29 危険な落とし穴

投稿日 : 2021.09.11


1920年代は第一次大戦に敗れたドイツの賠償問題によって世界が次の悲惨な道へと向かう時期でした。不思議なことに、この頃は量子力学の基本的な発展がなされた時期とぴったり重なります。1925年にド・ブロイの仮説が発表され、1926年の秋にはシュレーディンガーの理論が発表され、今日の量子力学の姿が少しずつ明らかになってきことはすでに見てきましたが、当時のドイツの多くの学者たちは、なお、光が波なのか? 粒子のようなものか? 電子は? と頭を悩ましていました。その中にアインシュタインもいました。彼がψの確率論的な解釈に抵抗していたことは、前に紹介したボルンのノーベル賞講義でも述べられていた通りです。

ちょうどそのころ「アインシュタイン・ラップの実験」とよばれる今では学術的にはまず振り返えられることがない、データねつ造事件が起きました。しかも、それが発覚したのが9年後の1935年のことだったそうで、この事件は、量子力学の歴史の上で無視できない深刻な不祥事だということです。筆者も最近までそんな事件があったことなど知りませんでした。

ドイツにラップ(Emil Rupp)という若い研究者がいました。彼はカナール線という、放電管の中の陽イオンによる発光現象を研究していました。彼はその光には干渉するものと、しないものの二種類があるという興味深い現象を発見したそうです。時が時だけに、この実験結果に有力な学者たちは注目しましたが、アインシュタインもその一人でした。当時アインシュタインは光の本質は光量子というよりは電磁波だろう、という考えが強く、光には光量子という粒子的なものと共に、エネルギーを運ばないゴースト場(Ghost field)という背後霊のような波が伴っていると予想をしていたそうです。ですから彼はラップの実験結果に強く共鳴したのです。

アインシュタインは相対性原理の発案者としてすでに偶像的存在だった権威ある学者なので、彼に注目されることは、当時の若い研究者にとっては夢のようなことです。そのためラップは世間で大そう注目をされました。彼は当時27-8歳という若さで、今でいえば博士課程を終えた頃の駆け出しの研究者です。

アインシュタインは、いろいろと新しい実験を彼に提案し、ラップも実験に励みました。そして、やることなすこと全てアインシュタインの予想した理論に合う実験結果を得たそうです。アインシュタインもその実験結果を引用する論文を書きました。

そうなると、人々の注目も一段と高まり、ラップはいい職に就き、研究資金にも不自由しないという当時の若手研究者のスターダムに上り詰めることができました。ところが1935年、周囲の注目の中、ラップは更に進んだ実験をしたのですが、あまりに結果が妙だというので、学者たちが疑って彼の過去の論文をくまなく吟味すると、なんと嘘ばかりだったのです。しかも最初のカナール線の実験さえ、ねつ造だったということが発覚し、ラップは、精神科医の診断書と共に、いくつかの論文を取り下げ、以来科学界へ復帰することはありませんでした。なお、詳しい彼の実験など、この事件については、少々重いですが、次のPDF資料があります。

しかし、話はそれだけではなかったのです。2007年にこの事件を詳しく科学史として研究した、J.バン・ドンゲンの論文では、彼の嘘のデータの影響がもとで量子力学が大いに発展したというのです。


J.Van Dongen, “ The interpretation of the Einstein-Rupp experiments and the influence on the history of quantum mechanics”、 Historical Studies in the Physical and Biological Sciences, vol.37, supplement 121-131, 2007.(アインシュタイン・ラップの実験と量子力学の歴史への影響について) 

この論文によると、量子力学の発展に深く関与した著名な物理学者たち、例えば、H.A.ローレンツやM.ボルン、W.ハイゼンベルグたちはアインシュタインの幽霊波のアイデアに影響されて、波動関数という量子力学の基本的な考えを固めていったのだそうで、そして、それは「ラップの嘘のデータが、アインシュタインの幽霊波のアイデアの普及に大いに貢献した」からだそうです。

この事実は現在の量子力学の教科書や歴史書のどこにも述べられていません。しかし、ドンゲンは、その理由は、事件そのものというよりは、むしろ「ドイツの学会が、問題の実験の論文を引用しないように申し合わせたのではないか?」とか「アインシュタインの輝かしい業績を汚したくないという、Self-censorship (社会学の用語によれば、周りの意見によって自分の意見をいうのを控えること)、最近よく聞く言葉でいえば「忖度」によるのではないか?」と述べています。

ラップが最初の実験を行ったころは、人より先にいい研究成果を出したいという焦りの気持ちから、データのねつ造に走ってしまったということはありそうです。ただ、彼にとって決定的に不幸だったことは、アインシュタインというスーパースターのお墨付きによって、アインシュタインの提案を実験で示すための嘘に嘘を積み重ねることになったこと、そして彼の実験結果に敢えて口をはさむ人もいなくなってしまったことではなかったでしょうか。

ラップは1926年3月23日にアインシュタインへ手紙を書いています。その最初に、” Für Ihren freundlichen Brief vom 20.3.26 sage ich besten Dank”『1926年3月20日の御親切な手紙を頂きありがとうございました』とあります。

また、1954年3月10日付のラップのアインシュタインへ送ったと思われる手紙には、“Gestatten Sie mir, Ihnen zu Ihrem 75. Geburtstag meine herzlichsten Glüchwünsche”『75歳の誕生日を心から願っております』と書かれています。この意味をどう解釈したらいいのでしょう。因みにアインシュタインは1955年4月18日に亡くなりました。

この事件はラップとアインシュタインの個人的関係によって起きた事件でしょう。

この事件を知って筆者はふとSTAP細胞事件を思い出しました。専門外の筆者には真相を知ることも想像することもできませんが、こちらは日本を代表する大研究機関のプロジェクトで起きたもので、しかも、代表者が事件の最中に命を落としているという奇異な事件です。遠い将来、この事件の真相が科学史の研究によって明らかになっているでしょうか? また、この事件がこの分野の研究にどのように影響を及ぼしているでしょうか?