行動していたように読めます。

やがて天正期になると、建部右近、建部伝九郎、建部源五郎という人物たちが登場します。この時期には将軍義昭が公然と信長に反旗を翻すものの結局敗れて信長によって都から放逐されます。しかしその信長もやがて本能寺で没する。この頃の建部氏の立場は、最初は反・信長にみえますが、親・信長になったり、やがて本能寺の直後には反・明智光秀となったりと、なかなか複雑に見えます。ここで登場する建部氏の面々は『江州佐々木南北諸士帳』のリストには見つかりませんでした。

定説によれば、箕作城の戦いで佐々木六角宗家は観音寺城界隈から信長に放逐されるので、信長や将軍義昭の上洛に関わることはありません。したがって箕作城サイドの家来である建部家が、このような時期に信長に追随する話があればすべて虚構になり、この嘘のストーリーの著者に対して書物まで書いて攻撃することがあるのでしょうか?

さて、建部一族の根城と思われる建部城 は実在していたそうで、この城は上で述べた信長との戦い(箕作城の戦い)の際に焼失したとされ、その時の城主は建部秀明で、彼の息子の建部伝内賢文は京都の清蓮院尊鎮法親王に書を習ったという能筆(書の達人)だったということです。つまり、この建部秀明は高敦の記す箕作城で信長と交戦して敗れた人物と一致します。この一族は信長に箕作城が落とされた後は、建部郷の木流に住んでいたということで、『江州佐々木南北諸士帳』のリストとも矛盾しません。

一方、建部賢明の家系は、インターネットで検索すると 辿ることができます。それによれば、彼らの祖先はこの秀明につながっていることがわかります。すなわち秀明は父の建部某の二男で、長男は秀清ですが戦死し、二男は高光といってその後播磨の林田藩主として存続し、明治期に華族に列しています。秀明の息子は伝内賢文です。そしてその息子の昌興は徳川家康の祐筆(書記)を務めた人で賢明・賢弘の曽祖父にあたり、彼らの祖父が直昌、そして父が直恒だそうです。

しかし、能筆で有名だった伝内を含めて賢明の家系に登場する人物が『江源武鑑』には具体的には記されていません。これに彼が憤慨したということはあり得ます。しかし、建部家は非常に古くからある名門です。多くの庶家が広がっているので、その一部の誰かの事績が記載されたり、無視されたり、その中の誰かが宗家だと言い出したりしても、自分たちの身内でもない源内を「殺したい」とまで、当時の知識人であったはずの賢明が書くには、もっと他の事情があったのではないでしょうか?

定説によれば、沢田源内は、百姓だった父で武蔵の忍藩主の家来の下男だったという人の息子で、都で青蓮院門跡尊純法親王の下で勉強したが、盗みをしたので追い出され、後に源内と名前を変えたとあります。ここで奇妙な相関が見られます。つまり、上で述べたように、建部秀明の息子の建部伝内賢文は京都の清蓮院尊鎮法親王に書を習ったという能筆でした。源内と伝内の2人の勉強したのがどちらも青蓮院門跡法とはいえ、親王の名前が違うので別人だったとしても、同じ寺とはどういうことでしょう? しかも、伝内は由緒ある家柄の出で、一方は百姓上がりの武蔵の子です。当時として親王の傍で働くにはそれなりの身分や家柄が必要だったのではないでしょうか?

本当に源内はそのような人だったのでしょうか? もっと別の可能性があるかもしれません。
ここで建部家と澤田家は非常に近い間柄だったと仮定してみたらどのようなことになるでしょう? 

筆者は興味本位で、近江に沢田という佐々木関係者がいないかと『江州佐々木南北諸士帳』のリストで探してみました。すると、犬上郡 の龍原山城主の沢田武蔵守秀忠という人が見つかります。そこで龍原山城を検索すると、興味深い記事が見つかりました。

この記事によれば、この城跡は2010年に滋賀県多賀町敏満寺で発見され、龍円山城ともよばれるそうです。上で述べたように『江源武鑑』の永禄12年(1569)8月28日の条に、『建部采女正が大河内城を攻めに参加した』とありました。それに関連して、同書には、翌年の永禄13年(1570)正月11日の条に、観音寺城で行われた『近江の旗頭が観音城へ集合しており行われた正月の儀式で、いつもその役を務めていた大河内の戦いで戦死した堀伊賀守信武の代役として、澤田武蔵守秀忠が特に選ばれて旗の櫃を国の間の床に立てた』とあります。

また、少し時を遡ると、『江源武鑑』による信長が箕作城を攻め落とした永禄11年(1568)9月19日の条で、『和田山の建部源八郎、吉田出雲守が寝返って義弼に味方した』とあります。そこで観音寺城では和田山を攻撃することになり、『和田山南坂には澤田武蔵守、楢崎太郎左衛門尉、伊達出羽守、朽木宮内大夫、青地伊予守らの勢力合わせて6千騎が攻め寄せた』とある。また、同20日の条では、『城からは吉田道覚が出て来て命乞いをした』、そこで『屋形は建部が切腹すればその他の承禎方の命は救うといったので、建部は入道した』ともあります。つまり、建部家と澤田家はこの時は敵味方の関係にあったことがわかります。ここに登場する源八郎は秀明です。

ここで建部城、龍原山城、箕作城の位置関係を地図で調べてみました。
建部城:滋賀県東近江市五個荘木流町
龍原山城:滋賀県犬上郡多賀町敏満寺
箕作城:滋賀県東近江市五個荘山本町
e10363182b92938f4ca7f5978210a9fa3ead87bf.jpg建部城は箕作城の直下であり、龍原山城は建部城から直線距離で11.3kmほど東北に位置しています。この距離は、近江全体を考えるとごく近いので、建部と澤田は住人同士だったといえそうです。

もしそうなら、いったい賢明の激怒した理由はなんでしょう?

