木活字本に係った人々から:田丸直識

投稿日 : 2021.05.30


筆者の所蔵している『武徳編年集成』の木活字版には、天明6年(1786)正月に記したという高尾信福による序文と、同年夏に記された源朝臣直義の序文があり。さらに元文5年(1740)9月に記された太宰純の序文があります。

太宰純(春台)(1680-1747)は高敦と同じ年に生まれた儒学者で、著書『経世論』の中で「経済」という言葉を初めて使った人だそうです。現在使われる「経済」は福沢諭吉による「economics」の和訳だということです。もともとの「経済」の意味は、民を正しく導く為政論の意味をもっていたそうです。しかし、「economics」は古代西洋での意味として、「自分の財布を膨らませる」という自己本位の論理を表し、他への配慮は含まれていないそうです。つまり福沢諭吉の誤訳によって、現在は本来とは真逆な意味に使われ、民を念頭に置かない、ある種の人々だけのための論理になっているように見えます。

ところで、太宰純が嵩敦の歴史書にどうして興味を持ち、序文まで寄せたのでしょう?

 一つには、序文から、彼が平手政秀(1553-1573)の末裔であったことがあります。政秀は織田信秀の元老で、信長の兄の信廣と竹千代(家康)の交換交渉に寄与し、また、政秀の孫の汎秀は、家康が信長の配下で武田信玄と戦って敗北した有名な「三方ヶ原の戦」で家康の身代わりのような形で戦死したといわれ、純がこのことを高敦が記しているので感激したと想像できます。

もう一つは、高敦の墓碑に刻まれた墓銘にあるように、この墓銘は高敦の母が太宰純に依頼したようで、それほど彼らは近い関係だったと思われることです。彼女の実家は一色家の筋の人だそうです。

一色家は古くからの家系で、末裔は各地に分散しているので、互の関係は筆者には分かりませんが、室町時代の守護大名だった一色氏の本拠の名前が建部山城だったそうです。この城は織田信長の配下の細川幽斎に滅ぼされています。この一色家と高敦の母の実家との関係はわかりませんが、筆者は建部山城という名前が気になりました。

筆者追加(2023・8.5):最近『武徳編年集成』の私訳を全体にわたって吟味した際、彼が一色藤長と高敦の母方の先祖との関係を述べていた部分を、筆者が見落としていたことに気づきました。ここで、その部分を追加します。

『武徳編年集成』14巻、天正2年2月12日の条に、「元の将軍義昭の家来、一色式部少輔藤長は、幕府が倒れた後長岡藤孝のところへ行って丹波の田邊に隠れていたが、家康を慕ってはるばる遠州まで急ぎの書状を送り、家康から返書をもらった。式部少輔藤長は年をとってから断髪し一遊斎と名乗り、慶長元年に死去した。その子、左兵衛範勝は後年家康の御家人となった」とあり、続いて高敦の注釈が加えられています。

(範勝の子、右馬助範親は、高敦の外祖父にあたる。範親の孫、長七郎範永は9歳で亡くなり領地2千石は没収され家が断絶した。このため上の書簡は高敦の家で今も所蔵している)

高敦がこの歴史書を書く動機が、父の影響だけではなく、むしろ幼いときから母親に聴かされてきた一色家の史観がベースになっていかも知れず、それに春台が共感したのかもしれません。


一方、木活字本は高敦の死から44年ほどあとに出版されたようです。この動機を木活字本の序文から想像してみました。

冒頭の序文の著者は御膳監高尾信福です。彼をネットで検索すると1737年生まれの人のようです。御膳監がどういうランクの役人かは筆者にはわかりませんが、文字から推測すると、将軍の健康管理か、毒見係の親分のようなかなり将軍近くで働いていた人の様にもみえます。

彼の序文によれば、彼の知人の田丸という人が、家康の事績など徳川家の歴史についての写本など史料の内容に齟齬があり、字が不鮮明になって読めなくなったり、欠落していたりしているのを憂慮して活字にしようと考え、苦労の末完成させたようです。つまり、この40年ほどの間に高敦の原本から写本が作られているほど、当時世間に流布していたと想像できます。一方、平賀源内(1728-1779)の親戚で、戦国大名の平賀源信の子である高尾信福(1793年-1795年の期間長崎奉行を務めたという)という人も見つかります。しかし、同一人物かどうかはわかりませんでした。

ベルリンの国立図書館に所蔵されている写本には、天明5年(1785)に記されたとおもえる田丸直職による木活字本を作る際の指針が書かれています。それによれば、彼が基にした写本が当時いくつかあって、それを比較すると記述に齟齬があり、精力的に写本を探して内容を精査したが完ぺきにはいかなかったそうです。彼は高敦が記してからまだ50年ほどなのに、この状態は残念だと思って活字にしておいて、続く作業を後世の人に委ねたいと考えたようです。また、とくに不確かだった部分については別の書物で補ったとあります。(* 田丸直識著『武徳編年集成備考』)高尾信福は彼の志と努力に共感して序文を引き受けたのでしょう。不思議なことは、彼の他に、宣医官、快庵(正しくは广なし)吉田孝幹の署名があります。宣医官とあるから医者でしょうが、官となると幕府の相当の役職だろうと想像できます。

ここで興味深い論文が見つかりました。2003年に日本医学史雑誌49巻に出ているもので、町 泉寿郎、小曽戸 洋、花輪壽彦による『多紀元簡失脚の背景・医学館官立化当初の一事情』です。

この論文は、多紀元簡が設立した私塾を、(明治時代の医学校、後の東大医学部のような)医学館という幕府直轄の医師養成機関に組織替えするために、多紀元簡が降格され、彼の後任を決める人事が行われたときに起きたいざこざ事情を考察したものです。現代でも話題にされる医学部の教授選の争いのような騒動の研究といえます。その時、多岐派に対する、幕府の推す候補をこの吉田快庵孝幹が中心になって推したそうです。

論文には『(前略)多岐と二人三脚であるかにみえる吉田快庵が実はなかなかの策士で、医学館主(学長、学部長、主任教授のようなポストだろう)の座を狙っているのだと元簡は暗に訴えているのである。内通・密告が錯綜する赤裸々な権力闘争の内幕である。云々』と生臭い事情が述べられています。菓子箱か何かの底に秘められた何かが飛び交ったのでしょうか?

高尾と吉田の交流が私的なものか、仕事仲間かはわからりませんが、田丸氏の意思がこの二人の仲立ちで幕府の中枢の支持を得て、木活字本が世に出たのでしょう。このように見ると、『武徳編年集成』は幕府のお墨付きをえたようなものなので、木活字本として多数で回ったのでしょう。ただ、高敦の史観が必ずしも彼らの史観と一致していたとは思えませんので、多分木活字版の内容は、高敦の元の内容に手が加えられている可能性があるでしょう。実際、全文を通読すると、どうもあと付けの香りのする場所もありますので、その辺を探しながら読むのが面白いと思いました。

木活字本の二番目の序文の著者の源朝臣直義についてはよくわかりませんでした。松平直儀(1754-1803)という人物もネットでは見つかりますが、その人なら序文を14歳で書いたことになり、同一人物と考えるのには無理があります。

余談ですが、田丸直職の祖先は六角承禎の家来の蒲生氏郷に仕えた田丸直昌だということです。また、直職の子孫には、幕末に起きた水戸天狗党の乱の首領で、幕府による鎮圧によって処刑された田丸稲之衛門がいます。

これらの人々を長い歴史の綾がどのように結びつけたのかを探りたいものです。そこから、高敦の史観がどのように形成されたかを知るアプローチになるかも知れません。