論文の概要(その1)ある思惑

投稿日 : 2021.06.29


ナタンソンの1911年に発表された論文が引用されなかった理由として、これまでいくつもの説がポーランド国内で考察され複数の論文が発表されています。

それによれば、主な理由として論じられたのは、一つはボースの理論に比べて彼の理論の不完全さを論じる純粋に学問上の理由です。そして、「当時は原子のモデルが明らかにされていなかったので、その原子のようなものが統計力学でのエネルギーの受け皿(セルと呼ばれます)だとしたために、分かりにくくなった」というものです。

なお、ナタンソンの論文の理論については、2019に発表されたKokowskiによる総論に詳しく述べられています。

もう一つの理由は、彼が発表した専門誌がヨーロッパ全体から見てマイナーで、読む人が少なかった。つまり、ポーランドの地方性を反映したものだったという、やや自虐的なものです。

しかし、調べて見る限りかならずしもそうではなく、もっとほかの学問とは無関係な理由も大きく影響していることが見えてきました。そこで、筆者は物理学の問題には触れず、それ以外の要素を中心にまとめました。そして、「彼の論文を誰が読んだか」だけに焦点を当て、そこから引用されなかった理由を割り出そう。少々 探偵小説のノリでまとめました。

なお、以下では論文には書けない筆者の個人的なコメントも加えています。

1章 序論 

次が、ここでの内容です。

1)ナタンソンがその論文で「不可弁別性“Indistinguishability”」という概念を明確に文章として記述している事実。

2)ボースがアインシュタインに原稿を送り、その論文がドイツの学術誌(Zeitschrift für Physik)に掲載された経緯と、アインシュタインがボースの理論を基礎に理想気体へ応用した事実。

3)フントが1967に発表した”The History of Quantum Theory”の中で、ボースの理論はナタンソンの論文でほとんど示されているが、忘れられていたと述べたこと。

4)3)を裏付ける事実として、『ナタンソン博士の横顔』の中で引用した『花嫁への手紙』の中で、ナタンソンの息子(Wojciech)の話として、「自分の父親が、アインシュタインやプランクの発見したあることを彼らに先んじて研究したが、彼らはそのことを明らかにしなかったことを書いた印刷物を、フランスのノーベル賞を受賞されたAlfred Kastler教授から受け取った」とあること。

これらから、「どうしてボースやアインシュタインが、ナタンソンの論文を彼らの論文で引用しなかったのだろう?」これを探った記録がこの論文の主旨であることを示しました。

2章 A great opportunity (絶好のチャンス)

ナタンソンの論文は1911年3月に、Extraits du Bulletin international de l’Académie des sciences de Cracovie, Classe des sciences mathématiques et naturelles. Série A, Sciences mathématiques というクラクフの専門誌に英文で発表されました。(この雑誌は当時フランスの援助で発刊されていました)

この年は量子力学の発展にとってとても重要な年で、11月には第一回のソルベー会議が開かれました。そこには当時の西ヨーロッパの主だった物理学者たちが集まって、主なテーマは「輻射(radiation)と量子」でした。

学者は論文を書いて自らの発見や学説を世の中に問うのが仕事ですので、彼も自分の理論をできるだけ多くの有力な学者たちに知らせようと、この論文の別刷(自分の論文だけを刷った印刷物で、他の学者たちとの情報交換のために使われました。また、その出版費用は、出版社の収入の一部となります)を色々な所へ送ったはずです。

それだけではなく、彼は自分の理論をアッピールできる絶好のチャンスがあるのを知っていて行動したと思います。

一つはソルベー会議ですし、もう一つは7月に、11th Congress for Polish Physicians and Natural Scientistsというポーランドの物理学会の例会のような催しがクラクフで開催予定で、彼もその主催者だったのです。そして、当時プラハにいたアインシュタインは招待されました。

ナタンソンは、自分の理論をアインンシュタインに会って直に議論できると考えて、その前にまずドイツの専門誌に理論を発表しておこうと考えて、論文の別刷りをPhysikalische Zeitschriftという、ドイツの有力な専門誌の編集長のKrügerに送りました。彼はその内容を理解し早速、ナタンソンの了解を得て、その専門誌に掲載の作業を開始しました。そしてIkeleという学者がナタンソン論文をドイツ語に翻訳しました。ポーランド国内の学者は別にすると、ナタンソンの論文は編集長と翻訳者が読みました。

ナタンソンはアインシュタインに会う前に出版してほしかったのですが、なかなか掲載の通知が届かないのでいらいらして、催促の手紙を出しています。しかし、Krügerからは「あなたの分は急ぐ論文が多くて、遅れる」という返事を受け取ります。そうして、結局出版されたのは会議が終わったあとになりました。しかし、世界で読まれてきた、この専門誌に掲載されたことは重要です。

アインシュタインは出席をキャンセルしました。理由は分かりませんが、最初は行くつもりであった証拠もあります。彼はドイツの母親に送った、「クラクフの帰りに会いに寄る」と告げた手紙がアインシュタインの書簡集に残っています。

こうしてナタンソンの思惑は外れてしまったのです。でも、まだチャンスは残っていました。

つづく