19 石原 純のシュタルク評

投稿日 : 2021.08.07


石原(いしわら)純(1881-1947)は長岡半太郎(1865-1950)の弟子の理論物理学者で、東北帝国大學が創設されたときに理学部物理第二講座の教授に就任しました。

彼はその時、前の節で述べたナタンソンと同様、フォトンの統計的性質からプランクの輻射法則を理論的に導きました。

そのすぐ後、彼はドイツへ渡りゾンマーフェルトやアインシュタインといった学者たちと交流しました。ところが、帰国後、アララギ派の女流歌人、原阿佐緒(1888-1969)とのスキャンダルで世間のバッシングを受けて教授職を辞し、その後は科学の評論家、歌人として、岩波書店の科学雑誌『科学』を寺田寅彦らと創刊しました。また、彼はアインシュタインが訪日した際にエスコートするなど、相対性原理を日本に紹介する上で大きな貢献をしたとされています。

彼の邦訳によるアインシュタインとインフェルト(Leopold Infeld, 1898-1968)共著の物理学の啓蒙書、”The Evolution of Physics”の邦訳『物理学はいかに創られたか』(岩波新書)はよく知られ、現在でも書店の店頭で入手できます。この原著はいろいろな言語に邦訳されていて、科学の啓蒙書としては恐らく世界のベストセラーの一つにランクインしているはずです。

筆者は石原が岩波『科学』の8巻9号に掲載された一文の校正版を見る機会がありました。タイトルは『科学に於ける謂はゆる(いわゆる)ユダヤ精神』といういささかデリケートな問題を含んでいそうなテーマでした。何が書いてあるのだろう?と興味を持って読んでみました。この論評の主意は、ナチス・ドイツの科学界で、レーナルトとともに『ドイツの科学』というスローガンを主導したノーベル物理学賞の受賞者、シュタルク(Johannes Stark, 1874-1957)に対する論評でした。

シュタルクは量子力学を学ぶと必ず習う「シュタルク効果」に名前が刻まれている実験物理学者です。この現象は原子の中の電子のエネルギーが電場の強さによって変化するもので、光のスペクトルにその様子は明瞭に現れます。ところが、いろいろな経緯によってアドルフ・ヒットラーの重要な協力者の1人になりました。そのため、今日ではレーナルトと並んで忌嫌われている科学者です。

石原はこの評論で、シュタルクがユダヤ人の物理学者、特にアインシュタイン排斥の根拠とした「ユダヤ精神」とは何かについて、シュタルクの考えを通して論評しています。ここではシュタルクの見解と石原の論評について、筆者の私見をメモしてみました。

シュタルクによると「物理学の目的は無生物的自然現象を観察し、その中から法則性を見つけることであり、この法則は人間の存在や動作、思想とは無関係で全ての世界で共通である」とあり、その点に異存は見当たらないと石原は述べていますが、筆者もそうだと思いますが、今は無生物に限らず、また社会現象にも適応できるようになってきたと思います。

シュタルクは、そのアプローチが二つあり、一つは「実用的精神(pragmatic spirit)によるもので、数学に基づく理論は手段に過ぎない。もう一つは独断的精神(dogmatic sprit)によるもので、その立場の学者は自分の思想から、または(数学の)記号の間の関係を勝手に定義し論理的に結びつけて、それに物理的な意味を与える」と述べています。石原はこれについては、実験物理学と理論物理学のアプローチの違いなので特に問題はないが、シュタルクがこれらを対立するものと考えるのはおかしいと、色々な例を挙げて批判しています。筆者もそうあるべきだと思っています。筆者は実験物理学が意外性があって興味深いと思って来ましたが、理論的なアプローチと対立するどころか、双方の得意技を持ち寄って協力するのが楽しいと思っています。学者によっては両刀でなければ一人前でないと自負される方もおられそうですが、今は、レオナルド・ダビンチの時代でもなく、野球の大谷翔平氏のように両刀使いのできる人材はおいそれとはおられないでしょう。

筆者が興味深く読んだのは、シュタルクはアンシュタインの相対論が独断的精神の典型と考え、後の章で紹介するシュレーディンガーについても、「物理・数学的軽業師のような離れ業によって導いた方程式(シュレーディンガー方程式のこと)をもとに関数(波動関数)に意味づけによって電子を空間に塗り付けている」さらに、「ボルン、ジョルダン、ハイゼンベルグ、ゾンマーフェルトらも、その関数に経験に反する意味づけをしている」と批判している点です。

しかし、少なくともシュレーディンガーの理論の動機を彼の論文で見る限り、そのような独断ではなく、ド・ブロイの仮説の拡張を原子の具体的なサイズに照らして応用してみた結果です。ですからシュタルクの見解は筆者の見る限り無理があります。更にシュタルクが実用的精神こそが物理学の本道で、それは「アーリア人の中の最高の地位にいる(筆者の解釈では自然のロマンを感じることの出来るというべきか)ドイツ人にしか出来ない」というにいたっては、相当飛躍した根拠の薄い論理で、到底実験物理学者の言とは思えません。しかも、「独断的精神はユダヤ的資本主義の特性で、彼らは自分たちの成果を大々的に世間に宣伝することに専念するが、実用的精神の立場の学者は慎み深く成果の発表をそれほど急がない」と、アインシュタインたちの成果の公表姿勢を厳しく批判しています。

しかし、この点は研究成果の公表の手法の問題で、それをユダヤ人特有の性質にするのも少々飛躍した論理です。現在でもこの問題は論文のタイトルの選択、論文でのアッピーリングな図の表現法、サーキュレーションのよい専門誌への競争的投稿、査読者の組織化、成果主義の指標としての個人に対するサイテーション・インデックスや大學のランキングなどの形で生きているもので、その弊害は人種とは無関係に国際的に議論すべき課題だと筆者は考えます。

石原の校正原稿は1938年(昭和13年)、岩波『科学』8巻9号に掲載予定のものですが、この年の1月には近衛文麿が首相に就任し、3月にはナチス・ドイツはオーストリアを併合、5月には日本で国家総動員法が施行されました。

また7月には1940年の東京オリンピックを返上。8月にはヒットラー・ユーゲント(ナチス・ドイツが、ドイツ国民の10歳から18歳までの青少年に加入を義務付けた組織)が来日し、日劇のダンサーがそろいの制服でハーゲン・クロイツの旗を掲げている写真などが公開されています。北原白秋が「ヒトラー・ユーゲント歓迎の歌」を書いたのもこの時だそうです。当時の世相は多くの写真が物語っています。

こんな時代、石原の文章には、『政治的にユダヤ人を排斥するのは止むを得ないとしても・・云々』とあります。本当にそう思っていたのかどうかは筆者にはわかりません。ただ、3.11の福島の事故に対するいわゆる有識者や物理学会や物理学者たちの反応を思うとき、物理学者がいかに現実の危機に対して思想的に脆弱で、はなはだ頼りがいのない存在かを感じます。更にコロナウイルスが蔓延した今現在、その傾向が多方面に深まっているように見えるのは気のせいでしょうか?