観音寺騒動(その1)暗殺事件の日付について

投稿日 : 2022.02.15


観音寺騒動は、永禄6年(1563)近江を長らく支配してきた佐々木六角氏の居城だった観音寺城で起きた、ある暗殺事件を契機としたお家騒動です。

このために佐々木六角一族郎党に深刻な分裂が起きて、後に信長が上洛を果たすことができた大きな要因になったと考えられています。


この城は、有名な信長の安土城の東隣にあって、新幹線の車窓からもすぐそばに望める観音寺山にあった城で、城下は山麓の石寺などに拡がって、当時の商業の中心地だった場所だそうです。

信長の上洛は時代の大きな節目になり、彼の臣下としての家康の都デビューにもつながるもので、徳川の歴史にも大きくかかわったと考えられます。しかし、『武徳編年集成』では、この事件については一切触れられていません。何故でしょう? 

この疑問が動機となって、筆者はこの事件の概要を知りたいと参照可能な史料を素人なりに調べてみました。その結果、この事件についての通説には疑問が多いことに気付きました。ここでその疑問点のいくつかをメモします。

この事件については、これまで歴史家によって二つの要素について分析され、現在の通説が生まれてきたようです。一つはこの暗殺事件の経緯ついて、もう一つはこの事件の反省として六角一族が再結束を申し合わせた決まりとされる『六角式目(義治式目)』と呼ばれる分国法の法制史としての内容や意義についてです。

ここではまず、前者について筆者の疑問点を述べます。

現在の通説によれば、この事件は、永禄6年に佐々木六角承禎の重臣の後藤但馬守賢豊父子が、六角義治(義弼)の指示で腹心の種村三河守と建部日向守に、父子らを観音寺城で殺害させたというもので、その理由は、六角義治が、重臣として権勢をふるっていた後藤一族に裏切られて滅ぼされるのではないかという懸念(恐怖)によるとされています。この点については多くの史料で概ね一致していて、ウキペディアにもその概要が記載されています。

この通説がどこから生まれたのかと探ると、恐らく中川泉三氏による『近江蒲生郡志』(1922)に準拠していると想像できました。その理由は、この書物の第32章に『観音寺騒動』という章があり、関係する史料の該当部分が抜き出して引用され、併せて著者の見解が述べられているからで、彼の見解がそのまま現在の学術的な定説、そして通説とされているように思えます。

筆者の疑問点は、単純に永禄6年に起きたとされるその暗殺事件の起きた日付についてです。

次は中川氏が『近江蒲生郡志』で引用した史料に書かれた日付です。

『異本年代記抜粋』:11月1日
『厳助往年記』:日付記載なし(ただしこの史料を筆者が調べた限りでは、7月18日の記述に続いて並列的に書かれたいくつかの項目の中に、『江州観音寺滅却大乱に及ぶ』とあり、続いて11月11日に『弥勒寺云々』となっている)
『長亨年畿内兵乱記』10月1日
『足利李世記』:日付記載なし
『勢州軍記』:3月

中川泉三氏の見解によれば、この暗殺事件は10月に起きたとされます。つまり、この引用史料の限りでは、『長亨年畿内兵乱記』の記述を事実と見做したようですが、その根拠は述べられていません。

しかしながら、彼の見解が最近もなお事実と認定されているようです。例えば、後述する牧健二氏の『義治式目の発見と其の価値』(昭和12年)では、この事件の史実は『滋賀県史』と『近江蒲生郡志』によると明記され、事件の日付は10月朔日となっています。

また、すこし違う角度から観音寺山を論じた、沢田秀一と松田和夫両氏による『近江繖山(観音寺山)の砂留と土砂流抑止政策』においても、事件は10月に起きたとあります。

更に、現在ネットで読める、木村靖氏の論文『六角式目制定の目的と背景』では、この事件は永禄6年10月1日に起きたとあり、引用文献は『長亨年畿内兵乱記』、『厳助往年記』、『足利李世記』、『勢州軍記』なので、中川の見解と一致しています。さらに、10月26日の多賀社への六角承禎の書状、および12月16日の大徳寺への六角義弼の書状が引用され、これも中川泉三氏が引用したものと同じです。

次は、この事件を扱ったその他の史料に記載された事件の日付です。

『氏郷記』:「後藤兵乱之事」永禄6年3月15日
『江源武鑑』:3月25日
『浅井日記』:10月1日
『続応仁記』:日付記載なし

学術史料としての価値の程度はともかく、これらの史料に見る限り、この暗殺事件の起きた日付は3月説と10月説があります。どうして、このように物理的に大きく違っているのでしょう。昔のことだから、一か月以内の誤差は情報の伝達時間などから仕方がないとしても、少しずれが大きすぎないかと思うのです。筆者は当初各史料の著者が違った暦を使っているのかと思いましたが、天皇や将軍についての大きな出来事では、このような大きな時間差は見つかりませんでした。

歴史学も科学だから、まず、何時、何処で、誰が、何を、どうしたかを作為なしに明らかにする必要があり、それから初めて色々な解釈が提案されるもののはずです。しかし、その最も基本となる特定の暗殺事件の日付が半年も違っているように見えるにもかかわらず、事件の発生した日付が10月と限定された根拠はせめて明らかにしてほしいと思うのです。

なお、上述の木村靖氏の論文によれば、この暗殺事件によって観音寺城から離れた六角義禎と義治が、同じ年の10月下旬には再び観音寺城へ蒲生賢秀の調停で復帰したことについて『勢州軍記』の記述が引用され、この史料では蒲生の斡旋の努力を高く評価されているとの紹介がなされています。更に、帰城にあたって、六角義禎と義弼の多賀神社と大徳寺へ出した礼状が引用されています。しかし、上で述べたように、『勢州軍記』では暗殺事件は3月とあり、氏の暗殺事件の日付が10月1日となっていていいのだろうかと、僭越ながら思いました。

もっとも、『勢州軍記』のいう通りこの事件が3月の起きて、通説にあるように観音寺城やその界隈が焼失したとすると、多賀社への書簡の日付から、建物の物理的な再建に半年の時間が必要だったというのは現実的にも見えます。住環境が再建されなければ移りようがないからです。

しかしながら、暗殺事件が10月1日に起きたとすれば、わずか4週間ほどですべてが復興したということになり、少し無理がありそうです。もっとも当時の建物の規模や建築速度がわからないので、これは単なる筆者の勝手な想像に過ぎません。

とにかく、ある特定の単独の暗殺事件の日付について、このように3月か10月かの2者択一の状況にあることについて、歴史の専門家の皆さんはどのように考えておられるのでしょう。

なお、一級史料として名高い『言継卿記』から想像できるように、広範な情報網を備えていたように見える京都の朝廷サイドにも、この事件や経過は大いに関心があったはずです。しかし、『言継卿記』には、同年3月から8月の間に該当する記述は見つかりません。更に、8月9日を限りとして永禄6年分の日記は欠けています。この史料の欠落はどの時代から認識されていたのでしょう。この史料がどのような人々の手に渡って今に伝えられてきたのかを知りたいものです。京の都は度重なる戦乱や火災で多くの史料が焼失しているはずですが、ある史料の一部分だけが欠落している理由がとても気になります。

また、言継の周辺にいた数多くの人々の残した記録にも、一つぐらいは残っていて、当時の様子を映しているものがあっていいように思いました。