ナタンソン博士の横顔

投稿日 : 2021.06.28


筆者の論文のあらましを記すにあたって、あまり日本でも知られていないナタンソン博士の横顔について簡単に紹介します。

彼の祖父はユダヤ人の銀行家で、父は医者でまた医学専門誌の編集者だったルドウィック、母はナタリア(エプスタイン)で、1864年にワルシャワで生まれました。彼については、ポーランド版のウィキペディアでおおかたの概要を知ることができます。また、Polish Biographical Dictionary, vol.XXII/3 No.94, 1977に詳しく記載されています。

1933年に彼が記した自叙伝(大部分は履歴書のようなものですが)でも、彼の生き方を伺うことができます。最近は機械翻訳の精度も高まっているので、それを使えばおおよそ内容を理解できます(邦訳はなお今一つですが、英訳は相当精度が高い印象がありました)

その自叙伝によりますと、彼の生まれたワルシャワは当時ロシアの圧政下にあり、ポーランド語を使うことが禁止されていて、少しでも使うと捕まるという時代でした。ポーランドという国はありませんでした。彼は中産階級(といってもかなり裕福な知識階級に属していたと思われます)の家庭に育ち、彼自身はあまりその被害を受けなかったように見えます。しかし、中学生ぐらいのときには教師によるいじめを経験し、残忍な暴力、差別、正義と自由、窮屈さと怒りに直面する痛みや悲しみを子供心に理解したそうです。

彼はロシアのセント・ペテルスブルグ大学に進学しました。当時この大学では数学以外はあまりぱっとしない教授陣だったということで、自分は図書館の専門誌を置いている部屋に許可をもらっていつも籠って勉強したそうです。その後、あちらこちらの西ヨーロッパの大学で5年間ぐらい遊学したそうです。特にイギリスのケンブリッジでは、電子の発見者のJ.J.トムソンに親しく世話になったそうです。また、オーストリアのグラーツではボルツマンの戸をたたようですが、どこでもあまり肌が合わなかったようで、自分のそのような体質は将来にとって弱点だと自覚しながらも、その後、今の歳になっても変わっていないと述べています。海外の有名大学の有名学者に世話になり、帰国後もその冠を脱ぐことなく、そつなく世を渡る器用さのない、そしてシャイな人物だったのかも知れません。

彼のヤギェウォ大学での講義は、毎回きちんとしたみなりで遅れることなく始まり定刻に終わるという、とても完璧で端正なものだったと学生たちが後で述べていたそうです。その講義に感銘を受けた一人にインフェルトがいたことを、インフェルト本人が述懐しています。

その一方で、ほほえましい話もあります。彼はクラコフに移ってから、あるとき故郷のワルシャワで、ある女性(Elżbieta Teklanée Baranowska)を紹介されてひとめぼれしました。彼女は両親がポーランドの独立を目指す闘士だったかで亡くなり、親戚のやはり闘士のおじに養われ育ったということです。しかし彼女自身は闘士ではなかったそうです。

なにせワルシャワとクラクフは離れています。携帯電話で毎日話せるような時代ではなく、手紙だけが交際の手段でした。彼女はワルシャワを離れたくなかったそうですが、なんとか彼が口説いて結婚しました。それまで彼は、せっせとラブレターを書き続け、郵便を運ぶ汽車の出る時間に遅れないようにと駅に走ったというようなことだったそうです。もっともラブレターといっても、彼は講義の準備で大忙しだったなど、けっこう愚痴を彼女に聴いてもらっていたような感じもします。この様子は、彼のラブレターをまとめた本が、ポーランド・芸術科学アカデミーから出版されています。表題は『花嫁への手紙』です。15c2fc233b531a4b521b0dfaf1713a1a691ef3b6.jpg

この書物には最初にIrena Homola-Skąpska氏の詳しい解説があります。この書物の邦訳は今のところなく、ポーランドの文化に通じた作家や研究者の邦訳が待たれます。

彼はヤギェウォ大学の学長や、科学界や文化行政でも活躍し、国際研究評議会の代表も務めました。

彼は自伝で、政治的には中立を保っていて、どこの党派にも属さなかったと述べています。そして「私は政治闘争に違和感を感じていました。何かをしたいとは思ってはいましたが、 どうも気が進みませんでした。私は 戦いとか論争にはうんざりしていました。私の考えでは、脆弱な活動は自ら破たんし滅び失われます。創造性が最も効果的な批判です」と。

彼の理論物理での主な研究テーマは、気体の運動論、不可逆過程の熱力学と粘性流体の流体力学とその応用、電子の理論、光と光学の理論でした。またニュートンの伝記など、物理以外にも広いテーマの多数の著述があります。

彼は1937年2月に亡くなり、クラクフのラコヴィツキ墓地に埋葬されました。

なお、彼は非常にまめに手紙を書く人だったようで、膨大な書簡がヤギェウォ大学の図書館に保管されています。そのリストは、Inwentarz Rękopisów Biblioteki Jagiellońskiej (ヤギェウォ大学写本目録)にあり、ファイルを有料で取り寄せることができます。筆者はこれを基に彼の情報を得ることができました。ここで紹介する資料も、すべてそうして入手したものです。料金は銀行振り込みが高すぎるので、等価交換ということで、図書館が望む書物を送って精算しました。リクエストされた書物は、M.E.Berryによる”Japan in Print”(2007)」とA. Gerowによる” Kitano Takeshi"でした。なお、ドイツの資料は、ミュンヘンの図書館のアーカイブを使いました。またアインシュタインの書簡は、充実した書簡集として公表されています。