一つ思いつくのは、先に述べたように『江源武鑑』には、建部賢明の先祖の秀明に続く人たちの事績が書かれていないように見えることです。

なぜか? 筆者の勘繰りとして、これは源内とはかぎらないのですが、とにかく『江源武鑑』の著者が意識的に書かなかったのではないでしょうか? 

この理由と想像すると、『江源武鑑』の記述の限りでは、信長が上洛してやがて本能寺で命を落とし、明智光秀が歴史の表舞台へ出てきたころまで、この書物に登場する建部家の人たちは澤田家の人たちと行動を共にし、結局秀吉の時代に歴史の表舞台から退場して行ったと読めます。

しかし、僧として生き延びた秀明の末裔である伝内から、続く賢明、賢弘にいたる一族は、徳川時代まで生き延び、表の舞台で活躍することができました。乱世を生き抜く過程で生まれる明暗はよくあることで特に問題にするようなことではありませんが、滅ぼされた側の人たちの気持ちとしては、先祖の顕彰と自分たちのアイデンティティーを表現するために、歴史の証人である自分たちの見た歴史を記録にしたいと思うのは自然です。

そのような動機から澤田家の関係者が、源内という、いわば伝内の末裔たちを暗示し揶揄するようなペンネームで『江源武鑑』を書いたのかもしれません。同様な意図で、同一の著者が単独で、または意を同じくした人たちと協力して、『浅井日記』など他の著書も同様な視点で書いた可能性もないわけではないと筆者は感じました。

もしこのような意図でこれらの書物が書かれ世間に流布したとすると、賢明たちは、儒教の倫理観からすれば、仲間を裏切って生き延びた卑怯者の末裔として世間に見られてしまったと思ったのではないでしょうか? 

本来なら、それに対抗する自分の史観による歴史をまとめて発表するのが筋でしょう。しかし、数学者の彼らにはできなかったはずです。そこで、一番安易な方法として、『江源武鑑』の著者を偽物にするキャンペーンを展開したかも知れません。どうしてそんなことができたのでしょう? 当時彼らは将軍のお気に入りの御用学者であり、実際数学の上では権威ある立場にいました。そこでその権威を利用して源内の出目を作り上げ、著作の一切合切を卑しい身分から出た盗人の偽書作家による偽書だとしてしまったのではないでしょうか? しかも、作者本人はすでに故人なので、反論もできない。その著者の関係者も怖くて逆らえないので沈黙を保ったとしても時代を思えば不思議ではありません。

もちろん、これは単に筆者が興味本位で想像したシナリオなので、素人の筆者が専門的に検証できるはずはありません。しかし、もし上で述べたような事情で生まれた定説が、今日まで専門家の間で信じられているとすれば不思議なことです。

最後に伊藤嘉夫(1904-1992)による『武備百人一首 ―― 異種百人一首の成立をめぐって――』を引用します。この論文は跡見学園短期大学紀要, 1970に掲載されものです 。この論文では、和歌集の形式として百首の和歌がまとめられるものの目的や意義が論じられています。その例として、『応永二十一年頓証寺法楽百種』、『武備百人一首』、『吉野百首』が紹介され、内容が説明されています。ここで引用された『武備百人一首』は、観音寺城主六角義實が天文20年3月22日に選んでまとめたものとされ、跡見学園の所蔵書として発見された書物だということです。その中で『江源武鑑』の抜粋があり、建部高美(『江源武鑑』では建部高兼)の歌として

怒りつつ 敵気に乗れる物ならば おびきいだして 気にのりて打て

があります。ここには将軍義輝、管領の義實、箕作定頼、箕作義賢、細川晴元、朝倉義景などなど、観音寺城の関係者の名前と歌が並んでいます。つまり読み手が実在人物たちで、歌の質も認められているといえます。なお、この論文の著者は佐佐木信綱の秘書だった歌人だということです。

いうまでもなく佐佐木信綱(1872-1963)は有名な歌人であり、万葉集の研究家としてもよく知られています。鎌倉時代の同名の武将の4人の息子が近江の佐々木一族の祖とされ、大原氏、高島氏、六角氏、京極氏となったと云われます。『江源武鑑』が源内の創作によるとすると、この歌集に含まれる和歌をどこからか集めてきたものになります。そして彼は読み手の役職や序列、テーマをそこなわないように、そして全体としての文学的調和と質を担保しながら、彼は百首の和歌を編集したことになります。


https://ci.nii.ac.jp/naid/110000968578/